2010年10月05日

聖書が教える教会  1−@

 わたしたちの教会


                                  
序・教会ってなに?



  わたしたちは教会に出席しています。教会員になっている人
も少なくありません。ところで、「教会ってなに?」と訊かれる
と、なんと答えたらよいでしょう。案外わかっていないかもしれ
ません。



  教会とは建物ではありません。それは教会堂です。教会は集
会ではありません。それは教会の活動です。教会は組織でもあり
ません。それは教会の骨組みです。


 
  教会とは人々です。ただの人々ではありません。キリストを自
分の救い主として信じている人です。でもそれはばらばらの人々で
はありません。一つにまとまった人々です。一つにまとめているの
は、趣味でも、人種でも、国籍でも文化でもなく、キリストに対す
る信仰でもありません。キリストの命、聖霊の存在です。聖霊がそ
の人々を一つにまとめているのです。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


  教会という言葉は、新約聖書が書か
れているギリシヤ語では、「エクレーシ
ア」と言われていたものの日本語訳です。
もともとは、「エク」=「〜から」とい
う言葉と「カレオー」=「呼ぶ、召す」
という言葉が一つとなってできたもので、
「〜から呼び出す」あるいは「〜から召
し出す」という意味です。「エクレーシ
ア」はたとえば、当時の市議会などを指
して用いられていましたが単なる群集に
も用いられることもあった、一般的な言
葉でした。でも、それが教会に用いられ
るようになったのには、教会が、この罪
の世界から、神の国に召しだされた人々
の集まりであるという理解が、「エクレ
ーシア」の言葉の意味にぴったりだった
からだと思われます。

  日本語の教会には、「教える」「会
合」の意味合いが強く、本来の意味と合
っていません。わたしたちのアッセンブ
リーズ・オブ・ゴッド教団は英語として
は、もともとの教会の意味に良く合って
います。(神の集会という意味) しば
らく前に、わたしたちの教団では「神召
教会」という名前がよく用いられました
が、これなどは良く教会の本来の意味を
残しています。中国語でアッセンブリー
ズ・オブ・ゴッド教団は「神召会」とな
っています。           

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T.教会の誕生



  教会はペンテコステの日に誕生しました。ペンテコステの日
に、聖霊が弟子たちの集団に訪れ、その集団の中に住み始めてく
ださったからです。ペンテコステの日以前の弟子たちの集団は、
単なる弟子たちの集団であって、まだ教会とはなっていませんで
した。みな、キリストを救い主として信じ、同じ信念と目的を持
ち、神の国の実現という一つの望みを共有していたことはまちが
いありません。非常に親密な共同体を形成していたことも事実で
す。ところがそれはまだ教会ではなかったのです。なぜなら、ま
だ聖霊が彼らの中に、その共同体の中に住んでくださると表現さ
れるほど、親しい関係で留まってくだっていなかったからです。
(エペソ1:23) キリストの弟子たちの共同体が教会となる
ためには、聖霊の内住が必要でした。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

  神(聖霊もキリストも基本的に同じ)
が近くに来てくださる、一緒に住んでく
ださる、内に住んでくださるというよう
な表現はあくまでも、人間に理解しやす
いように「擬人化」された言い方です。
霊的な存在で肉体を持たず、全世界、全
宇宙に満ち溢れていてくださる無限の神
を、わたしたち人間が理解することはと
ても困難です。それで、あたかも神が人
間であるかのような表現をして、わかり
易くしているのです。たとえば、神の耳、
神の目、神の手、神の足、という表現、
神が歩かれた、神が来て下さった、とい
うのもあくまでも擬人化の表現です。従
って、聖霊が人々の内に住んでくださっ
たという表現も、聖霊がわたしたちとの
関係をとても親密にしてくださったとい
う意味の、擬人化された言い方です。
      
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
        

教会の誕生のための準備



  聖霊が人の内に住んでくださるためには、非常に困難な問題を
解決しなければなりませんでした。なぜなら、聖霊は文字通り聖い
霊で、神の絶対の聖さをはじめ、あらゆる神の性質をそのままお持
ちの方だからです。罪人が絶対に聖い神に近づくと、飛んで火にい
る夏の虫さながら、たちまち滅び失せてしまいます。絶対に聖い神
が人間に近づいてくださると、太陽に近づかれた地球のように、す
べてが焼き尽くされてしまいます。聖い神が罪ある人間を訪れその
うちに住んでくださることなど不可能です。ですから旧約聖書の時
代には、人々は、たとえ神を礼拝するためとはいえ、神に直接近
づくことはできませんでした。彼らが正式に神を礼拝できたのは、
全イスラエルで幕屋と呼ばれる神の臨在を象徴する一箇所だけで
した。(後には神殿) それも祭司と大祭司の仲介を通して、初め
て可能でした。しかも、動物の犠牲を捧げて血を流すことによって
だけそれが許されていました。そこにはたくさんの取り決めと制限
と儀式が定められ、罪人が直接聖い神に会うことがないようにされ
ていたのです。



  しかし、神は罪ある人間を愛し、もっと人間に近づいて下さ
ろうとしました。それが、神の姿を捨てて人となって、人々を訪
れてくださったキリストです。神は神のみ姿のままでは人間に近
づくことができなかったために、神の姿を横においてまで、人間
に近づいてくださいました。小さな人間の姿をとり、人間として
人間に近づいてくださったのです。しかし、人間の姿をとったキ
リストが達成してくださった人間との交わりは、決定的に不完全
でした。それは神との交わりでありながら、本質的に人間同士の
交わりと変わらないもの、神が望んでおられる交わりにはとても
届かない、浅いものだったのです。



  ところが、キリストが人の姿を取って人を訪れてくださった
のは、ただ、そのような限られた交わりを達成するためではなく、
さらに優れた交わり、高く深く広い交わりへ向けて道を整えるた
めだったのです。その道は、罪のないキリストが罪人の罪を背負
って、十字架で刑罰を受けることによって可能になりました。キ
リストが身代わりになって死んでくださったことにより、神は、
すべての罪人が自分の罪の刑罰を受けて死んだものであると認識
し、その罪を、キリストの血によって洗い清めてくださったので
す。それで、神は罪ある人間に近づく道を整えてくださったので
す。罪人と神を隔てていたものが取り除かれたのです。キリスト
が死んだときに、神殿の聖所と至聖所を分けていた幕が、人手に
よらないで上から下まで真っ二つに裂けた奇跡が起こりました。
この幕は聖い神と汚れた人間を隔離する象徴でした。キリストの
身代わりの死が、神と人間を隔てていたものを取り除いたために、
その幕を無用のものとしたのです。



  このように準備が整えられたので、聖霊が、つまり、神の姿
を横に置いて人の姿を取った神ではなく、神の姿のままの神が、
キリストを信じ、罪を洗い清められた人々を訪れ、その人々の集
団の中に住んでくださることができるようになったのです。この
ときから、弟子たちの集団はキリストの霊を内に宿す集団となり、
単なる人為的な共同体、たとえば生活協同組合のような共同体で
はなく、内に宿ってくださる聖霊によって生かされる共同体、キ
リストの体と呼ばれる有機体になったのです。



  有機体というのは人間の体のように同じ命を共有する生命体
です。体は血潮によって同じ命を共有し、神経によって結び合わ
され、痛みを共有しています。教会は、同じキリストの命によっ
て生かされている人々が、痛みと喜びを共有しながら生きる共同
体です。



  この有機的共同体の交わりの強さ、深さ、親密さは、単なる
共同体のそれとはまったく異なった次元のものなのです。わたし
たちはキリストの血による、血縁血族です。家族親族よりも親密
な関係に入っているのです。
 


  教会とは、この聖霊が住んでくださり、聖霊の命によってつ
なぎ合わされ、生かされ、成長させられている共同体です。生物
的な命を持った人間が集まって作るのが教会ではなく、人間的な
集まりに過ぎなかったものに、聖霊が宿り、聖霊の命に満たし、
聖霊の命によって生きるものにされたのが教会です。教会はすべ
てのものを満たす方が満ち満ちているところです。(エペソ1:
23) 信徒一人ひとりはこの教会に連なることによって、聖霊
の内住を受け、聖霊によって新たな命に生きていくのです。聖霊
の命があればこそ、わたしたちはたとえまだ罪の性質を内に持ち
続けていても、聖霊の命、聖霊の力によって、罪に打ち勝って生
きていくことができるのです。聖霊の内住に与かったものは、必
ず、その生き方に変化を体験するのです。簡単に言えば、罪を犯
し続けることができなくなるのです。(Tヨハネ3:5−6、ロ
ーマ6:1−5)



  そのような共同体の姿が見事に描かれているのが、使徒の働
きです。またそのような聖霊の内住を体験した信徒たちの行き方
が、記録されているのが使徒の働きです。



  絶対に罪ある人間に近づくことができないはずの聖い神が、
人間を滅ぼすことなく人間に近づき、人間と交わり、人間のうち
に住み、人間の新しい命となり力となってくださるように、すべ
てを整えてくださったのです。そして、神を礼拝したいという人
間の本能を満たし、交わりを求める神の願いを成就してくださっ
たのです


                         つづく







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2010年10月06日

聖書が教える教会 1−A



キリストの証人の集団



  ところで、キリストの弟子の共同体が教会となったとき、す
なわち聖霊が内に住んでくださるようになったとき、他にも大き
な出来事が起こりました。それはキリストの弟子たちが、全世界
に対するキリストの証人となったことです。ペンテコステの日ま
での弟子たちは、確かに限られた意味ではすでにキリストの証人
ではありましたが、恐れ戦いて逃げ隠れする情けない証人でした。
ところがペンテコステの日に聖霊の降臨を体験した弟子たちは、
文字通り力を受けて、大胆極まりない、恐れを知らない、燃え上
がる火のような証人となったのです。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

  ペンテコステの日には、物音に驚い
て集まってきた大群衆を前に、ペテロと
11人の弟子たちが立ち上がって、恐れ知
らずの説教をはじめました。キリストの
甦りを宣言し、「キリストを十字架にか
けたのはお前たちだ」と、無謀なほど大
胆に語ったのです。現代人には良くわか
らないのですが、11人が共に立ち上がっ
たという記録には意味があります。ペテ
ロ1人が立ち上がって大声で説教をし、
その結果3000人もの回心者が起こったの
ではありません。どんなにペテロが大声
の持ち主だったとしても、それほど多く
の回心者が出るほどの数の人々に、屋外
で一度に語るのは不可能です。彼らはキ
リストと一緒にいたときいつも行ってい
た通りにやったのです。つまり、ペテロ
が話し、少し離れたところにヨハネが立
ち、ペテロの言葉を繰り返したのです。
そこから少し離れたところにヤコブが立
ち、さらに離れたところにアンデレが立
ちと、言葉のリレーをして何万人でも一
度に聞くことができるようにしたのです。
ペテロだけではなく、弟子たち全員が大
胆になって立ち上がったのです。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


  ペンテコステの日の聖霊の降臨は、聖霊の内住の始まりであ
ったと共に、聖霊のバプテスマでもありました。ペンテコステの
日に、聖霊が下り、弟子たちの一団の中に住み始めてくださり、
弟子たちの一団はこの日から教会となったのですが、このペンテ
コステの日に弟子たち一人ひとりが体験したのは、強烈な聖霊の
お取り扱いで、聖霊のバプテスマとも呼ばれるものでした。教会
の誕生に日、この二つのことが同時に起こったのです。



  聖霊のバプテスマは、キリストが与えてくださるとバプテス
マのヨハネによって預言され、(マタイ3:11、マルコ1:8、
ルカ3:16、ヨハネ1:33) キリストご自身によって積極
的に求めるように教えられていた体験です。 (ルカ11:5−
13) 一方、聖霊の内住はどこにも預言されておらず、求める
ように教えられてもいませんでした。聖霊の内住は、たぶん15年
以上も後になってから、教会という奥義(それまで明らかにされ
ていなかった教えという意味)を啓示によって教えられたパウロ
が、解き明かし、説明し始めたものです。予め預言されていたの
は聖霊のバプテスマでした。ですから弟子たちが、ペンテコステ
の日の体験を聖霊の内住であると理解したのは、パウロを通して
「奥義である教会」を理解するようになってからだと考えられま
す。




※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

聖霊の内住は求めて与えられるもの
ではなく、誰でも、イエス・キリストを信
じた瞬間に、自動的に体験するものです。
従って、キリストが求めなさいと勧めて
くださった聖霊は、聖霊の内住ではなく、
聖霊のバプテスマです。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

  聖霊のバプテスマを受けた人々はみな、異言で祈り始めまし
た。異言は神様に向かって語るものであり、基本的に祈りのこと
ばです。 (Tコリント14:1) ところが、人間が自分のこ
とばで祈ると、自分のことばの能力の限界、あるいは言葉自体の
限界のために、自分の気持ちを充分に表現することができません。
心を言い表すための道具がかえって妨げとなり、心を表現するこ
とができず、神の前に心を注ぎだすことができなくなってしまう
のです。そこで、神はことばの限界を超え、言語能力を飛び越え
る異言ということばを与えてくださいました。異言は自分の言語
能力、言語自体の能力を超えて心を注ぎだす、聖霊に与えられる
言葉です。このことばによって、わたしたちは自分たちのことば
で祈っているときには体験できない、神との深く高く広い交わり
を体験できるのです。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

  愛を告白したことのある人、ラブレタ
ーを書いたことのある人は思い出してみま
しょう。あのときのあなたの日本語はなん
と貧弱だったことか、いや日本語自体があ
まりにも不充分で用を成さないものであっ
たことか。心の思いのほんのわずかしか伝
えられず、地団太を踏んだときのことを思
い出してみてください。異言はそのような
言葉の力不足を飛び越えて、心を表現し、
神との交わりを可能にする神の助けです。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

  この異言による祈りを通して可能になった神との交わりを
体験した者は、一団と高い信仰の高嶺を体験させられます。神
の存在、神の臨在が非常にリアルなものとなり、感動、喜び、
充足感が心を満たし、力強いキリストの証人となるのです。恐
れ惑っていた弟子たちは、ペンテコステの日の体験の後には、
恐れ知らずのキリストの兵士となったのです。



預言者の集団



  ペンテコステの日に起こったもう一つのことは、聖霊の内
住を得た弟子の集団は、預言者の集団となったということです。
(使途2:16−18) 老若男女、身分、学歴、貧富などの一
切の差別を超えて、すべての弟子たちは預言者とされたのです。



  イスラエルの歴史を見ると、預言者と呼ばれる特別な人々
がいました。預言者とは、神の言葉を預かりそれを人々に語る
人という意味です。旧約の預言者は特別な訓練を受けたり、特
別な召しに与かったりしたわずかな数の人々でした。ところが
ペンテコステの日からは、すべての弟子が預言者とされたので
す。



  ではすべての信徒は、「主はこのように言われる」と語り
だす「預言」をしなければならないのでしょうか。使徒の働き
の記述や弟子たちの手紙を読むと、つまり、新約聖書全体を読
むと、すべての信徒たちがそのような意味での預言をしたとい
う形跡はありません。ではどういう意味で預言者になったので
しょう。



  旧約時代の預言者の多くも、いつでも「主がこのように言
われる」と言って預言していたのではありません。彼らの活動
の多くは、律法を読み、学び、瞑想し、祈り、社会の動きを良
く観察して、聖霊に感じて判断し、それを人々に語り、教えて
いたのです。むしろそのような活動こそ、預言者の日常の活動
だったのです。



  新約聖書の時代にも、直接の啓示を受けて預言した人々は
いました。使徒の働きに記されている通りです。それは聖書が
完結していなかった当時、とても大切な働きでした。また、新
約聖書の記者たちの多くは、神の啓示を受けて書いています。
特に、パウロとヨハネは良く知られています。しかし大多数の
弟子たちはそのような啓示を受けて語る預言者ではなく、神の
福音を委ねられたものとして、神の言葉を預かり、それを語っ
て行く預言者となったのです。そういう意味においては、すべ
ての信徒がまさに預言者となったということが、使徒の働きに
記されているのです。神の救いの言葉を預かった教会は、すべ
ての信徒が預言者としての働きを果たしていくのです。



  ですからこの預言者の働きは、現代で言うならば、説教者
の働きに近いものです。あるいは聖書を教える働きに近いもの
です。しかしそれは単なる聖書の講解説教や、聖書の学問的勉
強会で話すようなものではありません。神の聖霊の迫りを感じ、
情熱と感動をもって語るのです。聖書が語っていることをその
通りに理解し、それを説明するだけではなく、今の現実の生活
にそれをいかに適用していくべきか、鋭い感覚をもって語るの
です。そこに聖霊の働きがあるのです。それが教師と預言者の
違いです。現在説教や宣教の働きのほとんどが、牧師や伝道者
の専売特許になっているのは、新約聖書の原則に反するもので
す。すべての信徒が預言者とされているのです。












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2010年10月07日

聖書の教える教会 1−B




U.私たちがキリストを信じたとき



  私たちがキリストを信じたとき、実にさまざまなことがわ
たしたちの身に起こりました。わたしたちがキリストを信じた
という事実は、特に救済論、つまりわたしたちの救いとの関係
において、たくさんの深い意味をもっています。また、私たち
がキリストを信じたという事実は、教会とも非常に深く関わっ
ています。



キリストの体にバプタイズされた


  私たちがキリストを信じたとき、まずわたしたちは一人残
らず、キリストの体と呼ばれる教会にバプタイズされました。
その時教会はすでに存在していました。聖霊がお住まいになる
宮として、神殿として、すでに存在していたのです。私たちが
教会を作るのではありません。私たちが「バプタイズされた」
という表現がふさわしい意味で、教会に加えられたのです。
(Tコリント12:13)



  バプタイズという言葉、あるいはそこから派生した名詞の
バプテスマという言葉は、「洗礼」と翻訳されることが多いの
ですが、もともとは、染物をするとき布を染料の中にどっぷり
と浸す場合に使ったものです。染料に浸からないところがない
ように、全体をしっかりと沈めたのです。ですから、信じたす
べてのものは例外なく、あたかも布が染料に浸されるように、
キリストのみ体である教会にどっぷりと浸されたのです。加え
られたとか、入れられただとか、繋がれただとかいう表現では
言い表されないほど親密に、不可分に、教会の一部とされたの
です。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
  Tコリント12:13は、ほとんどの
日本語聖書では間違った翻訳がされていま
す。言葉そのものとして、あるいは文法的
に、全員が間違うことはあり得ませんから、
ここはバプテスマについての日本人の間違
った理解が、間違った翻訳をさせていると
考えられます。知る限りの日本語聖書はす
べて、「一つの体になるように一つの御霊
によってバプテスマ(洗礼)を受け」とな
っています。これでは、人は洗礼という儀
式を受けることによって、一つの体になる
と理解されます。それで、洗礼を受けるこ
とによって教会に連なるようになる。正式
に教会員となると続くわけです。

  ところがもともとのギリシヤ語では、
「一つの御霊によって一つの体にバプタイ
ズされ」となっているのです。知る限りの
英語の聖書はそのように翻訳されています。
意味がまったく違います。ここでは洗礼と
いう儀式のことが語られているのではなく、
キリストのみ体にどっぷりと浸けられたと
いう、霊的出来事、霊的事実が強調されて
いるのです。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 



聖霊を飲むものとされた


  しかもここではさらに、「聖霊を飲むものにされた」という
言葉が加えられ、キリストのみ体の一部になった事実と、不可
可のものとされたという事実が強調されています。



  教会には聖霊が内住してくださっています。すべてのもの
を満たしておられる方が、満ち満ちているのです。その聖霊が
満ち満ちている中に、わたしたちはどっぷりと浸けられたので
す。四方八方すべて聖霊に取り囲まれてしまいました。それだ
けでなく、わたしたちは聖霊を飲むものとされたのです。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

  この聖霊を飲むという絵画的描写をし
たパウロは、このとき、伝道旅行中に海難
事故にあって、一昼夜海上をさ迷っていた
ときのことを思い起こしていたのではない
でしょうか。 (Uコリント11:25)
海の中に落とされてぶくぶくと沈み、四方
八方水で覆われ、あわてて声を出そうと口
を開くとたちまち水を飲み込んでしまった。
そんな状況を、パウロは思い出しながらリ
アルに語っているのです。それで、聖霊に
四方八方を取り囲まれるだけではなく、聖
霊を飲むと描写したのでしょう。聖霊の中
に浸され、外側から浸透されるだけではな
く、内部にまで入り込んで、内側から浸し
ていくのです。それが、キリストのみ体で
ある教会と、その内に住んでおられる聖霊
とのわたしたちの関係です。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



  わたしたち一人ひとりのクリスチャンは、聖霊が内住して
おられる教会にバプタイズされることによって、聖霊の内住を
いただくのです。聖霊が満ち満ちておられる教会にバプタイズ
されることによって、聖霊に満たされるのです。その満ち満ち
ておられる聖霊に取り囲まれ、内にまで入られ、命となり力と
なっていただくのです。キリストの体にバプタイズされたもの
はみな、このようにしてキリストの命、聖霊の命によって新た
に生かされたものとなり、聖霊の支配を受けて新しい生活、神
の国に生きる生活を始めるのです。



  わたしたちクリスチャンは、キリストを信じたときキリス
トの霊、聖霊を内に宿す、神殿となりました。しかしそれは、
キリストの霊が満ち満ちている教会にバプタイズされることに
よって起こるものであって、一人ひとりがまずキリストの霊を
宿す神殿となって、その一人ひとりが集まってキリストの霊を
宿すものの共同体を作り上げるのではないのです。教会が聖霊
を宿すキリストの体として、2000年近く存在し続けている
のです。そのキリストの体に連なることによって、一人ひとり
のクリスチャンも聖霊の住まいとなるのです。



  旧約時代の神殿は神の家と呼ばれていましたが、実際に神
がお住まいになることはありませんでした。あくまでも神の臨
在の象徴に過ぎなかったのです。ところが、新約時代の神の家、
神殿、すなわち教会は(建物ではありません)、象徴としてでは
なく、事実として神に住んでいただき、神の命、神の力、神の
支配を受けるのです。旧約時代には神の臨在の象徴に過ぎない
神殿で、祭司たちは神の聖さに打たれる恐れを抱きながら礼拝
の勤めを果たしていました。ところが新約の時代には、恐れる
ことなく大胆に神に近づこうと勧められています。(ヘブル4:
16,10:19)そればかりか神を宿し、神に生かされ、神に生き
ていただくのです。パウロはキリストの霊が自分の内に生きて
おられることをリアルに感じて、もはや自分が生きているので
はなく、キリストが自分の内にあって生きておられるのである
と語っています。



  新約時代に生きるわたしたちにとって、このキリストの霊、
神の霊、聖霊が満ち満ちている中にバプタイズされ、聖霊を飲
むものとされているという事実を知ることは、非常に大切です。
聖霊の命とその力に生かされているという現実を、強烈に実感
して生きる、そしてその霊的事実を毎日の生活の中で、日常の
現実の中で反映し、現実化していくことこそクリスチャン生活
の基本です。パウロは、聖霊によって生きているなら、聖霊に
よって歩みなさいと教えています。(ガラテヤ5:16:26)
聖霊によって生かされているという霊的現実を、聖霊によって
歩むという日常の現実に表しなさいと言っているのです。清め
られたという霊的現実は、日常の聖い生活に現実化します。神
の子となったという霊的事実は、神の子にふさわしい生き方を
するという日常の現実に生かされます.



教会はこのように聖霊の満ち満ちておられるところであり、
教会にバプタイズされたものはすべて、この聖霊が自分の内に
みなぎることを体験し、また同じように教会にバプタイズされ
たすべてのものが、自分と同じように聖霊の命と力に与かって
いることを認め、命と力を共有する共同体、有機的共同体であ
ると知って、互いに愛し合い、互いに助け合いながら生きるの
です。



キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた


  ローマ書6:1−5においてパウロは、私たちはみな「キ
リスト・イエスにバプタイズされた」と語っています。(ここ
でも日本語聖書は、あえて間違った翻訳をしています)Tコリ
ント12:13では、「一つの体にバプタイズされたと」と教
えられていますが、ローマ書6章では、キリスト・イエスにと
なっています。Tコリント12:13の「一つの体」とはキリ
ストの体のことであり、教会を指すことは明らかです。ところ
がそのすぐ前の節で、パウロはこの教会を、大胆にも「キリス
ト」と呼んでいます。このように教会をキリストと呼ぶのはパ
ウロの教会論の特徴の一つですが、教会がキリストの霊の住ま
われるところであり、キリストが生きておられる共同体である
という強い意識がそのような言い方をさせたと考えられます。
(コロサイ1:24) パウロにとってキリストの霊が満ち満
ちている教会にバプタイズされることは、キリストにバプタイ
ズされることでした。そしてそれが、今、私たちが体験してい
るはずのリアリティ、現実なのです。




※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

  パウロが教会をキリストと呼ぶのは、パウロ
が始めたことではありません。じつは、キリスト
が始めたことです。まだサウロと呼ばれていたパ
ウロが、クリスチャンを迫害して殺害の息を弾ま
せ、ダマスコに向かう途中、突然,甦りのキリスト
が現れ「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害する
のか」とおっしゃいました。サウロはキリストを
迫害したことはありません。彼が迫害していたの
は生まれたばかりの教会でした。しかしキリスト
は、その教会を「わたし」とお呼びになったので
す。(使徒9:4−5)
         
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


   
  バプテスト教会系の神学を受け継いでいるわたしたちは、
洗礼とはキリストの死と甦えりにつながることを象徴するもの
であり、水に沈められることは葬りを意味し、水からあげられ
ることは甦りを意味するなどと教えられてきました。その根拠
となったのがローマ書6章のこの言及ですが、ここをどんなに
注意深く読んでも、そのような解釈は出てきません。「わたし
たちはキリスト・イエスにどっぷりと浸けられたのだから、キ
リストの死にもどっぷりと浸けられたのだ。それは当然キリス
トの甦りにもしっかりとつながれていることだ。だから、古い
生活を捨てて新しい生き方をしようではないか」というのが、
この部分の主旨です。ここで語られているのも、儀式としての
洗礼ではなく、キリストにどっぷりと浸される霊的現実であり、
それはキリストの体にどっぷりと浸されることと、同じ出来事、
同一の事実なのです。その霊的事実を日常の次元で表していこ
うというのが、パウロの教えです。


                                       つづく









                                
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2010年10月08日

聖書が教える教会 1−C



洗礼をうけること



  「洗礼を受ける」という言い方は、もともとバプタイズさ

れるという言葉から来たものです。「洗礼」という訳は本来の

意味から少しばかり離れています。この漢字の日本語訳を選ん

だ背景には、「バプタイズ」あるいは名詞形の「バプテスマ」

の間違った理解があったと考えられます。聖書が教えるところ

では、これらのことばには「洗礼」と訳すほど、洗うという意

味が強くありません。むしろ、バプテスト教会が主張するよう

に、「浸す」という意味が強いものです。




※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

  バプテスマという儀式自体は、キリ
ストが出現する相当前から行われていま
した。ユダヤ人の間では、異邦人女性を
ユダヤ人として認めるための儀式の一つ
として、広く行われていました。また、
当時のグレコローマン社会にあった宗教
の中にも、バプテスマと類似した儀式が
ありました。そこには罪や穢れ、あるい
は呪いや悪運などを洗い落とすという意
味と、新しい生き方を始めるという、イ
ニシエーションの意味がありました。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



  バプテスマのヨハネも、当時のそのような習慣を取り入れ

た上に新たに自分の主張を加えて、悔い改めのバプテスマとい

うものを行っていました。そこには、罪を洗い流すという意味

が込められていたかもしれませんが、明白ではありません。



  キリストもバプテスマを施していました。それはたぶんキ

リストの弟子となるという意味、決意決断を示すもので、イニ

シエーションの意味合いが強かったと思われます。キリストは

また、昇天の前に、世界宣教のゴールである弟子化に至る過程

の一つとして、バプテスマを施すことを命じておられます。こ

の頃の弟子たちの理解は、やはり、キリストに従う、あるいは

弟子となる、決意決断を示すイニシエーションであったと思わ

れます。ところが、使徒パウロが新しい啓示を受け、奥義とし

ての教会の姿を教えられると、このバプテスマの教会論的意味

が浮かび上がって来ました。



  もちろんキリストは、バプテスマの教会論的意味をご存知

でしたが、教会というものがまだ姿を現していなかったのです

から、それについて教えることはできませんでした。それで、

パウロの出現をお待ちになったのです。



  パウロが水のバプテスマ、つまり儀式としてのバプテスマ、

私たちが今洗礼と呼ぶバプテスマについて語っているところは、

ごくわずかです。(Tコリント1:14−17、15:29)

パウロは、分裂分派の傾向があったコリントのクリスチャンた

ちには、洗礼を授けることを躊躇したのです。本当にクリスチ

ャンになったかどうかわからないような状態のものに、洗礼を

施すことをためらったのです。パウロは一般的な意味で、コリ

ントのクリスチャンたちを聖徒と呼ぶのをためらいませんでし

たが、一人ひとりに洗礼を授けるということにおいては、たと

え彼らの告白を聞いたとしても、ためらっているのです。それ

は、彼らが聖霊の満ち満ちている教会にバプタイズされ、聖霊

によって生かされているという霊的事実を、日常の次元で確認

することができなかったからです。



  パウロがバプテスマについて語るときは、ほとんどが霊的

現実としてのバプテスマ、すなわち、聖霊によってキリストの

み体に、あるいはキリスト・イエスにどっぷりと浸されるバプ

テスマについてでした。どうやら、パウロにとって水のバプテ

スマは、霊的次元で起こった出来事、霊的事実を象徴する儀式

であったようです。それはキリストのみ体にバプタイズされた

という霊的出来事を、目に見える形で表現するものでした。パ

ウロによって救いに導かれ、パウロに付き従って訓戒を受け、

育てられたルカは、洗礼を受けることが仲間に加えられること

であったこと、つまり、生まれたばかりの教会に受け入れられ

ることであったことを記しています。(使徒2:41)



  パウロにとって重要であったのは、洗礼という目に見える

儀式ではなく、その儀式が象徴的に表現する霊的な事実、霊的

次元での出来事、すなわち、聖霊によってキリストの体にバプ

タイズされることでした。クリスチャンが聖霊の力によって生

きるのも、聖霊によって成長するのも、このみ体にバプタイズ

され、聖霊を飲むものとされたことに起因します。クリスチャ

ンたちが一つ心になって、愛し合い、いたわり合い、共に生き

ることができるのは、この一つの体、同じキリストの体にバプ

タイズされ、同じ一つの御霊を飲むものとされたという霊的事

実があるからなのです。



  多くのクリスチャンたちが、霊的事実としてキリストの体

にバプタイズされ、満ち満ちている聖霊を飲むものとされてい

るにも拘わらず、日常生活の次元ではその霊的事実をまったく

反映させていません。それはパウロの時代も現代も同じです。

彼らは霊的事実、霊的次元で起こった出来事に気づいていない

からです。その事実を軽んじているからです。ヨハネは、救わ

れていることを知らないクリスチャンたちが居たので、救われ

ていることを教えようとしました。(Tヨハネ5:13) パウ

ロはキリストの体にバプタイズされ、キリスト・イエスにバプ

タイズされ、満ち満ちている聖霊を飲むものにされている事実

に気づかないで居る人々に、注意を喚起しているのです。


 
  キリストはわたしに繋がっていなさいと教えてくださいま

した。キリストに繋がるとは、単にキリストの言うことに賛成

するとか、個人的に、キリストを信じるとか、受け入れるとか

ではなく、具体的にキリストのみ体に繋がることによってのみ

可能なのです。キリストのみ体に繋がることがキリストに繋が

ることであり、それによって、キリストの命がすべての枝に流

れるのです。キリストに連なるわたしたちはキリストの命を共

有しながら、愛し合い、痛みと喜びと悲しみと希望を分け合っ

て生きるのです。教会はまさに、キリストの血の通った共同体

なのです。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

  キリストを信じるものが洗礼を受
けるのは、自分がキリストの弟子とな
るという意味と、自分はキリストのみ
体バプタイズされたという事実を確認
する意味があるのです。キリストの命
に生かされ、互いに愛し合い、生きる
ことを共有する共同体に入ったという
事実を認めて生きる決意を示すもので
す。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


教会を重んじて生きる


  すべてのクリスチャンは、キリストのみ体にバプタイズさ

れています。ところが、多くのクリスチャンはその事実に気づ

かず、その事実を軽んじて生きています。日常生活の次元で、

教会を軽んじ、教会を無視しているクリスチャンも少なくあり

ません。そのようなクリスチャンはキリスト命、聖霊の命を充

分に体感し、力に溢れて生きることができません。正常なクリ

スチャン成長も望めず、いびつなクリスチャンになってしまい

ます。当然、キリストが教会にお与えになった使命を果たすこ

ともできません。互いに愛し合うという至上命令も無視するこ

とになります。



  わたしたちは教会の大切さをしっかりと理解すべきです。

キリストがご自分をささげて愛してくださったのは、教会なの

です。(エペソ5:25)









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2010年10月09日

教会について・2・紹介・目次



「この教会については、A4で250ページを越えるものです。多分、簡単に手に入れることができる教会論では、ここまで扱っているものはないと思います。そのため、目次を準備しました。読みたいと思うところを目次で探してください。ただし、このブログで各掲載の最初にページを示しました。掲載にはかなりの日数が必要だと思います。忍耐してお読みくださることを、「ありがたいな」と思っています。



教会について  目次
始めに  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    1
I.教会論の不在がもたらした問題  ・・・・・・・・・・・・    6           
 A.教会とは何かという問題   ・・・・・・・・・・・・・    7
  B.宣教・伝道活動の分野における問題   ・・・・・・・    8
  C.教会・教会組織・教会管理の分野における問題   ・・    9
  D.信徒と賜物の分野における問題   ・・・・・・・・・・   10
  E.クリスチャン生活の分野における問題   ・・・・・・・   10
  F.教会そのものの軽視の問題   ・・・・・・・・・・・・   11
U.召されたものとしての教会   ・・・・・・・・・・・・・・・  13
  A.召されたもの   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  13
  B.新約聖書の「召し」という言葉   ・・・・・・・・・・・  15
  C.この世から召しだされたもの   ・・・・・・・・・・・・  17
  D.神の召しに入れられたもの   ・・・・・・・・・・・・・  17
  E.共同体に召されたもの   ・・・・・・・・・・・・・・・  19
  F.ひとつになるために召されたもの   ・・・・・・・・・・  20
  G.使命のために召されたもの   ・・・・・・・・・・・・・  21
  H.遣わされるために召されたもの   ・・・・・・・・・・・  22
V.教会の一生   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  23
  A.教会の起源   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  23
    1.大初から   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  24
    2.神の栄光をほめたたえるため   ・・・・・・・・・・  24
    3.恵みの器として   ・・・・・・・・・・・・・・・・  25
  B.教会の胚芽   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  25
  C.教会の誕生   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  27
    1.キリストによって建てられた   ・・・・・・・・・・  27
    2.聖霊の宮としての教会   ・・・・・・・・・・・・・  28
    3.使徒の働きの「教会」の用例   ・・・・・・・・・・  29
  D.教会の成長   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  29
    1.質的な成長   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・  29
     a.聖書知識においての成長   ・・・・・・・・・・・  30
     b.神との関係においての成長   ・・・・・・・・・・  32
    2.共同体としての成長   ・・・・・・・・・・・・・・  36
    3.地理的・量的な成長   ・・・・・・・・・・・・・・  39
    4.成長への二種類の活動   ・・・・・・・・・・・・・  40
  E.教会の完成   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  41
W.教会論用語の理解   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  44
  A.地域教会と普遍的教会   ・・・・・・・・・・・・・・・  44
    1.一般的理解   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・  45
    2.より良い理解    ・・・・・・・・・・・・・・・・  45
      a.地域教会と管理上の個教会   ・・・・・・・・・  45
      b.管理上の個教会と有機的教会   ・・・・・・・・  46
      c.普遍的教会と地域教会   ・・・・・・・・・・・  48
      d.見える教会と見えない教会   ・・・・・・・・・  51
      e.戦いの教会と勝利の教会   ・・・・・・・・・・  52
V.教会の譬え   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  54
  A.体   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  54
    1.多様性   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  54
    2.一致と調和   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・  55
    3.互助性   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  55
    4.有機性   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  56
  B.キリストの体   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  57
    1.教会の使命と働き   ・・・・・・・・・・・・・・・  57
    2.頭なるキリスト   ・・・・・・・・・・・・・・・・  58
  C.キリスト   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  58
  D.建物・家   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  59
  E.神殿・宮   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  60
  F.神の民   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  61
  G.キリストの花嫁   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・  61
  H.神の家族・信仰の家族   ・・・・・・・・・・・・・・・  63
  I.群れ・神の群れ   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・  63
Y.共同体としての教会   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・  63
  A.神に召されたものたちによって構成される共同体   ・・・  64
  B.和解の共同体   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  68
  C.有機的共同体   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  71
  D.愛の共同体   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  78
  E.キリストの姿に似ていく共同体   ・・・・・・・・・・・  84
  F.神の支配の共同体   ・・・・・・・・・・・・・・・・・  88
  G.公義の共同体   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  94 
  H.共通目的の共同体   ・・・・・・・・・・・・・・・・・  100 
I. 個人が生かされる共同体    ・・・・・・・・・・・・・・・ 104
Z.教会の使命   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   115
  A.キリストの派遣目的と同じ目的   ・・・・・・・・・・   116
    1.慈善的社会活動   ・・・・・・・・・・・・・・・   116
    2.正義の戦いとしての社会活動   ・・・・・・・・・   120
    3.派遣の目的・宣教か伝道か   ・・・・・・・・・・   125
  B.キリストの派遣条件と同じ条件   ・・・・・・・・・・   128
  C.キリストの派遣の姿と同じ姿   ・・・・・・・・・・・   131
  D.キリストの派遣に伴ったと同じ権威   ・・・・・・・   135
    1.教会に与えられた権威・与えられていない権威 ・・   136
    2.権威の源と内容   ・・・・・・・・・・・・・・・   140
 [.教会の働き   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   144
  A.神に対する働き   ・・・・・・・・・・・・・・・・・   145
    1.礼拝の内容   ・・・・・・・・・・・・・・・・・   146
    2.礼拝と献身   ・・・・・・・・・・・・・・・・・   147
    3.共同体としての礼拝   ・・・・・・・・・・・・・   148
  B.教会自身に対する働き   ・・・・・・・・・・・・・・   150
    1.交わり   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   150
    2.教育   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   156
  C.世界に対する働き   ・・・・・・・・・・・・・・・・   159
\.教会の装備・賜物   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・   165
  A.賜物の理解   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   165
    1.伝統的ペンテコステ派の人々の一般的理解      165
    2・カリスマ・第三の波運動の人々の一般的理解     166
    3.聖書に見る聖霊の賜物   ・・・・・・・・・・・・   167
      a.賜物の教会論的見方   ・・・・・・・・・・・   167
      b.賜物の種類   ・・・・・・・・・・・・・・・   169   
  B.賜物の活用   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   171
    1.賜物の自由な活用   ・・・・・・・・・・・・・・   171
    2.賜物を活かす賜物   ・・・・・・・・・・・・・・   172
    3.正当化できる指導者制度   ・・・・・・・・・・・   174
    4.賜物と謙遜の美徳   ・・・・・・・・・・・・・・   174
    5.賜物の活用と寛容   ・・・・・・・・・・・・・・   175
  C.賜物のシステム化   ・・・・・・・・・・・・・・・・   177
    1.賜物とシステムを取り違えない   ・・・・・・・・   177
    2.賜物の自由闊達さ   ・・・・・・・・・・・・・・   179
  D.賜物と指導者たち   ・・・・・・・・・・・・・・・・   182
    1.普遍性と暫定性   ・・・・・・・・・・・・・・・   182
    2.地域教会の指導者   ・・・・・・・・・・・・・・   184
    3.有機的教会の指導者   ・・・・・・・・・・・・・   185
    4.普遍的教会の指導者   ・・・・・・・・・・・・・   189
    5.指導者と召し   ・・・・・・・・・・・。・・・・   190
  E.賜物と教職者制度   ・・・・・・・・・・・・・・・・   191
    1.教会史の中の教職者制度と信徒の活動   ・・   192
     a.教父時代   ・・・・・・・・・・・・・・・・・   192
     b.中世から宗教改革まで   ・・・・・・・・・・・   194
     c.宗教改革後からアメリカ福音主義教会へ      195
     d.二十世紀とペンテコステ運動   ・・・・・・・・   195
    2.運動と制度   ・・・・・・・・・・・・・・・・・   196
].教会の力   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   198
  A.聖霊と教会   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   198
  B.聖霊のバプテスマ   ・・・・・・・・・・・・・・・・   198
]T教会と付随物   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   204
  A.教会と教会の自己表現   ・・・・・・・・・・・・・・   205
  B.教会の外的形態と文化   ・・・・・・・・・・・・・・   207
  C.教会の伝道と文化   ・・・・・・・・・・・・・・・・   211
  D.教会の倫理と文化   ・・・・・・・・・・・・・・・・   214
  E.教会の普遍性と文化的適応   ・・・・・・・・・・・・   219 
]U.教会と政治形態   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・   223
  A.監督制政治   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   224 
  B.会衆制政治   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   226
  C.長老制政治   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   228
  D.選択すべき政治形態   ・・・・・・・・・・・・・・・   229
]V.教会と礼典   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   233
  A.洗礼   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   233
   1.キリストお受けになった洗礼   ・・・・・・・・・・   234
   2.キリストがお授けになった洗礼   ・・・・・・・・・   235
3.キリストがお命じになった洗礼  ・・・・・・・・・・・・・   235
4.パウロが理解した洗礼   ・・・・・・・・・・・・・・・・   235
   5.洗礼の意味   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・   239
    a.洗い   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   239
    b.信仰の告白   ・・・・・・・・・・・・・・・・・   240
    c.教会の承認   ・・・・・・・・・・・・・・・・・   241
   6.洗礼の時期   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・   241
   7.洗礼の方法   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・   245
  B.聖餐式   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   245
   1.過ぎ越しの祭りとの関係   ・・・・・・・・・・・・   246
   2.贖罪論的意味   ・・・・・・・・・・・・・・・・・   246
   3.教会論的意味   ・・・・・・・・・・・・・・・・・   247
   4.宣教論的意味   ・・・・・・・・・・・・・・・・・   249
   5.終末論的意味   ・・・・・・・・・・・・・・・・・   250 
   6.パンとぶどう酒   ・・・・・・・・・・・・・・・・   251
あとがき   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   253
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2010年10月10日

教会について 2−A


p1〜6

(よりよい教会理解への初歩的試み)
               
  
はじめに



  聖書学校を卒業して40年近く、私はずっと開拓伝道者として
過してきました。残念ながら、牧師と呼べるほど、数多くの羊たち
を、一度に世話をした事がありません。その間23年は海外生活を
し、21年間宣教師として働いたのですが、働きの内容はみな開拓
伝道でした。自分の働きを省みて一番心残りなことは、どれも、納
得できる教会形成に至らないまま、ここまで来てしまったことで
す。救われる人々はたくさん見てきました。しかし、救われた者た
ちの共同体である教会は、なんとも中途半端な状態に残されてし
まいました。理由はいろいろありますが、中でも特に痛感している
のは、長い間、教会というものを知らないまま、教会を建てようと
してきた自分の過ちです。



  思えば、若いころ、教会というものについて学ぶ機会は、ほ
とんどありませんでした。高校1年の終わり近く、北海道の片田
舎の小さな開拓教会で救われ、まともなクリスチャン生活も経験
しないまま、熱心だけを先行させて、高校卒業後ただちに聖書学
校に入学しました。3年間の聖書学校でも、「教会論」を学ぶ機
会はありませんでした。卒業して最初の赴任は、東京の下町の開
拓伝道所で、信徒が4人。6畳と3畳の部屋と2畳の台所。それ
に半畳の玄関と半畳のトイレがついたアパートを借りての、当時
としては立派な出発でした。



  4人いた信徒の内2人は夫婦。一番しっかりしていた信徒は、
1ヶ月後、夫の転勤でいなくなり、礼拝出席は自分を入れてせい
ぜい3人、あるいは4人。幸い家賃の15,000円は、教団と母教会
が2年の期限付きで出してくださいました。意地っ張りが災いし
て、このサポートを期限よりずっと早く打ち切ってもらい、いわ
ゆる自給伝道にこぎ付けたのですが、月々の生活費は多くて
3,000円。普通は1,500円ほどでした。近くの電柱に結び付けら
れた「女給さん求む」の看板には、「日給5,000円」の文字が踊
っていました。




  そのような中でも、礼拝会の人数は増えて15人近くになり、
洗礼を受ける者も何人も出てきました。L字型につないだ合計9
畳の礼拝の場所は狭くなり、どこかにもっとよい場所を見つけな
ければならなくなりましたが、教会の経済はとてもそれを許すよ
うな実情ではありません。人口過密工業地帯の路地裏のアパート
ではありましたが、これ以上条件の良い場所など、何倍の家賃を
出しても見つかりませんでした。日の当らない裏道のどんづまり
に20坪、あるいは30坪くらいの売り地が二、三ありましたが、
坪当たり30万円から40万円。とても手の届く額ではありませ
ん。このような土地で、教会を建てるにはどうしたら良いのだろ
うかと、本当に悩みました。なにしろ、私が知っていた教会とは、
教会堂があって、牧師の生活を支えるだけの献金ができる信徒が
いて、日曜日の朝の礼拝会と夜の伝道会、そして週日の聖書研究
祈祷会を滞りなく守る事が出来、欲を言えば、日曜学校と呼ばれ
る子供の集会も出来ていれば、それで「御の字」と言った程度の
ものだったのです。月々の家賃を払ってしまうと、牧師は、毎月、
強制的断食をしなければ生きて行けないありさまの中で、坪30
万、40万の土地を買って教会堂を建てるなど、「奇跡の信仰」
も起こりませんでした。かといって、この狭いアパートで、献金
額を飛躍的に伸ばすほどの信徒数にするのも、現実的ではありま
せんでした。



  ところが、そうこうしているうちに2年が経ち、こんどは土
地の言葉でヤンバルと呼ばれる、沖縄北部の金武という小さな村
に「宣教師」として派遣されました。全人口およそ5,000人で、
私がとりあえず住む事にした村の中心は、3,000人ほどでした。
そしてこれを取り巻くように、キャンプ・ハンセンと呼ばれる大
きなアメリカ海兵隊の基地があり、町の両端に位置する基地の出
入り口の周囲には、華やかな歓楽街が広がっていました。 当時
の新聞によりますと、 ここで働いていた売春婦達の数がおよそ
1,000人と言われていましたから、 アメリカ人以外の総人口は
4,000人近くあったのでしょう。ベトナム戦争が泥沼化したころ
の事です。沖縄はアメリカの施政権のもとにあって、人々はドル
で生活をしていました。



  ウチナーグチ(沖縄の言葉)がまったくわからず、信徒どこ
ろかひとりの知人もいないこの土地で、ヤマトンチュー(大和の
人間)と呼ばれながら開拓伝道を始めましたが、最初の1年で5
人が救われ、そのうちの4人が高校卒業と同時に村を出て行って
しまいました。まだ23才の青年伝道者でしたから、救われる者
のほとんどが高校生でした。次の年、私よりも8年も先に沖縄に
来ていた、先輩の伝道者N先生に助けてもらいながら、他の集落
に次々と家庭集会を始めるようになりました。上り下りの多い曲
がりくねった砂利道で、夜ともなればハブとアフリカマイマイを
ブチュブチュ、グチュグチュとひき殺しながら運転をし、集落ご
とに異なる方言に戸惑いながらも集会を続け、1年後には、毎週
5ヶ所で合計50人が出席するようになっていました。
 


  先輩のN先生は、このような田舎でのこういう伝道は、他
に例がないわけではないと、秋田県で伝道しておられるという、
どこかの団体に所属する牧師の話を聞かせて励まして下さいまし
た。そして、この5つの集会をすべて礼拝会と位置付け、月々の
本部への報告欄にも礼拝会として記入すべきだと、「悪知恵」
を授けてくださいました。N先生も、このような田舎での伝道と
教会のあり方について、真剣に考えておられたからこそ、そうい
うことをおっしゃったのでしょう。その年には確か16人だった
か、18人だったかの受洗者がありました。次の年にも、それに
近い数の者たちが洗礼を受けたと思います。とは言え、高校卒業
生の100%が土地を離れてしまうため、教会全体の成長は微々た
るものでした。



  人口密集地帯の東京の下町で、教会形成の可能性について
悩んでいた私は、沖縄の過疎化の田舎で、まったく異なった問
題に直面し、ただ悩むばかりでした。美しい会堂を建て、それ
なりの人数の信徒がいて、牧師が生活していくに充分な献金が
あって、毎週定期的な活動を続けて行くなどということは、現
状では、夢のまた夢だったからです。



 
  そうこうしているうちに、私にも教団の正教師試験の受験
資格が与えられ、面接を受ける事になりました。経験を積んだ
牧師たちが試験官として居並ぶ部屋で、私は幾分予期していた
とは言え、それを超える厳しい言葉に晒されました。まず、礼
拝会というのは日曜日の朝、教会堂もしくは教会堂として使用
している建物の中で行なわれる集会のことであって、1つの教
会が5つの礼拝会を、しかも信徒たちの家で行なうという事は
あってはならないから、これを改めるようにという勧告を頂き
ました。それらはみな家庭集会であって、礼拝会ではないと言
うことでした。(結局私は、この勧告を無視してみな礼拝会と
して継続したのですが)



  私に対する評価は、「伝道はしているが牧会が出来ていな
い」という厳しいものでした。集会人数に比べて献金額が異常
に少ないという判断が理由でした。恐る恐る、「私が伝道して
いる地域の経済状況を調査した上で、そのように判断なさった
のでしょうか」とお尋ねしたところ、「いちいちそのような事
はしていません」ということでした。そこで私は、「沖縄の人
の平均収入は、本土に住む人の60%と言われています。さらに
ヤンバルの平均収入は、沖縄全体の平均収入の60%です。これ
を計算すると私が伝道対象としている人々の平均収入は、本土
の人々の30%を少し超える程度になるのではないでしょうか」
と説明しました。よせば良いのに、試験官をしておられる大き
な教会の牧師たちが伝道対象としている、大都会に住む人々の
平均収入の、約3割にも満たないであろうと言うこと。私の働
きでの献金は、にがうり(ゴーヤー)だとか、にが菜だとか、
サツマイモだとか、まだ青いパパイヤだとかで、現金はほとん
どないということまで説明して、憎まれ口を叩いた結果に終わ
ってしまったような気がします。
  


  しかし一番心が痛んだのは、「君は誰にでも洗礼を授けるの
か」と言われたことです。教団全体で100を少し超える教会が
あって、年間300人ほどの受洗者があった頃の話です。開拓を
始めたばかりの田舎の教会が、年間10人を超える受洗者を出す
のは、何かが怪しいと思われたのでしょう。私は精一杯の皮肉を
込めて、自分が洗礼を授けるのは、キリストを救い主として信じ
た「人間」であるとお答えしたと記憶しています。豚や鶏に洗礼
を授けていたわけではありませんし、キリストを信じていない人
間に授けていたのでもないからです。  このようなやり取りを
しながら、不謹慎なことではありましたが、私の思いは他のとこ
ろに飛んでいました。「教会とは何なのだろう。伝道とは何なの
だろう。」 正教師試験は見事に落ちました。翌年の試験も落ち
ました。私は、「教会とは?」と模索を続けていました。



  沖縄での5年間の働きに行き詰まりを感じて、私はフィリ
ピンに向かいました。海外宣教に情熱を持っていたからという
言いわけもありました。マニラにおいて学生、牧師、伝道者、
宣教師など、いろいろな肩書きをもらいながら4年間過した後、
北部の山岳地に住むイゴロットと呼ばれる人たちのために、本
格的な宣教の働きを始めました。海抜2,000メートル以上の山
々の頂きからふもとまで、点々と散在する家々、集落を回って
の伝道です。もう一度、教会とは何か。このような地域、この
ような生活様式で生きている人々が形成できる教会とはどのよ
うなものかと、考えなければなりませんでした。電気、水道、
ガス、電話、病院はおろか、お店もないところです。車が行き
着けるところまで行き、後はもっぱら歩くだけ。険し過ぎて馬
も通えない獣道のような道を、1日3時間から10時間、峡谷
を登り尾根をこえて歩き続け、10軒、20軒の集落を訪ねて
は福音を語り、生活指導をするのです。1回の伝道旅行は7日
間から10日間。これを雨の降らないおよそ6ヶ月間くり返し、
次の乾季を待つことになります。白人の宣教師はおろか、同じ
フィリピン人伝道者でもここに入ってくる事はまずありません
でした。同じイゴロット族の伝道者も、ここで生活し教会形成
をして行く事は考えられませんでした。ただ、そこに住んでい
た信徒たちが、少し開けた場所で福音を聞き、自分たちだけで
信仰を守り、教会らしきものを形成していたのです。


 
  このようなことから、私はますます教会のあり方について
考えるようになりました。この土地、ここに住む人々に最もふ
さわしい教会のあり方、そして聖書の教える教会のあり方から
寸分も違わない教会のあり方を求めて、いろいろな人々を訪ね
ました。そして驚いたことは、誰も教会について知らなかった
事です。知っていたのは自分が育った教会のあり方や遣り方に
過ぎませんでした。そこで、幸い近くに引っ越してきた神学校
の図書館へ出向き、組織神学の本から始めて、教会に関する文
献を探しました。そして改めて驚いた事に、組織神学の中の
「教会論」はどれもまったくの付け足しで、せいぜい特定の神
学の、あるいは特定の教派の偏った教会論で、とても聖書的と
言える代物ではない上に、組織的と言えるほどの内容を持つも
のはひとつもなかったのです。どれも、教会政治と礼典を取り
扱っただけで、とても参考にはなりませんでした。その他の文
献を見ても私がまず求めていた聖書的な教会論は、非常に断片
的で、小さな局面だけを取り上げたもの以外にはなかったので
す。私は、教会とは何かを知らぬまま、教会を建てようとして
いたのです。

 

  教会とは何かを知らないまま、教会を建てようとしていた
問題は、私ひとりの問題ではありません。多くの、あるいはほ
とんどの伝道者、牧師、宣教師たちが、私と同じように、教会
とは何かという根本的な問題をないがしろにしたまま、教会を
建てようとしているのではないでしょうか。その結果、私たち
の伝道と牧会あるいは宣教の働きに、多大な欠陥をもたらし、
非常に大きな「つけ」を払わされているのではないでしょうか。
思いここに至って、私は自分で聖書を読み、自分の実践伝道の
中から生まれてきた様々な疑問や必要に答える形で、教会論を
形成していく以外にないという結論に至ったのです。



  したがって、私の教会論は誰かの神学の寄せ集めではあり
ません。あくまでも自分の伝道実践の中から生まれた問題が起
点であり、自分で読んだ聖書が基です。フィリピンの山奥の伝
道から生まれてきた、極めて非学問的なものです。しかし、ひ
とたび周囲を見まわすと、教会論がないために多くの伝道者が
苦労しているのが目につきます。牧師がとんでもない事をやっ
ているのに気付きます。宣教が行き詰まっているのも理解でき
ます。教会が傷ついているのがわかります。信徒が痛んでいる
姿に心が疼きます。それで、私が自分なりに蓄えてきた教会論
が、いくらかでも役に立つのではないかと、僭越ながら考えた
わけです。それがこの教会論をまとめようと考えた理由です。
そういうわけですから、この教会論には、一般の「論文」に見
られるような、他の著書からの引用もほとんどありません。こ
れはもっと優れた教会論の出現のための、単なる露払いであり、
論文というよりはむしろエッセイです。お読みになった方がこ
れを叩き台にして、いろいろ考えてくださり、切り刻み、批判
し、反論を加え、改善して、より高度な教会論を構築してくだ
されば、私としては満足です。



  この教会論を進めるにあたって、気を付けたことがふたつ
あります。ひとつは教派や神学的伝統に偏らないと言うことで
す。残念ながら多くの神学、特に教会論の分野は教団教派の伝
統や偏見に満ちています。みなそれぞれ聖書を用いて、「聖書
的」である事を標榜しているのですが、目的が、自分たちの神
学と伝統を主張し、また擁護するためのものである事が多く、
自分たちの主張に合致しそうな聖書の言及だけを集め、合致し
ない聖書の言及は放置し、こじつけとも言えるような無理な解
釈をほどこしたり、文脈を無視して用いたりする事が随分行わ
れています。私が望むのは、私たちの教会の伝統や形式、ある
いは神学というものを擁護することではなく、聖書の中から真
実の教会の姿を探り出し、その教会に、私たちの時代と場所に
自己顕現をしてもらう事なのです。もちろん、このように言う
私自身、自分の中に、自分が育った神学的環境というものがあ
り、必然的に、それに影響されながら考えているという、不可
避の欠陥を抱えています。ただ、そのような欠陥を強く意識し
て、避ける努力をしながら、論を進めたいと考えています。



  次に、「聖書的」な教会の姿を探り出すのには、聖書を調
べるのが当然ですが、ここで幾つかのことを避けなければなり
ません。まず、新約聖書に記されている教会の姿を理想的な教
会、あるいは、神が教会とはこうあるべきであるとおっしゃる
ような教会、神のみ心にある教会であると考えてはならないと
言うことです。新約聖書に記されている教会は、間違いも失敗
も短所も弱点もある教会で、私たちが理想の教会として模範に
し、手本にすべき教会ではありません。新約聖書の書簡を読む
と、コリント教会の例を挙げるまでもなく、当時の教会の「惨
めな」姿がたくさん記されています。また、その組織、形態、
活動などにしても、あくまでも、当時の時代と場所、あるいは
人間、言語、その他の様々な要因を含んだ、「文化に適応した
教会」のあり方であって、それらを超えた「超文化的な教会」
のあり方ではないと言うことです。つまり、使徒の働きに記さ
れているような教会に戻ろうというのは、その精神においては
うなずけない事もないのですが、組織や形態あるいは活動と言
う面では、まったく間違ったことなのです。ただ言えることは、
教会はあのようなグレコローマンの文化の中で、あのような形
で存在することが許され、成長し続けたという事実です。



  また、新約聖書が、こうあるべきだと直接教会に教える形
で語っている場合でさえ、それをそのまま、すべての普遍的教
会のあるべき姿であると考えてはなりません。まず、それらは
本当に普遍的な教会のあり方として語られたのか、あるいはあ
る特定の文化への適応として語られたのか、しっかりと見極め
なければならないのです。それが文化的適応として、文化の制
限の中で語られているとするならば、その文化的状況を理解し、
その教えがなぜ語られる必要があったのかという理由を探り、
文化を超えた教会のあり方を見出して行かなければなりません。
その上で、改めて、私たちの文化の中ではどうあるべきかを話
し合わなければならないのです。したがって、最も重視されな
ければならないのは、聖書が普遍的教会のあるべき姿や形につ
いて直接言及している部分であり、また、聖書に記録されてい
る実在の教会が実践していたり、その形態に反映されたりして
いるもので、普遍的教会のあり方を反映していると判断される
部分です。使徒時代の教会が私たちの教会の模範となるとした
ら、そのような条件を満たした場合に限られるのです。





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2010年10月11日

教会について 2−B

p6〜13


T.教会論の不在がもたらした問題



  教会論の現状は、すでに触れたように非常に惨めなありさ
まです。カトリックにはかなり堅固な教会論がありますが、私
たちが参考にできるような教会論ではありません。立っている
土俵が違うからです。プロテスタントの中では、改革派がそれ
なりの教会論を持っているようです。ただしこれは、宗教改革
とその後の時代の歴史背景、カトリックとの抗争の中で、カト
リックの殻を尻につけてにつけて生まれて来たもので、どのよ
うに優れていようとも、現代の私たちの助けになるようなもの
とは思えません。バプテストには彼ら独特の会衆政治と洗礼を
中心にした教会論がありますが、聖書の教える教会の姿とは異
なります。ウエスレアンの神学にも、教会論としては見るべき
ものはありません。強調点の置き所が違ったためでしょう。そ
の他、いろいろな教派や団体の神学を見ても、しっかりとした
教会論は皆無と言って過言ではありません。



 とは言え、最近、主に宣教師や宣教の分野に関わった人々の
間から、伝統や教派を超えた教会論の必要性が言われ出し、断
片的ではありますが、聖書的なまた実践的な考察が加えられ始
めています。しかしまだまだ初歩的な試みで、とても充分な取
り扱いがされているようには思えません。



 このような教会論の不在は多くの問題を生み出してきました。
まずその事に目を止め、教会論の重要性に気付かなければなり
ません。



A.教会とは何かという問題



聖書で教えている教会とは、何かということがはっきりしな
いまま、至る所に教会と言う名の建物が建てられ、集会が持た
れ、人間の集まりができています。派手なパフォーマンスや音
楽その他の出し物で人を集め、たくさんの献金を得ている「教
会」があります。クリスチャンたちを集めた劇場とどこが違う
のでしょう。教会員と言うものを持たず、いろいろな団体のク
リスチャンがより多く集まることができ、良い説教が聞けるよ
うに配慮しているという超教派「教会」があります。クリスチ
ャン親交会とどこが違うのでしょう。テレビを通して音楽と説
教をいくつもの国に放映し、献金を送るように訴え、聖餐式ま
で行なって、世界教会と自称している「教会」があります。信
徒の交わりはどこに行ったのでしょう。大きな駐車場で車に乗
ったまま、巨大スクリーンに映し出される名説教者の説教を聞
いてすませる礼拝会もあります。献金も、ドライブスルーのハ
ンバーガーショップの料金支払いと同じ方法で、誰とも顔を合
わせることなく、つまり、「いやな奴の顔を見る必要もない」、
便利な「教会」もあります。ある特定の政治団体に直結してい
る「教会」もあれば、政治結社の「教会」もあります。特定の
民族や階級だけに会員や倍餐員を限定している「教会」もあり
ます。牧師が絶対権威をもって恐慌政治を敷いている、カルト
と見まがうような「教会」もあります。その他にも随分いろい
ろな「教会」があります。教会という名は付いていますが、非
常に大きな疑問符も付けなければなりません。



B.宣教・伝道活動の分野における問題  



 まず取り上げなければならないのは、教会の目的あるいは使
命についての混乱です。教会は何を目的として存在し、何を使
命として活動するのかということがはっきりしていません。



 社会派と言われた人々の多くは、教会の目的を人類の平和や
人間性の回復に置きます。それで平和運動や反政府活動に躍起
になるだけに留まらず、武装闘争を支援したり自らそれに身を
投じたりする人たちさえ出て来ました。他の人々は人道的活動
こそ教会の目的であると主張して、貧しい国に病院を建てたり
学校を建てたり、地域社会改善運動に走りまわったりして、つ
いには伝道を目的とした宣教師の派遣を中止すべきだと言い出
しました。当然の結果として伝道がおろそかになり、「教会」
はどんどん小さくなり弱くなってしまいました。


 
 福音派と呼ばれた教会は社会派に反発し、伝道こそ教会の使
命であると主張して、長いあいだ社会的な働きには背を向けて
きました。ところが福音派のある有名な神学者がそれは間違い
であると主張して、社会活動も伝道と同じく教会の使命である
と言い出すと、多くの教会がこぞって社会活動に乗り出しまし
た。社会の必要に目を瞑って来たという、後ろめたさがそうさ
せたのだろうと考えますが、有名な学者の言うことだからと、
どっと流れてしまう教会には情けなくなってしまいます。福音
派でありながら福音宣教に行き詰まりを感じてきた教会にとっ
ては、社会活動に活路を見出すのが良い逃げ口上ともなってい
るようです。


  
 さらに、宣教や伝道活動の中に大きな混乱や軋轢があります。
多くの宣教活動は宣教師の個人的栄誉と功績、(謙遜の皮を被
った) 教派・団体の競争として行なわれて来ました。ですか
ら、宣教師間の真の協力というのは珍しい現象であり、代わり
にいたるところに葛藤と抗争がありました。伝道を始めて教会
を建てると言っても、教会とは何かと言う事がはっきりしない
ため、単なるキリスト教信徒交友会や天国行き列車の待合室の
ような「教会」で終わってしまいます。本物の教会が出来ない
で終わってしまうのです。「やあ。あなたもクリスチャンです
か。じゃあ、同じ天国行きの旅ですね。旅は道ずれ世は情けと
申しますから、まあ、仲良く御一緒願いましょうか。よろしく
お願い申しあげます」といった程度です。



 実際、私たちの周囲にはさまざまな教会がありますが、多く
の場合、一般社会のいろいろなサークルや、愛好会・同好会と
大差がないのです。ただ、多くのメンバーがキリストを救い主
と信じているというだけのことです。あるいは、キリストの教
えを一生懸命に守り、正しい生活をし、互いに愛し合い、助け
合って行こうとしている教会はたくさんあるでしょう。しかし
自分たちの使命は福音を語り、人々を救いに導くことだと理解
して、そのためにあらゆる側面を整え、信徒を訓練し、活動し
ている教会は少ないのです。あるいは、自分たちの周囲に対す
る伝道には、熱心に取り組んでいる教会はいくつもあるでしょ
う。ところが、宣教の使命を明確にして、そのために教会全体
のプログラムを整えて、実践している教会を見ることは非常に
まれなことなのです。



C.牧会・教会組織・教会管理の分野における問題


 
 教会とは何かと言うことがはっきりしていないと、牧会も、
正しい意味では不可能になります。まず、牧師の働きとはどの
ようなものであるかと言うことがわかりません。自分の働き、
自分の責任、自分の役割が良く理解できていなくて、どうして
納得の行く働きができるでしょうか。ある牧師は独裁者になり、
他の牧師は小使いになります。説教の機械になっている牧師も
あれば、便利屋になっている牧師もいます。伝道伝道と駈けず
り回っている牧師もあれば、書斎から一歩も出ない牧師もいま
す。



 ある教会は、自分たちの属している団体の伝統にしたがって、
会衆制こそ絶対であると信じて、あらゆる社会的状況を無視し
て会衆政治を取り入れ、わざわざ教会を混乱に陥れています。
他の教会はやはり所属する団体の伝統を引き継いで、監督政治
から抜け出せないまま教会の成長と発展を妨げています。自分
たちの長老政治形態こそ聖書的であるという、所属団体の伝統
的信念に固執するあまり、他の政治形態を取る教会を非難して、
交わりが持てない教会もあります。みな、それぞれの伝統を聖
書以上に置くために、本当の教会が見えなくなっているのです。
その結果、教会が真の教会としての命と活力を発揮できなくな
っているのです。



 教会の政治形態や牧師の考え方によって、教会の管理が随分
変わってきます。それはそれでかまわないのですが、教会とは
何かということが明確にされていないと、教会の管理運営が、
一般企業の管理運営と変わりなくなってしまいます。事実、多
くの教会が一般企業の管理運営の原則や機能を取り入れて「成
功」しています。それは、企業という側面、キリスト教界とい
う業界での成功ではあっても、真実の教会としての健全なあり
方とは、程遠いものであることが多いのです。たとえどのよう
に巧く管理運営されていたとしても、聖書が教えている教会と
異なった組織ができていたのでは、まさに、元も子もないので
す。



D.信徒と賜物の分野における問題



 教会とは何かということが良くわかっていなければ、信徒と
は何かということ、信徒の重要性、信徒の立場、信徒の働きと
いうことがわからないままになってしまいます。現在の私たち
の教会には多くの欠点がありますが、一番大きな、決定的とさ
え思われるのが、この信徒に対する理解の欠如です。万人祭司
説という多くのプロテスタント教会の金科玉条も、どちらかと
いうとカトリック教会との争いの中で、救済論的に扱われてい
るところが多く、教会論の構築にはあまり役立っていないよう
に思えます。それが教会に与えられている賜物に対する無理解
と軽視につながり、結果として本来の教会の力を失ってしまっ
ているのです。多くの教会にとって信徒とは牧師の聴衆、日曜
日ごとにベンチを暖める役割を与えられている人々です。毎週
礼拝会を欠かさず、月々しっかりと献金をし、良い生活で証を
立て、牧師の補佐として働ける者はりっぱな信徒です。多くの
場合はつまらない問題でくよくよ悩み、小さな悲しみにめそめ
そし、たいしたことでもないことに捕らわれてうじうじと思い
迷い、昨日犯したのと同じ罪に今日もまた陥り、身も蓋も無い
ほどの自己嫌悪にさいなまれ、朝から晩まで牧師の頭痛の種に
なるのが普通の信徒です。牧師は、こういう信徒の面倒を見て
上げるのが自分の務めであるとあきらめて、自分を慰めます。
信徒たちはそのような牧師をこよなく愛し、信頼し、裏切りな
がらもどこまでもついて行こうなどと、健気にも考えたりしま
す。このようにして出来あがる、牧師と信徒との信頼関係が
「教会」なのでしょうか。



 本来の教会は信徒の教会でした。教会のすべての働き、すべ
ての役割が信徒によって進められ、果たされていたのです。聖
書を単純に読むと、教会の主役は信徒であり、信徒が教会だっ
たはずですが、その教会はどこに行ってしまったのでしょうか。



E.クリスチャン生活の分野における問題



 キリスト教は倫理的な宗教です。教会ではクリスチャン生活
を厳しく規制し、してはいけないことは何か、しなければなら
ないことは何かを教えます。その教えが聖書に沿ったものであ
り、神から出たものである限りそこに問題はありません。ひと
りひとりのクリスチャンが、神の御前に清く正しく生きるべき
であることに対して、なんら問題があるわけではありません。
ただし、私たちの教会に決定的に不足しているのは、教会とい
う「共同体としての成長」という観点です。個々のクリスチャ
ンの成長に力を入れるために、共同体としての教会の成長を阻
害してしまっていることが良く見うけられます。個々のクリス
チャンの成長が重要視され、共同体としての交わりと、その交
わりを前提とした全体的な成長がないがしろにされ、結果とし
て、教会があるべき姿に成長出来ないままでいるのです。それ
がまた、個々のクリスチャンの成長を妨げているのです。


  
 個人主義的な生活様式、個人主義的なものの考え方から出発
している、西欧のプロテスタントキリスト教では、神の御前に
おける一個の人間としての責任が重要視され、当然、個人のク
リスチャン生活、個人的きよめ、個人的成長が大切にされてき
ました。そのような伝統は、敬虔主義、ピユーリタン、メソジ
スト、ホーリネス運動のような、それ自体大変素晴らしい運動
の中にも明らかに見られます。そのような個人的成長の強調の
反面、互いに重荷を負い合い、足りなさと弱さを担い合い、協
力、協調し合いながら助け合いながら、全員そろってキリスト
の満ち満ちた背丈にまで成長して行く、共同体としての成長が
忘れられて来たのです。ちなみに、筆者の40年に余るクリス
チャン生活の中で、「キリストの満ち満ちた身丈まで共に成長
する教会」というような主題で、説教がされたのを聞いた事が
ありません。



F.教会そのものの軽視の問題



 現在クリスチャンを自称していながら、教会には出席してい
ない人たちがたくさんいます。教会には出席しても、教会員と
して登録もしていなければ責任も果たしていないという者も、
数多く存在します。教会に加わることは、いろいろな生き方の
中にある単なる自由選択、裁量、オプションにされているので
す。


 ある人たちは、自分がどこの教会にも所属してないことに、
何の不思議も感じていません。どの教会を見ても欠点だらけで
幻滅するだけだから、どこの教会にも所属しないという理屈も
あります。たとえ完全無欠な教会を発見しても、自分がその教
に加入すると、その瞬間に不完全な教会になってしまうという
事実を、理解出来ない人が多いのです。蝶が美しい花から花へ
とたゆとうように、毎週、いろいろな教会の間を行き来する信
徒がいます。美味しいところだけを頂戴している信徒です。蝶
ならば花粉も運び、役にも立ちますが、教会の間をさまよう信
徒は、悪い噂話ばかり持ち運びます。自分は普遍的教会の一員
であり、どこの地方教会にも参加する必要を感じないという者
もいます。普遍的教会の意味の取り違えです。



 確かに、アメリカの多くの教会は、すでに教会員という考え
方を捨ててしまったと聞きます。また、神の国に生まれると言
うことと、教会に加わると言うことをまったく別の事柄として
取り扱い、洗礼は授けても教会員としては認めない教会も多数
あると聞きます。別に教会員としての志願申し込みをさせ、教
会役員による審査を通して、その教会の基準に合格すれば、会
員とさせてもらえると言うことです。これは個人主義の原則に
立つ、クラブの会員の遣り方ですが、神の民である教会という、
共同体の中に生まれる新生の原則を無視したものです。

 

 このように、教会自体が軽視されています。クリスチャンの
多くが、教会に参加する必要を感じたら参加する、必要を感じ
なければ無視するという態度を取っているのです。私たちがし
ばしば耳にする「神と自分の間に何者も立たせるな」という勧
告は、神と自分との個人的交わり、直接的関係の強調として言
われるのでしょうが、大変大きな間違いです。キリストが命を
かけて愛された花嫁は教会であり、ひとりひとりのクリスチャ
ンは、キリストのみ体の一部として、キリストに繋がっている
のです。私たちが救われたとき、私たちは聖霊によってキリス
トのみ体にバプタイズされたのです。教会のない個人は存在し
ないのです。



 こうして見た通り、教会論の不在は多くの弊害をもたらしま
した。しかし、私たちはいつまでも現状に留まり続けるのでは
ありません。しっかりした教会論が生まれてくる兆しがあるか
らです。それは実に、じれったいほどゆっくりしていて、それ
を待てない私が、敢えてこのような拙文でも書かなければなら
ないと思うほどですが、兆しはあるのです。それはまず、ここ
しばらくの聖書神学の強調に期待できます。自分が知りたい事
を聖書から知るという方向の組織神学ではなく、聖書が語ろう
としている事を知る方向の聖書神学が、聖書が教える教会の姿
をより明らかにしてくれると期待するのは当然です。また、こ
れまでの組織神学の手法が、自分の主張を聖書の言葉で裏付け
るために、聖書の個々の書の背景や文脈を無視して、強引に聖
句を引用すると言うことを許していたことから、聖書が語る本
来の意味から離れてしまう傾向を持っていたのに対し、聖書神
学の手法は聖書に聞くという態度をより強くしているところに、
正しい教会論の構築の可能性を見るものです。それは当然、教
派、教団、伝統に色づけされた教会論、すなわち、改革派の、
長老派の、バプテスト派の、ホーリネスのというような教会論
ではなく、聖書に基づいたより公平な教会論となるはずです。



 次に、伝統的な西欧のキリスト教から産み出される教会論で
はなく、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ、あるいは東欧な
どから産み出される教会論に期待したいと思います。すべてと
は言わないまでも、多くの西欧諸国では個人主義と民主主義の
原則が、聖書の原則の先に発つようなところがあります。そこ
で産み出される教会論は、どうしても個人主義的・民主主義的
傾向を帯び、共同体としての教会、神のみ心によって建てられ
運営される教会が、軽視されてしまいがちです。共同体として
の教会をより良く理解するためには、共同体というものが、社
会の中でしっかりと生きている文化の中で育った人々が必要な
のです。一般社会の共同体は、聖書の教える教会の共同体とは
異なっていますが、少なくても共同体社会で培われた感覚を媒
体として、聖書の共同体を理解する事ができる利点を持ってい
るのです。また、ある程度、君主主義や絶対主義の「権威」と
服従の意味を知っていた方が、神の権威、聖書の権威を理解す
ることができると言う面もあるのです。ローマの百卒長はキリ
ストの権威を理解したことによって、キリストの賞賛を受けま
したが、彼は軍人として、「権威」と言うものをよく理解して
いたために、キリストの権威を洞察することが出来たのです。
21世紀に入って、キリスト教はもう西欧の宗教ではなく、世
界の宗教になっているのですから、神学においても、西欧の哲
学に捉われない普遍的教会の面目を示してほしいものです。



 ただ現実は、それほど簡単ではなく、このように私が考え始
めてからすでに4半世紀が過ぎようとしているにも拘わらず、
アジアやアフリカ、あるいはラテンアメリカなどからの教会論
は、まだ日の目を見ていません。むしろ、西欧からそれらの地
方に出かけて行った宣教師たち、あるいはそのような宣教師た
ちに触発された西欧の神学者たちの中に、わずかとは言え、新
たな教会論の構築に取り組もうとしている人たちが現れている
ようです。これはかすかな期待です。ただし心配の種の方が大
きいと言わざるを得ません。それは、自分たちが信奉する個人
主義と民主主義を、あたかも普遍的真理であるかのように、武
力と経済力で世界中の国々に押しつけている、現代のアメリカ
で育っていく神学者たちが、そのような個人主義と民主主義を
背景にした教会論を産み出し、世界中の教会に押し付ける可能
性です。








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2010年10月12日

教会について 2−C

p13~17 

 
U.召されたものとしての教会
 
  教会はとても大きく、幅広く、奥行きのあるものです。短
い言葉で簡単に定義できるものではありませんが、まず、教会
という名称に関わる事柄を取り上げて、教会とは何かというこ
とを、いくらかでも明らかにして行きたいと思います。
 

A.召されたもの

日本語の「教会」という言葉は、エクレシアというギリシヤ語
の翻訳として用いられています。エクレシアと言う言葉は、新
約聖書に87回出てきますが、もともと「〜から」という意味
の「エク」と、「招く、大声で呼ぶ」という意味の「カレオー」
というふたつの言葉がひとつになって、「呼び出す」と言う意
味の「エンカレオー」という動詞になり、さらにこれが名詞に
変化して、「呼び出された者たちの集り、会合、会衆」という
意味のエクレシアになったものです。



  実は、エクレシアという言葉は、クリスチャンたちによっ
て用いられ始めるずっと前から、古代ギリシヤ都市の議会の呼
称として広く用いられており、この古代ギリシヤの議会が、現
代の民主主義に通じる議会であったことは、良く知られている
事実です。また、使徒の働きの著者ルカは、パウロがエペソに
おいて騒動に巻き込まれた時の暴徒たちを、エクレシアと呼ん
でいますから、このような呼び方がごく一般的であった事がし
のばれます。(使徒の働き19:31)



  さらに、一般に70人訳と呼ばれる旧約聖書のギリシヤ語
訳は、紀元前2、3世紀に完成されたと考えられていますが、
この中で、イスラエルの会衆を意味する「カハール」というヘ
ブル語が、エクレシアと訳されています。70人訳は当時非常
に広く用いられていて、キリストの弟子達の多くもこれに親し
んでいたと考えられますが、ギリシヤ語を話す弟子であった殉
教者ステパノも、イスラエルの会衆のことをエクレシアとギリ
シヤ語で呼び、それをルカがそのまま記録したと考えられます。
(使徒7:38) また、ヘブル書2:12は詩篇22:22
の引用ですが、会衆という言葉がエクレシアと翻訳されていま
す。日本語では口語訳も新改訳も「教会」と訳し、新共同訳は
「集会」と訳しています。



  初代のクリスチャンたちは、当初、自分たちのことを「弟
子たち」(使徒2:41)とか「この道の者たち」、あるいは
単に「信じた者」とか「聖徒」と呼んでいたようです。また、
ユダヤ的背景の強いヤコブ書では、一度だけですが、教会がユ
ダヤ教の会堂を意味する「シナゴグ」と言う言葉で呼ばれてい
ます。(2:2) これは初代の教会が、ユダヤ教の会堂の形
態から発展してきたことを伺わせると共に、そのようにも呼ば
れていた時期があった可能性を示すものです。初代の教会の歴
史を記している使徒の働きで、エクレシアという言葉が教会と
いう意味で最初に用いられているのが、5章11節である事か
らも推測できるように、一般のクリスチャンたちが、自分たち
の集りあるいは交わりを、エクレシアという言葉で表現するよ
うになったのは、少なくても、キリストの昇天後しばらくたっ
てからのことだったと思われます。



  また、彼らがエクレシアという言葉を選んだ経緯には、多
分、当時のクリスチャンたちの一大決意があったのではないか
と想像されます。なぜなら、それはギリシヤ都市の一般の議会
や、町内会の集まり、あるいはわけもわからないで騒ぎ立てる
だけの暴徒など、様々な人々の集りと混同される危険がありま
したし、当時70人訳が広く読まれていた事実から、イスラエ
ルの会衆と間違われる危険もあったからです。それにも拘わら
ず、彼らが敢えてこのエクレシアという言葉を選んだのは、教
会の本当の姿が、まさに「召された者たちの会衆」と呼ばれる
に相応しく、その他の言葉ではどうしても、教会の全体的な姿
を表現できなかったからでしょう。そのように考えると、初代
のクリスチャンたちが自分たちの集り、つまり教会について語
るとき、最も大切なこととして認識していたことは、「召し出
された者たちの集りである」という事実であったと考えられま
す。たぶん、これが最も簡潔な教会の定義であると言えるでし
ょう。



  ついでながら加えますと、教会のことを英語では「Church」
と言いますが、これは「主のもの」という意味のギリシヤ語
「キュリアコン」から来たと言われています。この言葉は、新
約聖書では主の晩餐と主の日にそれぞれ一度ずつ用いられてい
るだけで、(Iコリ11:20、黙1:10) 教会という意
味では一度も用いられていません。この言葉が教会の集会場所
を指すようになったのは、使徒時代以降のことと考えられてい
ます。日本語の「教会」は、教会の本来の姿を幾分かは表現し
ているとはいえ、「教える」という意味が強すぎて、個人的に
は好きになれませんが、他に適当な言葉があるようにも思えま
せん。あえて言うならば、「召会」でしょうか。私たちの教団
名は、英語のアッセンブリーズ・オブ・ゴッドという名前をそ
のまま用いていますが、「神の集会」いう意味で、教会の本来
の意味をよく伝えています。これを漢字にして「神召会」と訳
したのは、まさにエクレシアより傑作ですが、残念ながら、教
会という名が定着した後であり、またひとつの団体の名前とし
ては、意味不明と言われそうで、いくつかの個教会の例を除い
ては、団体名としては残らなかったようです。ただし、台湾や
香港の私たちの姉妹教団では、立派に「神召会」で定着してい
ます。ただし、英語でアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの前に、
定冠詞の「The」が入っているのは、いささか独りよがりの感
がしないでもありません。また、「アッセンブリーズ」と複数
形になっているのも、団体の創立経緯からすると当然ともいえ
るのですが、神学的には単数のほうが正しい気がします。さら
に、私たちのアメリカの姉妹団体は、いまだに自分たちを教団
と呼ぶのを嫌ってフェローシップという言葉を用いています。
創立当時の事情がそのようにさせたのでしょう。



B.新約聖書の「召し」という言葉



  新約聖書は、教会が召された者であるという意味で、カレ
オーの変化した形の言葉を60数回用いています。日本語では
「召し」あるいは「招き」、さらにはそれらの動詞の形に訳さ
れています。



  召しという概念は、教会の中でしばしば誤解されて用いら
れてきました。多くの場合、召されるという言葉は、伝道者と
して召される、牧師として召される、説教者として召される、
あるいは宣教師として召されるというような意味合いで用いら
れてきたものです。しかし、これは新約聖書が強調する召しと
はまったく違います。新約聖書が「召し」と言う場合、その
90%以上が、教会がこの世から、あるいは悪魔の支配から召
され、呼び出され、神の国に招待されているという意味で用い
られているのです。すなわち、聖書の言う召しとは、基本的に、
救いと言う事実を神の側からの行為として捉えた表現であり、
救いそのものなのです。



  例外のひとつは、使徒の働き13:2でバルナバとサウロ
が召されたと言われているところです。この場合は神が彼らの
ためにお定めになった「働き」への召しです。それから、彼ら
がマケドニヤに渡るきっかけとなった幻についての言及で、
(使徒16:10) 彼らは、福音を語るという働きと、マケ
ドニヤという場所と、マケドニヤ人という対象に対して、特定
の期間に限って召されたと信じたと言うことです。また、パウ
ロは独身の状態や奴隷の身分の状態を指して「召し」と言う言
葉を用いた例があります。(Iコリ7:20) これは昔カル
ビニストたちが職業を「召し」と呼び、それぞれの職業は神の
召しであるからそれを変えてはならないと教えたり、ある人た
ちが独身は召しであると主張したりする、よりどころとなった
ものです。



  また、神の働きの中での「聖職」に対する召しとしては、
ただ一度だけ、ヘブル5:4で旧約時代の大祭司に関わって用
いられていますが、祭司職が失われた新約時代にこの用法を適
用して、牧師や宣教師という「聖職」への召しの根拠とする事
は出来ないでしょう。また、ローマ1:1あるいはIコリント
1:1で、パウロが使徒として召されたと主張しているように
理解できるところがあります。しかし、これはそのような「聖
職」への召しの存在を、先入観として持っている翻訳者たちの、
訳の間違いだと考えられます。文法的にはそのように訳す事も
可能だと思いますが、文脈からは違うと判断されます。いずれ
の場合も数節後には、一般のクリスチャンたちに対して「召さ
れた」という同じ言葉をもって呼び掛け、「共に同じ救いに与
った我々」という意味を込めているのですから、パウロは自分
が使徒として召されたと言う事を言おうとしたのではなく、召
されて、使徒となった、すなわちまず救いに与って、それから
使徒となったと言っているのだと判断されます。事実パウロは、
Uテモテ1:9−11において、そのような言いまわしをして
います。



  このように、新約聖書は召しと言う言葉をもって救いとい
う事実を表現し、救いが人間側の努力や功績によらず、神の側
からの働きかけによるものである事を強調しているのです。救
いに関する神のご意志と手段を、人間の意思や手段に対比して
いるのです。教会がエクレシアと呼ばれるようになったのは、
自分たちは自分たちの意思によらず、自分たちの働きや功績に
もよらず、まったく、神の側の圧倒的な働きかけ、抗しがたい
神のみ心によって、呼び集められた者の共同体であると、認識
されたからに違いありません。



  このような神の絶対の召しに対し、人間の自由意志による
選択、あるいはそれに関連して、いわゆるカルビニズムとアル
ミニズムの論争があることは、よく知られています。聖書では
神の絶対主権による選びと召しが強調されていると共に、人間
には自由意思が与えられ、神の提供される救いの招きを受け入
れる事も、拒む事もできると教えられているからです。カルビ
ニズムとアルメニズムの論争はいつ果てることなく続いていま
すが、この論争自体に大きな欠陥があり、不毛な論争です。そ
れは神の絶対の自由を、人間の限られた自由と同じレベルに引
き下して、論じ合うという欠陥です。神の自由と人間の自由が
直接衝突してしまうのは、神の自由と人間の自由を同じ高さ、
同じ線路に置いて走らせるからです。本来、神の自由は根源的
な自由であり、無制限の完全な自由です。それに対し人間の自
由はあくまでも許されている自由に過ぎず、与えられている自
由です。それは時間と空間、また、人間に与えられている有限
の能力というものによって、必然的に制限された自由です。神
の自由と人間の自由では次元が異なるのです。



  喩えて言うと、人間の自由は金魚鉢の中にいる金魚の自由
です。金魚は金魚鉢という場所と、金魚が生きている時間と、
金魚の能力の範囲内で、まったく自由なのです。人間も、宇宙
船地球号という金魚鉢の中で、許されている命が続くかぎり、
与えられた能力の許す範囲で、まったく自由なのです。自分の
能力の限りに考え、選択し、創造し、活動する自由があります。
与えられた環境の中で生きるという限り、まったく自由です。
ひとりの人間として生きる長さがどれだけか、あるいは人類と
して生かされる長さがどれほどかは不明ですが、その中で自由
です。しかし、人類の生きる長さも無限ではありません。神が
許される範囲の中で無限なのです。したがって、神の自由な選
びと召しが人間の自由な選択と衝突する事はあり得ないのです。
人間はまったく自分の自由意思で、神が提供される救いを選び
ますが、その人間の選択は、神の選びと召しの中にあって行な
われるのです。


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2010年10月13日

聖書について 2−D

p17〜23




C.この世から召し出されたもの

  教会とは召し出されたものです。教会はこの世と呼ばれる
世界から、神の選びにしたがって呼び出されたものです。この
世とは、悪魔の支配する世であり神の支配である神の国に対峙
するものです。それは生まれ出るすべての人間が、一度は必ず
生まれる闇の世であり、そこにおいて人間は、心の望むままに
生きる自由を持ちながら、悪魔に従って罪の奴隷として生きる
自由だけしか持ち合わせず、生まれながらにみ怒りを受けるよ
うに定められ、罪と罪過の中に死んでいた者です。(Iコリ4
:4、エペソ2:1−10)



  ところが教会は、そのような中から神の絶対のご意志によ
って選ばれ、召し出されたのです。もはや悪魔の支配を受けて
罪を犯し続けるのではなく、悪魔の支配と罪から解放されて、
神の支配である神の国の中に入れられ、良い行ないができるよ
うに造り変えられ、神の子としての身分を与えられ、永遠の命
を与えられ、神の国の国民として、やがて完成される神の国を
目指して、まっしぐらに進もうとしているのです。教会はいま
だにこの世に生きていながら、この世に属してはおらず、寄留
者として旅人として生きているに過ぎません。



D.神の国に召し入れられたもの



  神の召しには、召し出されるという意味合いと同時に、召
し入れられる、あるいは招待されるという意味があります。教
会が神の国に召し入れられたという、聖書の直接の言及はIテ
サ2:12に一度あるだけですが、悪魔の支配するこの世から
召し出されたということは、悪魔の支配に対峙する、神の支配
の中に召し入れられたと言うことであると、容易に推測できま
す。また、キリストがお話になった神の国の譬えからも、それ
は充分に可能な考え方です。(マタイ13:1―52) あるい
は「召し」という言葉が、キリストの交わり、(Iコリ1:9)
 平和、(Iコリ7:15) 自由、(ガラ5:13)一体と
なる、(コロ3:15)清潔、(Iテサ4:7)キリストの栄
光を得る、(Uテサ4:14)永遠の命、(Iテモ6:12)
永遠の資産の約束、(ヘブ9:15)暗闇から光り、(Iペテ
2:9)キリストと共なる苦しみ、(Iペテ2:20、21)
祝福を受け継ぐ、(Iペテ3:9)などという表現と共に用い
られている事実は、召しとは神の国への召しであると語ってい
ることがわかります。
 


  神の国とは、単純に「神の支配」のことですが、非常に大
きな概念で、キリストの教えの中心であり、使徒たちの宣教の
核心でした。この神の国を、キリストは今この世界で私たちが
現実に体験するものでありながら、(マタ12:28、13:
1−52、23:13)やがて来たるべきものとして描いてい
ます。(マタ25:1−46) それはパウロも同じです。(I
コリ4:20、Iコリ6:9−10、15:50)

 今この世で体験できる神の国は、癒しなどの奇跡をもって悪
魔の支配に勝つ事や、正しい行ないによって人間の生活の中に
働く悪魔の力に勝利して行く事、あるいはそのように勝利でき
るようにされた人々の、人間関係の中に現されて行きますが、
あくまでもまだ不完全なものです。その内容においては正真正
銘神の国の現れであっても、まだ、神の国の力が完全に現れて
いるのではなく、いわば前味のように、あるいは手付金や保証
金のように、後に現れる完全なものへの保証として現されてい
るのです。(エペソ1:13−14)神の国に召し入れられた
者は、また、神の国に生まれた者、上からあるいは再び生まれ
た者であり、(ヨハネ3:1−10)  神の霊がその人を宮
として住んでくださる者です。こうして、悪魔の支配のもとで
神に敵対して生きていた者が、神と和解させられて(ローマ5
:1)神の支配の中に入れられ、神の霊に住んでいただく新し
い存在となるのです。(Uコリ5:20)



  聖書は神の国のこのような二重性が、たとえば救われるこ
と、子とされること、贖われること、聖められることと同じで
あると教えています。私たちはすでに救われているのですが、
やがて来る完全な救いを待ち望んでいます。すでに子とされて
いるのですが、やがて子とされることを待ち望んでいます。す
でに贖われていながら、贖いの日を待望しています。すでに神
との和解を得ていながら、さらに和解を待ち望んでいます。聖
くされていながら、完全に聖なる者とされる時を待ち焦がれて
いるのです。これは、救われること、子とされること、贖われ
ること、あるいは聖くされることなどが、神の国に入れられる
という大きな霊的事実の、様々な局面であることを示していま
す。私たちは悪魔の支配から神の支配の中に招き入れられたの
ですが、まだ、「この世この代」においては完全な神の国の現
れを待って、悪魔と戦い続けなければならないのです。しかし、
私たちの主イエスがすでに完全な勝利を取っておられるために、
私たちの勝利もまた、確実なものとして約束されているのです。
私たちは来るべき栄光を待ち望んでいるのですが、すでにその
栄光の中にいるのです。(Iペテ5:10)



E.共同体に召されたもの



  神の国に召されるということはまた、キリストの体と呼ば
れる共同体にバプタイズされる事です。(Iコリ12:13、
コロ3:15、ヨハネ17:11−23) 救いを受けたすべ
ての人、すなわち神の国に召されたすべての人は、例外なく、
このキリストの体と言われる共同体に、召し入れられているの
です。しかもバプタイズという言葉が示唆するのは、単に繋が
れる、結ばれるというような弱いものではなく、水の中にどっ
ぷりと漬けられてあらゆるところに水が浸透するように、キリ
ストの中に浸りきるような強い繋がりです。事実、パウロはこ
のキリストの体の繋がりを、人間の体の有機的な繋がりと同質
なものとして説明しています。(Iコリ12:12−27)



  召された者は、ただ単に神の国の中で一個の個人として生
きるのではなく、新しい共同体を形成して生きるのです。悪魔
の支配の中で、それぞれがそれぞれのために、わがままに自分
勝手に生きていながら、一致して悪魔の意思に従って生きてい
た者が、神の和解を受けて、また、あらゆる人々とも互いに和
解させられて、すべての相違を超えてひとつとされて生きるの
です。(エペソ2:12−22) したがって、本来、この共
同体に繋がっていないクリスチャンはあり得ないはずです。こ
の繋がりは普遍的教会との霊的繋がりというような、そのまま
ではほとんど実態のない理念上の観念的繋がりではなく、具体
的な個々の地域教会の交わりの中で、実現されて行くものです。
誤解を避けるために言い直すならば、普遍的教会との霊的な繋
がりという崇高な理念は、具体的に地域教会の交わりの中で具
現化され、実現され実行されて行ってこそ、はじめて霊的事実
として認められるのです。

 

  ですから、具体的に、地域のクリスチャンたちの交わりの
中で実際に活動していないクリスチャンなどというものは、本
来存在してはならないし、存在出来ないはずなのです。それに
も拘わらず存在しているというのは、たとえその個人がどれほ
ど人格に優れ崇高な人物であったとしても、まさにぎりぎりの
最低のレベルで、憐れみの神に存在を許されているに過ぎませ
ん。これまでの神学に教会の理解が不足しているのは、また不
足している事に気付かずにここまで来ているのは、カトリック
教会への反動でもありますが、共同体というものをネガティブ
に捉えて来た近代欧米個人主義と民主主義の哲学を下敷きにし
て、キリストの教えを解釈し、神学を構築して来たためでもあ
ったのです。



  キリストがこの世に来て下さった目的は、十字架で贖いの
業を完成させるためであったことに疑いを挟む者は、少なくて
も福音派を自称する人たちの中にはいないでしょう。しかし、
福音派の人々がいま真剣に理解しなければならないのは、キリ
ストはご自分を信じる者たちをひとつにまとめ、教会という共
同体を建て上げるためにも来て下さったという事実と、その事
実の重要さです。(マタイ16:18−19) 教会は、神の
国に招き入れられた人々が作り出した任意の団体ではありませ
ん。偶然に、自然の成り行きで出来たものでも、だれか優秀な
人間の創造性による創作でもありません。あくまでも、キリス
トがお建てになったものであり、神の永遠の御計画によったも
のです。(エペソ1:4−14、Uテモ1:9)



  ですから、神の国に招き入れられた者は、教会に加入すべ
きかどうか迷うべきではなく、加入させられているという霊的
事実を、最も良い形で具現化して行くには、どのようにすべき
かと考えるべきなのです。また教会の指導者たちは、自分たち
の教会員としてふさわしいかどうかと、救われた人々について
あれこれと詮索をするのではなく、その人が神によって教会に
与えられたという事実を、まず謙虚に認め、受け入れるべきな
のです。その人を招き入れてくださったのは神であり、その人
の内に住んでくださったのはキリストであり、み体にバプタイ
ズしてくださったのは聖霊なのです。そのような人を拒絶する
事は、どのような指導者にも許されていない事です。



F.ひとつになるために召されたもの



  パウロは私たちが召されてひとつとなったと語っています。
(コロ3:15) ひとつになるために召されたとは言ってお
りませんが、ひとつとされた、(エペ2:14−16) ひと
つの体にバプタイズされた(Iコリ12:13、原語の意)と
言っています。これらの文節の強調を読むと、私たちはまさに
ひとつとなるために召されていると言えるほど、強烈な観念が
背景にあることに気付きます。それはただ共同体の一部となる
ために召されたというだけに留まらず、「すべての者がひとつ
の御霊を飲む者とされた」と表現され、(Iコリ12:13)
「両者ともにひとつの御霊において」と述べられる(エペ2:
18)体験を共有しているということです。キリストは、教会
を世に遣わすということについて父なる神にお語りになったあ
と、くり返し、教会がひとつであるようにと訴えておられます。
(ヨハネ17:21−23)



  共同体にも様々な種類の共同体があります。自然発生的な
居住地域共同体から、家族、親族の血縁共同体、あるいは農業
や漁業などの産業共同体、さらには親交会やクラブのような任
意の共同体があり、その絆の種類も強さもまちまちです。しか
し召された私たちが形成する共同体は、すべての共同体の中で
もっとも強い絆で結ばれ、最も深いところで繋がっている共同
体です。それは、人為によらず、まったく神の働きによる共同
体です。神と和解させられた者たちが、敵意という隔ての壁を
取り除かれて「ひとつとされた」共同体です。 (エペソ2:
13−22)



  それはまず、ひとりひとりがキリストにバプタイズされ、
キリストとひとつになり、キリストと繋がると言う経験から始
まり、キリストとひとつになっているという事実から、キリス
トとひとつになった者同士がひとつになると言うことであり、
人為的な好き好みや、趣味や興味の一致、目的の一致といった
要素による共同体ではないのです。同じキリストの贖いに与り、
同じキリストの血潮によって清められ、同じキリストの命に生
かされ、同じ聖霊の力を体験し、同じ希望に生き、同じ嗣業を
受け継ぎ、同じ栄光に与り、永遠に共に生きる者としての、神
に起源を持つ共同体なのです。(エペソ4:1−6) そして
この共同体は、互いに愛し合い助け合い、互いの益となり合う
生き方によって、またそれぞれの力に応じて互いの益のために
働くことによって、いよいよ絆を強め、共に成長して行く共同
体なのです。(ローマ12:3−8、Iコリ12:1−27、
エペソ4:11−16) この世で最も強い共同体と思われる
家族は、血縁共同体です。しかし神の家族と言われる教会は、
キリストの血による血縁共同体です。あるいはさらに強い最小
単位の共同体である夫婦は、一体となるという神秘的な共同体
ですが、これさえも、キリストと教会の一体性の雛型に過ぎな
いのです。(エペソ5:22−33)



  聖書はこの教会という共同体について、さまざまな表現と
譬えで説明しています。キリストの体という表現についてはす
でに少しばかり触れましたが、他にも、キリストの花嫁、聖霊
の宮、神の家族、建物などと呼ばれています。それぞれ、神の
国に召された者たちが作り出す、共同体としての教会の大切な
性質について語っていて、教会の定義にも関わるものですが、
別の項目で取り扱いたいと思います。



  神の国に召し入れられた人々は、必然的にキリストと繋が
り、キリストのみ体である教会に召し入れられているのです。
教会は神の国ではありませんが、この世における神の国の共同
体であり、神の国の永遠の性質は、この共同体の中で遺憾なく
発揮されて行くべきものであり、またこの共同体は、自らの資
質となった神の国の性質を、外に向かって力強く発揮して行く
べきものなのです。



G.使命のために召されたもの



  私たちは神の国に召されました。しかしそれだけではなく、
私たちは神が私たちにお与えになる使命のためにも召されたの
です。



  確かに私たちは神の招きを受け、神の国に入れられ、神の
国の国民とされました。(ピリ3:20) またこの招きは、
キリストに繋がるバプテスマを受けてキリストとひとつとなり、
ひとつの共同体を形成するためでもありました。神はこの共同
体を、この世においてご自分のみ国、すなわち神の支配を具体
的に現す場とされました。神の完全な愛を、召しという事を通
して体験した私たちひとりひとりが、その愛に触発され、動か
され、さらに御霊の励ましを受けて、この共同体を愛の共同体
として作り上げて行くことによって、その人間関係の中に神の
支配が具現化するのです。生まれながらにみ怒りの子であった
私たちは、(エペソ2:3) 尊い召しを受けて神の子とされ、
あらゆる祝福をいただいているだけではなく、完全なみ国を受
け継ぐ権利を与えられています。そして、完全なみ国を受け継
ぐためには受け継ぐ者もまた完全でなければならないために、
私たちもまた完全にされる希望を与えられているのです。(I
コリ15:52)



  しかし私たちは、ただ神の祝福をいただいて幸せに生きる
だけのために、悪魔の支配から召し出されたのではありません。
私たちには果たすべき使命が与えられているからです。その使
命とは、ご自分の驚くべき光の中に、私たちを闇の中から招い
てくださった方のすばらしいみ業を、私たちが宣べ伝えること
です。(Iペテロ2:9) 私たちはこのためにも召されてい
るのです。すなわち私たちが召されたのは、ただ単に私たちの
祝福のためだけではなく、私たちを通して、祝福がさらに他の
人々にも及ぶためなのです。それは、アブラハムとその子孫が
選ばれたのがただ単に彼らの祝福のためだけではなく、彼らを
通して祝福がすべての民族に及ぶためだったのと同じです。
(創12:1−3)



  パウロはこの使命を、「和解の務めを与えられた」とも、
「和解の言葉を委ねられた」とも表現しています。(Uコリ5
:18−19) 私たちは神と和解させられ、さらにその和解
を媒体としてすべての人々と和解させられ、和解の共同体を形
成しましたが、それだけに留まらず、共同体とされた私たちが
共同体として、和解をさらに多くの人々にもたらすための神の
器とされているのです。



H.遣わされるために召されたもの



  私たちは神の国に召された者であり、神の国のあらゆるす
ばらしさを味わうことができるように、世の始めから定められ
ている者です。それにも拘わらず、私たちは未だにこの世でさ
まざまな困難に遭遇し、痛み、傷つき、悩み、悲しみながら生
き続けています。み国の民が、なぜ自分たちの国ではない国で、
いつまでも旅人として、寄留者として生活しなければならない
のでしょう。



  それは私たちがこの世に遣わされているからです。私たち
は悪魔の支配するこの世から召し出され、神の国に入れられた
にも拘らず、改めて、使命を与えられてこの世に送り返された
者なのです。パウロは、私たちが和解の務めあるいは和解の言
葉を任せられていると語ったとき、私たちはキリストの使者で
あるとも言っています。この使者という言葉は大使とも訳され
たりしていますが、もう少し強い意味の「全権大使」、あるい
は「代理」と訳すべきだという人がいるほどの言葉です。また
パウロは同じ文脈で「キリストに代わって、あなた方に願いま
す」と言って、自らがキリストの代理であることを示していま
す。ここには、遣わされているということについての言及はあ
りませんが、思想の背景として読み取ることができます。



  教会が遣わされているという事実をもっとも明快に示して
いるのは、キリストご自身のお言葉です。キリストは大祭司の
祈りと言われる有名な祈りの中で、「あなたが私を世にお遣わ
しになったように、私も彼らを世に遣わしました」(ヨハネ
17:18)と、父なる神に語りかけておられます。また甦り
の後、弟子たちに現れて「父が私を遣わしたように、私もあな
たがたを遣わします」(ヨハネ20:21)と、まったく同じ
意味のことを、直接お語りになっています。この時の弟子たち
はまだ教会とはなっていない弟子たちの集団で、いわば、胎内
の教会、生まれる直前の教会ではありましたが、キリストが未
来の教会について、また未来の教会に向けて語っておられたの
は明らかです。キリストは、召した者たちを、改めて、召し出
してくださった元の場所であるこの世に、送り返してくださっ
たのです。単に元いたところに戻したのではなく、使命を負わ
せて送り返してくださったのであり、派遣してくださったので
す。そういうわけで、私たちはいま、本来私たちが生きるべき
ところではない、「この世」に生きるようにされているのです。



  さらにキリストは、天にお帰りになる直前に、弟子たちに
命じておっしゃいました。「全世界に出て行き、すべての造ら
れたものに、福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15) 
教会は、生まれる前から全世界に派遣されているのです。マタ
イも昇天前のキリストのご命令を記録しています。「それゆえ、
あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」こ
れらのみ言葉は、ともに、教会が使命を与えられて派遣されて
いる事実を示しています。そしてその使命は、神の国の到来を
告げ、自分たちが受けた召しの祝福を他の人々にも伝えていく
ことです。










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2010年10月14日

教会について 2−E

p23〜28


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V. 教会の一生



  ここでは、神の贖いの歴史の中における教会の一生につい
て考えてみましょう。いわゆる教会史とは異なる、神の贖いの
ご計画とその計画の遂行の中で、教会はどのような存在なのか
を探る試みです。



A. 教会の起源



  ある意味で、教会は生まれる前から存在したものです。そ
れは単に、やがて発展して教会となって行った、運動や組織や
集団が存在したという意味ではありません。



1. 大初から


 
  教会は、天地が造られる前から、お造りになった神のみ心
の中に存在していました。(エペソ1:4−11) 引照とし
てあげたエペソ書の部分には、直接「教会」という言及はあり
ませんが、教会について語っていることは明白です。私たち、
すなわち個人個人としての私たちに留まらず、キリストの体を
形成する者として召された私たちは、み前で聖く傷のない者に
されるために世界の基が置かれる前から選ばれ、(V4) 神
の子とされるために定められていたのです(V5)。それは、
神があらかじめお立てになったご計画に従ってのことでした。
(V9、11、ローマ8:28−30)


  
  従って教会は、神の贖いの歴史の途中から、状況の変化に
応じて考え出された対応策として出現したものではありません。
始めから神の贖いの歴史の中に組み込まれ、重要な役割を与え
られ、時が満ちて(エペソ1:10)ご計画の遂行として登場
したのです。



2.神の栄光をほめたたえるため 



  神の天地創造は、ご自分の栄光を現すために行われました。
贖いのみ業もまた、終局的には神の栄光を現すものです。同じ
ように、教会も神の栄光を現すことがその究極の目的とされて
います。教会は信徒たちの自己目的のために、人為的に作り上
げられたものではありません。その存在と活動のすべてをかけ
て、神の栄光を現すために計画され、建てられているのです。



  教会は、自分たちに課せられた最大の役割は神の栄光を現
すことであることを、しっかりとわきまえて活動しなければな
りません。教会が教会自体の栄誉や名声を求めたり、その中の
個人が、自分たちの名誉や知名度を誇ったりするようなことが
あってはならないのです。神の栄光を現す器として立てられた
ものが、自らの栄光を追求するのは大きな罪だからです。


    
  教会はその存在と活動のすべてをかけて、神の栄光を現す
のですが、教会にしか出来ない、すなわち、他のどのような被
造物にも出来ないような方法で、神の栄光を現すことが定めら
れていえます。それは、ほめたたえる」という行為です。(エ
ペ1:6、12、14) ただほめたたえるということならば、
自然と呼ばれる被造物たちにも、(詩96:11−12、イザ
55:12)み使いたちにも可能です。多分、み使いたちの歌
う賛美はあたかも純正和音で作られた曲のように、透き通り澄
み切って、この上なく美しいことでしょう。しかし、贖い出さ
れた者としての感謝と喜びを持ってほめたたえることができる
のは、小羊の血潮に罪を清められた教会だけです。夫であるキ
リストに愛の歌を歌うことができるのは、夫自らに血の代価を
もって贖いだされ、花嫁と定められた教会だけなのです。(黙
15:3、4) それはみ使いたちの歌う歌声ほど美しくはな
いかもしれません。しかしそれは、低音の恐ろしげな響きが高
音の美しい音色を際立たせ、要所要所に組み込まれた不協和音
が圧倒的な盛り上がりを作り出す、悲惨な罪の奴隷の生活を経
験した者だけが歌い上げることができる、喜びの歌声なのです。


  
3.恵みの器として



  神の贖いのご計画の中での教会の設立は、イスラエル民族 
に代わる「別の農夫たち」、「神の国の実を結ぶ国民」、「他
の人たち」として、イスラエル民族に与えられた使命を、引き
継ぐ役割を与えられた集団の設立でした。(マタ21:33−
46、マル12:1−12、ルカ20:9−19) キリスト
はこの悪い農夫の譬えの中で、イスラエルという言葉も教会と
いう言葉も用いていませんが、イスラエルと教会の関係につい
て述べられたということは明らかです。イスラエル民族は神の
恵みの器としての自らの役割に気付かず、ただ、自分たちが神
の祝福の民であるという事実に酔いしれて、特別な選民意識を
持って他国民を軽蔑し、神の祝福を全民族に及ぼすという、先
祖アブラハムを通して与えられた任務を、放棄してしまってい
たのです。
 


  注目すべきことは、キリストが教会の誕生以前から、神の
贖いの歴史における教会 の役割について、明確に語っておら
れたという事実です。イスラエルの失敗をあらかじめ知ってお
いでになった神は、イスラエルに代わるものとしてあらかじめ
教会の設立を想定しておられたのです。キリストがこの世界に
来てくださったのは、ただ代償の死をもって人類に救いをもた
らすためだけではなく、その代償の死がもたらす祝福を全人類
に分配していく、弟子たちの集団を作り上げるためだったとい
うことについては、先に述べた通りです。キリストがこの物語
をお語りになった時点では、教会はまだ存在していませんでし
たが、キリストは予言としてお語りになっているのです。 



  教会が、イスラエルに代わる神の恵みの器として立てられ
ているという事実は、ペテロの言及によっても明らかです。
(Iペテ2:9) ペテロは、教会が「選ばれた種族、王であ
る祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」であると語ってい
ますが、これらの呼称はすべて、イスラエル民族に与えられて
いたものです。(イザ43:20−21、61:6、66:
21、出19:6、申7:6) ペテロはさらに続けて、教会
に与えられた役割が、神のすばらしい救いのみ業を語り伝える
ことであると語って、教会が、恵みの器としてのイスラエルの
役割を引き継いだものであることを教えています。



B. 教会の胚芽



  教会は突然出現したものではありません。どこからともな
く忽然と姿を現したのでもありません。キリストが注意深く育
てておられた、弟子たちの集団から教会へと成長発展して行っ
たものです。



  キリストは確かに罪人の身代わりとなって死ぬために、こ
の世界においでになりました。しかし、キリストはその公生涯
の時間と労力の大部分を、弟子を作るという働きに費やされた
のです。その公生涯のごく始めに、キリストは弟子になるにふ
さわしい人物を見つけ出す働きに着手されました。それから見
つけ出した候補者たちを注意深く観察しながら訓練し、訓練し
ながらもさらに他の候補者たちを見つけ出しています。ご自分
に従って来た多くの人々の中から、将来の共同体の核となり、
土台となり(エペ2:20)指導者となれる資質を持った者た
ちを探し出すために、さまざまな訓練と試みを与えて評価し、
さらに徹夜の祈りをもって12人の弟子を選出しています。そ
してこの12人の中心であったペテロの告白を賞賛して「この
岩の上に私の教会を建てる」とおっしゃいました。この時キリ
ストはアラム語でお話になっていたのか、ヘブル語でお話にな
っていたのか、あるいは、70人訳の言葉を用いてエクレシア
とおっしゃったのかは不明ですが、マタイは霊感を受けて、キ
リストの言葉をギリシヤ語でエクレシアと書き残したのですか
ら、キリストは教会を意味していたはずです。

  

  ですから、キリストがお与えになった訓練は個々人の弟子
としての訓練を超えた、将来お建てになる教会の胚芽としての、
弟子たちの一団の訓練だったのです。ひとりひとりの人間は、
それぞれ個人としてキリストの招きに応じました。しかし、キ
リストは彼らを、キリストに従う一団の中に入れ、その一団に
対して特別な倫理をお与えになりました。それは、古い律法に
対する新しい律法であり、自分自身を愛するように隣人を愛す
ることに対して、キリストが愛してくださったように互いに愛
し合うことでした。これはあくまでも「互いに」という相互愛
の命令、すなわちキリストに従う者たちが作り上げる一団への
命令であり、単にキリストに従う個人への命令ではないのです。



  もちろん、キリストに従った者たちが、キリストのそのよ
うな意図を理解していたわけではありません。多くの者はあく
までも個人としてキリストに従っていたことでしょう。しかし、
キリストの訓練は、明らかに共同体を想定していたのです。こ
のようなキリストの意図がもっとも明白に表されているのは、
多分、ヤコブとヨハネの母が、自分の息子たちをそれぞれ右大
臣と左大臣にしてほしいと願い出た時の、キリストのお答えの
中ではないかと思われます。そこにおいてキリストは、この世
の人々の組織管理の形を神の国の中に持ち込んではならないこ
と、すなわち、神の国の中での管理のあり方は、この世の人々
の管理とは異なることを説明しています。キリストは弟子たち
が作り出す、神の国の共同体、教会を想定して語っておられた
のです。(マタイ20:20−28)



  キリストは、ご自分の弟子の一団にやがて誕生する教会を
見ながら、教会にとってもっとも大切な働きと機能を、実践を
通してお教えになりました。互いに愛し合う共同体として存在
するために、許し合い、受け容れ合い、謙遜を持って仕え合う
ことを教えになり、キリストのお与えになった権威と聖霊の力
によって神の国の到来を宣言し、人々を悪魔の力から解放し神
の国に迎え入れていく働きを、具体的に教示して行かれたので
す。そして、ご自分の死が間近に迫ってきた時に、改めて全世
界の宣教をお命じになり、さらに別の助け主である聖霊の存在
を明らかにし、ご自分がこの聖霊を通していつまでも彼らと共
にいてくださることを約束してくださいました。



  このように考えて行くと、キリストが洗礼をお受けになっ
たという事も、今まで言われていたように、単に罪人たちと同
じになってくださったということだけではなく、やがて形作ら
れる教会の頭となるべくして、洗礼をお受けになったのではな
いかと考えられます。キリストは教会の頭ですが、この頭とい
う言葉は、体全体を支配し動かす権威ある部分と言うよりも、
最初の部分という意味合いが強いのだそうです。それはパウロ
の言う、キリストが「長子となられるため」という意味にも通
じるものです。(ローマ8:29)



C. 教会の誕生  



  一般的に、教会が誕生したのはペンテコステの日であると
考えられていますが、異論がないわけではありません。伝統的
なプロテスタント教会の中には、旧約のイスラエルの民は教会
であったと主張する人々もいます。いささか自分たちの理論に
溺れ、聖書の語っていることを公平に読み取ることを怠った結
果と言えます。また、強いデイスペンセーション(時代真理)
神学を採る人たちは、それぞれの主張に合うように、教会の誕
生を使徒の働きの8章や13章あるいは28章などに置くよう
ですが、これにはかなり無理な「読み込み」の聖書解釈が必要
になります。またペンテコステ系には、自分たちの聖霊のバプ
テスマの神学に都合が良いように、聖霊の内住に始まる教会の
誕生を、ヨハネ20:22に記されている、甦りのキリストが
弟子たちに息を吹きかけられて「聖霊を受けなさい」とおっし
ゃった事に求める人たちがいます。この時にすでに聖霊の内住
があったのだと解釈すると、ペンテコステの日の聖霊の降臨は
聖霊のバプテスマの経験だけであり、聖霊のバプテスマの経験
は新生の経験の後に起こると主張する、伝統的ペンテコステ神
学に合致するためです。しかし公平に見て、ギリシヤ語文法を
論拠にしたこの主張も、聖書の全体的な学びからするとかなり
無理があると言わざるを得ません。



1. キリストによって建てられた



  教会はキリストによって建てられたものであり、人間の創
意や工夫の産物ではありません。(マタイ16:18) ある
いは能力のある人物や、人々の集団が合意によって建て上げた
ものでもありません。人間の建てたものならば、倒れることも
あるでしょう。しかし教会はキリストご自身がお建てになった
ものであり、どのような力、たとえ悪魔の力をもってでも、こ
れを倒すことは出来ません。キリストの権威と力と誠実さが、
教会の拠って立つところです。パウロは、キリストが教会の土
台であるという表現で、このことを語っています。(Iコリ3:
11)



  キリストが「建てる」とおっしゃった時点で、教会の設立
は未来に関することでした。従って、旧約時代のイスラエルの
民は教会であったという考え方は、このキリストのみ言葉と調
和しません。たとえ70人訳が、イスラエルの民を指すカハー
ルという言葉をエクレシアと訳していたとしても、またその訳
をヘブル書の著者が引用していたとしても、(ヘブル2:12)
さらに、祝福の器として神に召されたイスラエルと、同じく祝
福の器として神に召された教会の共通点を列挙し、カハールの
後期の意味が神に召されたイスラエルの会衆という意味を強め
たとしても、それをもってイスラエルの民は旧約時代の教会で
あったと断定するのは、理論の飛躍です。



  キリストは「私の教会を建てる」とおっしゃって、教会が
「神の民」であるイスラエルとは異なる、「キリストの」と呼
ばれる新しい民、新しい集団であることをお示しになりました。
パウロは、しばしば教会を「奥義」という言葉で表現していま
すが、彼の言う奥義とは、パウロの時代までは隠されていて、
公には示されていなかった神の贖いの計画のことですから、教
会は旧約のイスラエルではあり得なく、あくまでも新約の時代
の贖われた人々の集団であり、贖いの業に参与する集団なので
す。教会はイスラエルではなく、すでに学んだように、イスラ
エルの民に取って代わる新しい民なのです。(マルコ12:1
−12) 確かに教会は旧約のイスラエルの性質、資質、あるい
は特権を継承していますが、教会自体が旧約のイスラエルの継
承ではあり得なく、ただ、旧約のイスラエルに与えられていな
がら、与えられたイスラエルが理解しなかった、神の救済のご
計画を実現する共同体として、教会は建てられているのです。









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2010年10月15日

教会について 2−F

p28〜36


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2.聖霊の宮としての教会

  ペテロの説教によると、「キリストは甦って天に昇り、神
の右に挙げられ、約束の聖霊を受けて、その聖霊をお注ぎにな
りました。」 それがペンテコステの日の出来事です。(使徒
2:33) この日以前にも聖霊はキリストと共に働いておら
れましたが、弟子たちにはまだ与えられてはいませんでした。
聖霊は、キリストが栄光をお受けになってから注がれる定めに
なっていたからです。(ヨハネ7:39) 弟子たちの一団が
教会と認められるようになったのは、キリストが栄光をお受け
になった、すなわち甦って天に昇られた後であり、栄光のキリ
ストによって遣わされた聖霊が教会を宮としてお住みになった
時、すなわちペンテコステの日の聖霊降臨の時とするのが、や
はり最も妥当であると考えられます。教会が単なる「人々の集
団」と本質的に異なるのは、人間が目的や意識を共有すること
によって作り上げる共同体ではなく、聖霊の宮として聖霊に住
んでいただくことによって、文字通りキリストの命の流れる有
機的共同体、有機体となるということなのです。その聖霊の内
住によって、教会は神とキリストと聖霊の交わりを得、その交
わりによって神からの新たな命をみなぎらせることが出来、信
徒相互の命に生かされた交わり、すなわち有機体としての交わ
りが可能となるのです。聖霊がお住みにならないのならば、教
会は単なる人間の集まりに過ぎません。それは共同体であるか
も知れません。しかし真の意味での共同体、すなわち命を共有
する有機的共同体とはなり得ないのです。



  肉体をとって人となってくださったキリストご自身が、訓
練なさっていた時の弟子たちの一団は、その訓練がキリストの
権威と力によるものであって、いかに優れていたとしても、あ
くまでも神のみ姿を捨てて人となられたキリストの訓練であり、
本質的には人間が人間を訓練する訓練と異なるところはありま
せんでした。それは、目的と心がけをひとつにする人間的集団
に過ぎなかったのです。しかしこの集団が、神そのもののみ姿
を持ったままの聖霊の内住を得て、神的起源と内容を持つ、霊
的有機体としての教会、キリストの命を宿す有機体となったの
です。



3.使徒の働きの「教会」の用例 



  使徒の働きの中で「教会」という言葉が最初に用いられて
いるのは、アナニヤとサッピラの物語においてであり、この時
点で、弟子たちの一団はすでに教会としての自覚を持っていた
ことを、うかがい知ることがます。(使徒5:11) 従って、
キリストが「私の教会を建てる」と宣言されたときから、この
アナニヤとサッピラの物語の間の数年間に、教会の誕生があっ
たと結論することができ、ペンテコステの日の教会誕生という
考え方と矛盾しません。



D. 教会の成長



  一般に教会の成長というと、教会成長学派の影響で、管理
上の個教会の人数や、経済の成長ということに目が向きがちで
すが、聖書は、そのような意味での成長とは幾分次元の異なる、
教会の成長について語っています。



1.質的な成長  



  質的な成長とは、一言でいうと、教会の信徒ひとりひとり
が、しっかりとした信仰に立って生きることです。キリストを
信じる信仰によって新たに生まれたという霊的事実を、しっか
りとわきまえて毎日の現実の生活の中で、具体的に表現して行
くことが出来るようになることです。パウロは、「もし・・・
御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではあり
ませんか」と語っていますが、(ガラ5:25) パウロの言
うことは、「私たちはいまや御霊によって生きているのだから、
その事実を現実に生かして行こうではないか」と言うことです。
古い自分に死んで新しい自分に生きているという霊的事実を、
日常の生活の中で明らかに現して行こうと言うことです。それ
は、神を神として生きることです。神に神としての尊敬をはら
い、感謝をささげ、あらゆる面で神に喜ばれる生き方をしよう
とすることです。神をすべてのすべてとして生きることです。



  生まれたばかりのクリスチャンは、実にひ弱な存在に見え
ます。しかし、聖霊を命として内に宿しているこの赤子は、や
がて立派な大人になる潜在能力を内に秘めているのです。その
能力を、内に住んでおられる聖霊の励ましによって現して行く
ことが大切です。そしてその潜在能力はあらゆる方面に現され
るものです。



a.聖書知識においての成長 



  質的な成長として、先ず基本として、聖書知識における成
長がなければなりません。あらゆる霊的な事柄の知識は、霊感
を受けた書物である聖書に基づくものですから、聖書の知識な
しには正しい意味の成長はあり得ないのです。神についての知
識、キリストについての知識、聖霊についての知識、人間につ
いての知識、神の救いの計画についての知識、贖いの知識、信
仰の知識、救いの知識、神に仕えることの知識、聖い生活につ
いての知識、永遠の命についての知識、神の国についての知識
など、すべてが聖書にも基づくものであり、聖書の教えから離
れた知識はあり得ないのです。ですから、教会が成長するため
には聖書の学びを重んじなければなりません。人間は知・情・
意という三つの要素を持っているそうですが、まず、知におい
てしっかり成長する必要があります。



  しかし聖書の知識は、主知主義的な学びによって得られる
知識だけの成長ではありません。聖書の知識というものは、一
般の文学や学問の書に対するような態度を持って学ぶべきもの
ではないのです。なぜなら、聖書に記されたキリストのお言葉
が示すように、聖霊が私たちを教えてくださるからです。霊感
をもって聖書を書かせてくださった聖霊が、今、私たちと共に
いてくださって、その聖書を私たちに解き明かそうとしてくだ
さっていることを、悟らなければなりません。私たちの聖書の
学びは、この聖霊の照明の助けがなければ、まったく不完全な
ものとなるのです。ですから聖書の学びは、というより、聖書
を読む時はいつでも、聖霊の解き明かしを求める祈りと瞑想を
もって、始めるべきなのです。み言葉を前にする時は必ず、聖
霊の助けを祈り期待すべきなのです。このような聖書の学びを
通してのみ、正しい信仰の成長が現れるのです。(ヨハネ14:
26、15:26、16:13−15)



  また、聖書の学びの方法にはいろいろありますが、目的は、
聖書の語っていることを学び取ることです。そのためには気を
つけなければならないことがたくさんありますが、主なものを
いくつか挙げてみますと、まず、聖書に素直に聞くという態度
を持つことです。多くの人たちが聖書を読み取る代わりに、聖
書に自分たちの考えや主義主張を読み込んでしまっています。
言い方を変えると、聖書の言っていることを素直に学ぶのでは
なく、聖書を利用して自分たちの主義主張を訴えているのです。
神学者たちは自分の継承した神学を擁護しようと、聖書が語っ
ていないことを聖書に語らせようとします。牧師たちは自分の
平和思想や政治の信条を聖書に語らせようとします。信徒は自
分に都合の良い「み心」を、聖書をもって証明しようとします。
とても残念な事実です。この様な態度では決して聖書を正しく
理解することは出来ません。



  次に、聖書を細切れにして読まないで、あるいはあちこち
と探り読みをしないで、ひとつの書をしっかりと読み通して、
書の語っていることを理解することです。それは1節や2節だ
けを引き出して前後の関係を無視して解釈する弊害を少なくし
ます。前後関係から切り離された解釈は、非常に誤りに陥りや
すいのです。確かに聖書は一貫した書物ではありますが、40
人ほどの言語も文化も異なる人々が、1600年もの期間をか
けて書き上げた、別々の書物をまとめたものです。書物の性格
も形式も異なっています。そのようなことをみな無視して、拾
い読みや探り読みをして繋げていくと、知らず知らずのうちに、
自分の好き勝手に聖書を用いることになってしまいます。これ
までの組織神学と呼ばれる学問の多くが、そのような欠点を持
っています。



  さらに、それぞれの書の書かれた時代と背景を考慮しなが
ら、理解しようとすることです。各書にはそれぞれの著作の理
由と目的があり、背景となった事情があります。それらに無知
なままでは、正しく理解することは困難だからです。聖書は現
代の私たちのために書かれた書物でありながら、あくまでも、
まず書かれた当時の読者を第一に想定して書かれたものです。
そのことを考慮に入れずに読んでしまうと、正しい意味に行き
着くことが出来ません。



  また聖書を学ぶという時、多くの信徒にとって原語で学ぶ
ことは不可能であり、当時の世界の社会情勢や背景を知ること
も容易ではありません。したがって、聖書についての補助的書
物も必要になってきます。自分ひとりだけで祈りながら聖書を
読むという態度は、非常に霊的に映りますが、実際は正しい方
法ではありません。聖書辞典、原語に関する参考資料、あるい
は歴史背景に関する資料などは、是非必要です。それだけでは
なく聖書注解や神学の書物も非常に大切であり、良い補助にな
ります。説教は「神の言葉」であるといいながら、聖書一書の
人であれなどとおっしゃる方々もいますが、聖書以外の書物を
読むなということは、説教も聴くなというのにひとしいことで
す。一般に、書物のほうが説教よりは内容が整っていますし、
間違いも少ないものです。



  聖書に関する資料には、当然間違いがたくさん含まれてい
て注意を要しますが、それでも教会の知恵であり教会の宝なの
です。自分のひとりよがりな聖書理解に陥らないために、これ
らの書物を読み、客観的な理解に到達するのが得策です。それ
でいながら、神の言葉はあくまでも聖書だけであることをしっ
かりと把握し、一書の人として聖書を学ぶことが大切です。プ
ロテスタントでは一般に聖書を大切にしますが、しばしばそれ
は印刷された書物としての聖書、物質としての聖書に取り替え
られてしまう傾向を持っていることに、注意をしておかねばな
りません。使徒パウロは、物質としての聖書、書物としての聖
書を、いつもすべて持ち歩いていたのではなかったことを、思
い起こすべきです。パウロは彼の心の中、また記憶の中にしっ
かりと聖書を持ち歩いていたのです。



b.神との関係においての成長



  質的な成長は聖書の知識の成長だけではありません。聖書
の知識と共に、また、聖書の知識に立った神との交わりによる、
具体的な体験的知識も大切です。もしこの知識がなくなると、
クリスチャンの成長は未信者の聖書学者の、知的水準の向上と
同じことになってしまいます。



  クリスチャンの成長は、神体験の成長です。まじめな信仰
を持って聖書を読むということ自体がひとつの神体験ですが、
その聖書に立って行動することによって、日々の生活の中で強
く神を体験し、深く神を知ることになるのです。神に信頼し祈
り、称え、神を中心にした生き方をしていくと、内に住んでく
ださった聖霊が働き、とりなしてくださり、神との交わりを濃
にしてくださるのです。そしてその交わりの体験が、たとえば
生活態度の変化だとか、考え方の変化だとか、人間関係の変化
だとか、あるいは肉体の癒しだとか、あるいは必要に応じた助
けというような体験が、聖霊の証印あるいは聖霊の初穂と呼ば
れる宝として、クリスチャンの中に蓄えられて行くのです。神
は人間と同じように人格(神格)を持っておられる方ですから、
お付き合いと交わりによってこそよりよく知られるのです。私
たちは祈りと信仰の行為によって、神を知っていくのです。神
についての知識が聖書によって養われ、その知識に基づいて信
仰を通して神と交わると、さらに、単なる頭の知識としての神
を知るのではなく、人格者としての神を理解して行くようにな
るのです。



  このようにして神を知ると、神に喜ばれたいという気持ち、
神のお役に立ちたいという願いが起こり、神を知る程度に応じ
てその気持ちと願いが強くなって行きます。そして、自分は虫
にも劣り、救いに値しない罪人であることを、み言葉とみ言葉
を実践しようとする行為を通して、強烈に自覚するのです。幼
子が自分ひとりでは生きていけないということをしっかり知っ
て、親に頼って生きる以外はないと本能的に悟っているように、
自分も神に頼って生きる以外に道はないと知って、ますます信
仰の心を定めるようになります。幼子のようにならなければ、
神の国に入ることは出来ないからです。このようなことが明確
になると、私たちの世界観、価値観、人生観が変わり、パウロ
のように、生きるにしても死ぬにしても神の栄光のためという、
徹底した生き方が出来てきます。それは、日常の生活の中でも、
教会生活の中でも、あらゆる局面で、神に喜んでいただけるよ
うな生き方をしたいという、切実な願いとなって現れてきます。
そしてそれは、神の御栄光のために、積極的に自らを奉げて行
く行動を生み出し、神の贖いを通しての救いの御計画に、自分
自身を投じて行くことになって行きます。自分の幸せのための
信仰から、神の御心のままにお仕えする信仰に変わることです。



  しかし、神の御心のままにお仕えする信仰とは、牧師の言
うことにすべて「ハイ」と答えて従う者になることではありま
せん。多くの牧師が、自分の言うことに従順な信徒を作り上げ
て喜んでいますが、それは牧師に従順なだけであって、本当の
意味で成長したクリスチャンではありません。成長したクリス
チャンとは神の御前におけるひとりの人格として、自分の考え
と行動に責任を持って生きることです。自分の選択と決断に責
任を持てる人間になることであって、自分の選択を放棄するこ
とではありません。牧師にただ従順なだけの信徒は、神の御前
におけるひとりの人間としての責任を放棄しているのです。



  教会が牧師の指導に従うことは悪いことではありません。
多くの場合良いことでしょう。しかし、あくまでも聖書の教え
に立って、ひとりの人間としての責任を担った、信仰の決断を
することが前提です。自分の責任で聖書を読み、聖書を理解し、
聖書の教えを実行する能力を身につけることです。それが、牧
師の言うことに従うことと同じであるならば、それでよいので
す。ところが、牧師の言うことに盲目的に従う信徒が意外に多
いのです。それは信仰ではなく洗脳です。牧師の言うことを、
聖書の教えに立って判断できる信徒を育てるのが、牧師の働き
の醍醐味です。牧師の言うことに対して、反対のための反対で
はなく、聖書の教えに立って、堂々と反対の論陣を張ることが
できる信徒が現れることが、牧師の本当の願いでなければなり
ません



  あるいはまた、成長したクリスチャンとは、いわゆる「ノ
リノリ」のクリスチャンになることでもありません。ペンテコ
ステ系の教会の特徴のひとつは、非常に感情的であることです。
人間は「知・情・意」を持っています。信仰は全人格に関わる
事柄ですから、当然、知・情・意のすべてに関わります。した
がって感情的であることは決して悪いことではありません。か
えって、感情のない信仰は信仰ではありません。私たちは情熱
にあふれた信仰を持ちたいものです。大いに感情的でありたい
ものです。しかし感情に流されることは間違っています。それ
は「知」を疎んじ「意」を忘れることであり、人間としてのバ
ランスを失ってしまうことだからです。



  ところが実際には、私たちの教会の中では、ある種の作為
的な感情操作が行われる場合があることを、認めないではおれ
ません。たとえば大衆伝道などでは、大音響のPAシステムを
用いて扇情的な音楽を流し、知よりも情に訴えて、信仰の決心
をうながす場合がよくあります。また、礼拝会やその他の「恵
まれる集会」では、音楽や照明が扇情的に用いられます。出席
者たちがリズムに乗り、手拍子に乗り、足踏みに乗り、PAシ
ステムを通した大音響に陶酔していくのを見ると、違和感を持
たざるを得ません。信仰に伴う感情が自然に盛り上がって、あ
ふれ出るのは大いに結構です。しかし主催者側が、予めそのよ
うな状況を作り出そうと操作をすることには、絶対に反対しな
ければなりません。このような状況からは、ひとりひとりの信
仰の知的考察、知的選択、知的決断が忘却のかなたに置かれて
しまうのです。すると、そこに残るのは、大衆心理の感情的流
れです。そのような所で形成された「信仰」は、大衆の感情に
乗った信仰、いわゆる「ノリノリ」の信仰であって、本来の信
仰のあり方から遠いものです。それは信仰と言うよりはむしろ、
大衆洗脳です。政治的にはヒトラーやスターリンが用いた手法
であり、宗教的には多くのカルト集団が行っていることです。
儲けを主眼とするショー・ビジネスでは、きわめて一般的に用
いられている手段です。このような「ノリノリ」のクリスチャ
ンをたくさん作り出すのが、成長させることでないことは言を
待ちません。ところが実際上は、このようなノリノリのクリス
チャンも活発に活動し、献金もし、伝道もするために、牧師た
ちはつい、このような作為に手を染めてしまうことになり、そ
れが習慣的になり、それを弁護するようになるのです。



  結局、信仰者として成長するということは、神の御前にお
けるひとりの人間として、神との関係において、自分の力で考
え、選択し、決定し、その考え、選択、決定、そしてその結果
に対して責任を持つ者になるということです。これは民主主義
の基本となる考え方とよく似ています。いわゆる個人としての
自覚、個人の確立です。民主主義では、すべての人間には人間
としての尊厳があるということを前提として、その人間として
の尊厳を自らの中に認めて、自己の責任で考え、選択し、決定
し、その結果にも責任を持つということです。また互いにその
ような決定をする個人を尊重しあうということです。それは基
本的人権に属すことであると言われます。



  しかし信仰者としての個人の確立は、個人の尊厳にあるの
ではありません。現代の神学者たちはしばしば近代ヒユーマニ
ズムに影響されて、神のみ姿に似せて造られた人間としての尊
厳を基本に、人間の尊さを語りますが、人間の尊さは神に似せ
て造られたところにあるのではありません。なぜなら人間は、
罪のためにその尊厳を失い、もはや神に愛される価値を失って
しまったからです。人間が大切な価値ある存在であるというの
は、そのように、本来与えられていた神に似たものとしての尊
厳を失ってしまったにもかかわらず、神の愛の対象とされてい
るという事実にあるのです。神に愛される価値を失っているに
もかかわらず、なおも愛されているからこそ、神の愛は恵みな
のです。恵みとは受けるに値しないものが受ける愛のことです。
クリスチャンが、神に似せて創造された人間の本源的な尊厳を
主張すると、神の人間に対する愛は「恵み」ではなく、愛され
る価値のある者が当然のこととして愛されるだけのことになっ
てしまいます。


 
  私たちは、本来愛される価値を持っていないにもかかわら
ず神の愛の対象であるという事実、神に愛されているという事
実をしっかりと把握し、神の愛の対象としての自分の価値を自
覚しなければなりません。また、同じように神の愛の対象であ
る、他人の価値を尊ばなければならないのです。この、神に愛
されている自分の価値に目覚め、神のみ前にひとりの人間とし
て自由と責任を与えられているということを、しっかり理解し
て行動するようになることが、クリスチャンの成長です。この
ような中から、自らの選択として神に従うことを選び、神に受
け入れられ、神の栄光となる生き方をしようとするのが、成長
の証です。



  ですから、たとえば、教会全体が燃え上がって熱い信仰を
持っていることは素晴らしいのですが、その教会からひとりだ
け遠くに離れて住むようになると、火が消えてしまうようでは、
本当の意味で成長した信仰ではありません。まだまだ他人の信
仰に頼った信仰だからです。現代風の賛美でノリノリになって
いるときは燃えていても、歌も自由に歌えないような迫害の中
では、燃え上がらない信仰はまだ弱々しいのです。個々のクリ
スチャンが、牧師に指導されたからではなく、教会決議があっ
たからではなく、教会全体がノリノリになったからではなく、
神に愛されているひとりの人間として、考え、選択し、決断し、
その結果に責任を持つことが大切なのです。



  特に、クリスチャン生活の中には、聖書に直接教えられて
いないような問題に直面し、聖書には明確な答えが示されてい
ない選択を迫られることがあります。成長していないクリスチ
ャンは、牧師に考えてもらおうとします。牧師に相談をし、意
見を聞くのは良いことですが、考えることも選択することも牧
師に任せ、その責任を牧師に転嫁するのは間違っています。あ
るいは、教会が声明を出すべきだとか、教会としての判断を明
確にすべきだなどと言い出すのも誤りです。聖書に明確に教え
られていることに対して、教会が声明を出すのはかまいません。
「私たちは平和のために祈ります」、「私たちは敵のために祈
ります」というのは結構です。しかし私たちは「自民党に反対
します」、「憲法改正に反対します」、「自衛隊に反対します」
というのは、聖書の直接的な、あるいは明確な教えとしては出
てこないのです。したがって、共同体の教会としてそのような
スローガンを掲げてはならないのです。そのようなことについ
ては、それぞれのクリスチャンが確立した個人として、神のみ
前における信仰と良心をもって、責任をもって考え、決定し、
行動しなければならないことなのです。それができるようにな
ってこそ、成長したクリスチャンなのです。



  日本人は常に共同体感覚の中で生きてきました。自己の確
立ということが叫ばれて久しいのですが、まだまだとてもそれ
ができるような状態ではありません。個人の大切さや個人の価
値ということがまだ認められていないのです。また、認められ
ては困るような生き方をしているのです。なぜなら、それは個
人としての責任が求められるからです。たとえば、癌の告知な
どは、個人の確立が前提とされる文化のアメリカなどでは当然
のこととして行われます。人間は一個の人格として、事実に直
面し、それに対応する責任を持っているからです。と言うより、
先ず、自分に関する事実を知ることは、自分の権利であり、そ
の権利は何者によっても犯されてはならないからです。ひとり
の確立された人間として事実に直面して生きるのは、権利であ
ると共に義務なのです。ところが共同体文化の日本では、ある
いは日本的共同体感覚の中では、事実に直面させるのは「酷だ
から、かわいそうだから」と、事実を隠しておくのです。「知
る権利」と「対面する義務」を、思いやりをもって奪ってしま
うのです。このような甘えの共同体の中では、事実を事実とし
て伝えることが、愛のない行為、思いやりが足りない行為とし
て非難されるのです。確立した個人は、それが良いことであろ
うと悪いことであろうと、事実に直面する義務と権利を認めて
対処するのです。



  クリスチャンとして成長するということは、神の愛と義に
身をゆだねて、じたばたせずに、「はい」ははい、「いいえ」
はいいえとして、画策しないことです。神にゆだねるのですか
ら、クリスチャンは一般のヒユーマニストや一般の民主主義者
より、さらに確立した自己を持つことができるのです。「すべ
てのことを互いに働かせて、私たちのために良くなるようにし
てくださる神」を信じているからです。ところが日本において
は、教会の中で、あるいは牧師たちの間でさえ、事実を事実と
して認められず、また、事実を事実として語ることができず、
隠したり誤魔化したりしなければならないことが非常に多いの
です。「臭いものには蓋」、「見ざる聞かざる言わざる」「物
言えば唇寒し」の文化が、まだ、「はい」ははい、「いいえ」
はいいえの、聖書の教える素朴な神信仰に勝っているのです。



  本当のクリスチャン信仰の成長は、神のみ前におけるひと
りの人間として、自分の生き方に責任を持つことです。思いや
りという名の甘えを、自分に対しても他者に対しても認めない
ことです。なぜ他者に対しても認めてはならないかというと、
それは他者の人権を侵すことだからです。そしてまた、そのよ
うな感覚が「身内」の中の不祥事の隠蔽に繋がるからです。そ
れはたちまち社会的な犯罪となる性質のものです。



  またこのように、神のみ前における責任ある自分と言うも
のを自覚して生きる人間は、当然のことながら、人間関係にお
いても神のみ前に生きる責任を自覚することになります。人間
関係においても、神に喜ばれる生き方をしようと努力するので
す。損得を考えずに誠実に付き合い、犠牲を厭わずに愛し、他
人の口を気にせずに真実を語るようにされて行くのです。神を
知る知識と神に対する信仰の成長は、信徒たちひとりひとりを
このように変えて行くのです。









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2010年10月16日

教会について 2−G

p36〜41




2.共同体としての成長

  しかし聖書が教える教会の成長は、個々人の信徒が質的に
成長することで留まってはいません。パウロはガラテヤの教会
に向けて、「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、
私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」と語
っていますが、(ガラ4:19) 信徒の共同体である教会が、
キリストの姿まで成長することこそ、パウロが心血注いで働い
た目的です。さらにパウロはエペソの教会に対しても同じこと
を強調して、ひとつの文節の中で、「キリストの体を建て上げ
るため」、「私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知
識の一致に達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ち
た身たけにまで達するため」、「私たちが・・・・・あらゆる
点において成長し、頭なるキリストに達することができるため」
と語り、最後に、「キリストによって、からだ全体は、ひとつ
ひとつの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備
えられたあらゆる結び目によってしっかりと組み合わされ、結
合わされ、成長して、愛のうちにたてられるのです」と結んで
います。(エペソ4:11−16) それは、信仰の成長だけ
でも知識の成長だけでもなく、「一致」への成長なのです。ま
たコリントの教会に対しては、「私はあなた方を清純な処女と
して、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにし
たからです」と語りました。パウロは「神の熱心をもって、熱
心に」、コリントの信徒たちが誤った教えに陥らないように、
あたかも、年頃の娘を持つ律儀な父親のように、警告をしてい
るのです。



  ここではっきりとわかるように、パウロが力をこめて語っ
たことは、共同体としての成長です。キリストのみ体である教
会とは関わりなく、個人として成長することではなく、あくま
でもみ体としての成長、共同体としての成長です。個々人の成
長が全体の成長のなかで行われ、個々人の成長が全体の成長を
促す成長です。それはまたパウロがIコリント12章で強調した、
互いに体の器官として痛みを共有し弱さを補い合って生きるこ
とです。(Iコリ12:1−31) このような意味から、パ
ウロは教会に対する最も許しがたい罪として、分裂を挙げてい
るのです。たとえひとりひとりの人間としてどのように立派に
成長したとしても、教会に亀裂を持ち込んでは何にもならない
のです。(Iコリ1:10−15、3:1−17)



  個人主義の哲学を背景とした神学によって育てられた私た
ちは、どうしても個人としてのクリスチャンの霊的成長、信仰
の成長、人間としての成長、人格の形成などに重きを置き、そ
こに注目します。ひと頃とても盛んだった教会成長学派が強調
した「弟子造り運動」も、個人の弟子化を目指しています。た
しかに、聖書は個人の成長もないがしろにはしていません。し
かし、もっと大切にしているのは、教会としての成長、共同体
としての成長です。弟子造りといっても、共同体としての教会
の存在を無視して、本来あるべき姿の弟子は絶対に造り得ない
からです。個人の成長が教会全体の成長の益にならないようで
あっては、有機的共同体である教会としては情けない状態なの
です。パウロがコリントの教会に向けて、あたかも異言の賜物
が程度の低い賜物であるかのように語っているのは、異言の賜
物というものは語る個人の得を高めはするが、解き明かしがさ
れない限り、共同体全体の益にはならないからです。パウロは、
共同体の成長を高く評価し、このときは特に共同体の益を強調
していたために、まず個人的な徳に繋がる賜物を低く見積もっ
たのです。パウロ自身が、自分という個人の霊的生活にとって
は非常に大切であると考えていた、異言を語るという素晴らし
い賜物も、それに伴う個人の霊的成長も、公同の集まりをして
いるときの教会全体にはあまり益にならないために、評価され
ていないのです。



  もう少し日常的な、卑近な例を挙げるならば、ひとりひと
りのクリスチャンたちがギャンブルをやめ、放蕩をやめ、酒を
慎み、言葉にも行いにも品格を漂わせることはすばらしいので
すが、そのように立派になっても、他の弱いクリスチャンたち
の困窮に無頓着だったり、まだ成長していないクリスチャンを
下して生きたりするよりは、そこまで立派にならなくても、ま
だときどきギャンブルをしていても、少しばかり放蕩癖が残っ
ていても、他のクリスチャンたちの弱さを思いやり、困窮を助
け、進んで彼らのために犠牲になり、そのためには自分のクリ
スチャンとしての成長さえ後回しにすることの方が、よほど素
晴らしいのです。



  さらに、質的な成長にはもうひとつの面があります。それ
は目的の共有です。ひとりひとりのクリスチャンが贖いのみ業
のために、また主の栄光のために生きる決心をし、自分のすべ
てを捧げることは素晴らしいものです。そして、そのようなク
リスチャンたちをたくさん見ることができるのは幸いです。し
かしもっと素晴らしく、さらに幸いなのは、主の贖いのみ業と
栄光のために、共同体として献身していくことです。自分たち
が召されたのは、ただ単に神の祝福をいただき、幸いな生き方
をするためではなく、祝福の器として主の救いのみ業を全世界
の人々に宣べ伝えるためであるという事実を、教会全体として
理解し、確認しなおし、そのためにすべての賜物、まさに千差
万別の賜物、種々雑多な賜物をことごとく動員していくことで
す。たとえ賜物の多くは直接宣教の働きに関わるものではない
としても、すべての賜物の積極的活用が教会全体を健康にし、
より強力にひとつの業、宣教の働きを推進していくことができ
るようにするのです。



  これはすなわち、教会全体としてキリストの生き方を自分
のき方とすることです。教会全体の中に主のみ姿が形造られ、
主が愛してくださったように互いに愛し合うと同時に、キリス
トの受肉の目的である罪人の救いを目的として生きていくこと
です。キリストが父によって遣わされたように、私たちもまた、
教会としてこの世に遣わされているのだという霊的事実をしっ
かりと把握して、その霊的事実を現実の生活の中に活かしてい
くことです。人生の重荷を取り去ってほしくてキリストの下に
集まっていた集団、自分の幸せを求めて神をさえ利用してきた
自己中心な者たちの集団から、神の栄光のために自分たちのす
べてを投げ出すことができる、神中心の人々の集団になること
です。そのようにして「心を新たにすることによって作り変え
られ」、教会という共同体の中での自分という個人の役割を明
確に理解して、すなわち、自分に対する神のみ心は何かという
ことをわきまえて、行動する人たちの集団となることです。
(ローマ12:1−8) 共同体としての教会の理解と献身が
なければ、主のみ心を正しく知ることは不可能なのです。
  


  また、このような成長は、人間の努力によっては不可能で
あるということを、わきまえておかなければなりません。教え
る側も教えられる側も、訓練する側も訓練される側も、人的な
努力と能力でこれを達成できるものではありません。新しく生
まれた者としての特質、すなわち聖霊の内住、「いっさいのも
のをいっさいのものによって満たす方」を宿していることによ
って、(エペソ1:23) キリストの命をあふれ漲らせてい
ただいて、はじめて可能となるのです。それは「信じるものに
働く神の全能の力の偉大さ」によってのみ達成されるというこ
とです。(エペソ1:19) 共同体の成長は、命の源である
ぶどうの幹に繋がり、幹からの命をしっかりと吸収することに
よって可能なのです。そしてひとつひとつの枝々が、幹からの
命によって生かされて作り出す養分は、幹に還元され、運ばれ、
さらに他の枝々の命とされていくのです。



3.地理的・量的な成長



  キリストは、誕生直前の教会に対して、「全世界に出て行
き」「すべての国民を弟子としなさい」とお命じになりました。
(マルコ16:15、マタイ28:19) また昇天を目前に
して、「地の果てまで」という表現を用いて、教会の地理的な
発展成長を使命としてお与えになりました。地理的成長はおの
ずから量的な成長に繋がります。教会は始めから全世界的広が
りを持つべき共同体として建てられ、その実現を目指して進む
ものです。教会が世界中にその姿を現すようになったのは、民
族や帝国の台頭、植民地主義や自由主義経済など、多くの要因
を背景としています。しかし、それらすべてを超えて、教会は
始めから全世界のあらゆる国民を対象として存在するものとし
て、すべての権威を与えられたキリストご自身によって創設さ
れたものであるという事実があります。


  また、ここで用いられている「国民」という言葉は、本来、
「民族」と翻訳するのがふさわしいと言われています。この事
実から見えてくるのは、教会は民族、国家、言語、文化などの
人為的あるいは人間的境界線を越える、超国家、超文化、超人
種、超言語的な集団、すなわち普遍的集団であるということで
す。教会は、その設立者によって、普遍的な存在としてもくろ
まれていたのです。国民と訳されている言葉が、本来は民族と
訳されるべきものだとすると、教会は単にすべての国家の中に
存在するだけでは本来の創立趣旨に到達しておらず、与えられ
た使命をまだ完全には遂行していないことになります。現代の
国家のほとんどは単一民族によってなるのではなく、多くの民
族が複雑に絡み合って存在するものだからです。キリストが果
たしてどのような意味をこめて、あとで「民族」と翻訳された
言葉を選択されたのかは、今となっては厳密に定義することは
不可能ですが、現代流に考えれば、単なる血族的な民族という
意味を超え、職業集団や階級集団なども含まれるべきだと主張
する人々もいます。



  ともあれ、教会はあらゆる人為的な境界線を越え、すべて
の人々の集団の中に存在して行くべきものです。これを人数的
な成長という面から見ると、まず、地域教会内の数的増大、特
定地域の中での教会数の増大、地域を越えた拡大、そして、民
族や国家を超えた異文化への拡大となります。また宣教戦略と
いう面から考えると、地域教会の設立という点的な戦略、それ
らの点を共同体意識でつなぎ合わせる線的な戦略、さらにその
線を面に変えて地域全体を覆っていく戦略が考えられるでしょ
う。その上に、飛び火的な宣教師の派遣ということも必要にな
るでしょう。そしてそれらすべてに、単なる表層的な福音の伝
達ではなく、人心の奥深く、文化の奥深くまで到達する浸透の
宣教が必要になるでしょう。



  このように考えると、教会はまさに和解の福音による和解
の共同体として、成長して行かなければならないことがわかり
ます。ただ、あらゆる民族の中に教会が存在するというだけに
終わらず、あらゆる民族の相違と抗争の歴史を超え、怒りと敵
意を終息させる、神の贖いによる和解を基とした和解をもたら
すものとしての存在を、明らかにして行けるように成長しなけ
ればならないのです。ですから、他民族に対する敵意を露にし
た民族主義的教会、他民族や他の言語集団あるいは社会層に対
する差別を露骨に示した孤立的教会などというものは、本来、
教会の存在理念に反するものなのです。パウロが和解の福音と
いう主題を取り扱ったとき、明らかにこのような和解を念頭に
置いていたのです。(エペソ2:11−22)



4.成長への二種類の活動



  教会にはその成長を促す2種類の活動があるように思われ
ます。それらの活動はまた、成長の当然の結果として現れてく
るものです。これらは、キリスト在世当時の弟子たちの活動の
中にも、また、使徒時代の弟子たちの中にも見ることが出来ま
す。それは、キリストに触れた者たちの自主的な、自然発生的
な活動と、目的化された組織化された活動です。



  キリストの噂が全土に広まったのは、キリストに接触した
者たちが、勝手におしゃべりをした結果です。誰に命じられた
のでも、教えられたのでもありません。彼らの中に生じた興奮
と期待、喜びと感動がそうさせたのです。サマリヤの女は、頼
まれもしないのに、自分がしていた恥ずかしい行為をわざわざ
持ち出してまで、キリストについて証して語りました。癒され
た者たちはキリストの命令に背いてまで、自分の体験を通して
キリストについて語りました。ところが、キリストはそのよう
な自然発生的・自発的証には満足せず、弟子たちを訓練し、組
織し、より明確な目的と活動指針を与えて派遣されました。



  同様に、使徒時代の教会も、多くの名もない信徒たちによ
る単純な証が、宣教の主な動力となっていました。彼らは、エ
ルサレム市内はもとより、サマリヤ人やエチオピアの宦官に対
する宣教、あるいはアンテオケを始めとする異邦人社会の中に
まで、福音を語り伝えています。歴史によると、ローマ教会も、
あるいはアレキサンドリアに早くから存在した強大な教会も、
どうやら信徒の自発的な宣教活動によって始められたものだと
いうことです。その一方で、聖霊はバルナバとサウロを異邦人
伝道のために召し、より明確な目的意識と方策をもった働きを
させています。そしてこの働きは、より効果的な活動を目指し
て、小さいながらも組織的形態を持つようになって行きました。



  また、教会内の愛の交わりという面でも、まず自然派生的
な任意の助け合いから始まって、必要に応じて組織化が行われ
ています。始めのうちはエルサレム教会内だけのものだったこ
の働きは、パウロによって、民族と国境を越えた働きに拡大さ
れて行きました。また、教会内の教育や管理という方面におい
ても、使徒たちの指導を除いては、個々人の自由な参画から始
まったと言える部分が多かったようですが、かなり早い時期か
ら組織化が行われて、より効果的な活動ができるように整えら
れていったように読み取れます。



  このようにして見ると、教会の成長のためにはこの自発的・
自然発生的活動と、組織的な活動が欠かせないことが明らかに
なってきます。どのように自発的活動が盛り上がっても、それ
を上手に取り込んで組織化しなければ、効果的な成長には結び
つきません。どれほどしっかりとした組織を作り上げたとして
も、情熱のこもった自発的な参画がなければ、組織はたちまち
形骸と化してしまいます。
  












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2010年10月17日

教会について 2−H

p41〜48


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E. 教会の完成



  教会は、悪魔が支配するこの世に存在する限り、戦いの中
にいます。悪魔の支配に抵抗して戦うために、この世に遣わさ
れているからです。また、教会はキリストご自身によって建て
られた天的な起源を持つものですが、人間の集まりとして、極
めて人間的な弱さを持っているものです。こうして教会は悪魔
という敵と戦いながら、自らの弱さや不完全さとも戦い続けな
ければならないのです。



  しかし教会の戦いは、いつまでも続くものではありません。
教会はやがて、「雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主に会
い、しみも傷もないキリストの花嫁として迎えられ、(エペソ
5:26−32、Uコリ11:2) 華やかな「小羊の婚宴」
が開かれます。(黙19:6−9) 教会は準備の整った花嫁
として、その婚宴に臨むのです。そしてこの準備の整った、し
みも傷もない花嫁としての教会は、単なる夢物語や空手形に終
わるものではありません。なぜなら、そのためにこそ、キリス
トはご自身を捧げてくださったのであり、キリストの目的が達
成されることなしに、挫折してしまうことはあり得ないからで
す。またこれを遂行させているのは、キリストの愛であり、三
位の神のもっとも本質的な性質から出ていることだからです。 



  パウロはまた、この教会の完成の時を、「御国を受け継ぐ
こと」という言葉でも表現しています。(エペソ1:13−
14、4:30) その時教会は、悪魔の支配から完全に移さ
れ、神の支配の中、すなわち御国に入れられ、そのすべての祝
福を世継ぎとして受け継ぐのです。それはまた、贖われること
であり、子とされることであり、救われることでもあります。
それらすべては、すでに私たちの中に起こった事実ではありま
すが、それが完成するのは、私たちが御国を受け継ぐ時のこと
なのです。そしてこの救いの完成の確実な保証として、神は私
たちに「聖霊をもって証印を押して」くださいました。(v.
13) 聖霊ご自身が、「私たちが御国を受け継ぐことの保証」
なのです。(v.14)



  この「聖霊の証印」がいかなるものかについては、いくつ
かの考え方があるようですが、単純に聖書を読む限り、「聖霊
が私たちの内に宿ってくださっている事実」、あるいは、「聖
霊が私たちに働きかけてくださっている事実」と考えるのが最
も自然です。その事実はクリスチャン体験の中に如実に、明ら
かに、現実の力として現れてくるものであり、パウロが、「神
の国は言葉ではなく力である」と語った聖霊のお働き、(Iコ
リ4:20)キリストが、出エジプト記8章19節に記されて
いる呪術師たちの表現を用いて、「神の指」とお語りになった、
(ルカ11:20) 聖霊の顕著なみ業のことだと考えられま
す。このような聖霊のみ業を拝して、私たちは聖霊のお働きが
確かなものであることを確信し、その聖霊が必ず、私たちを救
いの完成、贖いの完成へと導いてくださると、望みを持つこと
が出来るのです。そういう訳で、今私たちが見る聖霊のみ業は、
「御霊の初穂」となるのです。(ローマ8:23)



  すなわち、生活の改善や人格の形成などの心に関わる聖霊
の働きや、病気や怪我あるいはその後遺症の癒しなどに関わる
聖霊の働きは、やがて私たちがいただくことになるキリストに
似た姿と、朽ちない完全な肉体への保証として与えられるとい
うことです。この世における悪魔との戦いに対する勝利は、や
がて与えられる完全な勝利への保証なのです。十字架で主イエ
スが勝ち取られた勝利は、そしてその成果としての贖いと救い
は、やがて到来する「未来」の神の国の完成において完結する
のですが、私たちは今、私たちの内に宿り私たちと共にお働き
になる聖霊の働きによって、その神の国を私たちが受け継ぐこ
と、そしてその神の国において、完全な人間性の回復と完全な
肉体の回復が、間違いなく果たされることを確信するのです。
また、キリストの愛によって生かされた共同体の中の人間関係
においても、聖霊のお働きは顕著であり、それがまた、やがて
現される御国での聖徒の交わりを彷彿とさせ、確信させるので
す。



  キリストは、この教会の完成についてまったく別の言葉で
お語りになっています。天に挙げられる時を間近にして、キリ
ストは弟子たちにおっしゃいました。「あなたがたのために、
わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたが
たに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに
迎えます。わたしのいる所に、あなたがたもおらせるためです」
(ヨハネ14:2−3) 私たちがキリストに迎えられるとき、
教会は、この世に遣わされた目的である宣教の使命からも解か
れて、悪魔との戦いと自分たちの不完全さとの戦いに、ひとま
ず終止符を打つのです。


  
  その後の教会がどのようになるかについては、終末論の立
場によって随分理解が異なりますが、いつまでもキリストと共
にいること、(Iテサ4:17) 再びキリストと共にこの世
界に来ること、第一の復活にあずかった者として、神とキリス
トとの祭司となり、キリストと共に千年の間、王となること、
(黙20:6) 「新しい天と新しい地」というまったく異な
った世界の秩序の中に入れられ、神と共にそして神の愛と慰め
の中に至福の生活をすること(黙21:1−6)などを、聖書
の中からうかがい知ることがます。



  また、教会の完成とは別の事柄ではありますが、関連のあ
るものとして、ヘブル書12章23節の長子たちの教会という
表現に触れておく必要があるでしょう。この長子たちとは誰を
指すのかによって考え方も変わってきますが、現在のこの世に
存在する教会とは別の次元の教会の存在も考えられます。それ
は一般には「勝利の教会」と表現されているもので、すでにこ
の世での戦いを終えて、死んで行ったクリスチャンたちによっ
て構成される教会であると言われていますが、この一節だけか
らの推測の域を出ないために、細かく取り扱うのは避けるのが
賢明かと思われます。



  とは言え、キリストの再臨を待たずに死んで行ったクリス
チャンたちが、キリストの來臨と共にまず甦らされて、地上に
残っていた教会と共に天に引き上げられ、キリストに似る完全
な姿に造りか変えられて、キリストの花嫁となるのですから、
彼らが肉体の死という、贖いの歴史から見ると小さな事によっ
て、教会と関係のない者とされるとは考え難く、むしろ、次元
の異なるところに移された教会と考えるのが適当と言えそうで
す。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

  ここで、ちょっとわき道にそれて、
著者が見た光景についてお話しましょ
う。もう30年近くにもなるでしょう
か。当時私は、宣教師としてフィリピ
ンで働いていましたが、ときおり、マ
ニラ南部のモンテンルパというところ
にある重罪人を収容する刑務所での伝
道活動を支援していました。ここには
多くの死刑囚をはじめ、およそ4〜5千
人の囚人たちが生活していましたが、
私の友人が関わっている働きが主に用
いられ、たくさんの奇跡が起こってい
ました。高い塀と有刺鉄線と軽機関銃
で隔離された刑務所の中は、日本のよ
うに独房があるわけではなく、集団生
活をしていましたから、囚人たちの抗
争、集団暴力、殺人、アルコール、麻
薬などの問題が後を絶ちませんでした。
そのような中で福音は力を発揮して、
囚人グループのボスたちを始めとして
多くの者が救われ、すっかり様子が変
わってしまいました。

  刑務所の中の特別集会に招かれた
ある日のことです。250人を超える
と思われる熱気にあふれた集会の中で、
ひとりの囚人が証を始めました。フィ
リピンの貧しい男性の多くがそうであ
るように、バスケットボール用のトラ
ンクスひとつのその男は、全身刺青で
覆われていましたが、どうしたことか
頭までツルツルに剃りあげていました。
彼は満面の笑みを浮かべ、大きな身振
り手振りで、朗らかに話し出しました。
「やあ、みんな。俺が誰だかわかるよ
な。昨日椅子に座らせられたんだけど
・・・・・。」 私の隣にいた囚人が
説明をしてくれました。「彼は昨日電
気椅子に座らせられたんです。」「椅
子が故障していて死ねなかったので、
修理が終わるまで、みんなと、もう少
しお付き合いを続けることになった。
そういうわけでよろしく。」 彼が頭
を剃り挙げていたのは、スタイルでは
なく、電極板を頭に張るためだったの
です。彼は続けて言いました。「俺の
人生はめちゃくちゃだったけれども、
このモンテンルパに入れられて、キリ
ストに出会って、俺はすっかり変えら
れた。そのことはみんなが一番良く知
っている通りだ。俺がキリストに出会
ったということ、そしてキリストによ
って造り変えられたということは、俺
にとって何よりもリアルな体験だ。だ
から、今の俺にとって電気椅子は少し
も怖くない。キリストが約束してくだ
さった永遠の命は、俺が体験したキリ
ストの出会いと同じように、俺の中で
リアルなんだ。俺が変わったことと同
じだけリアルなんだ。永遠のみ国でま
たみんなと会えるという望みもまた、
俺にとってリアルなんだ。」


  彼は「聖霊の証印」などという高
度な教えを学んではいなかったでしょ
う。しかし、彼のリアルなキリスト体
験が、彼の永遠の命への、そしてキリ
ストの約束の成就への証印となってい
たのです。数ヵ月後、再びモンテンル
パを訪ねたときには、彼の姿はありま
せんでした。しかし、私にとっても彼
と会えたということはリアルな体験で
あり、彼とまた会えるということも、
リアルなことになりました。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



W.教会論用語の理解
 


  聖書は「教会」という言葉を実に多様な意味で用いていま
す。たとえば「ヌンパの家にある教会」(コロ4:15)と「ア
クラとプリスキラの家にある教会」(Iコリ16:19)は、
信徒の家に集まっていた教会のことでしょう。「全教会の家主
ガイオ」という表現の中の教会は、(ローマ16:23) コ
リントの町にあったいくつもの「家の教会」のようなものを総
合して呼んだのでしょう。これは多分「コリントにある神の教
会」(Iコリ1:2)と同じものだったと考えられます。また、
「ガラテヤの諸教会」(ガラ1:2)とか、「マケドニヤの諸
教会」(Uコリ8:1)という複数の表現もあれば、「ユダヤ、
ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられた教会」(使
9:31)という単数の表現もあり、さらには「すべての教会」
(Uコリ8:18)という言い方もされています。パウロが迫
害した教会は、単にエルサレム教会だけに限られていたと考え
るべきではありませんし、彼が展開した教会論のなかで「御子
はそのからだである教会の頭です」と彼が語ったとき、そのみ
体である教会はどこかの地方や町にある特定の教会ではありま
せんでした。キリストが「私の教会を建てる」とおっしゃった
教会も(マタ16:18)エルサレムの教会でもローマの教会
でもなかったはずです。



  このように、聖書は教会という言葉をいろいろな意味に用
いていますが、それらを整理して理解するために伝統的に使わ
れてきた用語があります。ここではそれらの用語の意味を明ら
かにしながら、さらに理解を深めることにしましょう。



A.地域教会と普遍的教会  



  地域教会と普遍的教会という言い方は、教会の理解を深め
るために最も頻繁に用いられている用語で、それなりに良い説
明ではありますが、いささか意味があいまいなために、さまざ
まな誤解も産み出してきました。
 


1.一般的理解   



  普通、教会という言葉は、何丁目何番地にある白い壁の教
会とか、丘の上にある緑の屋根の教会という意味で、建物を指
して使われています。これが聖書のいう本来の教会ではないこ
とは、ここで敢えて説明する必要がないと思いますが、ただ、
そこに集まり、その建物を自分たちの所有、あるいは自分たち
の共通の活動の場と考えて、集まって来る人たちを、私たちは
普通、ひとつの教会と考えて地域教会と呼んでいます。



  また、向こうの川岸にあるとんがった屋根の教会を、もう
ひとつの教会と考え、そこに集まっている人々を他の教会の人
たちと考えます。これらの教会は所属している団体が異なり、
集会の仕方も、活動も、考え方も、集まっている人々の種類も
異なっていますが、それでも私たちは、お互いの間に、同じ主
を礼拝しているという基本的な共通要因を認め、ある意味で、
自分たちはひとつなのだという意識を持っています。現実には、
いろいろ馬が合わないことがあり、そりが合わない主張もあり、
互いに協力し合うのさえ不可能なことも当たり前です。それで
も、私たちは、これらの違いや不協和音を乗り越えて、信仰に
よる一致、御霊による霊的な一致というものを信じています。
事実私たちは、世界中のあらゆる教会が、キリストを救い主と
信じている限り、信仰と御霊によってひとつの教会に属してい
ると信じています。そのひとつの教会が、普遍的教会と言われ
るものです。
  


2.より良い理解



  しかし、この伝統的教会の理解方法では、教会の真実の姿
を説明するにはあまりにも不充分です。もう少し、掘り下げて
考えてみましょう。


a.地域教会と管理上の個教会



  まず、聖書に見るエルサレム教会やローマ教会を、この地
域教会とみなすには問題があります。なぜなら、都市の名前を
もって呼ばれるこれらの新約聖書時代の教会の多くは、現代の
一般的教会のような単数の会衆の教会ではなく、たとえば「ナ
ルキソの家の主にあるひとたち」と呼ばれるような家の教会が
いくつか集まる、複数の会衆から成り立っていた教会だったか
らです。最近は私たちの周りにも、伝統的な教会観から離れ、
複数の会衆、あるいは「セル」などという観念をまとめて「教
会」と考えている人たちも出てきていますが、地域教会と言う
ならば、これら、新約時代の家の教会のような会衆こそが、よ
り確実に地域の実情の中に根ざした教会であったはずだからで
す。エルサレムの教会は当初こそ、ひとつの民族で類似した人
々の集まりであったと思われますが、それでもヘブル語を話す
パレスチナ育ちのユダヤ人と、ギリシヤ語を共通語とする異邦
育ちのユダヤ人がいて、生活習慣には大きな違いがありました。
ローマの教会などは、さらにさまざまな人種、言葉、階級、文
化が入り混じった、複数の会衆によって成り立っていたはずで
す。パウロがローマにいるクリスチャンたちに呼びかけたとき、
「ローマにいるすべての、神に愛されている人々」と言って、
さまざまな種類の、さまざまな会衆に属する「すべての」とい
う意味を含めたのではないかと考えられます。(ローマ1:7)



  従って、当時のエルサレム教会、ローマ教会、あるいはコ
リント教会というような教会は、地域教会というよりは一種の
行政区教会、管理上の個教会とみなす方が良いでしょう。(I
コリ14:23) パウロはエペソの教会の複数の長老たちを
呼び寄せて別れを告げましたが、(使徒20:17)このエペ
ソの教会も、ひとつの行政上のあるいは管理上の教会であり、
多くの家の教会とそれを指導する複数の長老たちがいたと理解
すべきです。また、使徒の働き9章31節に語られている、「ユ
ダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地に築き上げられた教会」は単
数形で語られる教会ですが、これは普遍的教会のことでも地域
教会のことでもなく、管理上のひとつの教会が地理的にも発展
して複数の教会に変わって行く、過渡期の状態と考えるのが良
いと思われます。



b.管理上の個教会と有機的教会



  ではこれらの管理上の個教会、行政上、あるいは単に地域
的便宜上そのように呼ばれている教会は、どういう意味で教会
なのでしょう。それは有機的教会として教会なのです。教会が
有機的存在であることは常識として理解されていますが、それ
ぞれの地域教会が互いに同じ救い主を仰ぎ、同じ命に生かされ、
同じ聖霊の交わりによって保たれているという、霊的な有機性
においてひとつの教会であり、幾つかの家庭集会などをひとつ
に集めた地域教会も、組織的にまた管理上、ひとつの「個教会」
と認められている有機的教会ということです。これはたとえ実
際の交わりが欠けていても、あるいは何かで争っていたとして
も、その醜いありのままの姿で、ひとつであるという霊的な有
機体です。同じ主の召しを受け、同じ主の贖いをいただき、同
じ聖霊によってキリストのみ体にバプタイズされているという
霊的な事実が、あらゆる不完全さを超えて、教会をひとつにし
ているのです。そのような例は、コリントの教会に見ることが
できます。



  これはまた、現在しばしば見られる、パラチャーチには所
属していながら地域教会には所属していないというようなクリ
スチャン、あるいはどこにも何にもまったく所属していないク
リスチャンにも、当てはまる理解の仕方です。あるいは、教団
や、国家によって分断されている教会組織、さらに、小さいほ
うでは教区というようなものにも適用できる考え方です。これ
らはみな、外見上は異なった存在をしていますが、有機体とし
ての教会と呼ぶことができます。問題は、有機的にひとつであ
るという霊的事実を、実際の生き方、実際のあり方、実際の協
力、実際の交わりの中に、どのように表現し具現化していくか
ということです。霊的事実は、必ず実際の生き方に反映されて
いくべきであり、よりよく反映されるべきだからです。教会に
所属しようなどと考えたこともない信徒も、本来は、キリスト
の体にバプタイズされ、ひとつの体にされているのだという霊
的事実をしっかりと理解し、その上に、その霊的事実を具体化
して行くべきなのです。互いに交わりがないばかりか争ってば
かりいる隣同士の教会も、自分たちは霊的にひとつの有機体な
のだという事実を、どのようにしたら最善に表現できるか、考
えていくべきなのです。



  ましてや、ひとつの教団、ひとつの教区などというものは、
たとえ教団の政治形態がどうであっても、また、管理上の個教
会の政治形態がどうであっても、それぞれが同じ聖霊によって、
キリストのひとつのみ体にバプタイズされたという霊的事実を、
重く、しっかりと確認し、その事実に立って考え、行動すべき
なのです。教団は教会なのか、あるいは単なる個教会の集まり
なのかという議論は、行政上、管理上の議論としては成り立っ
たとしても、聖書神学の上からは成り立たないものです。教団
は教会なのです。それは有機的な教会です。その有機的教会は、
自らがひとつであるという霊的事実を、あらゆる機会を捉えて
表現するのです。そのような理解のない教団や教区は、経営者
たちの利害が共通するときだけに存在価値がある、中小企業組
合のようなものに過ぎません。私たちの教団が、教会という名
の商店の、中小企業組合にならないように、また、私たちの教
職の集まりが、ちょっとした小企業の経営者たちが集まる、ロ
ータリークラブのようにはならないようにと祈るものです。



  パウロはこの有機的教会のあるべき姿を、マケドニヤやア
カヤの教会から献金を集め、飢饉に苦しむエルサレムの教会に
送り届けるという働きで具体的に表現しました。また、自分が
第一伝道旅行において建てた南ガラテヤの教会に、ユダヤ主義
者たちが入り込んでかき乱した問題には、わざわざエルサレム
まで赴き、多くの兄弟たちの意見を聞いたということでも、個
人の宣教者としての自分ではなく、有機的教会の一員として働
いている自分を認め、それを大切にしていたことがわかります。
パウロは、自分が他の誰にも与えられていない啓示を与えられ、
異邦人伝道という新たな任務に召されたのだということを盾に
取って、エルサレムの兄弟たちを無視して、独自の「伝道王国
」を作ることもできたはずです。しかし、彼は有機的教会を認
めて、その原則を重んじ、謙虚にエルサレムまで出向いて行っ
ているのです。パウロは自分の働きがエルサレム教会の管理下
にあるとか、使徒たちの監視の下にあるというように考えたの
ではありません。ただ、有機体としてひとつなのだと考えたの
です。



  昔から、神学者たちは、世界のすべての教会はこの有機性
によってひとつであると考え、その教会を普遍的教会と呼んで
きました。ただし、この普遍的教会は、歴史の上で、単に霊的
な次元に留まらず、管理上も普遍的な唯一の教会であるべきで
あると考えられたために、カトリック(普遍的という意味)教
会という教会が誕生し、大きな誤りを犯し続けたという経緯が
あります。これは有機的一体性という霊的事実を、偏狭な人間
的手段で、管理上でも政治上でも実現させようとすると、大き
な間違いに陥るということを私たちに警告するものです。後述
するように、この有機的一体性は、組織や戒律、形式や様態、
あるいは信条や神学の一体を意味するものではなく、かえって、
それらの多様性を意味するものであるべきだからです。



  また、この有機的教会という存在は、その性質上、どこの
地域教会にも所属しないクリスチャンたちまでも含めるもので
あり、彼らの存在を許すものでありながら、彼らの存在を励ま
し増大させるものではなく、かえって彼らのあり方を否定し、
彼らが地域教会に所属し、正しい形でその有機的な繋がりを表
現して行くことを励ますものなのです。すべてのクリスチャン
は、キリストのみ体にバプタイズされたという霊的出来事を、
日常生活の中で、具体的に表現していく責任があるからです。
それは、悪魔の支配から解放されたという霊的事実、神の子と
されたという霊的事実、聖霊の宮となったという霊的な事実、
清められたという霊的事実、さらにはこの世に派遣されている
という霊的事実が、みな、毎日の生活の中で具現されていかな
ければならないのと同じです。



  ある人々には、教団や教派、あるいは教会の国家的制限な
どというものが、新約聖書には記されていないということを問
題とします。確かにこれらは新約聖書には記されていませんが、
ことさら問題にするべきことではありません。なぜなら、新約
聖書の教会の形態は、あくまでもその当時の社会的実情の中に
現された教会の姿であって、それらがすべてであるわけではな
く、また、規範でもないからです。また、新約聖書の教会は完
全な大人の教会ではなく、揺籃期の教会であり、過渡期の教会
であったということです。現在の教会は、当時のグレコローマ
ン文化の状況とはまったく異なった現実の中に生きています。
従って、形態はまったく異なっていて当然なのです。ですから、
パラチャーチの存在さえ、ある程度容認できるものです。それ
は、すでにパウロの伝道チームなどに芽生えていると考えられ
ます。ただし、地域教会をまったく無視したパラチャーチの存
在は、聖書神学的に許されるかどうかはなはだ疑問です。












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2010年10月18日

教会について 2−I

p48〜55


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c.普遍的教会と地域教会



  では、普遍的教会とはどのようなものでしょうか。それは、
キリストが「私の教会を建てる」とおっしゃった時の教会であ
り、場所と時間を越えた教会です。それは神の贖いのご計画の
中に始めから存在した、理念としての理想的教会であり、不変
の教会です。従ってそれは超国家、超言語、超文化、超民族の
教会です。ひとつの地域教会おいても、世界中のすべての地方
教会を含めた教会においても、あるいは有機体としての教会に
おいても、そのすべての理想的本質を現すことは、人間の不完
全さと取り巻く状況のゆえに不可能でありながら、必ずどこか
でその本質を顕現しようとする教会です。見えない教会であり
ながら、常に見える姿で自分を現そうとする教会です。世界中
のすべての地域教会を包括している大きな教会でありながら、
小さな地域教会にもすべてを現す機会を待っている教会です。
パウロがキリストの花嫁と語った教会はこの教会です。キリス
トが頭であると語った教会はこの教会です。



  多くの場合、普遍的教会とはすべての地方教会の総合体と
考えられています。世界に存在するすべての教会が、霊的にひ
とつとされている教会が普遍的教会と言うわけです。もし、そ
うだとすると、地域教会とは単に普遍的教会の一部分になって
しまいます。地域教会が普遍的教会の一部分に過ぎないとする
と、地域教会はそれぞれ、我々の教会は祈りの教会であるとか、
交わりの教会だとか、伝道の教会であると言って、教会のある
一面のみを強調し、他の多くの大切な局面、あるべき姿を、無
視することができるようになります。あるいは、若者の教会で
あるとか、金持ちの教会であるとか、白人の教会であるとか、
日本人の教会であるというような、差別的な教会も存在を正当
化することができることになります。教会が和解の共同体であ
り、すべての差別を超えた存在であるという聖書的理念は、教
会成長学派の人々が提唱する、社会学的な均一質群の教会の成
長原則、すなわち、同質の人間が集まる教会はよりよく成長す
る可能性があるので、教会はすべからく同質の人が集まるよう
にすべきであるという主張に負けてしまうことになります。地
域教会が普遍的教会の一部分に過ぎないという理解は、不完全
な地域教会が不完全のままでいることを正当化し、改善の努力
をする意欲を削ぎとってしまいます。



  むしろ、地域教会とは、普遍的教会がある特定の場所と時
間に自己顕現をしたものと理解すべきです。地域教会は、取り
巻く状況と文化、さらには構成する人間のあらゆる弱さと不完
全さのために、決して完全ではあり得ませんが、本質的に普遍
的教会のすべての性質と力を内に秘めていて、いつでもそれを、
その特定の場所において顕現させようとしているものです。地
域教会は普遍的教会の一部分なのではなく、普遍的教会そのも
のの地域的存在です。ですから、地域教会は普遍的教会の一部
を表現しているだけでは満足してはならず、一部だけを表現さ
せることを目的としてはならないのです。それは、祈りの教会
だとか、助け合いの教会だとか、金持ちのための教会だとか、
白人のための教会だとか、中国人のための教会などという排除
の教会の存在を、たとえどのような理由があっても、理念的に、
許さないものです。地域教会はすべてを包含する普遍的教会の
地域的顕現なのですから、どこにおいても、普遍的教会の性質
と姿を現して行かなければなりません。



  私たちが聖書の中に見る教会は、普通、地域教会か有機的
教会です。すなわち、ある特定の時と場所に自分を表現した、
普遍的教会です。神の御心に永遠の昔から存在していた理念的
な教会が、文化という限定の中に存在を明らかにした教会です。
私たちはその特定の時と場所に表現された教会、文化の限定の
中に存在を明らかにした教会を聖書の中に読みながら、普遍的
教会そのものを読み取って行かなければなりません。超文化、
超国家、超人種、超すべての差別の教会の姿を、探し出さなけ
ればなりません。その普遍的教会の隠れた姿を探し出す努力は、
使徒の働きに見る教会の描写の中にだけではなく、書簡に記述
された教会についての教えや、教会への教えの中でも続けなけ
ればなりません。つまり、使徒の働きのような叙述的文書だけ
でなく、書簡のような教育的文書の中に見る教会の姿も、普遍
不変の教会ではなく、その普遍不変の教会の文化的適応の姿で
あることが多いのです。それらの適応の中から、適応の前の普
遍の教会を読み取る努力こそが大切なのです。



  たとえば使徒の働きには、エルサレム教会が、貧しい者に
食料を分配する働きの問題を解決するために、7人の人々を選
び出したことが記されています。その選ばれ方や、選ばれた人
々の資質、あるいは使徒たちが果たした役割などに、当時のエ
ルサレム教会の生き生きした姿が現れています。しかし、これ
らのひとつひとつの事柄自体が、そのまま普遍的教会の姿なの
ではなく、あくまでもあの時代、あの土地で、あの状況の中に、
存在を明らかにした普遍的教会なのです。私たちに必要なのは、
あの7人の選出の仕方をそのまま真似ることでも、7人の資質を
そのまま現代の教会の働き人に求めることでも、使徒たちの権
威を持ち出すことでもありません。そのようにさせた裏の力、
陰の考え方、後ろにある見えない普遍的教会を探し出し、その
普遍的教会の姿を、現在の私たちの教会のあり方に適応させる
ことです。



  同じように、書簡の中に見ることができる教会も、その大
部分は、当時のグレコローマンの文化の中で、それぞれの土地
と人々と生活の実情に適応した普遍的教会で、普遍的教会その
ものの姿ではないのです。たとえば、コリントの教会は異邦人
の廃頽した宗教と性風俗の中に、普遍的教会が神の国の力を持
って侵入し、自分を表現した教会です。ですから、あのコリン
ト教会の姿形を私たちが模範にする必要はないのです。どうや
ら盛んに愛餐会を行い、その中で、現代の聖餐式の原型となる
ようなことを行っていたか、あるいはその愛餐会自体が主の晩
餐とみなされていたようですが、それをそのまま、規範として
私たちの教会が取り入れる必要はないのです。



  エペソ人への手紙を読むと、エペソとその周辺の教会には、
あるいは当時の教会全般にも、使徒、預言者、伝道者、牧師す
なわち教師と呼ばれるような働き人たちがいたことが想定され
ます。しかし、それも、あくまでも当時の教会の在り方のひと
つに過ぎません。普遍的教会が、あの当時の実情のなかで、そ
のような形で自己を表現したということであって、現在のすべ
ての教会も、同様の役割と働き人を回復しなければならないと
主張する、レストレーション運動の人々に同調する必要はあり
ません。ただ言えることは、そのような教会の形も有り得ると
いうことです。また、たとえば、女は頭に被り物を被りなさい
という命令も、当時の社会的・文化的要因を考慮した普遍的教
会のあり方を示しているのであって、普遍的教会のあり方その
ものではありません。ですから、現在の私たちの教会が、それ
を守らなければならないという謂れはありません。かえって私
たちはそのような教えとなって現れた、背後の考え方、理念を
理解し、それを現在の私たちの教会の中に反映させなければな
りません。普遍的教会はそのような適応をさせた陰の力、後ろ
の理念なのです。



  書簡の中には、普遍的教会の真実な姿がより直接的に、明
快に教えられている部分もあります。たとえば、教会はキリス
トのみ体であるという基本的教えと、そのみ体の一部分とされ
たそれぞれの信徒たちの、共同体としてのあり方などは、普遍
的教会そのものの姿が教えられているものです。これはすべて
の地域教会あるいは有機的教会が、その理念をそのまま受け容
れて行かなければならないものです。それらを軽視したり、無
視したり、拒絶したりする教会は、本来あってはならないもの
です。ただし、キリストのみ体としての共同体が、特定の状況
の中でどのように共同体としてのあり方を実現し、表現して行
くかは、適応の問題であって、そのようなところに同一性、あ
るいは一致を求めるのは本来のあり方ではありません。



  ひとつの教団、あるいは教区など、非常に類似した文化と
状況の中で、ある程度の同一性を求めることは、管理運営上有
り得ることでしょう。しかし、それを求めすぎて、同一性があ
たかも教会であるかのように考えられてはならないのです。そ
の同一性が、異なった文化、異なった社会背景、異なった人種、
異なった国家にまで求められてはならないのです。最善の適応
を考えた結果、たまたま同一であったという場合は構いません。
ただ、同一という前提、同一性を求める先入観で進めてはなら
ないということです。ですから、日本の教会の中では常識とさ
れて、当然そうあるべきだと、誰にも問題にされずに受け入れ
られてきた習慣や伝統を、そのまま異なった国に持って行くこ
とは、アメリカのキリスト教が、教会の中で抱き合ったりキス
を交わしたりする習慣を、そのまま日本に持ち込み、「互いに
愛し合うべきである。聖書は聖なる口付けをもって互いに挨拶
をかわしなさい」と教えているではないかと、強要するのと同
じくらい間違っているのです。


 
  書簡で教えられている事柄の、どれが普遍的教会そのもの
の姿なのか、どれが地方的文化的適応なのかを見極める働きは、
易しいものではありません。読み方、観方によって見解の相違
もあり得るでしょう。しかし、注意深い聖書の読み方をするな
らば、多くの部分では共通の理解を得られるに違いありません。
このようにして、普遍的教会のあり方、教会の本質的なあり方
に対する共通理解を持って、教会を建て上げていくことが、私
たちに課せられた使命なのです。



d.見える教会と見えない教会



  見える教会とは、一般的に目に見える形で活動を行ってい
る教会のことを言います。従って、ほとんどの場合、地域教会
あるいは管理上の個教会、または比較的規模の小さい、たとえ
ば聖書の中にある町の名を採った、有機的教会と同じに考えら
れています。これらの教会は、目で見ることが出来るからです。
他の人たちは、本物のクリスチャンも偽者のクリスチャンも含
まれている、現実の教会を見える教会と考えています。またあ
る人たちは、あらゆる人間的弱さを抱え、争い合いながら、反
目し合いながら、それでも神に従おうと努力している、本物の
クリスチャンたちによって構成されていながらも、不完全な姿
でしか存在しえない教会を見える教会と考えています。こうい
う意味では、単にひとつふたつの地域教会だけではなく、もっ
と広い地域に広がる有機的教会、あるいは世界中のすべての教
会が、目に見える形で活動を行っている姿を、見える教会と定
義することが出来ます。



  たとえば、地域教会が何かの活動をすればすぐ目に見えま
す。管理上の個教会が何かをすればすぐわかります。しかし普
段はあまり協力していないひとつの都市の中にあるいろいろな
教会、あるいはある地方のさまざまな教会が、何かの目的で協
力し合う時は、有機的教会が見える教会となって姿を現します。
さらに、国際的な超教派の会合や協力プログラムなどにも、普
段は目に見えない形で潜んでいる有機的教会の姿が現れてきま
す。普遍的教会の有機性がそこに姿を現すという言い方も出来
ますが、たとえ目に見えても見えなくても、またたとえ不完全
ではあっても、有機的教会は常に存在している教会であるとも
言えます。



  一方見えない教会は、普遍的教会と同じに考えられている
場合が多いようです。普遍的教会は目には見えないからだと言
います。他の人たちは、現実の教会の中からすべての偽りのク
リスチャンを取り除いた、真実の教会を見えない教会と呼んで
います。誰が本物のクリスチャンで誰がそうでないかは、人間
の目には見えないからです。また、あらゆる不完全さを取り除
いたならば実現するであろう、完全な、理想的な教会、理念上
の教会を見えない教会と考えている人たちもいます。その意味
ではここで言う普遍的教会と極めて近いものと考えられます。
すべてのクリスチャンは、たとえどこかの教会の会員になって
いてもいなくても、教会に出席していようといまいと、あるい
は福音に敵対する文化の中で、ひっそりと隠れて暮らしていて
も、神がご自分の子と認めて下さった者である限り、この見え
ない霊的共同体を構成しているのです。



e.戦いの教会と勝利の教会



  この表現はあまり多くは用いられませんが、教会のひとつ
の面を上手に語っています。すなわち戦いの教会とは、いまこ
の世に存在している教会のことを言います。まだまだ悪魔の支
配するこの世で、戦い続けているからです。



  歴史上、教会はしばしば戦う相手を間違って戦ってきまし
た。教会がキリストの軍隊であるという自覚は、教会はこの世
においてキリストの権威を持ってあらゆるものを支配するのだ
という、誤った理解と自負によって、この世の権力や支配、ま
た、権力者や支配者とその軍隊との戦いにのめり込ませてきま
した。中世の教会は回教徒との戦いに明け暮れる一方、キリス
ト教国の中の悪魔狩りに血祭りを上げました。植民地時代には、
あたかもすべての異教徒が神の敵であるかのように看做して、
過酷な取り扱いをしました。現在においても、異教徒たちや福
音を受け容れない人々を敵とみなしている、勝利主義的教会が
ある一方、ヒューマニズムを味方に付け、あらゆる人間疎外を
もたらすすべての社会悪と戦う教会もあります。



  しかし私たちの敵は、血肉ではなく、闇の世の主権者とそ
の配下の者たちであることを、しっかりと確認し直さなければ
なりません。私たちはキリストの使者として、平和の君の代理
として、和解の福音を託された者として遣わされています。私
たちの敵は、戦いそれ自体を武器とする悪魔です。私たちが武
器を取って戦うことが、すでに私たちの敗北なのです。エペソ
書6章10−18節に記されている神の武具が、すべて防御用
の武具であることは非常に示唆に富んだものです。剣さえも攻
撃用の大きな剣ではなく、防御用の短剣です。私たちは悪魔に
戦いを挑むことはしません。攻撃はしないのです。なぜなら、
私たちがこの世に派遣され、神の子としてこの世で生き、与え
られた福音宣教の使命を果たしていること自体が、すでに悪魔
に対する最大の攻撃になっているからです。



  この世の不正、差別、抑圧に対して声を上げることは良い
かも知れません。しかし私たちは、ひとたび不正を行っている
人々、差別を行っている人々、抑圧を行っている人々と戦いだ
すと、その瞬間、私たちの負けとなるのです。私たちの勝利は
血肉とは戦わないところにあります。悪魔の策略は、教会が戦
ってはならないところで戦い、戦ってはならない相手に対して
戦いを挑むように仕向けることです。そして、そのような戦い
に打って出るとき、教会は敗北をするのです。しかし、地域教
会が敗北することはあったとしても、どこかの地方に存在する
有機的教会も敗北することがあったとしても、あるいは国際的
な有機的教会すら、負けてしまうことがあったとしても、キリ
ストがお建てになった普遍的教会は、決して倒されることがな
いのです。



  教会の敵は悪魔とその配下の者たちです。ただし、ここで
いう戦いとは、必ずしも悪魔との直接的戦いだけを指している
ものではないようです。いわゆるこの世の困難との闘い、闇と
の戦い、貧乏との戦い、福音宣教における戦い、さらには自分
自身の不完全さや弱さとの戦いなど、教会が遭遇しなければな
らないあらゆる戦いが含まれています。ですから、この戦いに
勝利をするためには、教会は、この世の存在であることを止め
なければなりません。教会がこの世の存在であることを止める
には、キリストの来臨を待たなければなりません。その時、教
会はキリストによって携え上げられ、キリストの姿に似せられ、
一切の戦いから開放されるのです。その携え上げられ、一切の
戦いから開放された教会を、一般に勝利の教会と呼びます。



  しかし、教会には、もうひとつの形でこの世の戦いを終え
る人たちがいます。それはキリストの来臨を待たずに、先にこ
の世を離れる人々です。彼らもまた、たとえまだ完全な姿には
されていなくても、この世の戦いからは開放された人々であり、
彼らもまた、大群衆としてキリストの栄を賛美し、今まだ競技
場で走り戦っている人々に声援を送っているのです。(ヘブル
12:1) この人々が構成する交わりを、現在存在する勝利
の教会と考える人たちがいます。



V. 教会の譬え



  聖書は教会について語るとき、色々な譬えを用いています。
ここで言う譬えとは、キリストが「私はぶどうの木である」と
おっしゃった時の「木」という言葉の用い方のことを言います。
この場合キリストは、ご自分が実際のぶどうの木、物質として
のぶどうの木、植物としてのぶどうの木であるとおっしゃった
のではありません。あくまでも表現方法のひとつで、ぶどうの
木とその枝の関係が、キリストと弟子たちの関係に似ているた
めに、そのような表現をもって、効果的に霊的な真理を教えよ
うとなさったのです。実際、キリストはこの表現形式をたくさ
んお用いになりました。門、良い羊飼い、命のパン、光なども
その一部です。有名なのは、キリストがぶどう酒を取り上げて、
「これはあなた方のために流す私の血である」とおっしゃった
言葉を、ルターが敢えて文字通りに解釈する誤りを犯して、ツ
イングリと論争し、袂を分かたなければならなくなってしまっ
た出来事です。
 


  教会の譬えのいくつかについては、すでに論を進める中で
触れて来ましたが、ここで改めてそれらの譬えの基本的な意味
を明確にし、今後の論拠を示しておくことにしましょう。



A.体 (Iコリ12:12−26)



  教会を言い表すために用いられている譬えの中で、最も重
要な理念を含んでいるもののが「体」です。これはもっぱらパ
ウロの表現で、教会が様々な異なった背景の信徒からなる、ひ
とつの有機体であるという真実を雄弁に語っています。パウロ
は教会を「体」と譬えて、教会の姿のいくつもの大切な局面を
教えようとしたのです。



1.多様性



  体が多くの異なった部分、多くの異なった肢体から成り立
っていると言う事実から、パウロは、教会が多くの異なった人
々から成り立っていることを教えています。教会は、多様な人
々がそれぞれの異なった背景と特質を持ったまま、召され、和
解させられ、(エペ2:11−16) バプタイズされ(Iコ
リ12:13)ひとつとされた共同体です。教会とは、そのよ
うな多様性を認め、多様性を尊重し、多様性をそのまま生かす
共同体です。ひとりひとりの特異性を大切にし、それらを破壊
したり犠牲にしたりせず、かえって、それらの特性が最善に発
揮されるように、励まされる共同体です。



  教会の美しさは、すべての者が同一の色に染まり、同一の
考え方をし、同一の行動をする、軍隊のような同一性の美しさ
ではありません。同一性の美しさは、日本では一般的なもので
す。幼稚園から大学まで制服で過ごした人々も少なくありませ
ん。同じ帽子、同じ服、同じズボン、同じ靴下、同じ靴、同じ
ランドセルが、日本の美しさです。出来るだけ特徴をなくして
周囲の色に染まってしまうのが日本人の生き方です。小学校の
時から、でしゃばらないように、目立たないように、自分の意
見を言うよりまず他人の意見を聞き、他人に同調するように訓
練され、静かにしているように育てられるのです。日本では、
異なった意見や考え、違ったやり方や生き方を認めることが出
来ません。ところが教会の美しさは、あらゆる相違を認め、そ
の相違を当然のこととして受け入れ生かす、言うならば、錦の
織物のような美しさです。様々な異なった色の糸が異なった色
のまま織り込まれ、全体の調和を作り出すのです。



2.一致と調和



  教会の構成員は自分の特色を失わせず、その特色を大いに
発揮します。しかしながら教会は、構成するひとりひとりがて
んでばらばらに、勝手気ままに生きるのではなく一致と調和を
特徴として生きるのです。体の各部分、各肢体が、まったく異
なった動き、まったく異なった活動をしながら、それぞれまっ
たく独自の、脈略のない動きや活動をするのではなく、体全体
の一致と調和を保ち続けるように、教会も、それぞれの構成員
がまったく異なった生き方、まったく異なった考え方、まった
く異なった感覚を持ち、まったく独自の活動をしているように
見えながら、体としての一致と調和を保つのです。



  この一致と調和を保つという特性において、「体」の譬え
は非常に雄弁ですが、その体の共通目的、使命、働きという点
において、単なる「体」の譬えは不充分となり、「キリストの
体」という概念を必要とするようになるのですが、それは次の
項に譲ります。











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2010年10月19日

教会について 2−J

p55〜61


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3.互助性



  体の各部分は、互いに互いを必要としています。教会もま
た、構成員同士が互いに必要とし合う存在です。体の中には不
要な部分が無いように、教会の構成員の中にも不要な人はいま
せん。どのように大きな部分も、小さな部分も、強い部分も弱
い部分も、見栄えのする部分も見栄えのしない部分も、体のす
べての部分が価値を持っているように、教会の中すべての構成
員は大切な価値を持ち、機能を持たされているのです。



  また体のどの部分も、他の部分を体の一部として加入させ
たり、留まらせたりする審査の働きをすることはないように、
教会のどの部分も、本来そのような働きはしないものです。体
は生まれたときから、必然的に体の各部分を備えています。教
会の構成員もまた、聖霊が神としての権威を持ってバプタイズ
してくださったものであり、教会自身が構成員を選択するので
はありません。信徒を教会に加えてくださったのは神なのです。
それに対して教会は異議を唱えることは出来ません。教会に出
来るのは、聖霊が教会に加えてくださったすべての人の価値を
認め、迎え入れ、その活動を尊重し、体全体の機能に取り込む
ことです。ですから、個教会が独自の会員規約を作成し、条件
を定め、自分たちの基準に達した者しか受け入れないのは、大
きな間違いです。たとえば、東南アジアで華僑の人々が多い地
域では、中国人教会というのがありますが、それらの多くは、
中国人でなければ会員になることは出来ません。高級住宅地に
ある教会では、貧しい人を会員にしたくないという場合が少な
くありません。



  体のすべての部分は他のすべての部分を必要とし、互いに
必要性を認め合って生きて行きます。体のどの部分も、体から
切り離されては生存して行けないのです。クリスチャンに必要
なのは独立独歩の精神ではなく、互いに依存し合う精神、依存
することに負い目を感じず、依存されることに負担を感じない
精神です。すなわち「インディペンデントの精神ではなく、イ
ンターディペンデントの精神です」この場合、教会として特に
大切にされるべきことは、弱い者、小さい者、見栄えのしない
者こそが、特別な注意と優しさをもって取り扱われ、大切にさ
れるという点です。(v.22−25)



  面白いことに、ここでは弱い者を訓練して強くするとか、
小さい者を大きく育て上げるとかいう観念がありません。教会
の中で、ひとりひとりの信徒の訓練や成長が必要とされている
ことは、言うまでもありませんが、ここで大切にされているの
は訓練や教育よりも、むしろ、ありのままの状態で、そのまま
の姿で、互いに助け合うことが出来るという事実です。私たち
はその事実に、もっとしっかり目を止めたいと思います。成長
したクリスチャンだけが有用で有益なのではなく、成長してい
ないクリスチャンもまた、大切な価値を持っているのです。



4.有機性 



  体の性質の最も特徴的なものは、互いに痛みと苦しみと喜
びを分け合うということです。「もしひとつの部分が苦しめば、
すべての部分が共に苦しみ、もしひとつの部分が尊ばれれば、
すべての部分が共に喜ぶのです」という言葉は、パウロの教会
論の最も美しい言葉のひとつです。教会と言うのは、単なる組
織ではありません。単なる団体ではありません。機能を優先に
した機械でもありません。互いに痛みと喜びを共有する「体」
なのです。互いに別々の存在として生きている者の集まりでは
なく、教会は、ひとつの存在として生きるものです。



  教会のすべての部分がひとつの命に繋がり、ひとつの命を
共有しています。ひとつの体に同じ血潮が流れ、同じ神経が行
き渡っているのと同じです。機械ならば、摩滅した部品を取替
え、痛んだ部品を交換すれば住むことです。しかし体は、ひと
つの痛む部分のために全体が痛みを負うだけではなく、痛む部
分のために全体が共に働き、癒して行くのです。パウロはこの
同じ概念を、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」
という言葉で表現しています。みんながひとつの共同体とされ
たのです。かつては敵同士であった者たち、かつては抑圧者と
被抑圧者であった者たち、かつては搾取する側と搾取される側
であった者たちが、ひとつにされ、共に痛み、共に喜ぶ者とさ
れたのです。人種、原語、文化、教育、富など、多くの相違に
よって分断されていた人々が、和解によってひとつにされ、ひ
とつの体にバプタイズされ、ひとつの命として、喜びと悲しみ
を共有し、痛みと癒しを共有しながら生きるのが教会です。パ
ウロがこの教えを語った時、彼は単なる理念としてまた理想と
して語ったのではなく、同じひとつの会衆の中に、抑圧するロ
ーマの軍人と抑圧される被支配民族の人々がいる状況の中、さ
らには奴隷という非人間的な身分に甘んじていたものと、その
彼らを所有する人々がいるという厳しい現実の中で、それを見
据えながら語っていたのだということを、知らなければなりま
せん。現在の日本のように、あらゆる意味で差別が少ない社会、
あるいはたとえ誤ってでも、一国の首相自らが「同一民族国家」
と呼んでしまうほどの、類似社会の中で、美しい理想として語
られたのではないのです。



B.キリストの体 (Iコリ12:27、エペ1:23、4:
12、コロ1:18−24)
  


  教会は単に体であるだけではなく、「キリストの体」です。
パウロの記述では、単に体といった場合でも、常に、「キリス
トの」という形容が伴う概念が、背後にあると言えます。教会
は独自の独立した存在ではありません。あくまでも存在自体を
キリストに負い、キリストに属し、キリストに生かされ、キリ
ストに支えられて生きているものです。教会を生かしているも
のは、個々の部分の命ではなく、全体にくまなく流れ、満たし
ているキリストの命です。教会は、それぞれ自分の命を持った
者たち、固有の命を所持している者たちが寄り集まって作り上
げる、コロニーのような共同体ではなく、キリストというひと
りのお方の命によって、初めて生きる者とされ、生かされてい
る有機的共同体です。あらゆる部分、すべての肢体にキリスト
の命が流れ、行き渡っているのです。



1.教会の使命と働き



  教会は、「キリストの体」として、キリストの使命と働き
を継承するものです。教会は、自己利益、自己保存、自己目的
のために存在しているのでもありません。教会はキリストが天
にお帰りになった後も、キリストの贖罪の働き、救いの働きを
継続し、キリストの使命をまっとうして行くのです。



  究極的には、キリストの栄光のためにこそ、教会は存在し
ているのです。そして、そのキリストの栄光のために、教会は
目的をひとつにして活動するのです。教会は自分の目的を持ち
ません。キリストの目的を持ちます。教会は自分で取捨選択し
た働きを持ちません。キリストが設定なされた働きに邁進しま
す。教会は自分の使命を選びません。キリストがお与えくださ
った使命を遂行するのです。キリストは教会を、「私の教会」
とお呼びになり、キリストの使命を継承するためにお建てにな
ったのです。



  教会は体として、すべての部分が傷みも苦しみも喜びも共
有し合い、すべての賜物を用い合い寄せ合って生きて行きます。
しかしそれだけではなく、キリストの体として、キリストの使
命と働きのために、キリストの栄光のために生きるのです。



2.頭なるキリスト



  教会がキリストの体であるという概念と、キリストは教会
の頭であるという概念は切り離せないものです。私たちはこの
譬えを、しばしば人間の体と頭との関係で捕らえ、「体は頭の
命令を聞き、頭は体に命令を与える」と言うように理解します
が、聖書の言っている意味は少しばかり異なって、むしろ、教
会の長首であるという意味に近いものです。キリストは「造ら
れたすべてのものより先に生まれた方です」と言う言葉が、実
際に時間的に最初に生まれた方という意味ではなく、すべての
生まれた者の長の立場にあるという意味であるように、(コロ
1:15) キリストは、教会に命令を与え、指令を通達する
司令官であるということではなく、あらゆる意味で教会の長な
のだということです。キリストは「長子」となられたという概
念と通じるものです。



C.キリスト (Iコリ12:12、コロ:1:24、参照・
ローマ6:3−5、Iコリ6:15 、ガラ3:27)



  教会の譬えの中で最も驚かされる表現は、「キリスト」で
す。パウロは「体」と「キリストの体」という一連の表現の中
で、教会を「キリスト」と言い切っています。教会はキリスト
のものであり、キリストの体であり、キリストの使命を継承し
遂行するものであり、満ち満ちた神の本質を宿しておられる方
の満ち満ちておられるところ(コロ:19、エペ1:23)で
あり、キリストの命によって生きているものだからです。また
パウロは、教会を神の和解の福音を託されたキリストの代理と
考えていました。(Uコリ5:18−20)そのような一連の
思索の中で、パウロは教会を「キリスト」と言い切ったのでし
ょう。



  しかし、この、ほとんど冒涜とも思える表現はパウロの独
創性によるものではなく、元はと言えば、キリストご自身の表
現だったのです。教会を迫害し続けていたパウロ(サウロ)は
ダマスコの途上で甦りの主に会いました。その時、主キリスト
は「なぜ私を迫害するのか」とパウロに語りかけられましたが、
パウロが迫害していたのは教会であってキリストご自身ではあ
りませんでした。しかしキリストは、教会に対する迫害をご自
分に対する迫害と見做し、ご自分を教会と同一視して「なぜ私
を」とお語りなさったのです。



  教会を「キリスト」と言い切ることによって、パウロは教
会の重要性を示し、教会とキリストの神秘的で有機的な繋がり
を強調したのです。現在、キリストは教会を通してこの世界に
いてくださるのです。教会を通して働き続けておられるのです。
教会が福音を語る時には、キリストが語っておられるのです。
教会が病める者に手を置き祈る時には、キリストが手を置き祈
っておられるのです。教会が傷み苦しむ時には、キリストが痛
み苦しんでおられるのです。(コロ1:24)



D.建物・家 (Iコリ3:9−17、エペ2:20−22、
Iペテ2:5)



  これらの引照において明確になることは、まず建物である
教会の土台が、パウロを始めとする、使徒や預言者たちの宣べ
伝えたキリストであることです。エペ2:20においては、土
台は使徒と預言者たちとなって、キリストは「礎石」とされて
います。教会はキリストが土台であり、礎石なのです。



  次に、この家は信徒たちの努力によって建てられるという
理解があります。信徒たちの努力いかんによって、教会の質が
異なり、その質は「その日」に火によって試され、明らかにさ
れると言うことです。これは信徒ひとりひとりの働きの質が試
されることであり、その働きがまたどのようなものであっても、
教会を建て上げる働きに通じるものであることが示されていま
す。信徒の活動で、教会に関わらない活動は存在しないのです。



  ペテロの記述では、キリストは霊の家の、「尊い、いける
石」「礎の石」とされています。そして信徒ひとりひとりもま
た、「いける石」であると語られています。ペテロは教会を建
物に譬えながら、単なる物質としての建物では納得出来ないも
のを感じて、命のある有機体としての教会と言う意味を加えよ
うとして、「いける石」、あるいは「霊の家」と表現したのか
も知れません。「石」という表現において、ペテロはまた、そ
れぞれの石が組み合わされ、重ねあわされ、ひとつに固められ
「築き上げられ」て、初めて建物になるのであり、それぞれの
石が離れ離れに存在していては、建物ではないように、教会も
信徒たちが離れ離れに存在するのではなく、組み合わされ、重
ね合わされ、ひとつに固められて、初めて教会として存在する
のであると言おうとしたのでしょう。



  パウロが建物という表現を用いた時ですら、「建物全体が
成長し」と語り、建物があたかも体のような有機体であるよう
な言い方をしていることに、注意をすべきです。(エペ2:
21)



E.神殿、(Iコリ3:16−17)神の家、(Iテモ3:
15)生ける神の宮、(Uコリ6:16)霊の家、(Iペテ2
:5)聖なる宮・神のみ住まい、(エペ2:21−22)聖霊
の宮(Iコリ6:19)



  教会を建物に喩えた教えは、自然に、教会は「神殿」であ
り「神の家」であるという喩えに移行しています。それは「神
がお住みになるところ」という意味です。注意しなければなら
ないことは、聖書は建築物としての教会堂を「教会」とは呼ん
でいないことです。教会が建物と喩えられ、それが自然に「神
殿」や「神の家」という概念に移行したとしても、物質として
の教会の建築物が「教会」と呼ばれたことは、聖書の記述の中
には無いのです。つまり、教会堂が「神殿」や「神の家」ある
いは「神のみ住い」なのではなく、信徒の集合である共同体が、
「神殿」であり「神の家」であり「神のみ住い」なのです。



  教会が神殿あるいは宮という、旧約時代の建物に譬えられ
るのは、神殿あるいは宮が、旧約時代の神の住いであったから
です。旧約時代においては、神は、幕屋あるいはそれを耐久的
建物にした神殿もしくは宮を、たとえ象徴的な意味においてで
さえ、ご自分の住いと定め、そこに限ってご自分を現しておら
れました。しかし新約のこの時代には、クリスチャンたちはも
はや神殿の必要性を認めていませんでした。神の歴史が変わっ
たのです。(参照・ヨハネ4:20−24、使7:48)いま
や、キリストを信じる者の共同体こそ、神殿に代わる神の住い
となったのです。しかも、それは象徴的な意味での神の住まい
ではなく、真実な意味での神の住まいとなったのです。



  教会が教会として成り立つのは、聖霊が内にお住みになる
ことによってです。キリストを師と仰ぐ弟子たちが形成してい
た一団は、ほとんど教会的でありながら、教会ではありません
でした。キリストを信じたと言う事実、キリストに従うと言う
決意、その情熱、献身、考え方、目的などにおいてはまさに一
致し、共通要因をたくさん持っていながらも、まだ聖霊がお住
みになっておらず、「ひとつの命によって生かされる共同体」
とは、なっていなかったからです。聖霊が教会の中にお住みに
なるという事は、信徒ひとりひとりに取ってもまた、聖霊に住
んでいただくと言う事です。教会は、聖霊に住んでいただいた
ひとりひとりの人間が、寄り集まって造り上げるものではなく、
むしろ、聖霊によって教会の中にバプタイズされた人間が、教
会の一部として聖霊に住んでいただいていると考えるのが、パ
ウロ的な考え方であると言えるでしょう。この聖霊がお住みに
なると言う事、あるいは事実が、教会を神の命で生かし、ひと
つの有機体として生かしているのです。



  教会はただ、信仰を同じくし、考え方を同じくし、理想を
同じくし、理念を同じくし、嗜好を同じくしている人たちの集
まりだと言うのではありません。同じキリストの霊によって生
かされているという唯一の事実によって、ひとつにされている
共同体なのです。ペテロが「霊の家」と言った時、彼の頭にあ
ったのは、霊の住いとして教会と言うことよりも、霊によって
生かされているという有機的性質のことだった可能性がありま
す。パウロが神の宮とだけ言わずに、敢えて「生ける神の宮」
と言ったのにも、有機体としての性質を表現したかったからで
しょう。



F.神の民 (Iペテ2:9−10、Uコリ6:16−18、
ローマ4:16)



  神の民という明確な言葉を用いたのはペテロです。ペテロ
は、神の民と言うイスラエルに与えられた呼び名を教会に冠し、
さらにイスラエルに与えられた、「選ばれた種族」、「王であ
る祭司」、「聖なる国民」、「神の所有とされた民」などとい
う、特権的名称を教会に適用しています。ペテロは明らかに、
教会がイスラエル民族に代わる新しい神の民であると言ってい
るのです。



  それは、神の民という呼び方こそしなかったけれど、パウ
ロに取っても同じでした。彼はUコリ6:16−18において、
神が旧約時代にイスラエルに語りかけられたお言葉を、何のた
めらいも無く教会に適用しています。またパウロは、信仰の父
アブラハムに関する議論全体で、アブラハムが信仰を持つすべ
ての者の父であると言って、いまや、教会がアブラハムの子孫
であり、神の民であることを示したのです。さらにパウロは、
教会がもはや他国人でも寄留者でも無く、イスラエルの聖徒た
ちと同じ国民であると語って、教会が旧約時代の神の民と同じ
民になったことを認めています。(エペ2:19)



  しかし、教会が新しい神の民として、イスラエルに代わる
ものであるという考え方は、ペテロやパウロの独創ではなく、
実は、主イエスご自身の教えに始まるものでした。イエス様は、
ぶどう園を農夫たちに任せて旅に出た、主人の喩えをお話にな
りました。(マタ、21:33−46、マル12:1−12、
ルカ19:29−38) ぶどう園の主人は、仕事をせず使者
を辱め息子を殺した悪い僕たちを滅ぼし、代わりに、ほかの人
々にぶどう園を任せてしまったというお話です。この悪い農夫
たちがイスラエルのことであったことは、話を聞いていたイス
ラエル人たちにも明らかに解りましたので、彼らは非常に腹を
立てたのです。そしてキリストがおっしゃるところの、新しく
代わりに選ばれた、「ほかの人たち」が教会なのです。教会は、
神の民としてのイスラエルの特権と使命を受け継いだ者なので
す。












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2010年10月20日

教会について 2−K

p61〜68


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G.キリストの花嫁 (Uコリ11:2、参照・エペ5:22
−33、黙19:7−9、21:2、9、22:17)



  旧約聖書は、神とイスラエルとの関係を夫と妻の関係で説
明しています。そしてイスラエルの背信を、繰り返し、夫婦間
の裏切り行為である「姦淫」と言う言葉で表現しています。ま
た神はホセアと不忠実な妻との関係をもって、神とイスラエル
の関係の実物教育となさいました。旧約の時代に、神と神の民
との関係が夫婦の関係で表現されたように、新約時代には、キ
リストと教会の関係が夫婦の関係で説明されています。



  エペソ5:22−33において、パウロは直接教会論を述
べているのではなく、彼の教会論を背景にして、夫婦の関係に
ついて語っています。ここでパウロは、教会がキリストの妻で
あるとは言っていませんが、夫の妻に対する態度は、キリスト
が教会に対して持っておられる態度と、同じであるべきである
と教え、妻が夫に対して抱く思いは、教会がキリストに対して
抱く思いと、同じでなければならないと諭しています。それは、
神と神の民との関係を夫婦の関係として捉えた、旧約聖書の教
えを彷彿とさせるものです。このパウロの教えで明白なのは、
キリストがいかに教会を愛し、そのためにどれほどの犠牲を負
ってくださったか、また現在も、教会のためにどれほど熱心に
働き続けておられるかと言うことです。それは、教会を「清く
傷のない栄光の教会としてご自分の前に立たせる」ためです。
(v・27)



  清く傷のない栄光の教会としてご自分の前に立たせるとい
う表現は、教会が現在キリストの妻となっていると言うよりは、
むしろ結婚を前にして、キリストの花嫁としてふさわしい者に、
磨き上げてられているという姿を思い浮かべさせられます。こ
れは、Uコリ11:2でパウロが語っている、教会を「清純な
処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげるこ
とにした」という言葉と通ずるものです。エペソ人への手紙で
は、キリストの花嫁にふさわしいものとしてくださるのは、キ
リストご自身ですが、コリント人への手紙では、それがパウロ
の働きになっています。もちろん、パウロはキリストの僕とし
て、キリストのみ力によって、その勤めにあずからせてもらっ
ていると理解すれば、問題はありません。また、夫は自分の妻
を自分の体のように愛するべきであるという教えが、 (v・
28) キリストがご自分の体である教会を愛されたと言うこ
とを基盤として語られ、さらに、夫と妻が一心同体となること
さえも、キリストと教会の繋がりの中で強調されていることに
注目すべきです。



  黙示録においてヨハネは、教会が「光り輝く、きよい麻布
の衣を着ることを許され」、キリストの花嫁としての準備を整
え、いよいよ婚宴に臨む喜びの時の幻を記しています。(19
:7−9) これは、教会とキリストの完全な交わりを象徴す
るものです。ところが、ヨハネが見た幻では「小羊の妻である
花嫁」は、「聖なる都エルサレム」であり、「新しいエルサレ
ム」でもありました。そしてそのエルサレムには、イスラエル
の12部族の名が書かれた12の門と、小羊の12使徒の名が
書かれた12の土台石がありました。これは、天における教会
の最終的姿が、真実のイスラエルとキリストを信じる新しいイ
スラエルとの、合同の共同体となることを暗示しているように
理解されます。



H.神の家族(エペ2:19)信仰の家族(ガラ6:10)



  パウロは、「神の家族」と「信仰の家族」という表現を、
それぞれ一回用いているだけですが、それらの表現の背景には、
神が父であり、キリストを受け入れたすべての者が子であり、
独り子キリストが長子であるという、考えがあったと考えられ
ます。(ローマ8:29)



  神の家族、あるいは信仰の家族と言う表現は、教会が愛の
共同体であるということ、ほかのどのような組織、組合、グル
ープ、共同体よりも、強い愛の絆によって固く結ばれていると
言うことを伝えているのでしょう。



I.群れ・神の群れ (使20:28−29、Iペテ5:2−
3、参照・ルカ12:32、ヨハ10:16)



  教会を「群れ」と表現する背後には、当時の羊の群れを想
定し、また、キリストご自身がその譬えをお用いになったと言
う、経緯があったと考えられます。キリストはご自分に従って
来る人々をひとつの群れと表現なさり、さらに、「ほかの群れ」
という表現で、やがて形成される、イスラエル人とは異なった
弟子の群れがあること、すなわち異邦人教会の出現を予言なさ
いました。



  パウロもペテロも、ごく自然な形で「群れ」という表現を
用いていますので、これは当時、教会を指すものとして、一般
的に用いられていた言葉でもあったのでしょう。この言葉の背
後には、常に導き守る牧者を必要とする弱い羊の群れのイメー
ジがありました。パウロは「凶暴な狼」と言う言葉で、教会を
荒らす者に対する警告をしています。(使20:29) また
パウロもペテロも、それぞれ「牧する」、「大牧者」などとい
う表現を用い、教会の「か弱さ」という一面に対する配慮を見
せています。



XI.共同体としての教会



  教会は共同体です。共同体であるということは、教会にと
って枝葉の事柄ではなく、まさに本質的な性格です。では共同
体であるということはどういう意味なのか、また、どういう意
味で共同体なのか、見て行きましょう。



A.神に召された者たちによって構成される共同体  



  すでに述べたことではありますが、教会とは神の召しを受
けた人々によって構成される共同体です。教会が他のいかなる
人間の集まり、あるいは共同体とも異なるところは、その構成
人員がすべて神に召された人々であるということです。どのよ
うに優れた人物であっても、いかに高貴な人間であっても、神
に召されていなければ、この共同体に加わることはできません。
この共同体にあこがれ、この共同体に加わろうとして、どれほ
ど努力を重ね、大きな犠牲を払い、金額を積んだとしても、神
の召しを受けない限り加わることが出来ません。さらに、この
共同体から熱烈な招待を受け、三顧の礼をもって迎えられよう
とも、神の召しがない限り連なることは出来ません。反対に、
どんなに貧しくても、小さくても、無学無名であっても、ある
いは悪名高くても、あるいは共同体自体からは拒絶されようと
も、神の召しを受けたならば、この共同体の構成員となるので
す。



  従って、この共同体は人為的な選択による構成員を持ちま
せん。神が召し、聖霊がバプタイズしてくださることによって
のみ、まったく神意による構成員によってのみ成り立つ共同体
です。しばしば神は、人間的な標準では「いったいどうしてこ
んな人間を」と思わざるを得ないような人物を召し、教会にお
加えになります。あらゆる意味で、「このような人物に仲間に
加わってもらっては迷惑だ」と、判断せざるを得ないような人
を加えてくださいます。しかし、教会が構成員を選ぶのではあ
りません。役員会や牧師が教会加入申請者を厳正に審理して選
ぶのでもありません。聖霊が教会会議にも、役員会にも牧師に
も相談せずに、一方的にお決めになるのです。本来、教会に出
来ることはただ、神が召し、聖霊がバプタイズしてくださった
人物を、そのまま受け容れるだけなのです。



  人間は厳密な意味で、誰がこの共同体の真実な構成員であ
り、誰がそうでないかを知ることが出来ません。厳密な意味で
は不可能なことで、ただ神のみがご存知なのです。もちろん、
まったく不可能というのではありません。むしろ、さまざまな
方法で、さまざまな角度から、かなりのところまではわかるの
です。ただ、最終判断は、常に、神に任せなければなりません。
ある特定人物が、本当の意味でキリストのみ体である教会の構
成員であるかどうか、共同体の一員であるかどうかを第三者が
知るためには、まず、み言葉によって客観的判断をしなければ
なりません。その人物が、聖書で教えられている通り、キリス
トを救い主として受け入れ、信頼し、そのみ言葉に立って生活
を始めているかどうか。また、その人物の生活の中に、聖霊が
働いてくださっていることを明確に認めることができるかどう
かです。さらにその人物自身が、み言葉に立って生活を始めて
いることを自覚しているかどうか。また、自分の内にお働きに
なる聖霊の力を感じているかどうかです。聖霊の力を感じて生
きることは、聖霊の証印を得ていることです。多くの場合、信
徒たちは無知のために、救いの自覚を持てないままでいます。
すなわち自分が本当に救われているかどうか、良くわからない
ままでいるのです。ヨハネは、そのような信徒たちが自分の救
いを確信できるために、第一の手紙を書きました。(Iヨハネ
5:13)



  くり返しますが、誰が教会の真実の構成員なのかを知るこ
とは、厳密な意味では不可能です。真実の教会は見えないもの
です。とは言え、実際上はかなり正確に知ることができるので
す。本当に新生の体験をした者には、必ず聖霊のみ業が伴うか
らです。その聖霊のみ業を個人の人生に確認した教会は、たと
えその人物がどのような人物であろうと、人間的な善し悪しの
判断に関わらず、神がその人物を召し、聖霊がその人物を教会
にバプタイズしてくださったものと認めて、実際上でも、管理
上でも、その人物を教会の一員として、喜んで迎え入れるべき
なのです。その人物のために、天において大きな喜びがあった
のですから、教会でも大きな喜びを持って迎えるべきなのです。
(ルカ15:7) このようにして、教会は、人為的な判断や
選択によらない、神の召しによって可能となる共同体であるこ
とを、内外に示すべきです。



  アメリカの福音派の教会では、しばしば、洗礼は授けるが
教会員としては受け容れないということをします。「その人物
は確かに救われたと認めるが、自分たちの教会の基準に達して
いないから受け入れられない」と言うのです。「洗礼は信仰の
問題であるから、キリストを救い主と告白する限り授けるが、
教会への加入は本人と教会の自由な選択の問題であるから、洗
礼を受けることがそのまま教会員になることではない」と主張
します。ある教会の基準は天国より高く、「有色人種はだめ。
ある程度の生活水準と社会的地位がなければだめ」というわけ
です。他の教会は、「酒を飲んでいる者はだめ。ダンスをして
いる者はだめ。映画を観る者はだめ」と言います。「そのよう
な悪癖から開放されてから、改めて、教会加入の申請をしなさ
い」と言うわけです。



  個人主義的教会観のため、自由意志の尊重が聖書の教えの
前に出てきて、教会の加入も個人の自由意志によるものと考え
られ、神の召しや、聖霊によるキリストのみ体へのバプテスマ
ということを、理解する余地がなくなってしまっているのです。
神の国に生まれたばかりの幼子が、それまで悪魔の支配の中で
馴染んできた罪深い生活を、すぐさま捨てて、大人のクリスチ
ャンになれるでしょうか。生まれたばかりの赤子を前にして、
「お前は泣いてばかりいる。おしめは濡らすし、食べ物さえひ
とりでは食べられない。世話がかかってしょうがない。我々の
家は、きちっとした、由緒ある家系だ。お前のような者がいる
と、家中が散らかり、汚くてしょうがない。お客さんが来ても
恥ずかしくてならない。だから我々は、おまえを家族の一員と
は認めない。どこにでも行って、勝手に生きるがいい。そして
自分のことは自分で出来るようになり、きちっとした生活が身
についたら、もう一度訪ねて来るがいい。そうしたら、改めて、
お前が我が家にふさわしいかどうか、審査して決めようではな
いか」などという家族があるでしょうか。しかし、少なくても
アメリカの神の家族の中には、平気でそのようなことをしてい
る者たちがいるのです。神様が受け入れてくださった人間を、
教会が拒絶しているのです。



  一方、日本の福音派の教会の多くは、洗礼を授ける前に、
非常に長い、厳粛な洗礼準備の期間をおきます。文化的な背景
を考慮して、その人物が本当に救われ、聖霊のお働きを体験し
ているかどうかを見極めるために、時間を置くこと自体はある
程度正当化できると思います。しかし、明確な救いを体験した
人、神の国に入れられた人、すなわち、聖霊がキリストのみ体
にバプタイズしてくださった人を、そのバプテスマの象徴に過
ぎない洗礼を引き伸ばし、キリストのみ体の具体的表現である
地域教会に、迎え入れないと言うのは大いに問題があります。
多くの教会は、救われたと言ってもまだ酒タバコを止められな
い人、ギャンブルを続けている人、飲み屋や遊技場を経営して
いる人、そのような所で働いている人、さらには、日曜日の礼
拝会に出席出来ないような「罪深い職業」を止められない人に
は、洗礼を授けないのです。「証にならないから」です。自分
たちの教会の恥になるからです。教会の恥と言いながら、実際
は自分たちの恥だと感じているのです。そのような人々をお救
い下さる神は信じられるけれど、そのような人の中にも働いて、
その人生を作り変えてくださる聖霊を、「見ずして」信じるこ
とが出来ないのです。



  アメリカの例も日本の例も、教会が神に召された人々の共
同体であるという事実を軽んじ、キリストのみ体という共同体
の構成人員の選択を、神の手から奪い、人間的作為で決定しよ
うとする誤りです。多くの場合、いたずらに特権意識、エリー
ト意識を助長し、胡散臭い教会を作り上げます。昔、内村鑑三
が失望して、無教会主義に走る原因となったアメリカの教会は、
そのような教会だったと聞いたことがあります。キリストのみ
体の構成人員、教会という共同体の構成人員を選択決定するの
は、あくまでも神の主権に関わることです。  



  教会は、個々の人間が、自由に参加する組織ではありませ
ん。それぞれが固有の命を持ち、固有に権利を所有して生きな
がら、同じ理念と目的のために集まっている社会的組織ではな
いのです。むしろ、たとえば地域共同体のように、そこに生ま
れ育った者がそこに生まれ育ったというだけで、始めから共同
体の一部と考えられているようなもの、あるいは家族のように、
その家族に生まれたならば、本人の意思と選択に関わりなく、
ただ家族としての血の繋がりを持ってそこに生まれたというだ
けで、始めから家族の一員として受け入れられ、一員として生
活するようなものです。教会とは、神の国に生まれた者が、自
分の選択や決断に関わりなく、神によって入れられ、育てあげ
られる環境なのです。
 

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

  もう30年以上も前のことですが、
当時、私は沖縄の田舎で開拓伝道をして
いました。ベトナム戦争の真っ最中で、
赴任先の小さな村には巨大な海兵隊基地
があり、その入り口付近には歓楽街が広
がり、1,000人とも言われる売春婦たち
が生活していました。開拓間もない集会
には土地の人は滅多に顔を出しては下さ
らず、代わりに、彼女たちが出入りして
いました。若かった私は、熱心にみ言葉
を語り、カウンセリングを繰り返しまし
た。彼女たちは涙を流して、自分たちの
人生を悲しみ、ときには涙で濡れたコン
クリートの床に転がり、「悔い改めの祈
り」さえしましたが、何の変化も起こり
ませんでした。そのようなことを繰り返
しているうちに、私は彼女たちに対する
伝道者としての情熱をすっかり失ってい
ました。

  ちょうどその頃の事です。「臭うよ
うな」格好をした売春婦が、伝道会に現
われたのです。説教のあと、私は伝道者
の義務として彼女に話しかけ、説教者の
義務として、「神様に信頼しさえすれば
必ず神様は助けて下さしますよ」といっ
た程度のことを伝え、牧師の義務として
彼女のために祈り、祈り方を教えた後、
早々にお引取りを願ったのです。

  次の日の朝、いつものように祈りの
ために階下の集会場に行くと、あの女性
が仔犬のような泣き声で祈っているのが
目に入りました。私は彼女に会うのが嫌
で、朝露の中でお祈りをすることにしま
した。次の日も、その次の日も、結局1
週間、私は朝露の中で祈りました。そし
て次の日曜日の夜の伝道集会に、彼女は
再びやってきました。彼女を見た瞬間、
私ははっとしました。同じ服装なのに、
まったく変わって見えたのです。あの
「臭うような」姿がありませんでした。

  説教の後、彼女の話を聞きました。
「神様が私をすっかり変えてくださった
のです。だから、これから、私の周囲の
状況も必ず変えてくださいます。」 私
はただ、「そうです。そうですよ」と相
槌を打つだけでした。彼女によると、離
島の高校を出てすぐに、両親の200ド
ルの借金のために身を売り、働けば働く
ほど借金が増えるヤクザの下で、13年
間この仕事をし続けてきたそうです。そ
してとうとう、5,000ドルもの借金にな
ったそうです。1ドル360円の時代です。
立派な家が一軒建つお金でした。何とか
してこのような生活から逃れようと、一
度は秘かに小船を雇い、島づたいに本土
に密入国したそうです。(当時の沖縄は
アメリカの施政権下にありましたので)
 
  しかし、彼女はそこで自分自身に失
望してしまいました。長い売春の生活が
身についてしまっていたために、やっと
手に入れた新しい自由な生活をするはず
だった本土で、自分から求めて、同じ仕
事に戻ってしまったというのです。それ
でヤクザに見つけられ、また沖縄に密出
国で連れ戻されていたのです。

  ところが、「先週の日曜日の伝道会
に出席して、教わった通りに神様に祈っ
たら、自分はすっかり変わった」と彼女
は言うのです。集会から帰っても、同じ
ように客を取らなければなりませんでし
たが、彼女にはもうすっかり「その気が
なくなってしまった」と言うのです。長
い間のただれた生活によって染み付いた
「性欲」が、彼女から取り除かれていた
のです。彼女は言いました。「これが私
の本当の問題だったのです。これさえな
ければ、本土に逃げたとき、新しい生活
が出来たはずです。しかし、それが出来
なかったのは結局、自分の罪深さです。
でも、先週の日曜日の夜から私は変わっ
たのです。神様が私を変えてくださり、
一番の問題を取り払ってくださいました。
ですから、もう他の問題など、借金もヤ
クザも恐ろしくありません。神様が必ず
解決して下します」

  私は、ただ、「そうです。そうです」
と相槌を打ち続け、神様に感謝しました。
伝道者としての自分に失望していたとき
に、失望していたからこそ神様が働いて
くださったのだと思います。それからの
彼女は最も忠実な信徒になりました。ほ
とんどの集会に出席し、建築途上の教会
堂のため、「女だてらに」労働奉仕にも
独りで出てきました。一番多くの献金を
持ってくるのも彼女でした。律法の書に、
売春で得た金を主のために捧げることが
禁じられているのを思い出して、一生懸
命考えましたが、彼女の場合は律法の戒
めている事情とは異なることに気付き、
献金を許しました。彼女の顔にも態度に
も救われた喜びが満ちていました。

  そのような中で、彼女は自分も洗礼
を受けたいと言い出したのです。当時私
はまだ新米の伝道者で、洗礼を授ける資
格が与えられていませんでしたから、管
理者であった協力宣教師に電話で相談し
ました。始めは、現役の売春婦に洗礼を
授けるなどとんでもないと、厳しかった
宣教師を40分かけて説き伏せました。
この宣教師も、彼女が間違いなく救われ
ていることは、喜んで認めていたのです。
それから、先輩のN先生に洗礼を授けて
くださるでしょうかとお話を持っていく
と、先生は大賛成をしてくださいました。
先生も彼女のことは良く知っておいでで、
聖霊のお働きに信頼しておられたからで
す。それからも、いろいろありましたが、
とにかく、私たちは彼女に洗礼を授けた
のです。



  人間の組織ならば、売春婦が加わる
などということはとんでもないことかも
しれません。あるいは、神の教会にして
も、恥ずべきことかも知れません。しか
し私たちは、教会に人を加えてくださる
のは主であると信じています。教会とは
神に召された人々が構成するものだと信
じています。人間が選択するのでも選別
するのでもありません。それらは神の主
権に属することです。私たちはその人物
が救われたということが確信出来たなら
ば、そして本人が望むならば、一切の事
情を横において洗礼を授けてあげるべき
なのです。洗礼は人間的基準ではないの
です。私たちは、彼女の生活の中に聖霊
がお働きになっていることを確信してい
ました。私たちはその聖霊に信頼して、
彼女に洗礼を授けたのです。

  それから数ヶ月して、彼女は顔を輝
かせてやって来てこう言いました。「神
様がみんな解決してくださいました。」
私は彼女がどのようにして5,000ド
ルの借金を片付けたのか知りません。聞
きもしませんでした。ヤクザとも手を切
ったということですが、果たしてどのよ
うなことがあったのか、聞きもしません
でした。「良かったね。良かったね」と
言って、妻も含めて3人で感謝の祈りを
奉げました。それからの彼女が、実際の
生活を立て直すのは容易なことではなか
ったようです。後任の牧師たちの悩みの
種にもなったようです。しかし、彼女は
神様の恵みの中を歩き続け、正式に結婚
し、娘さんを育てて立派に大学も出させ、
今、夫と共に仲良く教会に通っています。



  誰を教会に加えるかは神様の主権に属することだというこ
とを、私たちは明確にする必要があります。教会は召された者
によって構成される共同体です。私たちは、洗礼志願者の信仰
の確かさを見て、洗礼を授けるのではありません。その人の中
にお働きになっている聖霊を信頼して、その人をキリストのみ
体にバプタイズしてくださった聖霊のお働きを認めて、洗礼を
施すのです。 












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2010年10月21日

教会について 2−L

p68〜78


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B.和解の共同体



  教会は和解の共同体です。教会はまず、なだめの供え物と
なってくださったキリストの贖いのゆえに、神と和解させられ
た人々の集まりです。(ローマ5:1、コロ1:20−22)
神との和解を体験していない人は、この共同体の構成員とはな
れないのです。神と和解し、神の絶対の愛による赦しを体験し
た人々は、その体験を基として、また動機とし、力として、人
間同士の和解を進めて行くことが出来るのです。



  しかし教会が和解の共同体であるということは、人類的な
意味において和解を成立させて行くこと、すなわち人類世界に
平和を作り上げて行くことではなく、神と和解させられた者同
士が自分たちの共同体の中で、神の和解を力として互いに和解
して行くことなのです。神との和解を体験した者同士が、その
体験を基として、互いの間の和解を推進して行くのです。神に
赦された者同士が、赦された喜びと感動をもって互いに赦し合
って行くのです。神が赦してくださった人間を、自分もまた神
に赦された者として、赦して行くのです。神に愛されている者
として、神が愛してくださっている者を、愛して行くのです。
本当に神の和解を受けた者、神の赦しを体験した者、神の愛に
感動している者は、それが出来るようにされているだけではな
く、それを望んで止まなくなるようにされているのです。(コ
ロ3:15)



  神がもたらしてくださったご自分と罪人との和解は、絶対
の隔てと障害を取り除く和解でした。そしてその和解がもたら
す人間同士の和解もまた、人間的には不可能と思われるような
和解です。パウロはそれをユダヤ人と異邦人という関係で語っ
ています。(エペ2:11−22) ユダヤ人と異邦人との民
族的、国家的あるいは文化的、宗教的隔たりというものは、も
っとも和解の困難な隔たりでした。神は、すべての人間がキリ
ストを信じる信仰によって救われるという事実、同じひとつの
恵みによる救いという大原則を打ち立てることによって、この
両者の間に存在する敵意の元である律法を廃止し、隔ての壁を
打ち壊してくださいました。ユダヤ人と異邦人とが、同じキリ
ストの十字架による贖いを経験し、ひとつの体とされ、共に同
じ聖霊によって生かされ、神のより優れた住いとして成長し、
ついには、和解の共同体として、最終的な神との和解に到達す
るのです。



  あらゆる民族間の相違、国家間の相違、文化の相違、言語
の相違、その他すべての相違によってもたらされる敵意は、十
字架によって葬り去られたのです。キリストの贖いに与った人
間たちが作り出す共同体は、この、相違によって作り出された
敵意というものが、十字架によって葬り去られたという霊的な
事実を、共同体の日常生活の中で現実のものとして行く必要が
あるのです。従って、民族や、国家、言語や文化の違いを際立
たせ、これをもって分離的傾向を強める教会は、本来の教会の
あるべき姿を軽視し、無視し、破壊しているのです。また、教
育の差、貧富の差、社会階級の差、職業の差、居住地域の差な
どをもって、人々を拒絶し、自分たちの教会を孤立させるのは
教会の本質を捻じ曲げるものです。(コロ3:11) 教会は
あらゆる相違と格差を超えて存在するものであり、地域教会や
管理上の個教会は、自らがこの教会の本質を具現化して行くも
のとして、ともすれば自分たちの中に芽生える、あらゆる差別
と拒絶を敵として戦って行かねばなりません。聖霊がバプテス
マをもって自分たちの中に加えてくださる、あらゆる異質な人
々を、教会は喜んで迎え入れなければならないのです。人数的
な増加を願うあまり、「均一質群の成長」という社会学的な現
象を重視して、自分たちの管理上の個教会を同じ種類の人々で
形成して行こうとするのは、教会の本来のあり方を否定するも
のなのです。  


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

  1980年代、私はフィリピン北部山
岳地帯に住むイゴロット族と呼ばれる
人たちを対象に、宣教師として活動し
ていましたが、ちょっとしたきっかけ
で、金鉱山の町に伝道を始めました。
人口二万人くらいの小さな町全体が、
ひとつの鉱山会社の従業員で成り立っ
ているという、特殊な社会でした。そ
して、その従業員たちは、フィリピン
中から集まって来たありとあらゆる部
族の人々によって構成されていました。
フィリピン人は大小100を超える部族
に分かれていて、みな、非常に強い部
族意識を持っています。彼らは、自国
にいる限りフィリピン人という意識を
ほとんど持たず、むしろ、自分の属す
る部族の名前で自分を意識しています。
フィリピン人がフィリピン人になるの
は、外国に行った時だけだとさえ言わ
れます。しかし、このような雑多な部
族の集団であるこの鉱山町の従業員た
ちは、明らかに大きなふたつのグルー
プに分けることができました。それは、
もともとこの鉱山町がある山岳地に住
んでいたイゴロットと言われる人々と、
平地から働きに来ていた部族の人々で
す。イゴロットと呼ばれる山岳地の人
々にも15ほどの部族があり、それぞ
れ言葉も文化も違いましたが、一応、
イゴロットとしての共通点がありまし
た。平地から来た人々も20を超える
部族がいましたが、山岳地の町では、
平地の人間という共通意識を持ってい
ました。彼らには言葉や文化だけでは
なく、教育レベルにも差があり、同じ
鉱山で働くにしても職種や給料に大き
な違いがありました。一般に教育程度
が低い山岳地の人々は低い金で坑内に
もぐる肉体労働をしていました。平地
の人々は、大抵、外で、危険が少なく
賃金の良い仕事をしていました。また、
住む社宅にも歴然とした格差がありま
した。ですから、彼らの中には当然、
非常に強い差別意識があり、抗争があ
り、ふたつの社会的グループが友好的
に交わることは不可能に近いものでし
た。

  このような中に私たちは伝道を始
めたのですが、いきさつ上、山岳地の
人々に対する伝道と、平地の人々に対
する伝道を、まったく違うふたつの働
きとして始めました。山岳地の人々に
対する働きは、私たちが自分で開始し
たのですが、平地の人々の伝道は、カ
リスマ運動の影響を受けて新生を体験
したカトリックのテレビタレントが、
同じころ特別集会で始めた働きを請わ
れて引き継いだものです。始めの2年
間は、まったく別の働きとして進めま
した。特に最初のうちは、同じ宣教師
が責任を持っている働きというだけで、
互いに無関心でした。しかし、まもな
く多くの者が神の和解を体験し、救い
の喜びを証し出しました。そして、少
しずつ、同じ和解を体験した者同士と
して、山岳地のクリスチャンと平地の
クリスチャンが、互いの集会の間を行
き来し、交わりを持ち始めました。私
たちは、救われた者はすべて、主にあ
ってひとつの体にされたのだという霊
的な真実を、折りあるごとに強調し続
けました。

  やがて、両方のグループの主だっ
たクリスチャンたちの間から、なぜ我
々はふたつの別々の会衆として活動し
ているのか。我々はひとつではないか
という声が上がってきました。しばら
くの間はそのような声に抵抗する者も、
耳を貸さない者もいましたが、やがて、
神との和解を体験した者は、すべての
差別を乗り越えて和解すべきだという
声が、圧倒的な力を持つようになりま
した。このようにして、この金鉱山に
はひとつの教会が誕生したのです。実
際上は、いくつもの家庭集会と地域集
会、あるいは地域礼拝会もありました
ので、いくつもの地域教会が有機的教
会としての交わりを強め、とうとう管
理上のひとつの教会となったというこ
とですが、互いに受け容れ合うことが
なかったふたつのグループ、あるいは
もっと多くの敵対していた人々の集団
が、和解の福音で和解の共同体となる
のを目の当たりにしたのです。

   ○ ○ ○ ○

  もうひとつの話をいたしましょう。
先に述べた教会が活発になって、多く
の信徒伝道者たちが出現し、いろいろ
な所で開拓伝道を始めたころ、私は彼
らのひとりに招かれて、開拓伝道の支
援に出かけました。10人近い出席者
の中に、80歳を相当超えるだろうと
思われるお婆さんがいました。みんな
が私と挨拶を交わしていた時、彼女は
吐き捨てるように言いました。「わし
ゃ、日本人は嫌いだ!」 彼女のご主
人と長男は、彼女の目の前で、日本兵
に惨殺されていたのです。私は黙って
微笑みかけて、奉仕を始める以外にあ
りませんでした。それからも幾度か、
彼女のいる集まりに奉仕に行きました。
私は日本人の戦争犯罪を重く受け止め
ています。それは、日本軍が残虐な行
為を繰り返してついに降伏した、フィ
リピン北部の山岳地に向かったひとつ
の理由でもありました。フィリピンで
命を落としても良いと思っていました。
しかし、日本人の戦争犯罪のために、
口で詫びたことは一度もありません。
私は口で詫びるためにそこに行ったの
ではないからです。そうこうしている
うちに、彼女も神の和解を受けました。
そして、しばらく後に、わたしは彼女
に洗礼を授けることになったのです。
彼女が作ってくださった、イゴロット
特製のニワトリのスープも何回もご馳
走になりました。少なくても、その頃
には、最初のわだかまりはなくなって
いたように、・・・・・私は感じまし
た。 

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 
 

 教会は和解の共同体です。



C.有機的共同体



  教会は、それぞれ別々の命を持つ者たちが寄り集まって作
り上げる、コロニーのような集団ではありません。コロニーは、
元々それぞれの命を持っている、多くの個体が集まって形成す
るものです。しかし教会は、元々それぞれの命を持っている個
人が集まって構成するのではありません。教会を構成する人間
たちは、教会にバプタイズされる前は、命を持っていなかった
のです。彼らが持っていたのは動物としての命、生物学上の命
であって、神に似せて造られた人間としての命ではありません
でした。人間固有の、神に造られた霊的な存在としては、死ん
でいたのです。(エペ2:1〜6、参ルカ9:60) 神の召
しを受け、キリストの贖いを受け、キリストの体にバプタイズ
され、聖霊によって生かされて初めて、本来の命を得たのです。
ですから、命を持った者が同じ趣旨で寄り集まって形成するの
が教会ではなく、多くの命のない者が、ひとつの命に繋がれて
命を与えられ、生きる者となったのが教会なのです。



  教会は、その構成員全員がひとつの命を共有する集団です。
キリストは、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」と
お語りになった時、明らかに、そのような有機的な交わりとし
て教会を予見しておられたと理解すべきです。(ヨハネ15:
1−8) ぶどうの命が、一本の幹からすべての枝々に流れ行
き、それらを生かすように、キリストに連なるすべての人々に
キリストの命が流れ渡り、彼らを生かすのです。すべての枝々
に同じ命が流れるように、キリストに連なるすべての人々に同
じキリストの命が流れるのです。



  パウロは、このキリストに連なるすべての者にあふれ流れ
る命に関して、「すべての者がひとつの御霊を飲むようにされ
た」と語っています。この事は、パウロが同じ節で語っている
「ひとつの御霊によって、ひとつの体にバプテスマを受け」た
という事と同じであり、同じ事を強調してふたつの方向から表
現したものでしょう。(Iコリ12:13) そこで言われて
いることは、神の救いを受けた者はその瞬間、キリストのみ体
である教会にバプタイズされ、その事はまた、聖霊を飲むとい
う事そのものだということです。キリストを信じた者はすべて、
キリストのみ体にバプタイズされ、同時に、聖霊を飲むという
表現がふさわしい経験をするのです。すべてのクリスチャンは
キリストのみ体を形成するものであり、キリストのみ体を形成
するすべてのクリスチャンは、同じ聖霊によって生かされると
いう霊的事実が語られているのです。



  さらに、このキリストのみ体に連なるということは、単に
新しい命に生かされるということだけではなく、古い律法から
開放されて生きることを意味しています。(ローマ7:4)パ
ウロは、キリストのみ体に有機的に繋がることが、結婚による
結合と同じ意味を持っていることを教え、死者の中から甦られ
たキリストと有機的に結ばれたならば、古い夫であった律法は
その人に対して死んだものとなり、その人もまた、律法に対し
て死んだものとなると語っています。私たちが古い行いの律法、
あるいは律法を持たなかった私たち異邦人が、古い良心(ロー
マ2:14−15)に対して死に、古い文字によらず、新しい
御霊によって生きるのは、ただ個人的な信仰によってキリスト
と繋がることによってではなく、キリストのみ体である教会に
連なることによって起こることなのです。キリストのみ体に繋
がってはじめて律法に死ぬのです。



  私たちひとりひとりは、まず信仰によってキリストに繋が
り、命をいただき、その命をもってキリストのみ体である教会
という共同体に加わり、そこで命を分かち合うのではありませ
ん。キリストを信じてキリストに繋がるということは、キリス
トのみ体である教会に繋がるということであり、ふたつの別々
の事ではないのです。ですから、キリストのみ体に繋がらない
まま、キリストの命を受けるということは本来あり得ないので
す。もちろん、現実には「無教会主義」を主張する人々もあれ
ば、どこの教会にも所属していないことを誇りにしているよう
な、個人主義的クリスチャンもいます。しかし、神は大きな哀
れみの中で、そのような間違った考えを持って教会の大切さを
否定しているような人々をも、有機的教会の中に含み入れてく
ださり、命を与えていてくださるのです。



  さらにパウロは、教会はキリストのみ体であり、ひとりひ
とりはその肢体であると語っています。(ローマ12:4−8、
Iコリ12:1−31、エペソ4:16) すべての肢体は、
同じひとつの体に属するものとして、同じ命によって生かされ
ています。その同じ命によって生かされているという事実は、
聖餐式に連なる全員がひとつのパンを食べるという行為で、象
徴的に示されています。全員が同じキリストを食べ、すなわち
同じキリストを命として取り込み、その命によって生きるので
す。真実なクリスチャンはすべて、同じキリストの命に与り、
その命によって新しく生かされているのです。キリストのみ体
に連なる者はみな、かつて生ける屍として生きていた命を持ち
寄って、コロニーとして互いに助け合って生きるのではなく、
キリストのみ体である教会に連なることによって、教会の頭で
あるキリストに連なり、そのキリストがお与えになる新たな命
によって、ひとつの命の有機体として生きるのです。教会はキ
リストの命によって生かされる運命共同体です。



  教会が、同じキリストの命によって生かされるひとつの有
機体であるということは、必ずしもひとつの組織、ひとつの管
理上の教会であることを要求しません。それは、たとえ管理上
は別々の個教会であったとしても、見えない教会としての一致
性、連帯性を持つということであり、その見えない連帯性は、
時折、見える形で姿を現すということです。それは、例えばパ
ウロが、マケドニヤやアカヤの教会からエルサレムの教会に、
義捐金を送り届けた行為などに見ることがます。



  パウロはまた、この有機体としての性質が、教会の中で具
体的にどのように表現されるべきか、かなりの情熱を傾けて語
っています。(Iコリ12:1−14:40) 彼は先ず、教
会というものが、徹頭徹尾、同一の聖霊の働きによって成り立
つものであることを示しています。異なった賜物をそれぞれに
分け与えられたのも同一の聖霊であり、異なった人々を教会に
お与えになったのも同一の聖霊です。聖霊の存在こそが、有機
体としての教会の決定的要因です。そして聖霊がそれぞれにお
与えになった異なった賜物は、教会全体の益のために用いられ
るものであり、聖霊がひとつの体にバプタイズしてくださった
千差万別の人々は、同じひとつの体に属する肢体として互いに
助け合い、全体の成長を促すようにされているのであると教え
ています。



  パウロの教えは、聖霊が異なった人々を集め、異なった賜
物を与え、一致協力してひとつの目的のために働く組織として、
教会を存続させておられるというものではありません。教会は、
単なる機械的な組織以上のものです。機械的組織では、ひとつ
ひとつの部分が独立した存在で、部分と部分の間には命の繋が
りがありません。そこには有機性がないのです。もちろん、人
間的組織である以上、感情的な繋がりはでるでしょう。同情も
感情移入も起こるでしょう。助け合いも痛みの共有も発生する
でしょう。そのようなことはひとつの会社の中にも、軍隊の中
にも起こります。そして、当然教会の中にも起こってきます。
日本語には「同じ釜の飯を食った仲」という表現もあります。
しかし、教会が有機体であるということは、そういうことでは
ありません。それ以上のことなのです。



  日本人の「同じ釜の飯を食った」仲間意識は、ある時は「同
じ米の飯を、同じ釜の中から食った。俺たちはひとつの命を共
に分け合ったのだ」というほど、強くなります。教会が共同体
だというのは、全員が、まさに同じひとつの命を分け合い、そ
の命に生かされているというところにあるのです。その命とは、
キリストの命であり、その共有は、召された者すべてがキリス
トのみ体である教会にバプタイズされ、その教会を宮としてお
住みになる聖霊が、バプタイズされた個々のクリスチャンの中
にも生き、住んでくださるという、霊的現実によって実現する
のです。このキリストの命によって生かされていることを強烈
に感じていたパウロは、「もはや生きているのは私ではなく、
キリストが私の中にあって生きていてくださるのだ」と語りま
した。共同体としての教会が聖霊に住んでいただいて聖霊の宮
となり、またひとりひとりのクリスチャンが、共同体の一員と
して聖霊に住んでいただくことによって聖霊の宮となり、教会
全体が聖霊を通してキリストの命が満ち、溢れ、流れるところ
となるのです。



  兵士たちが軍隊を離れても、死ぬことはありません。会社
員が会社を辞めたとしても、死ぬわけではありません。彼らの
命は、もともと彼らの固有のものだからです。しかしクリスチ
ャンが霊的共同体、有機的教会を離れてしまったならば、それ
は霊的な死を意味します。キリストのみ体に繋がらない、固有
の命を持つ肢体は存在しないのです。従って、教会とはまさに
運命共同体なのです。パウロが語る体の喩え、すなわち、体の
各器官は互いにそれぞれを必要とし、互いに助け合い、痛みを
負い合って生きる生き方は、(Iコリ12:14−27) そ
のような運命共同体として必然の姿であり、外部からの、例え
ば組織の一員としての意識とか、人間的同情心の発露とか言う
ものではなく、内部にあふれ流れるキリストの命の、自然かつ
当然の発露としての生き方なのです。



  パウロが教会の成長について語る時、彼はこの有機体とし
ての教会の成長について語っているのであり、(エペ4:11
−16) 人数的な成長、経済的な成長、地理的拡大としての
成長などには触れていません。彼がそのような事柄にまったく
無関心であったと言う訳ではありませんが、彼がもっとも心に
掛けていたのは有機的成長だったのです。(ガラ4:19) 
また、パウロにとっては、クリスチャンひとりひとりの個別の
成長よりも、むしろこの有機体としての教会全体の成長の方が、
大切な主題であったことが明らかです。(Iコリ14:2−
19、エペ2:20−22、4:11−16) パウロが信じ
ていた教会とは共に成長する共同体であり、共に痛む共同体で
した。それは有機体そのものです。ですからまた、パウロにと
ってもっとも悲しむべきことは、教会が仲間割れをして一致を
失い、有機体としての教会の成長を妨げてしまうことでした。
(Iコリ1:10−13、3:1−17、6:1−8、11:
17−34、ピリ2:1−8、4:2) キリストもまた、や
がて誕生する教会が一致を保つことを、もっとも気に掛けてお
られました。(ヨハ17:21−23)



  ただし、パウロがそのために奮闘した教会の一致、キリス
トが祈られた教会の一致は、必ずしも組織上の一致でも管理上
の一致でもありませんでした。それは教会が世界的な広がりを
見せ、文化、国家、人種、民族などのあらゆる複雑な状況の格
差の中に、同時に存在しなければならなくなるということを、
キリストは言うまでもなく、パウロも当然心得ていたはずだか
らです。



  複雑な世界の異なった実情の中に、複数の会衆や地域教会
が同時に存在するためには、また、様々な種類の異なった人間
に対して、多数の教会が同時に存在し有効に活動をするために
は、当然、異なった管理と異なった組織が必要であり、異なっ
た形態も活動も必要だからです。多くの人々が、教団や教派と
いうものを分裂という方面からのみ捕らえ、聖書には記されて
いない教会のあり方として、疑いの目を向けるのは正しいこと
ではありません。確かに教派や教団には人間的な弱さや罪深さ
のために、分裂分派として興ったものもたくさんあります。し
かし、異なった教派や教団が存在すること自体は、必ずしも悪
いことではなく、むしろ必然なのです。



  たとえば、教会の政治形態ひとつを取り上げてみても、個
人主義哲学が徹底し民主主義の土台がしっかりと据えられてい
る、アメリカなどで会衆制度を持つのは良いことかも知れませ
ん。それぞれの国において宗教的迫害を経験して新天地に逃れ
てきた人々が、政教分離の原則を打ち出すことにも歴史的必然
性があるでしょう。しかし、歴史が異なっている国々に対して
、同じ原則を押し付けるのには無理がありますし、族長政治や
部族政治、あるいは植民地政策政治、さらには独裁恐慌政治し
か知らなかった者たちに、突然、会衆制度を適用したりするの
は愚かなことですし、キリスト教の背景の非常に薄い文化で、
若い、出来たての教会に会衆政治を持ち込むのも賢くありませ
ん。教会があらゆる人々に有効に存在するためには、むしろ異
なった団体の異なった形態と異なった活動の方法が必要であり、
聖書の深い教えを様々な方向から理解するためにも、複数の教
派があり教団があったほうが良いのです。従って、現在の私た
ちに必要なのは、すべての教会の組織上、管理上の一致合同で
はなく、むしろ有機体としての一致なのです。
   


  そこで非常に残念に思うことは、私たちの地域教会に縄張
り争いとも言える問題があることです。自分たちの教会がある
近くには、他の教会には来て貰いたくないという、あの感覚で
す。このことのために諍いを起こした教会が方々にあり、争い
を体験した牧師もたくさんいます。自分が牧会している教会の
近くにバプテスト教会が来たら、ホーリネス教会が来たら、単
立の教会が来たら、早速抗議に向かうという勇ましい牧師も、
随分います。同じ団体でも、自分の伝道している地域の近くに、
他の教会が来ることを非常に嫌がります。



  100年と少し前、フィリピンがスペインの統治から離れ
てアメリカの支配下に入ったとき、アメリカのキリスト教会は
直ちに宣教師を送り出しました。しかし、彼らは宣教師たちが
互いに争うのを懸念して、当時宣教師を送り出していたアメリ
カの7つの主だった教団の数に合わせて、フィリピン全土を7
つの地域に分け、不可侵条約を結び「平和裏」に宣教を進めよ
うとしたという、嘘のような本当の話しがあります。フィリピ
ンの私たちの姉妹教団には、存在している自分たちの教会の半
径7キロメートル以内では、新たに伝道を始めないという規則
があります。私は総理と教区長と相談の上、すでに存在してい
る教会の牧師と掛け合って、この取り決めを破って伝道を開始
したことがありますが、大変な説得の努力と時間が必要でした。



  もし、教会と言うものの本当のあり方や、性質というもの
を心得ていたならば、自分たちと違う教団、自分たちと異なっ
たやり方をする教会、自分の方向性に納得しない牧師がいるこ
とを、感謝できるようになります。そのような教団があるから
こそ、自分たちの教団では手に負えないような働きが、充分可
能になるのです。そのような教会があるからこそ、自分の教会
では手が出せないような人々にも、伝道が可能になるのです。
そのような牧師がいるからこそ、自分にはとうてい届かないよ
うな働きが可能になるのです。自分以外の働き手、自分たち以
外の教会が、自分の近くにいてくださると言うことは、実に心
強いことであるはずです。そのようにして、ひとつの教団、ひ
とつの地域教会、ひとりの牧師では到底達成できない働きを、
教会全体として達成して行くのです。それが現実です。ですか
ら、私たちはもっと現実を受け入れて、自分と違う働き手がい
ることを、大いに喜ぶべきなのです。

  

  私たちはひとつの教団という組織に属して働いています。
しかしこの組織は、組織だけであってはならないものです。教
団は、有機的共同体としてまさに教会そのものなのであり、教
会としての資質を十二分に発揮すべきなのです。まず、意識の
改革が必要です。幸い私たちの教団には、「何々先生の弟子」
だとか、「何とか先生の系列」という感覚はまったくありませ
んが、「中央聖書神学校」卒業生として、同じ釜の飯を食った
仲という強い意識があります。この意識自体は悪いものではあ
りません。しかし、私たちの教団をひとつにする絆が、そのよ
うな意識であってはならないのです。すでに、この学校を卒業
していない教職たちが、何人も出てきています。同じ学校を出
たという事実のゆえに、協力しようとか助け合おうという、一
般社会の共同体ではなく、同じひとつのみ体にバプタイズされ
た者という意識、同じ宣教の目的のために献身している者とい
う意識が、常に先行しなければならないのです。



  私が沖縄の片田舎で開拓伝道をしていた時は、過疎化のた
めに地元の高校を卒業した者は100%土地を離れ、多くは京
阪神地域に職を求めて出て行きました。この若者たちを追跡す
るのは至難の業でした。京阪神地域にある教会に紹介するので
すが、ろくに挨拶も会話も出来ない田舎者の世話をしてくださ
る教会はほとんどありませんでした。手紙を出すことも知らな
い若者たちの多くは、都会の雑踏の中に埋没し、消滅して行き
ました。また、紹介した教会から紹介を受け入れたという返事
も、いただいたのはただ一度だけです。紹介した牧師も若造に
過ぎませんでしたし、要するに軽視されていたのだと思います。
東京に出た折、住所を頼りに、紹介先の先生にお願いして一緒
に数人を尋ねたことがあります。一度か二度はその教会に行っ
たというのですが、誰も関心を持ってくださらなかったし、馴
染めなかったから、すぐ止めたそうです。その後、教会からは
一度も、何の連絡もなかったからと、うつむいていました。ま
た、ある時などは、紹介した若者が数年して戻ってきたのです
が、東京の教会からは紹介した私たちの教会に送り戻されたの
ではなく、他の教団の教会に紹介されていたのです。



  現在でも、過疎化の田舎の教会は、信徒や求道者たちをど
んどん都会に送り出しています。せっかく苦労して育てて、や
っと信仰の決意をした頃、やっと献金が出来そうな状態になっ
た頃、都会に出て行くのです。そしてその多くは雑踏に紛れて
失われてしまいます。上手く行っても、都会の教会で教会員と
なり、田舎の教会の力にはなりません。統計を出したわけでは
ありませんから、正確なことは言えませんが、人口が集中し続
けている地域の教会は、かなりの数の信徒を、過疎化の中の教
会から受けていると思われます。人口集中地域の教会は過疎化
の教会があるからこそ、人数が増えているとさえ言えそうなと
ころがあるのです。力のある牧師は都会でどんどん教会を大き
くしているけれど、能力のない牧師は、自立もままならないま
ま田舎で苦労しているというイメージは、正しくありません。
むしろ、能力のない田舎の牧師たちの犠牲の上に、力ある都会
の牧師たちが大きな教会を建てていると言ったほうが適切なの
です。これはキリストがお建てになった有機体の原則と逆行す
るものです。痛みを感じる過疎化の地域の教会や牧師が、この
ようなことを理解するのはごく当たり前です。しかし、都会の
牧師にはなかなかそれがないようです。とは言え、私たちの仲
間の都会の牧師たちの中には、そのようなことをよく理解して、
秘かに過疎化の教会を支援し続けている方が何人もいるという
事実に、おおいに慰められます。しかし、教団が本当に有機的
共同体としての性質を具現するためには、過疎化地域の教会に
対する配慮を、組織として作り上げて行かねばならないはずで
す。



  人口が流入してくる地域の教会や都会の教会にも、様々な
困難はあります。しかし過疎化の田舎の教会が抱える問題の大
きさには及びません。まず、先にも触れたように、最も福音を
受け入れ易い年代の若者たちの多くが、学校を卒業すると土地
を離れて戻って来なくなります。誰もいなくなってしまうので
す。もちろん都会の若者も移動しますが、出て行く者があれば
入ってくる者がいます。次に福音を受け入れ易いのが、転勤族
と言われる、土地に根ざしていない人たちです。彼らも数年で
いなくなります。残される土地の人々は、家族親族などの強い
絆としがらみに捉えられて、社会的にも文化的にも身動きの取
れない、最も福音を受け入れにくい人々です。たとえ、その人
たちの中では比較的に福音を受け入れ易い、家庭の主婦などが
個人的に福音へ関心を示しても、たちまち家族親戚の厳しい監
視の目にさらされ、クリスチャンになることはおろか、教会に
来ることさえはばかることにならざるを得ないのです。結局、
過疎化の田舎の教会は、社会からは相手にされない種類の人々
がたむろする、怪しい場所になってしまいます。このようなイ
メージから教会が抜け出すには、都会では想像もつかないよう
な、期間と努力が必要になります。



  教団が、有機体としての教会であるということを理解せず、
組織としての教団という感覚だけで教団の運営を進め、教団に
所属する教会、教団に所属する教職という意識で物事を決定し
て行くと、教団はもはや教会としての姿を失い、一般の中小企
業団体や商店主の集まりと変わらなくなってしまいます。うま
く行っている時は仲良くやりますが、いったん躓いたり問題に
遭遇したりすると、たちまち、自我と欲の絡み合いになってし
まいます。互いに痛みを負い合い、助け合う姿は遠のき、張り
合いといがみ合いが当たり前になり、互いに傷つけ合い、怒り
と悲しみをぶつけ合うことになります。私は宣教師としてフィ
リピンで活動していましたが、残念ながら、当時そこで見た教
団運営には、有機体としての意識が薄く、教職たちの間にもそ
のような感覚はありませんでした。ほとんどの者たちが自分の
教会、自分が建てた教会、自分の教会の益のために、自分の益
のためにという感覚で動いていました。牧師や伝道者たちが互
いに利害を争って対立していました。教団選挙には現金が飛び
交い、総会には武器を持ち込む教職さえいました。牧師たちは
教会を私物化し、信徒たちは牧師を従属させようと画策してい
ました。個人主義と民主主義が徹底していたアメリカの教団の、
会衆主義に近い教団規則をそのまま持ち込んだ結果でもありま
すが、教団自体に有機体としての教会という理解も感覚もなか
ったためです。



  ひるがえって日本の教団を見ても、日本人としての倫理観
の高さから、フィリピンほどの犯罪に近いような歴然とした悪
は指摘出来ないまでも、中小企業の経営者や商店主のような感
覚で教団を見ているのではないかと、疑わざるを得ないような
同労者諸師がいらっしゃるのです。総会で利害を争ったり、自
己の名誉や益のために理事会の決定に従えなかったりする方た
ちが、かなりいらっしゃるのです。これは単に、献身態度が出
来ていないというだけではなく、有機体としての教会そのもの
を理解していないのです。いずれ教会の私物化もたくさん表面
化して来るのではないかと恐れます。たとえば、大きな教会に
世襲化の様相が見えています。親が大変苦労して建てた会社や
商店を、子供が引き継ぐということはよく見られる現象です。
しかし、教会とはそのようなものではありません。もちろん世
襲には具体的に多くの益がありますし、世襲をしようとしてな
ったのではなく、あらゆる配慮から、結果としてそのようにな
る場合もあり、それなりに正当と認められることでしょう。し
かし世襲はやはり、教団の有機性を大きく傷つけるものであり、
長い目で、また広い目で見ると、目先の益と比べられない害悪
を生み出すと考えられます。これは一般原則として許されては
ならないもののはずです。私財を投げ打って開拓し、誰の助け
も借りず血と涙で建て上げた教会も、主のみ前では、牧師のも
のではないのです。絶対に違うのです。それは主のものなので
す。現在の世襲制の流れを許していると、教団の中に、使命に
立ち、犠牲を負って開拓に出る人たちはいなくなりますし、田
舎の伝道に情熱を持つ者もいなくなることでしょう。先に述べ
たように、田舎の教会はなかなか成長出来ません。しかしその
田舎の教会があってこそ、都会の教会の成長があるのです。他
の部分のために犠牲になることを喜べる部分がなくなってしま
っては、体は有機体ではなく、機械になってしまうのです。パ
ウロは、異邦人の間に建てたたくさんの教会を自分のものだと
までは言わなくても、自分の管理上の権威と権利を主張して、
他の兄弟たちが介入したり、口を挟んだりすることを、断固と
して拒絶も出来たでしょう。しかし彼は、エルサレム会議に赴
き、自分が受けた啓示を誇ることもなく、啓示を受けていない
兄弟たちと意見の調整をしようとしているのです。パウロは徹
底した有機的共同体の人でした。













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2010年10月22日

教会について 2−M

p78〜p8


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D.愛の共同体




  教会は、神を愛する人々が作り上げる共同体です。神を愛
する人々は、自分から先に神を愛したのではなく、神が愛して
くださっていることを先に体験した人々です。神の愛を知って
神を信頼し、神を信頼することによってますます神の愛を知り、
神を愛するようになった人々です。神に愛されているという自
覚は、何にもまして落ち着いた揺るがない安心をもたらします。
愛されているという自信が、正しい自己愛を生み出しそれが安
心と落ち着きを与えるのです。その自信は、自分の資質や能力
や美しさなどによるものではなく、何の取り得もないにも拘わ
らず、ただ神の愛の対象にされているという驚きと感動の伴う
自信です。神に愛されている者は、このように落ち着いた愛を
持って神を愛するようになるのです。



  そして、神に愛されているという自覚と自信から来る、こ
のような、神に対する落ち着いた愛は、自然に、同じように神
に愛されている人々にも向かいます。神を愛する者は、神から
生まれた者を愛するのです。ですから、神を愛していると言い
ながら、兄弟を憎む者は偽り者です。神を愛するという者は、
兄弟をも愛すべきなのです。(Iヨハネ4:19−5:2) 
もちろん、このような事が、まったく自動的に起こるのではあ
りません。それは、クリスチャンひとりひとりの成長と、共同
体としての成長に従って実現して行くことです。しかし教会は、
神の愛によって愛の共同体となるという事実は、単なる神学や
教えの範囲に留まらす、生身の教会の中に実現していく真実な
のです。



  キリストはまだ生まれる前の教会に、「あなたがたに新し
い戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。
私があなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互
いに愛し合いなさい」と、教会の憲法とも言える戒めをお与え
になり、さらに、「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、
それによって、あなたがたが私の弟子であることを、すべての
人が認めるのです」と、あたかもだめ押しのようにおっしゃい
ました。(ヨハ13:34−35) 教会は、互いに愛し合う
共同体です。



  キリストが、まだ胎児であった教会にお与えになった命令
は、愛という同じ主題でありながら、旧約聖書で与えられた、
「自分を愛するように隣人を愛せよ」という教えとは本質的に
異なる、まさに新しい戒めでした。まず、旧約の戒めは、イス
ラエル民族に与えられたものであり、人類全般に通用する普遍
的な戒めでしたが、キリストがお与えになったのは、キリスト
に従う弟子たちという、狭く、厳しい限定付の戒めでした。キ
リストに従わない人々には適用しないし、適用出来ない戒めで
す。次に、愛の種類がまったく異なります。旧約の言う愛は不
完全な人間が、不完全に自分を愛する愛が基準です。しかしキ
リストの新しい戒めでは、キリストがキリストの弟子たちを愛
してくださった、完全な愛が基準です。このキリストの愛を理
解するのは、キリストの愛を体験し、知っている者だけです。
キリストの愛を自分で体験したことのない者は、この愛を理解
することさえないのです。また、旧約の戒めが一方通行の愛で
あるのに比べ、キリストの新しい戒めは相互愛、両方通行の愛
です。これは、キリストの愛を体験し、キリストの愛によって
改めて生かされ、愛することが出来るようにされている者同士
に、初めて可能なことなのです。




  つまり、キリストがお与えになった戒めは、本物のキリス
トの弟子の集団、キリストの愛を自らの体験とした者たちの集
団にだけ、守ることが可能な戒めなのです。たとえ、実際上は
完全に守ることが不可能であるとしても、限りなく完全に近付
くことが出来る可能性を秘めているのです。それはあたかも、
今は何にも出来ない幼子が、やがて大人になって、多くのこと
が出来るようになる可能性を秘めているのと同じです。ですか
ら、この相互愛が実践されていることが、キリストの弟子であ
ることの最も明確な印となり得るわけです。互いに愛し合うこ
とこそ、キリストの弟子の共同体のあるべき姿、他のすべての
集団との明確な相違なのです。愛し合う団体、愛を強調する組
織はたくさんあります。しかし、神の愛を体験することによっ
て愛の動機を強められ、実際に愛する力を与えられた者たちの
共同体は、どのような人間的組織よりも、強く、高く、深い愛
を実践して行けるのです。




  愛の共同体であるということは、愛の一面を表現したすべ
てのものに通じます。それは赦しの共同体を作り、和解の共同
体を作り、互いに相手の存在を尊重し合う共同体を作り、互い
に受け入れ合う共同体を作り、互いに助け合う共同体を作り、
喜びと悲しみを共にする共同体を作り、痛みを負い合い、重荷
を負い合う共同体を作ります。教会とは本質的にそのような共
同体であり、そのような愛を、具体的に実行し、本質を具現し
ていくものです。愛は表現され、実行されて行くべきものだか
らです。



  キリストが弟子たちにお与えになった「互いに愛し合いな
さい」という新しい戒めは、必然的に、共同体を前提とするも
のです。互いに愛し合うという行為は、ひとりで個別に生活す
る、隔離された弟子には不可能なことだからです。互いに会っ
たことも話したこともない、知らない者同士が、どのようにし
て具体的に愛し合えるのでしょうか。ですから、教会に加わら
ないクリスチャンは、このキリストの新しい戒めを無視してい
るクリスチャンです。この戒めは、教会に加わろうとしないク
リスチャンの存在を、正当化させないものです。それと同時に、
教会が愛の共同体であるということは、神がご自分の主権をも
って教会にお加えになった人々を、たとえ彼らがどのような人
間であっても、同じ体に属する肢体として、同じ神の家族に加
えられた兄弟姉妹として、受け入れ、留まることを喜び、公平
な取り扱いを受ける権利を持っていることを、積極的に認める
ことでもあります。教会は神が召し、加えてくださったどのよ
うな人をも疎外してはなりません。差別をしてはなりません。
居場所をなくしてはなりません。どのように弱く、小さく、迷
惑ばかりかける、世話の焼ける、何の益もないと思われるよう
な人間、この教会にとっては居てもらわないほうが良いと判断
される人間であっても、神の愛の対象として受け入れ、愛して
行くのです。



  また教会が愛の共同体であるということは、単に地域教会
や管理上の個教会内部のことに限られず、有機体としてのより
広い地域に散在する諸教会にも及ぶものです。エルサレム教会
が互いの所有物を分け合っただけではなく、マケドニヤやアカ
ヤの教会が、飢饉で苦しむエルサレム教会のために義捐金を募
り、パウロに託しました。パウロはその義捐金を届けたならば
必ず逮捕され、迫害を受けることを預言によってはっきりと知
っていながら、エルサレムに向かいました。その愛の共同体と
してのあり方、姿に、自分の命を賭けているのです。



  さらに、愛の共同体としての教会は、キリストがなさった
と同じように、弱い者や貧しい者、あるいは小さな者に対して
特に心を配るのです。社会的に弱い立場にある人たちの味方に
なり、彼らのために尽くします。キリストが、まさに自分こそ
人々の待ち望んでいたキリストであると宣言なさった時、読み
上げられたイザヤ書のみ言葉は、特に、貧しい人々、捕らわれ
人、盲人、虐げられている人々に対する、救いと開放のおとず
れの宣言でした。(ルカ4:18) ヤコブは、具体的に、教
会に貧しい人が訪れてきた時、その人たちを差別してはならな
いことを、厳しい口調で語っています。(ヤコ2:1−9)



  教会を大きくすることに主眼を置いたり、教会のイメージ
のことを考えたりすると、社会的な強者、すなわち金持ちや地
位の高い人、尊敬されている人、力を持っている人を大切にし
たくなります。本当のところ、教会に社会の隅で生きているよ
うな人々が数人留まると、それだけで、教会のイメージは悪く
なり、人々は彼らを避けて、来なくなります。教会の人数的成
長、経済的成長は台無しにされます。その上、彼らはあれやこ
れやと、よく問題を起こし世話ばかり掛ります。彼らのことを
構っていると、他に何も出来なくなってしまいます。そこでつ
い、邪険に扱ってしまうことさえ出てきます。すると、ナイー
ブな彼らはすぐに傷つき躓きます。とても扱いにくい人たちで
す。このような人たちなどいないほうがいいと、心の片隅に思
わないこともないのです。本当に、自分の教会を大きくしよう
と考えたら、このような種類の人間は、少なくても、開拓の初
期には来て欲しくありません。しかし教会は、そのような人々
を差別してはならないのです。特に、もしその人たちが、たと
え何もわからないままでも、キリストを救い主と受け入れ信じ
ているならば、絶対に、教会は彼らを軽蔑したり差別したりし
てはならないのです。彼らのみ使いたちは、常に父なる神のみ
顔を仰いでいるのです。(マタ18:10)



  教会は世界の宣教を命じられています。しかし、地域教会
やひとつの管理上の教会を、大きくするようにとは命じられて
いません。というより、教会を大きくするようにという教えや
命令は、聖書のどこにもないのです。確かに使徒の働きの中で
は、教会の人数が幾度か数え上げられていますが、それは初期
の教会の成長と発展をしるした歴史書としては当然のことであ
り、人数的拡大を強調しているのではありません。地域教会や
管理上の個教会の人数の増加は忠実な宣教の結果であっても、
宣教の目的ではないのです。ところが、社会的に弱い人たちに
対する公平な取り扱い、あるいは特別な配慮は、旧新約聖書を
通して最も大切なことのひとつとして教えられ、命じられてい
るのです。教会の「成長のために」、小さな人々が切り捨てら
れて行くのを見るのは、なんと悲しいことでしょう。より多く
の人が救われるためという、金科玉条のゆえに、弱い立場の人
々が無視されて行くのです。石臼を首にくくりつけられて、海
に投げ入れられた方がましということにならないようにしたい
ものです。



  さらに、教会が愛の共同体であるということは、教会内部
の相互愛だけではなく、外部の者に向かっても具体的に示され
ていきます。それは、旧約聖書の戒めである、自分を愛するよ
うに隣人を愛するという、より普遍的な愛のあり方ではありま
すが、旧約時代の戒めの一般愛とは、やはり異なるところがあ
ります、それはクリスチャンたちの自己愛は、キリストの愛を
知ったことによって原則的な変化をしているからです。キリス
トの愛を知る前の自己愛は、ごく普通の自己愛、自分が可愛い
自己愛でした。しかしキリストの愛を知ってからの自己愛は、
自分の存在自体を価値あるものとする自己愛、自分そのものに
本源的価値を認める自己愛、自分可愛さの自己愛ではなく、自
分にはまったく価値がないにも拘らず、神の愛の対象とされて
いる自分であるがゆえに自分を愛する愛、神が自分を愛してく
ださっているから、自分も自分を愛するという自己愛に変わっ
ているのです。自分自身には何の価値もないにも拘らず、その
自分をなおも愛している愛で、何の価値もないと思われ人間を
愛して行くのです。



  ごく自然な意味で、自分を愛するように隣人を愛するとい
うならば、自分を愛せなくなった人間は、隣の人間をも愛する
必要はなくなります。自分を曲がった形でしか愛せなくなった
人間は、同じように曲がった愛で他人を愛することを正当化し
ます。しかし教会が、またその構成員ひとりひとりが外部の人
間を愛して行く場合、あくまでも、キリストが自分を愛してく
ださっているという事実を体験した、その体験を基として愛し
て行くのです。ヒューマニステイックな愛で、「何の価値もな
い人間なんていない」と綺麗ごとは言えますが、人間の醜さ、
残忍さを本当に体験した者は、そのような安易な綺麗ごとは言
えなくなります。聖書は、私たち自身が、神の前に価値を失っ
たのではなく、神の敵として、反価値的な存在となったと教え
ています。その反価値的な敵をも、神は犠牲を払ってまで愛し
てくださったのですから、教会もまた、自分たちにとって何の
価値もない人々、敵さえも、たとえ犠牲を払ってでも愛するの
です。突き詰めて言うと、教会は、世の中の人々に本源的価値
を見出すことが出来るから、彼らを愛し、命をも捨てて尽くそ
うとするのではありません。彼らが神の愛の対象であるから、
神を愛し、神に愛されている教会もまた、彼らを愛していこう
と努めるのです。



  教会は、キリストが罪人を愛し、彼らの救いとは直接の関
係なしに、彼らにも金品を与え、食べさせ、癒し、助けの手を
差し伸べられたように、伝道の業とは関わりなく、外部の人々
に愛の手を差し伸べます。それは本質的に愛であられるキリス
トの、一般愛の現われです。キリストがこの世においでになっ
た動機である贖罪愛は、キリストが罪人の救いのために命を賭
けさせました。しかし、より広い一般愛は、キリストが贖罪愛
のために巡回された先々で、貧しい者に食べさせ、病の者を癒
して行かせたのです。教会は、そのようなキリストの愛を、自
分の愛としているのです。ですから、教会の慈善的社会活動に
は、一定の意義と価値があると言えるでしょう。



  しかし、キリストがこの世においでになった理由は、一般
愛をお示しになることではなく、贖罪愛の遂行であったように、
教会がこの世に存在する理由もまた、神の贖罪愛の遂行の計画
に含まれているためであり、一般愛の実行のためではないこと
を確認しておかなければなりません。教会が愛の共同体である
ということは、その宣教の働きによって、もっとも明確に示さ
れるものです。教会は神からの愛と神を愛する愛、そして自分
という個人を愛する愛と、自分と同じように神の愛を体験した
者に対する愛、さらに神の愛によって増幅された外部の者に対
する一般愛と、宣教に現される贖罪愛のゆえに、愛の共同体な
のです。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
  
  わたしがまだ宣教師として活動し
ていたとき、多くの日本の教会がたく
さんの古着を送り届けてくださいまし
た。当時の日本人にとって、古着自体
は、片付けるところがなくて困ってい
る場合が多いくらいで、たいした事で
はありませんが、ダンボール箱ひとつ
送るのに3,000円から4,000
円もかかり、大変な負担でした。それ
にもかかわらず、毎月数十個も届いて
いました。一度に100個近くも、し
かも一度ならず送ってくださる教会も
ありました。現代文明に取り残されて、
極貧の中にいるイゴロット族の人々に
とって、この古着はとても大きな助け
でした。また、教区の中の平地の貧し
い信徒たちにも非常に大きな贈り物で
した。

  私たちはまず、信頼できる婦人会
のメンバーに仕分けの働きを任せ、各
教会に定期的に分配することにしまし
た。それから、それぞれの教会から信
徒のリストを集めました。家族ごとに
まとめ、年齢、男女、背格好を出して
もらい、婦人会は、そのリストに沿っ
て、ひとりひとりに合うと思われるも
のを紐で結び、名前を書き、家族ごと
にまとめ、各教会に送り届けるのです。
牧師も信徒も、その古着が名前の本人
に手渡されるまで、紐を解いてはなら
ないことになっていました。そして、
確かに受け取ったことを確認できるよ
うにチエックリストも作っておきまし
た。本人の手に渡ってから本人たちが
交換し合うのは自由にしましたが、売
買は禁止していました。このようにし
て、古着はクリスチャンたちにだけ、
できるだけ公平に配布されるように配
慮していました。

  このような働きは、注意の上にも
注意しながら行わなければ、かえって
大きな弊害を生み出します。不公平感
を募らせたり、妬みを起こしたりする
ようなやり方をしては、祝福ではなく
呪いになってしまいます。幸い私たち
のこの働きは、多くの教会の祝福とな
り、ずっと継続されて行きました。学
校も、店も、医者も、薬も、電気も、
水道もない奥地の人々には、上等な品
物を送っても石鹸もありません。水に
濡らして石の上に乗せ、棒切れで叩く
だけの洗濯ですので、たちまち惨めな
状態になってしまいます。それで、上
等な品物は比較的開けたところの教会
に送り、クリスチャンだけを対象にバ
ザーをしました。なにしろ古着とは言
え、市場で売られている品物よりはず
っと上等なうえ、安いのですから、飛
ぶように売れて行きました。そのこと
も初めから想定し、独りのクリスチャ
ンが買える量も制限していました。そ
して、売上金は運送費や薬の購入費に
回し、さらに、火事で焼け出されたり、
洪水の被害に遭ったりしたクリスチャ
ンたちのために用いられました。

  私たちはこれらの古着を、クリス
チャンではない人々には配布しません
でした。あくまでも、教会の中での助
け合い、愛の共同体の実践としてやっ
たのです。貧しい人々に配って伝道の
助けにするという案も、あえて退けま
した。「釣り針の隠された餌」にはし
たくなかったからです。クリスチャン
というのは、このように助け合うもの
であるということを、実践で教えたか
ったのです。そして、ここが大切な点
なのですが、これが、比較的余裕のあ
るクリスチャンたちを奮い立たせ、彼
らが自分たちの持ち物をさらに貧しい
人々に送ったり、ボランテイアとして
働きに参加したりするようになって行
ったのです。そのようなボランテイア
の中から、やがて宣教師たちが生まれ、
現在、他の国々で活躍しているのです。

  フィリピン人は一般的に、非常に
友好的な人々です。また、地域社会で
の助け合いや家族親族間の助け合いの
習慣は非常に強く、現代の日本ではと
てもとても考えられないほどのもので
す。そのような共同体の素晴らしさを
まだまだ色濃く残しているフィリピン
に入って来ていながら、教会はその良
さを取り入れることに失敗しています。
本来、個人主義の国から入ってきたキ
リスト教信仰は、教会が共同体である
ことを忘れたキリスト教であり、宣教
地の共同体感覚の素晴らしいところを、
共同体としての教会の中に上手に取り
入れることに失敗しています。アメリ
カから入ってきた福音は、神のみ前に
独りの自立した人間になることを教え
ますが、共同体の一員として、互いに
愛し合う信仰を教え損ねています。で
すから教会の中には、一般社会に見ら
れるほどの助け合いさえ見られないの
です。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



E.キリストの姿に似ていく共同体



  クリスチャン人生の目的と希望のひとつに、キリストの姿
に似る者となることがあります。私たちがキリストに似る者と
なることは、単に私たちの望みであるだけではなく、神が、天
地創造の前から、あらかじめ定めていてくださった事です。(ロ
ーマ8:28−30、ピリ3:21)



  クリスチャンは、キリストの代償の死によって死んだ者で
あり、罪を赦され、罪から開放された者です。キリストの血潮
によって罪を被われ、聖められた者です。さらにキリストの復
活を通して、キリストの正しさを私たちに移し与えられて、今
や、神の前に正しい者として立つことが出来るようにされてい
ます。私たちは神の目からご覧になると、キリストの功によっ
て義人であり、聖徒なのです。しかし、この義人であり聖徒で
あるという貴い身分は、霊的な事実であって、日常の現実の生
活の中での私たちは、パウロと共に、「私は本当にみじめな人
間です」と叫ばなければならない者です。(ローマ7:24)



  私たちは今の不完全さに痛み、悲しみ、苦しみます。しか
し一方では、日々聖霊の励ましによって生かされ、聖霊の助け
によってキリストの姿に似るように造り変えられているのです。
そして、私たちがキリストの姿に似る者になるという栄光は、
間違いなく達成されます。全知全能の神が永遠の昔から予めお
定めになった事ですから、頓挫したり覆されたりすることは絶
対にあり得ないのです。そのために神は、私たちの周囲に起こ
るありとあらゆる事を、逆境も順境も互いに働かせて益として
くださるのです。また、神の熱心がそのことを達成させようと
して、私たちの味方となってくださるのですから、私たちはど
のような敵とも大胆に戦い、勝利を勝ち取ることが出来るので
す。(ローマ8:26−39)



  キリストの姿に似て行く私たちの成長は、私たち自身の努
力と聖霊のお働きにより達成されます。人間がどのように努力
しても、決してキリストに似る者とはなれません。聖霊が人の
内に働いてくださって初めて可能となるものです。しかし、聖
霊が励ましてくださっているにも拘わらず、自ら努力をしよう
と思わない人の中に、聖霊は働きを始めようとなさいません。
それが一般原則です。私たちは、自ら努力をすると共に、聖霊
が私たちの内に自由に働いてくださるように、聖霊に身を委ね
なければなりません。聖霊は、私たちが信頼して私たちの人生
をお任せすると、私たちの中に働いて、様々な聖霊の実を結ん
でくださいます。この実は私たちの品性に関わるもので、私た
ちがキリストの姿に似て行くために欠くことがないものです。
(ガラ5:22−23)



  しかし聖書が教える成長は、個人としてのクリスチャンの
成長もさることながら、むしろ、地域教会全体としての、ある
いは管理上の個教会全体としての成長を、大切にしていると考
えられます。もちろんそれが、より広範囲の有機体としての教
会に拡大していくことは望ましいことですが、聖書が直接強調
するのは、地域に存在する教会の成長です。クリスチャンの成
長は、単に個々のクリスチャンの成長で終わるのではなく、必
ずキリストのみ体という共同体の中で、他の肢体に良い影響を
与え、共に成長して行くことを促すものでなければなりません。
先に挙げた聖霊の実も、そのすべてが人間関係に関わる性質、
あるいは品性です。「喜び」さえ、ひとり秘かに喜ぶ喜びでは
なく、人々の中の喜び、人々と共に喜ぶ喜びと考えたほうが良
いでしょう。



  クリスチャンの品性の中には、もちろんまったく個人的な
とい言うより、神と自分との関係にのみ関わる品性というもの
もあることでしょう。しかし、そのような品性は以外に少なく、
ほとんどは、何らかの形で人間関係に繋がっているものです。
ですから、私たち個人の霊的成長は、何らかの形で、教会全体
に影響を与えるのです。そして大切なのは、そのことを強く意
識して行くことです。



  また聖霊の賜物についても同じことが言えます。聖霊の賜
物は、どちらかと言うと品性ではなく、能力に関わるものが多
いようですが、その賜物が、用いる個人の益に関わるだけで、
他のクリスチャンたちの益にはならないとするならば、すでに
述べた異言のように、教会の集会の中での評価は低いのです。
もちろんパウロは異言の大切さを理解していました。それは個
人の信仰生活の中では、非常に大切なものでした。ですから彼
は、すべてのクリスチャンが異言を語ることを望むと同時に、
自分が誰よりも多く異言を語ることを神に感謝しているのです。
(Iコリ14:5、18) そして、当然、異言を通して神と
より親しく交わることによって達成される、個々のクリスチャ
ンの成長は、必ず地域教会や管理上の個教会、さらには有機的
教会に、好ましい影響を及ぼして行くものです。しかし、それ
でも教会全体の成長ということを重視するならば、異言のよう
に先ず個人の成長に関わる賜物は、集会の中では、そこにいる
他のクリスチャンたちの益になるように、注意深く用いられな
ければならないのです。パウロが、教会全体としての成長をい
かに大切にしていたかということを理解するなら、彼が、一般
集会での異言の賜物を低く評価していた理由がわかるのです。
(14:19) 1万語の異言よりの知性の言葉を話したいと
パウロが言うのは、あくまでも、一般の集会という公の場を想
定しての事なのです。プライベートの祈りの中では、まったく
その逆の言い方も可能なのです。



  現在の私たちの教会においても、賜物の行使がとても重ん
じられています。特に、何となく劇場化しているような私たち
の集会、パフォーマンスが喜ばれているような観がある私たち
の教会では、個人の賜物の美化と賞賛が、あたかも映画や歌の
世界の表彰式のように華々しく行われ、教会全体の益などとい
うものがあまり考えられていないように感じます。異言を含め
てすべて賜物は、その賜物を任せられた本人のためにではなく、
教会全体の益のために与えられたもので、秘かに用いられてこ
そ本物なのです。(マタイ6:1−18) 賜物は個人のクリ
スチャンに与えられたものでなく、教会に与えられ、その管理
が個人に委ねられているだけなのです。賜物の管理を任せられ
たに過ぎない者が、自分の益や自己獲得のために賜物を用いた
のでは、公用のものを私用に供する犯罪となります。



  さらに、アメリカ型のキリスト教であることから、なかな
か抜けきれないでいる私たちの教会は、アメリカの文化的弱点
がこの辺りに大きく影響していることに、注意をしておかなけ
ればなりません。アメリカの子供の教育の方針のひとつに、徹
底して褒めて指導するというやり方があります。少しでも良い
ことをしたら、みんなの前でおおいに褒め、喜ばせ、さらに良
いことをする意欲になるようにするのです。悪いことを指摘し
てそれを直すより、ずっと効果的だと言われています。しかし
そこには見逃しに出来ない副作用があります。子供は、何をす
るにも褒められることを前提として、褒められるために物事を
するようになるのです。それが子供の頃からの生活環境ですか
ら、当然、大人になっても褒められること、賞賛を受けること
を目的として働くのがごく自然になります。何が大切で重要な
働きか、何が必要な役割かと考える前に、何が目立ち、みんな
に認められる働きかと考えるようになります。大切な役割に付
くことより、目に付く役割を求めます。そして、互いに褒めあ
い、感謝状だとか盾だとかを交換し合うことに忙しくなります。
キリストがおっしゃった「右の手のしていることを、左手に教
えるな」という戒めは、アメリカ型のキリスト教では通用しま
せん。賜物が個人の栄誉のために用いられてしまっているので
す。



  さらに、パウロが語る教会全体の成長は、強い者が弱い者
の弱さを担い、痛んでいる者の痛みを共有し、劣っているよう
に見える部分をことさらに大切にし、互いにいたわり合い、自
分以外のすべてのクリスチャンの存在を喜び、その必要性を認
めて生きることによって達成されるものです。(ローマ15:
1、2、Iコリ12:14−27)それは喜ぶ者と共に喜び、
泣く者と共に泣くこと、高ぶった思いを抱かず、身分の低いも
のへ順応すること、お互いの霊的成長に役立つことを追い求め
ることでもあります。(ローマ12:15、16、14:19)
 これは、端的に言って、強い者が弱い者のために、自分の個
人的成長さえ犠牲にして行くことを意味します。強く足の速い
人が一等賞を得るために走るのではなく、弱く、足を痛めてい
る人のために立ち止まり、後戻りをしてその人の足をかばって
支え、一緒に歩くことです。「あんな奴がいるから、俺は一等
賞を逃したと悔やむのではなく、自分の強さが、他の人の弱さ
のおかげで役に立てた」と喜ぶのです。弱い人がいなければ、
強い人の強さなど何の意味もないからです。私たちも、ともす
れば大きな教会の牧師と付き合いたくなります。成長している
教会と交わりをしたくなります。成功した働きを取り込みたく
なります。それはそれとして、おおいに結構なのですが、自分
より弱い立場にいる牧師、小さな教会で苦労している伝道者、
いつまでも成功には遠く及ばない働きに、忠実に関わり続けて
いる同労者とのお付き合いを大切にしたいものです。



  クリスチャンを含めて、多くの人間にとって、喜ぶ者と共
に喜ぶほど困難なことはありません。泣く者と共に泣くのは以
外に簡単です。そして泣ける自分に感動さえ出来ます。しかし、
喜んでいる人を目の前にして、共に喜ぶのは至難の業です。ひ
とつの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しむというのは
案外易しいのです。しかし、ひとつの部分が尊ばれれば、すべ
ての部分が喜ぶということがないために、教会の中には、様々
なやっかみがあり、中傷があり、競り合いがあり、虚勢の張り
合いがあり、陰口、つげ口、悪い噂話が絶えないのです。アナ
ニヤとサッピラは、喜ぶ者と共に喜べなかった夫婦です。(使
徒5:1−11)バルナバがうらやましくて、しょうがなかっ
たのでしょう。ユウオデイアとスントケというふたりの女性リ
ーダーも、互いに相手が賞賛されるのを喜べなかったために、
つい、張り合いになり、分裂の元になり始めていたのかも知れ
ません。(ピリ4:2) 牧師が成長している隣の教会の牧師
の悪口を言う。宣教師が自分の働きについては誇大報告をしな
がら、共に働いている宣教師の働きについては、過小評価しか
出来ないということもよくあります。しかし、その牧師も、隣
の教会の牧師が、何かとんでもない失敗をして困っていると、
たいていは喜んで助けます。過小評価しか出来ない宣教師も、
いざとなったら犠牲を払ってでも助けに行きます。助けること
は、以外に易しいのです。



  このように、確かにパウロは個人としてのクリスチャンが
神に召されて、キリストのみ姿に似る者とされる栄光について
も語っているのですが、彼の強調点はむしろ、教会全体の成長、
共同体としての成長にあったと思えるのです。(エペ2:21、
4:13−16) 特に注目されるのは、キリストがご自分を
捧げられたのは、ひとりひとりの人間のためではなく、教会を
愛し、教会のためにそのようにされたのだと言われていること
です。私たちは、神が私たちひとりひとりを愛し、そのために
キリストを十字架に付けてくださったと信じています。しかし
パウロが教えるのは、キリストが愛されたのは教会であり、キ
リストがご自身をささげてくださったのは、教会のためである
ということです。つまり、愛されて救われたひとりひとりが、
教会を形成するようになったのではなく、キリストは始めから
教会として愛し、その教会のために贖いのみ業を行ってくださ
ったと表現されるほど、共同体としての教会が大切だというこ
とです。そして、キリストご自身がこの教会を聖め、「しみや
しわやそれらの類のものが一切ない、聖く傷のない栄光の教会
として、ご自分の前に立たせてくださるのです。(5:26−
27) パウロが、「あなたがたを清純な処女として、ただひ
とりの男性であるキリストにささげることにした」と語ったと
きの「あなたがた」とは、複数の処女ではなく、ひとりの処女
である教会のことなのです。(Uコリ11:2) 私たちがし
みもしわもない者としてキリストのみ前に出るのは、個人個人
としてではなく、キリストの花嫁という共同体として出るので
す。



  では、共同体としてキリストのみ姿に似て行くとは、具体
的にどういうことでしょう。パウロは、この共同体としてキリ
ストに似る者になることを、「キリストの体を建て上げる」、
「完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達
する」、また、「あらゆる点において成長し、かしらなるキリ
ストに達する」などという表現で語っていますが、そのために
はまず、信仰の一致、神の御子に関する知識の一致が必要であ
ることを教えています。またそれには使徒、預言者、伝道者、
牧師、教師などと言われる指導者たちの必要性を認め、信徒全
員がそれぞれに与えられている力量にふさわしく働き、互いに
貢献しあうことが必要であり、それらが愛のうちに行われるこ
とが肝要であると言われています。(エペ4:11−16) 
さらにまた、この文節の後には聖い生活が強調されていること
などから考えて、(4:17−25) パウロは、教会が指導
者たちの指導によって、教え導かれ、すべての信徒が活動して
互いに貢献し合いながら、正しい知識に裏打ちされた正しい信
仰によって一致を保ち、愛にも、聖さにも欠けるところがなく
なることを期待していたと考えられます。



  実際パウロは、ひとりひとりのクリスチャンの聖い生活、
キリストに似る成長にも言及していますが、教会全体がキリス
トの姿に到達するために、教会の中から不順なものを取り除く
ことに苦心している様子が伺われます。パウロが語る教会内部
の懲罰の目的と手段を見ても、共同体としての取り計らいであ
ることが明白です。他の信徒に対する悪影響ということが、最
も重要な尺度だったようです。(Iコリ5:6−8)



  教会の中に孤高の聖徒がいてもだめなのです。至高の学者
がいてもだめなのです。孤立した信仰の巨人がいてもだめなの
です。孤独な愛の使徒がいてもだめなのです。信仰も知識も愛
も聖さも、全員で分け合わなければ本当の価値を持たないので
す。教会全体として知識の一致と信仰の一致、聖さを求める一
致と愛を追及する一致を持たなければ、本当の成長ではないの
です。












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2010年10月23日

教会について 2−N

p88〜94


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F.神の支配の共同体



  教会は「神の国」と深い関わりを持っています。教会を論
じるのに、神の国との関係を語らないで終えることは出来ませ
ん。教会は神の国ではありません。神の国は教会よりもさらに
大きな概念であり、キリストの宣教と教えの中心であり、弟子
たちの宣教の本題でもありました。キリストの宣教は神の国の
到来の宣言で始まり、(マタ4:17)常に「神の国の福音」
がその教えの中心をなし、(マタ4:23、9:35、24:
14) 弟子たちの「神の国」への期待に答える会話で終わっ
ています。(使徒1:6) キリストの昇天後の、弟子たちの
宣教の主題もまた「神の国」でした。ルカは使徒の働きを、ロ
ーマに監禁されたパウロが大胆に「神の国」を宣べ伝え続けた
という記述で締めくくっています。(使徒28:31)



  神の国の「国」という言葉は、「バシレイア」というギリ
シヤ語の翻訳ですが、その第一義的な意味は「王の支配」でし
た。そこから支配の及ぶ範囲、すなわち王国という第二義的な
意味が出て来たものです。ところが、ここ350年ほど英語圏
の教会に最も大きな影響を与えて来たキング・ジェームス(欽
定)訳が、これを「kingdom」と訳しているところから、英語
圏の教会の宣教地となった多くの土地の聖書も、これに倣って、
それぞれの言葉で「国」の意味に訳して来たという経緯があっ
て、日本語聖書もまた「神の国」と訳しています。キング・ジ
ェームス訳が世に出た1,600年代の英語では、「kingdom」の
第一義的意味は「王の支配」であって、「王国」は第二義的意
味に過ぎませんでした。 ですから、キング・ジェームス訳が
「バシレイア」を「kingdom」と翻訳したのは正しかったので
す。ところが時代が移ると共に、英語の意味の第一義と第二義
が入れ替わり、英語圏の教会が世界宣教で大きな役割を果たす
ようになった1,800年代には、「支配」が「国」と理解される
ようになっていたのです。ですから現在、英語圏の教会の宣教
地という歴史を持って来た多くの土地の聖書が、キング・ジェ
ームス訳に倣って「神の国」と訳しているところは、「神の支
配」と理解し直されるべきものです。



  また、「天国」あるいは「御国」という言葉も、実質的に、
神の国とまったく同じ意味です。ユダヤ人は神と言う言葉を口
から出すことさえ恐れ多いと考えて、一般に天という言葉を代
用していました。ですから、ユダヤ人に宛てて書かれたと言わ
れるマタイの福音書では、他の福音書が「神の国」と言ってい
るところも、ほとんどの場合「天国」あるいは「御国」となっ
ています。



  聖書の教える「神の支配」の概念は非常に奥深く、ここで
論じ尽くすことが出来るものではありませんが、現在の論を進
めるに当たって必要な、最低限度の説明をしておきましょう。
神は時と空間を越えた絶対の存在者であり創造者です。従って、
すべてのものは神の支配の下にあるのです。しかし、人間の罪
のために、「この世」という人間の住む次元あるいは範囲が、
「この代」という一時的な期間に限って、直接的には「悪魔の
支配」の下に入ってしまいました。罪のために命の源である神
から離れ、霊的には命を失ってしまった人間は、「死人」とし
て、(エペ2:1、5) この悪魔の支配の下で人間の社会を
築き、文化を創り上げてきました。しかし神は、この命を失っ
た人間を愛し、悪魔の支配から開放して再び命を与えるために、
ご自分の支配をこの世とこの代に及ぼそうとしてくださいまし
た。



  神の支配には「今すでに」と言う一面と、「やがて必ず」
という一面があります。つまり、神の支配は「すでに到来して
いて今ここにあるのだ」という面と、主が約束してくださった
こととして「やがて必ず到来するのだ」という面があるのです。
キリストが「神の支配は近づいた」とおっしゃったとき、遠く
から少しずつ近付きつつあるということではなく、今、もうこ
こに来ているのだという切迫感のある意味で宣言されたのです。
ですから、キリストが「神の指」あるいは「聖霊の力」によっ
て悪霊どもを追い出し、病を癒しておられたという事実が、神
の支配が到来しているという現実を示しているものだったので
す。(マタ12:28、ルカ11:20) しかしながら、そ
の一方で、キリストのお言葉もまた弟子たちの記述も、神の支
配はやがて来るべきものとして表現しています。また、神の支
配が来るようにと祈ることが勧められているのです。



  このような二重性は、神の支配に関わるすべてのことでも
同様です。すなわち、私たちはすでに救われていますが、やが
て現される救いを待ち望んでいます。すでに贖われていますが、
贖いの日を期待しています。もうすでに神の子ですが、やがて
神の子とされることを願っています。すでに神の支配に入って
いるのですが、神の支配に入れられることを夢にまで見ていま
す。つまり神の支配は、今、私たちが現実に体験するものであ
りながら、やがて現されるものなのです。すでに到来したにも
かかわらず、まだ、待ち続けるものなのです。



  言い換えるならば、今の私たちは、「聖霊の証印」すなわ
ち「聖霊の手付金」あるいは「聖霊の保証金」としての神の支
配、「前味」としての神の支配、「初穂」としての神の支配を
体験しているのです。私たちがすでに神の支配の中に入れられ
ている事実は、私たちの内に住み、私たちを生かしてくださっ
ている聖霊のお働きによって、毎日具体的に明らかにされてい
ます。私たちはいまや罪の奴隷ではなく、義の奴隷として、神
に仕える者として生きています。神の支配の力が、日常生活の
あらゆるところに現され、私たちは日々新たに造り変えられて
います。神の支配と言う新しい次元に入れられ、すべてが新し
くされた者として生きています。(IIコリ5:17)



  私たちが今の世界で経験する神の支配はこのように素晴ら
しいものです。しかしこの世で経験する神の支配は、神の支配
のすべてでは有りません。私たちがこの世で経験する神の支配
は間違いなく神の支配そのものでありながら、神の支配のすべ
てではないのです。それはやがて現される完全な神の支配のご
く一部に過ぎないのです。ですから今の神の支配の素晴らしさ
に酔って、満足していてはならないのです。もっと素晴らしい、
完全な神の支配が現されるからです。自分の中に現された神の
支配、すなわち、古い罪の奴隷の生活から新しい義の奴隷の生
活に変えられた現実は、本当に素敵な体験です。また体験した
肉体の癒しも神の支配の現われで、みんなに証して聞かせたい
体験です。しかしそれで満足し、納得してしまってはならない
のです。なぜなら、罪からの完全な開放、病からの完全な開放
は、来るべき神の支配において実現されるものだからです。今
の体験は、たとえどんなに興奮させられるものであっても、手
付金に過ぎず、前味に過ぎず。初穂に過ぎないからです。神は、
やがて現される完全な神の支配がどのように栄光に富んだもの
であるかを、このような方法で私たちに示して、励ましていて
くださるのです。



  主イエスの十字架によって、すでに悪魔は打ち破られてい
ます。悪魔の支配は終わりを宣告されているのです。しかし、
悪魔の力はまだ残っています。この世この代におけるその支配
も、まだ完全な終わり迎えてはいないのです。悪あがきがまだ
続いているのです。私たちはこの悪あがきと戦っているのです。
そしてそこここで、悪魔とその手下どもにしてやられることも
あるでしょう。ただし、主イエスにある限り、私たちは決して
悪魔に負けることなく、圧倒的な勝利者となるのです。勝利者
イエスは悪魔を完全に打ち破り、永遠の牢獄に閉じ込め、その
力と影響力を、私たちの周囲からことごとく拭い去ってくださ
るのです。そのときに、完全な神の支配が私たちの世界にも打
ち立てられるのです。



  ですから、現在の私たちが体験している神の支配は、悪魔
の支配を侵略しつつある神の支配です。最後のあがきでたけり
狂っている悪魔の支配を打ち破りながら、神の支配が福音を武
器として押し寄せているのです。教会は、神の支配の権威をも
って福音を語り、蘇りのキリストのみ名によって悪霊を追い出
し、病を癒すことによって悪魔の支配を侵略し、あたかも漁師
が魚を捕獲するように、魂を捕獲して神の支配の中に入れて行
くことによって、神の支配を広げて行きます。福音を宣べ伝え
るクリスチャンたちは、ただそれだけで神の支配の強力な兵士
であり、教会はこの兵士たちの共同体として、神の支配の軍隊
なのです。神の支配の兵士たちに福音以外の攻撃兵器は不要で
した。他に必要だったのは、パウロがエペソ書で挙げている防
御用の武具だけでした。神はこのような微力な者を神の支配の
軍隊とされたのです。このように現在の私たちの世界は、神の
支配と悪魔の支配との戦いの場なのです。



  やがて悪魔とその手下どもが完全に滅ぼされ、その影響力
が払拭され、完全な神の支配が固く打ち立てられるのです。そ
こにおいては、神の義が燦然と輝き、神の愛がすべてを覆うこ
とになります。神のシャロームがすべてのものを満たすことに
なります。もはや死もなく、悲しみもなく、痛みも涙もない世
界、神が人と共に住んでくださる世界が出現するのです。私た
ちは、今体験できる救いを通し、癒しを通し、この神の支配を
僅かながらも味わい、味わうごとに、この神の支配を想うので
す。



  教会とは、この現在における神の支配を体験し、やがて来
る神の支配を待望する人々の共同体です。ただ個人的に神の支
配を体験した者たちが集まるだけではなく、その集まりの中、
その人間関係の中に、やがて現される神の支配の本質が遺憾な
く発揮される、神の支配の共同体なのです。神の救いに与った
者はすべて、神の国すなわち神の支配に召された者であり、教
会とは神の支配の中に召された者たちが構成する共同体なので
す。そこには神の公義が現され、神の愛が豊かに宿り、ひとり
ひとりが信仰を通していただいた新たな命によって、神の御心
にかなった従順な生き方をしようと努力するのです。



  この世はまだ悪魔の支配の中にあります。ところが教会は、
この世の中に存在しながらこの世に属さず、神の支配の中にあ
り、神の支配を明らか表現し宣言しながら神の支配を広げてい
るのです。教会はやがて完全に現される神の支配を、不完全な
がらまた部分的ではありながら、紛れもない正真正銘の神の支
配を、ひとりひとりの構成員の生活の中に、また、共同体とし
ての教会の人間関係の中に、具体的に現実のものとして体験し
て行くのです。教会は聖霊の宮と呼ばれるほど、神との豊かで
深い親密な交わりを喜ぶことが出来ますが、それは「神の幕屋
が人と共にあり、神が人と共に住んでくださる」、「やがて来
る神の支配」の前味です。今、キリストの命が教会を生かして
有機的共同体としてくださっていますが、それはやがていただ
く完全な命の保証です。人生が変えられ、肉体が癒され、喜び
と愛に満たされるのは、やがて神さまご自身が私たちの目から
涙を完全に拭い去ってくださることの初穂です。そして教会は、
やがてまったく作り変えられてキリストご自身のみ姿に似る者
とされ、互いに完全な愛をもって愛し合います。そのときを目
指しながら今生きている教会は、愛によって救われた体験と、
内に住んでくださる聖霊の励ましによって、愛することが出来
るようになっているという事実によって、互いに愛するように
なって行きます。完全な神の支配を、悪魔の支配するこの世に
ありながら、先取りして行くのです。教会は、新たな愛の模範
であるキリストの贖いの愛を体験し、愛することが出来る新た
な力を聖霊の交わりを通していただき、互いに愛し合う共同体
として、この世にあって神の支配を体現して行くのです。



  すでに述べたように、教会は神の支配そのものではありま
せん。神の支配は教会よりももっと大きな、また、もっと奥行
きのあるものです。ただ教会はこの世に有って、神の支配を現
実の存在として示し、体験し続けるものです。神の支配は福音
を通してこの世で力を示して行きます。神の支配は言葉ではな
く力です。しかし、神の支配はそれで留まることなく、この世
において神の支配の共同体を作り、その人間社会の中に支配を
実現するのです。教会はやがて現される神の支配を、今の世界
で体現するものです。その中ではやがて現される神の支配の、
あらゆる性質と性格が現されて行くものなのです。



  教会は、自らが神の支配の共同体であることを自覚し、
「支配をきたらせたまえ」という祈りを、さらに熱心に奉げ、
その祈りに合致した生活をして行くようになるべきです。キリ
ストが「まず、神の支配と神の義を求めなさい」とお教えにな
ったとき、「神の支配」と「神の義」というふたつの異なった
もの、あるいはふたつの類似したものを求めなさいとおっしゃ
ったのではなく、ひとつのもの、すなわち、神の義の現われで
ある神の支配を求めなさいとおっしゃったのです。私たちは、
教会の中に神の愛の支配が現われることを望み願うと共に、義
の支配が行われるようにと熱心に求め、自らが愛と義を実行す
べきなのです。他者が愛と義を実行することを願うのではなく、
自らが実行して行くことが出来るように祈りながら、実行して
行くべきなのです。



  私たちは、自分が所属する地域教会や、教団などと呼ばれ
るさらに広い有機的教会が、果たして、このような神の支配の
体現として存在しているかどうか、深く考えてみる必要があり
ます。教会の政治、教区の話し合い、教団の運営などに、この
神の支配の性質が現されているでしょうか。キリストが愛して
くださったような愛が現されているでしょうか。神の正義が具
体的に反映されているでしょうか。まだまだ日本的な、「物言
えば唇寒し」、「寄らば大樹の陰」、「臭いものには蓋」、 
「長い物には巻かれろ」の文化習慣が堅持され、愛と正義が隅
に押しやられたままの、結局、強いものが得をする共同体では
ないでしょうか。



  日本人は会議などであまり発言しないことで有名です。よ
く言えば、日本人は先ず聞くことから始めようとする落ち着き
と謙遜を持っているのですが、実際は、多くの場合、自分の意
見や考えを隠していて、先ず自分より強い者の意見を聞いて、
誰がどのような考えを持っているか判断し、それらの意見に衝
突しないように自分を偽り、正義を曲げ、あわよくば「大樹の
陰」に寄ろうとするのです。そこまでは行かなくても、人間関
係を重んじるあまり、真実や事実をないがしろにしてまでも、
他人に迎合しようとしているのです。このようなことが、それ
を行っている本人たちを始め、誰にも気付かれずに教会の中で
行われて行く限り、日本の神の支配の共同体は、神の支配の名
に恥じるもので有り続けるでしょう。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

  私がこれまでに見聞きした色々な
教会の中で、最もユニークなもののひ
とつが、さきにも触れたフィリピンの
モンテンルパ刑務所にある、マキシム
・セキュリティー・エリアの中の教会
です。この教会は、教会とは呼ばれず
に「聖書学校」と呼ばれていましたが、
実態はむしろ聖書を教えることを強く
打ち出した、刑務所内の教会でした。
 
  あるとき私が訪ねますと、ちょう
ど礼拝会の真最中で、広い舞台の上で、
何人もの男たちが手をつなぎながら歌
い、踊っていました。おかしなことで
すが、フィリピンでは、仲の良い男同
士が手をつなぐことは普通ですし、教
会の中では時折こんなことが起こりま
す。35度をかなり超えると思われる気
温が、椰子の葉で葺いた屋根の「聖書
学校」に入った途端に、5度は上がっ
たのではないかと感じたほど熱烈な礼
拝会です。一列に手をつないで、賛美
に夢中になっている男たちの真ん中の
ふたりの姿を見たとき、私は不覚にも
涙をこぼしそうになりました。片方の
男はこの刑務所で一番大きな、「バハ
ラナ」という名のギャング集団のボス
で、500人ほどの子分を抱えていた
男です。もうひとりは二番目に大きな
集団のボスで、やはり数100人の子
分を支配していました。このふたつの
集団が刑務所の中で抗争をくり返し、
多くの血が流され、数え切れないほど
の命が失われてきました。M16で武
装して、高い物見やぐらの上から監視
している刑務官たちの重要な仕事のひ
とつは、このふたつの集団が広い刑務
所の敷地の中でかち合わせをして、抗
争に発展しないように上手に動かすこ
とでした。そんなふたりが、今、神の
支配に招き入れられて、神の支配を体
験し、手をつなぎあって共に力いっぱ
い神を賛美しているのです。神の愛と
神の義が彼らの生活を取りまとめ、ま
ったく新しい人間関係を作り上げたの
です。彼らが共に神の召しに与って、
キリストの血による兄弟となってから
というもの、刑務所全体がとても穏や
かな場所となってしまいました。血が
流されることがずっと少なくなり、命
が失われることも、滅多になくなって
しまったのです。

  釈放された手下たちを使って、刑
務所の中から娑婆の犯罪組織にまで力
を及ぼしていたバハラナのボスは、6
歳のときにストリート・キッドになり、
16歳で逮捕されるまでありとあらゆ
る犯罪に手を染めてきました。彼自身
の言葉によると、「犯罪の名前を挙げ
てみなさい。自分は、それらのすべて
をやってきた。殺した人間の数も覚え
ていない。ただし、婦女暴行だけは例
外だ。おれはいまだに童貞だよ」と言
うことでした。彼が受けた判決は3重
死刑と300年の禁固刑という、日本
ではありえないものです。そして、刑
務所の中でもたちまち悪の頭角を現し、
大ボスになったのです。私が会った時
の彼は、すでに40歳を少し越えていま
した。その間、彼は、やはり自分でも
覚えていないだけの囚人たちを殺し、
刑務官までも殺していました。官憲が
彼を処刑するのを恐れたために、彼は
死刑の執行を免れていたのです。彼を
死刑にすると、返って刑務所内の統率
が取れなくなって、大混乱に陥ると考
えられたわけです。
   
  私たちが刑務所内に入るときは厳
重な警護が付きました。M16を脇に
抱えた刑務官が7、8人、私たちを取
り巻いて移動するのです。平和になっ
たとは言え、まだまだとても恐ろしい
ところでした。刑務所を訪ねてきた人
たちが、人質になることもありました。
しかし、ひとたび「聖書学校」に入る
と、そこは神の支配が如実に現われる、
まったく異なった世界でした。救われ
た喜びと感謝、互いに罪を告白し赦し
合った平安、同じ主を神と仰ぐ一体感
が、集まっていた200人を越える数の
人々を覆っていたのです。ボスと手下
の関係、拮抗する力と力の関係、恐怖
と憎しみの関係が、キリストの愛に触
れて兄弟の関係に変わってしまったの
です。M16を所在なさそうに抱えて
遠巻きにしている刑務官たちを尻目に、
私たちは刑務所の中で、神の支配を体
験していたのです。教会とは神の支配
共同体です。

  バハラナ・ギャングのボスはその
後特別に仮出獄が認められ、さらに恩
赦、特赦が加えられ、ついに釈放され
て、今は「娑婆の聖書学校」も出て、
牧師として働いています。彼のモンテ
ンルパの生活はちょうど30年間でした。
彼の人生の中に明確に現われた神の国、
モンテンルパの教会を力強く治めてい
た神の支配が、政府の高官たちまでも
動かし、彼を釈放させたのです。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※










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2010年10月24日

教会について 2−O

p94〜100


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G.公義の共同体



  教会は神の義が公に現される場です。それはまず、教会は
新生を経験し、神の霊である聖霊、すなわち聖い霊を内に宿し
ている人々の共同体であり、その聖い霊の力に支配されること
を由とした人々の集まりです。悪魔の支配の中にいて神に敵対
しながら生きている、一度誕生しただけの人ではなく、二度目
の誕生を経験し、神の新たな命を与えられ、一般に神の国と呼
ばれる神の支配の中に入れられ、神のみ心を行うことが出来る
力を付与されている人たちの集団です。実際、公議の共同体と
いう教会の性質は、和解の共同体や愛の共同体と共に、神の国
の共同体と言う概念の中で論じられるべきものかも知れません
が、一応、分けて論じてみます。



  「聖」という神の性質は「正義」という行為を生み出しま
す。神の聖が支配するところは、神の正義が現れるところです。
聖い神が支配しておられる人々が形成する共同体は、共同体と
して、聖い神の正義の支配の中にいます。そして神が支配する
神の国は、神の正義が公にされる場、すなわち神の公義の場で
もあります。ですから、キリストが「まず神の国と神の義を求
めなさい」とおっしゃったときの、神の国と神の義とは同義語
であり、実はひとつのリアリティ、事実なのです。



  クリスチャンとは、すでに述べたように、神の国に召し入
れられた者です。神の支配の中に入れられたという霊的事実は、
聖霊の内住によって様々な可視的事実として現されますが、中
でも、人間関係の中で正義が公に行われるというのが、もっと
も顕著な現われのひとつです。教会こそ、やがて現される完全
な神の支配の、「聖霊の初穂」として、(ローマ8:23) 
神の義が実現すべき場なのです。



  では、教会が義の共同体として神の義を現すとは、具体的
にどういうことでしょう。まずそれは、教会全体が神の聖さと
正しさを理解するところから始まります。神が絶対に聖い方で
あり絶対に妥協なく正義を求める方であることは、キリストの
十字架によってもっとも明確に現されています。キリストの十
字架を自分の罪との関わりにおいて理解しているクリスチャン
は、誰でも、この神の聖さと正しさを理解できる素地を持って
います。この神の聖さと正しさが、教会の人間関係のすべての
局面を支配すべきだということが解るはずです。しかも、その
聖さと正しさは、常に、愛という神のもうひとつの性質との関
係の中で、現されるものです。神が絶対の聖さだけの神ならば、
罪ある人間を滅ぼすだけで事足り、十字架は不要だったことで
しょう。神が完全な愛だけの神ならば、罪ある人間を赦して受
け入れれば事足り、十字架は不要だったことでしょう。



  神の聖さと正しさを理解したならば、神の子たちの共同体
がどうあるべきかということも、ある程度理解できます。神の
徹底した聖さと正しさを反映した共同体が教会であり、その中
では、正義が公にされなければなりません。クリスチャンひと
りひとりは、自分の損得や都合を先に発たせずに、常に何が善
であり正しいことかを考えて、判断し、行動するように成長し
なければなりません。特に、指導的な立場にある者は、常に神
の正しさを身に帯びる者であるべきです。少なくてもそのよう
に努力する者でなければなりません。



  ところが、一般に見る教会はこの点においてもまだまだ弱
さを抱えています。多くの場合、そこには文化的な問題が絡ん
でいます。言い換えると、日本の教会には、日本の教会独特の
弱さがあり、アメリカの教会にはアメリカ独特の弱さがあると
いうことです。また、フィリピンの教会にはまさにフィリピン
らしい弱さがあります。あくまでも一般的な言い方ですが、フ
ィイリピンの教会の集会で、たとえば、ベンチの上に財布を置
き忘れると、まず間違いなく、たとえあわてて取りに戻ったと
しても、なくなってしまいます。時計でもカメラでも、置いて
おくとすぐ消えてしまいます。フィリピンの私たちの教団の総
理が日本の教会を訪れたとき、みんな教会の玄関に靴を残し、
傘を残し、コートまでも残して会堂に入るのを見て、「フィリ
ピンで同じことをしたら、全部なくなってしまう」と驚いてい
ました。なんでも置きっぱなしにする癖のある私の妻は、しょ
っちゅう会堂の中で物をなくしていました。フィリピンではこ
れが当たり前なのです。



  さらに、多くの開発途上国では同じような傾向があります
が、特にフィリピンでは、極端に現れる問題にネポティズム
(親族重用主義・血縁主義)があります。文化においては多様
なフィリピンではありますが、一般に共通しているものが家族
・親族を何よりも大切にするということです。大げさではなく、
親や兄弟、さらには親戚たちを助けるためならば、どんなに悪
いことをしても、文化的には許されるのです。多くの貧しい家
族の中から、年上の女の子は日本に身を売って、いわゆる「ジ
ャパユキさん」になります。政治家は自分の周りの仕事をみん
な家族や親族に分け与え、お手盛りをし、賄賂を取り、横領を
します。新聞が彼らを告発し、裁判所も彼らを有罪とします。
しかし社会は彼らを許します。彼らが家族や親族を助けること
は当然であり、社会的には悪いことをしていないからです。で
すから、次の選挙ではまた当選します。しかしもしネポティズ
ムをせず公平なことを行うと、彼は社会的に嘲笑され、最も悪
い人間になってしまうのです。そしてこのような考えと習慣が、
そのまま、教会の中にも入り込み、家族・親族による不当な教
会の支配や不公平が、平気で行われるようになるのです。



  アメリカの宣教師たちは、このようなフィリピンの教会の
現状を見て嘆き続けていていました。ところがそのアメリカの
教会では、繁栄の福音というのが流行ったことがあります。神
様を信じたならば、神様があらゆる面で祝福してくださるのだ
から、豊かな生活が出来るようになるのが本物のクリスチャン
であると、だから我々はすべからく豊かに生きるべきだと、神
の名をもって贅沢さを求めました。その結果、世界中の貧しい
国の人々がどれほど犠牲になっているかなどということは、考
えてみるほどの余裕さえありませんでした。彼らのほとんどは、
自分たちがむさぼりという偶像礼拝の罪を犯していることには、
まったく気が付かなかったのです。(コロ3:5) やれ通商
条約だWTOだと、経済力と軍事力を笠に着て自分たちに都合
の良い規則を作り、開発途上国や弱小諸国に無理難題を押し付
ける先進諸国の、多くのクリスチャンが少しの良心の痛みも感
じていないのです。儲け第一、自分の幸せ第一の、現代資本主
義の武器となっているグローバリズムを、道徳的には白も黒も
ないとしか考えられないほど、ちょっと自分に有利なことが、
他人を大きく苦しめることになっているという事実にまったく
気が付かないほど、善と悪に無感覚になっているのです。フィ
リピン人クリスチャンが財布ひとつ盗むより、あるいはネポテ
ィズムで家族・親族を助けるよりさらに大きな罪です。その罪
の最たる繁栄の福音を福音であると言いくるめて、金持ち国家
のクリスチャンたちに搾取され続けている、貧しい国家の一般
の人々にまで宣伝していたのです。



  では、日本の教会はどうなのでしょう。すでに触れたよう
に、「臭いものには蓋をしろ」、「長いものには巻かれろ」、
「見ざる聞かざる言わざる」、「出る杭は打たれる」、「寄ら
ば大樹の陰」、「物言わば唇寒し」、「物言わざるは腹ふくる
る業なり、穴を掘りて言い入りはべりけめ」などという、「日
本文化と言う名の悪魔の支配」が、まかり通っていないでしょ
うか。その結果、弱い者が無視されることにはなっていないで
しょうか。力のある者の横暴が、見過ごしにされていないでし
ょうか。正しいことを正しいと言わなくなったこと、「はい」
を「はい」と言わなくなり、「いいえ」を「いいえ」と言わな
くなったことが、「大人になった証拠である」と考えられるよ
うなことが、こともあろうに、教会の中でも常識化しているの
ではないでしょうか。



  他人を思いやると言う名目の陰で、過ちや間違い、あるい
は犯罪さえ隠蔽してしまう日本人の感覚が、教会の中にも侵入
しています。日本では、たとえば癌の告知をするのは可哀そう
だと言って隠そうとします。アメリカあたりでは、神の前に生
きる人間として、あるいは一個の確立された人間として、人間
は自分の責任で事実に直面しなければならないと考えられてい
ます。ですから、病名を告げるのが当然であり、告げられない
のは、基本的人権のひとつである知る権利を無視されたことに
なるのです。このようないとも簡単な原則が、日本では思いや
りと言う甘やかせで、曖昧にされてしまうのです。そのような
意識が、また簡単に社会的犯罪の隠蔽、たとえば、会社の悪事
や警察の悪事の隠蔽に繋がるのです。この事実を公にすると、
多くの人間に迷惑がかかるから隠しておこうという、言い訳が
正当化されるのです。



  日本の国会は、会社や公共機関の悪事の隠蔽を少なくする
ために、内部告発をしやすくしようと法改正を行いました。と
ころがいざ蓋を開けてみると、以前よりますます内部告発がし
難い仕組みに改悪されていました。  日本では、多くの人々に
悪影響を与えるからと、犯罪を隠しておくことのほうが、その
犯罪を内部告発するよりも、良いことなのです。日本において
は、内部告発は最も悪質な犯罪なのです。日本の法律では昔も
今も、内部告発をした人は絶対に報われず、社会的制裁を受け
る仕組みになっています。そしてそのような感覚が、秘かに教
会の中に紛れ込み、教会が公義の共同体としての本質を失うほ
どになっているのです。



  このように、何が正義であるかを判断するのは難しいこと
です。教会の中でも文化的な背景でこれほど違うのです。それ
ぞれ自分の欠点に気付くことは、なかなかないのです。また、
加害者側の人間は、自ら、自分が加害者であることに気付くこ
とは滅多にありません。ほとんどの場合、被害者側の人間が大
声で泣き、叫び、訴え、抗議し、戦って、やっと少し理解して
もらえるのです。加害者が被害者より先に加害の事実に気付く
ことが大切なのですが、残念ながら、使徒の働きに記されてい
るエルサレムの教会でさえも、先に気付いたのは被害者側の人
たちであったようです。(使徒6:1) このようなことから、
教会の中には、弱い者の弱さを理解する強い人、傷つく者の痛
さを感じる健康な人が、賜物として必要になってきます。弱い
者の弱さを担うということは、単に愛の問題だけではなく、正
義の問題にも関わっているのです。 



  パウロは、教会内の人間関係のいざこざは、教会内で解決
すべきであると勧めています。また、教会にはそのようにする
能力があるはずであると論じています。(Iコリ6:1−8)
 本来義の共同体である教会が、正義の問題を自分で解決出来
ずに、教会の外に持ち出して裁判を求めること自体が、その当
事者たちを始めとして教会の敗北だということです。キリスト
も、不完全な人間によって構成される教会には、そのような紛
争が必ず起こることを予測してか、教会としてそれにどのよう
に対処すべきか、極めて原則的なことを示しています。(マタ
18:15−18) 判断の前に複数の証人の声を聞くという
キリストの教えは、旧約聖書の教えと同じですが、判断が公正
に行われるように、すなわち公義が行われるようにという配慮
によるものです。



  教会の中でのすべての紛争を教会内で解決するということ
は、現実問題として不可能かも知れません。しかしここでパウ
ロは、単に表面上の公義を求めることよりさらに高い教会の倫
理を示しているのです。パウロはまず、互いに正義を主張し合
うことの間違いを指摘しています。教会が義の共同体であると
いうことは、構成するすべてのクリスチャンが、自分の義を主
張し合うことではありません。自分が絶対正しいと抗弁するこ
とではないのです。パウロが示したより高い倫理は、訴えられ
たならば訴えられたままにしておくということです。抗弁しな
い。自己弁護しない。自己の正しさを主張しない。自己の正当
性をあげつらわない。自己の権利を擁護しないということです。
それをすることが敗北なのです。



  正しい者が正しさを主張しない共同体が教会だとすると、
教会は不正の共同体になるのではないかと、いぶかる人がいる
かもしれません。しかし、どうやら教会の正義は、正しい人が
自分の正しさを主張して成り立つのではなく、共同体として、
全員が正しいことを求めて歩くことによって成り立つようです。
互いに厳しく罪を指摘し、裁き合い責め合うのではなく、互い
に罪を痛み合い、共同体として励まし合い共にその罪を克服し
て行くべきものです。他人の目にある塵を取り除くことに熱心
になるのではなく、自分の目にある梁を取り除いてもらおうと、
一所懸命になることです。他人の食べ物や着物、生活態度の違
いに目くじらを立てるのではなく、互いに兄弟姉妹としての自
由を尊重し、受け入れ合って行くことです。訴えられても争わ
ない態度、損をするのならば損をしてもかまわないという態度
は、神がすべてを知り、正しく裁き、正しく報いてくださると
いう、厳しくも大らかな信仰から来るのです。このように考え
ると、教会が義の共同体であるということは、自分の権利を主
張しあう共同体ではなく、互いに自分以外の者の権利を尊重し
あう共同体であることがわかります。



  ですから、教会の義というものは常に愛と関わりを持つも
のです。共同体として公平に義が行き渡らなければならないと
考えるのは、取りも直さず、すべての者を愛するということで
もあるのです。義が愛の後ろ盾を持たないまま歩き出すと、た
だ、死をもたらすだけです。愛があってこそ義は生きるのです。
神がお求めになるのは犠牲ではなく哀れみです。義を遂行する
ために愛を犠牲にしてはなりません。愛を追求するあまり、義
をないがしろにしてもなりません。教会は、時にはその構成員
に対し厳しい処分をしなければならないこともあるでしょう。
しかしそこにおいても大切なのは、愛を持って行うということ
です。パウロも厳しい処分をしなければならなかったことがあ
ったようです。しかし彼の処分の動機には、処分される当人に
対する愛と、共同体としての教会に対する愛が含まれていたの
です。(Iコリ5:5、Iテモ19−20、IIテモ2:16
−18)



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

  だいぶ昔の事になりますが、私は
自分が責任を持っている教会の信徒の
ひとりを、どうしても教会から追放し
なければならないような状況に、追い
込まれた事があります。教会全体がず
いぶん痛みましたし、責任者の私もと
ても悲しく、苦しみ続けました。そし
てついに、祈りの中で自問自答させら
れました。「お前は彼を憎んでいるか
ら、嫌っているから、処分しようと思
っているのではないか? お前は彼を
愛しているか? お前は彼のために命
を捨てることが出来るか?」 長い葛
藤の後に私は、「自分は、彼の救いの
ためならば、命を捨ててもかまわない」
と、答えることができるようになりま
した。そこで私は彼を教会から追放す
る決心をしたのです。ただ、感謝なこ
とに、彼はその直後悔い改めて、素直
に神様に立ち返ったために、処分を実
行するには至らなかったのですが、当
時の私なりに到達した愛のあり方でし
た。



  もうひとつ、ここで考えなければならない大切な問題は、
教会は部外者に対して義を主張して行く共同体かということで
す。社会の悪に向かって、声高に義を叫ぶ共同体かということ
です。教会があたかも旧約聖書の義の預言者であるかのように
考えて、社会の悪に向かって大胆に叫ばなければならないと説
く人たちがいます。しかし、この人たちは聖書の理解に立って
そのように主張しているのではなく、自分の立場や主義主張を
聖書によって正当化しようとしているに過ぎないのです。聖書
には彼らの主張の根拠がないからです。新約聖書は、教会が福
音宣教以外の目的で、外の社会に声を上げるべきだとは教えて
いません。旧約の預言者たちも、あくまでもイスラエルという
代行神聖政治社会に向けて語ったのであり、たとえ、他の国に
対しての預言であったとしても、イスラエルとの関係の中で語
られているに過ぎません。それなのに、教会が外に向けて義を
叫ばなければならないと主張するのは誤っています。社会問題
に関する彼らの考え方は正しいかもしれないし、間違っている
かも知れないのです。なぜなら教会は、外部の人を裁くほどの
能力を与えられていないからです。教会は、何が正しく何が誤
っているかと言うことに関して、原則的な判断は出来ます。し
かし複雑な社会の複雑な問題の正邪を正しく判断するのは、教
会の能力を超えています。パウロははっきりと、「外部の者を
裁くのは私たちのすることではない」と教えています。 (Iコ
リ5:12−13)



  実際、先にも述べたように、教会の善悪の判断は、聖書が
あるにもかかわらず、非常に文化に影響され、世界中の教会が
一致して善悪の判断など出来るはずがないのです。教会内の事
柄でも一致出来ない教会が、どうして世俗の問題で一致出来る
でしょうか。戦争が起こると、アメリカの教会の大部分はアメ
リカが正しいと思い、フランスの教会の大部分がフランスは正
しいと判断し、日本の教会も日本の行為は正当だということで
しょう。教会に出来ることは、謙虚に、「私には解りません」
と言うことです。そして、原則的に正しい事のために祈ること
です。「世界に正義が行われますように、平和が来ますように」
と。  



  また教会が、自分の考えは聖書に基づいているから正しい
と考えたとすると、そこに大きな落とし穴があります。福音派
や正統派に属する人々は、ともすれば、自分たちは聖書の教え
をそのまま信じ受け容れているのだから、自分たちの主張は聖
書の主張だと考えてしまう傾向を持っています。一見、社会派
の人々が聖書の中に自分たちの考え方を読み込んでいるのと、
反対のように見えます。しかし、問題は類似しています。福音
派や正統派の人々も、聖書の教えている事を信じているのでは
なく、自分が理解した聖書を信じ、それを絶対の神の言葉と信
じているのです。聖書は絶対の神のみ言葉であり、誤りのない
指針ですが、それを読む人々、それを解釈する人々の、読み方、
解釈の仕方は必ずしも正しいとは限らないからです。ですから、
福音派や正統派の人々は、自分たちの見解が聖書の教えとは異
なっている可能性があるにもかかわらず、それに気付かず、あ
たかも絶対に正しい聖書の主張のように語り、他のすべての見
解を絶対に誤っていると糾弾するところに、間違いがあるので
す。そのような間違いを犯す教会の正義は、外部の悪と戦うこ
とによっては示されません。教会は正しいと思うことを他者に
向けるのではなく、教会内部に向けなければなりません。また、
ひとりひとりのクリスチャンは、自ら正しいと信じるところを
他のクリスチャンに強要するのではなく、それを持って、自ら
を治めるべきなのです。教会の正義は、悪に手向かわず、悪に
対して悪を持って報いないところに現されるのです。教会の正
義は社会の悪と戦うことによってではなく、社会の悪になじま
ないことによって悪に勝利をするのです。パウロが悪魔の策略
に対して立ち向かうことを教えた時、彼が列挙した神の武具は
みな防御用の武具であり、攻撃用の武具はひとつもなかったこ
とに、もう一度注意をしたいものです。(エペ6:10−17)



  パウロの時代の、たとえば奴隷制度、たとえば男女差別、
たとえば植民地政策に対して、パウロは抗議運動を組織したり
啓蒙運動を起こしたりはしませんでした。教会は一般社会の悪
に対して、糾弾したり断罪したりしていないのです。しかし、
パウロの建てた教会は、その公義と愛の精神によって、そのよ
うなものの最も手強い敵となっていたのです。ピレモンは、自
分のところから逃亡した奴隷のオネシモを、キリストのゆえに、
大切な兄弟として迎えたことでしょう。女性たちは、基本的に
当時の社会の習慣に従って生きるように教えられながら、男性
と変わりなく尊いものであるということを教えられました。ロ
ーマの圧制に対しては反乱を企てたことがないばかりか、為政
者のために祈りながら、彼らの強制する悪には親しまず、自ら
を正義と愛で律して行きました。教会の正義は浸透して行く正
義で、上から強制したり押しつけたりする正義ではないのです。
これまで教会は、しばしば外部の悪に向かって面と向かって戦
うことによって、自ら悪となり果て、悪に飲み込まれてきまし
た。それが、教会の歴史の悲しむべき事実です。教会がすべて
の善悪をわきまえて、裁くことが出来るようになるのは今のこ
の世ではなく、後の世に属することだからです。(Iコリ6:
2−3)











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2010年10月26日

聖書について 2−P

p100〜108


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H.共通目的の共同体



  教会は同じ神の召しに与り、同じ救い主キリストの血潮の
贖いを受け、同じ聖霊によるバプテスマによって、キリストの
み体に連なるようにされた者の共同体です。その根源において
ひとつです。教会はその中でキリストの命を共有し、互いに愛
し合いながら共に成長します。しかし、教会は相互愛、相互支
援の互助団体ではありません。教会は外部に対する働きをも共
有するものです。外部の人々に対する責任を持ち、外部の人々
のために犠牲を払うものです。



  すでに述べたように、教会は宣教という使命を与えられて、
この世に遣わされています。教会の外部に対する働きである宣
教こそが、教会がこの世界に存在しなければならない理由、存
在目的です。教会は共同体であり、宣教の使命は共同体として
の教会に与えられたのですから、教会は、教会全体としてこの
目的を共有しているのです。宣教は教会の中の特殊な人々、特
別に選ばれた人間、少数のエリートの仕事ではありません。教
会を構成するすべての信徒の共有の仕事であり、共同の目的で
す。この世に対してすでに死に、神の国に生まれ変わって神の
国の国籍を持ち、朽ちない栄光の神の国を相続するにふさわし
くなるために、朽ちない肉体とキリストのみ姿に似る者とされ
るという、素晴らしい約束をいただいている者が、依然として



  悪魔の支配するこの世に留まらなければならない理由は、
この世に死んでいる者たちに命をもたらすためなのです。この
世こそ、神が死者たちに命を与える、救いの場です。この代こ
そ、神が罪人の救いのために設けておられる恵みの時、救いの
日なのです。罪のために命の源である神から断たれ、動物的な
生物学上の命しか持っていない人間が、本来の人間としての命
を再び与えていただけるのは、今の時代のこの世界以外にはな
いのです。だから教会はこの世に留まります。教会はあの世で
ある神の国に属しています。また、やがて来る代のみ国に属す
る者です。しかし、その教会が自らの不完全さに泣きながらこ
の世に生き働くのは、この世が、刈り入れ場であり、漁場だか
らです。(マルコ12:1−12、マタイ4:19) 自らの
弱さに痛みうめきながらこの代に生活するのは、この代が完全
な闇の代が来る前の、光のある間だからです。(ヨハネ12:
36)



  そういう訳で、教会はこの時代のこの世界に存在する、神
の救いのエイジェント(代理)です。神の救いをもたらすため
に働く、人々の集団、共同体です。そしてその共同体を構成す
るひとりひとりが、神の救いを体験しているのです。神が教会
をご自分のエイジェントとしてお立てになったのは、教会が人
々と同じ痛みを持っていた者たちであり、現在もまた同じよう
に痛みながら生きているからです。



  教会は共同体として、宣教をこの世における自分の存在目
的として働きます。しかしそれは、教会に所属するすべての信
徒が、直接宣教の働きに関わるという意味ではありません。教
会の中には非常に多くの種類の人々がいます。説教や司会とい
った目立つ仕事に向いている人もいれば、掃除だとか後片付け
だとかに向いている人もいます。路傍に立って伝道するのが得
意な人もいれば、じっと病院で付き添うのが上手な人もいます。
お話は下手でお話にならないけれど、とりなしのお祈りだった
ら何時間でもじっくり座り続けることが出来る人もいます。指
導力はないけれど地道な補佐的な仕事なら、非常に信頼に足る
人もいます。扇動者的なことには向いているけれど、しっかり
とした計画性のある仕事には合わない人もいます。教会には実
に雑多な背景と資質と能力を持った人々が集まります。みな、
神が召してくださるのです。神は、お召しになったこれらの多
種多様な資質と性質と背景を持った人々を、改めて賜物として
教会にお与えになったのです。



  さらに、これらの人々が持っている様々な能力もまた、聖
霊の賜物であると言われています。人々が賜物であり、その人
々が持っている性質や能力もまた賜物なのです。その上さらに、
聖霊がお与えになる超自然の能力もまた賜物です。よく理解し
ておくべきことは、これらすべての賜物が教会に与えられると
いう事実です。個人のクリスチャンの所有になるのではありま
せん。自分の命さえ自分の物ではなく、まず、血潮の代価によ
って主に買い取られて、主の所有となり、それから、教会に与
えられたのです。ですから、すべての賜物は個人の利害のため
に用いられるべき物ではありません。また賜物はどれも、みな
教会の徳を高めるために与えられるものであって、教会の徳を
破壊するような用い方をしてはならないものです。すべての賜
物は互いに働き合って、教会の益になるのです。ある賜物は弱
い信徒を励まし慰めます。ある賜物は愚かな信徒を教え導きま
す。他の賜物は傷んでいる信徒の傷を癒します。あるいは強い
者の前で弱さを見せて、強い者の強さがさらに鍛えられ、本当
に助けを必要とする弱い者のために役立つようにするために機
能する、常に弱いままでいることが出来る強い賜物さえも考え
られます。他にも奉仕に関わる賜物、教えに関わる賜物、支援
に関わる賜物、慈善に関わる賜物、いろいろたくさんあります。
それらがみな複雑に絡み合いながら教会全体の益のために働き
ます。すべての賜物が直接宣教に関わる物ではありません。し
かしそれらすべてが働いて、教会を健康に成長させ、教会全体
として宣教の働きが出来るようにするのです。



  そういう訳で、教会はあらゆる能力と資源を持ち寄って、
宣教のために尽くすものです。大切なのは、宣教が教会の務め、
教会の任務、教会の使命として、教会に与えられているという
ことです。教会の中の誰かにではありません。宣教の賜物とい
う賜物は教会に与えられていません。宣教は、あらゆる賜物の
動員によって遂行される任務、使命だからです。現在、宣教の
働きが少数の特殊なクリスチャンたちにだけによって行われて
いるのは、非常に残念なことです。すべてのクリスチャンは、
何らかの形で宣教に参画すべきです。宣教の共同体である教会
に連なった者として、宣教を自らの存在意義として、貢献すべ
きなのです。歴史的に、教会は聖職者制度を整え、あるいは官
僚的な教職優越思想を持ち込み、教会の働きの大部分を本来の
働きの担い手である信徒の手から奪い取って、わずかな特権的
教職者の物としてきました。現在の私たちの教会を見ても、宣
教の働きのほとんどは、伝道者と言われる牧師や宣教師によっ
て進められています。そのために神が教会に召し入れて下さっ
た、能力のある多くの人々が見過ごしにされ、聖霊が教会にお
与えになった賜物が無駄にされています。



  教会が制度を整え、教職者と言われる人々がさまざまな責
任を持って働くことは、それなりに意義があります。しかしそ
のような制度が、教会全体の宣教に対する情熱を削ぎ、働きを
阻害するとするならば、断固としてその制度を作り直さなけれ
ばなりません。教会全体が宣教に参画するのは神のご計画であ
り原則です。教職制度は人間の制度であり、適用に過ぎません。
適用が原則を妨げてはならないのです。適用は原則を生かすも
のであるべきです。エペソ書4章11−12節によると、使徒、
預言者、伝道者、牧師、教師と呼ばれる人々の働きは、聖徒た
ちを整え、奉仕の働きをさせ、キリストのみ体を建て上げるた
めであると言われています。このような人々の働きは、それが
制度化された中での立場であれ、あるいは極めて自由な環境の
中での呼び方であろうと、自分たちだけで教会のあらゆる仕事
をすることではなく、聖徒たち、すなわち、一般の信徒たちを
整え、彼らが目的に沿った働きが出来るようにすることです。
ここで、「整え」と訳されている言葉は、元々、外科医の骨折
の治療に用いられていたものであり、ペテロたち漁師が網を繕
っていた物語の「繕う」という言葉にも訳されていて、準備す
る、修理するというほどの意味があります。現在の教職者の働
きも、聖書の教えの原則に従うならば、信徒たちを教え訓練し、
彼らに与えられた本来の働きをすることが出来るように、彼ら
を整え準備をさせることです。このようにして、教会全体が互
いに協力し合いながら、宣教の働きに邁進して行くのです。



  教会は宣教の共同体であり、宣教は、共同体としての教会
に与えられた使命であることを、教会全体が正しく理解するな
らば、現在、私たちの周囲で行われている宣教の働きの多くが、
姿や形を変えることになるでしょう。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

  私が宣教師として活動していた頃、
強調していたことのひとつに、「信徒
による伝道」、「信徒による牧会」が
ありました。あるとき、7〜8人の信
徒の協力を得て、10ほどの会衆(地
域教会)をまとめての管理上の教会を
牧会していた協力牧師が、このような
話をしてくださいました

  このところ三週間ほど、ひとつの
会衆の指導的な信徒が、数人を引き連
れて礼拝会を休んでいました。彼らは
全員、細く急な山道を40分程も歩い
て行かなければならない小さな集落か
ら、毎週、忠実に礼拝に出て来ていた
のですが、突然、来なくなってしまっ
たのです。少なからず心配していまし
たが、何しろ電気も電話もない、それ
ぞれ歩いて数10分から数時間離れた
集落に散在している、いくつもの会衆
をまとめているのですから、連絡もす
ぐにはままならないでいたところ、今
週の日曜日の午後の集会にひょっこり
と顔を見せました。(日曜日の午後に
は、10ほどの会衆の中から来られる
人だけが自由にやって来て行う、フェ
ローシップ集会がもたれていたのです)



  「おい、どうしたんだ。心配して
いたぞ」というと、彼はこう答えるん
です。「自分の集落からもっと多くの
人たちが集会に行けて、もっと多くの
人たちが救われるように、ずっと祈り
ながら近所の人々を誘っていたのです
が、遠いからなかなか行けないと言う
んです。 それで、決心して、自分た
ちの場所で、自分たちで礼拝会を開く
ことにしたんです。そうしたら、ハレ
ルヤ!! いま20人以上の人たちが
礼拝会に来るようになって、何人も救
われました。」 そこで少し厳しく叱
っておきました。「どうして勝手にそ
んなことをやったんだ。僕に黙ってや
ったなんてとんでもない。初めから僕
に話して、みんなで祈って協力してや
ったら、20人以上ではなく、40人
以上になっていたかも知れないのに。
せっかくの君の努力が、充分に結果を
出せないことになってしまったではな
いか。よし、来週はぜひその礼拝会に
行って一緒に喜び、祝福をしよう。神
様が君たちを用いて、もっとたくさん
の人々が救われるように。」

  この牧師は決して頭が良い方でも、
説教が上手な方でもありませんでした
が、信徒たちを励まし「おだてて」ど
んどん奉仕をさせるのがとても上手で
した。彼が責任を持っていた教会は、
私たちの教区では、内容においても人
数においても最も早く成長した教会で
す。このとき叱られた信徒はそれから
成長して立派な信徒牧師となり、50
人程の会衆を牧会するようになりまし
た。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 
  宣教の働きは個人の働きではなく、教会という共同体の働
きであるということをしっかり理解すると、個人主義的な宣教
にも、ある程度の歯止めがかけられることになるでしょう。牧
師たちは、互いの競争意識を少しばかり和らげることになるで
しょう。宣教師たちも、張り合うのを少しばかり抑えて、互い
に認め合い、協力し合うことが出来るようになるでしょう。他
の教団、他の団体、他の国の働き人とも、互いにみ体の一部で
あることを強く意識して、協調し合う事が出来るでしょう。牧
師や宣教師の間から、醜い闘争心や虚栄心がなくなり、目立つ
仕事や、賞賛を受ける仕事を選ぶこともいくらか少なくなり、
大切な仕事を大切な仕事として、取り組むことも出来るように
なるでしょう。大きな教会を建てた牧師を見て、隣の教会の牧
師は心から喜べるようになるでしょう。良い働きをしている宣
教師を見て、近くの宣教師たちは心から神を崇めることが出来
るでしょう。多くの人々が教会に対して抱いている不信は、互
いに争い合う宣教師たち、互いに張り合う牧師たち、互いに軽
蔑し合う教会の存在です。それが共同体としての宣教に、大き
な妨げになっています。



I.個人が生かされる共同体



  このように、共同体としての教会という概念は、聖書の教
会観の中心を成すものですが、その反面、聖書は個人の大切さ
も強調しています。もちろん、神に似せて造られた者としての
尊厳を持った、一個の人格としての個人などという言い方は、
何か非常に聖書的なように聞こえますが、必ずしも聖書の教え
ているものではありません。むしろ、人間は大切なものである
という前提を、聖書の中に読み込んだヒューマニズムの考えに
過ぎません。人間は罪を犯して後、神の前に価値を失った存在
であり、尊厳を失ったものだからです。というより、神の敵と
なり、神にとって反価値的存在となっているのです。



  人間は本源的尊さを持つものではなく、その存在も、尊厳
も、気高さも、すべて神に負っているに過ぎません。人間その
ものに尊厳と価値を認めると、神がこの価値ある人間を愛する
のは当然のこととなります。価値のない者を愛する愛である神
の恵みが、単に、愛する価値のある者を愛するだけの、交換条
件の愛と成り下がり、恵みではなくなってしまいます。恵みと
は、「愛を受けるに値しない者に注がれる愛」だからです。神
に負っていた人間の尊厳は、罪によって神との交わりを絶たれ
たことによって、失われてしまったのです。従って神の救いは、
本源的尊さを所有していた人間を、神が愛でて救いに入れ、教
会に加えてくださったものではありません。かえって、神にと
って価値のない者、忌むべき罪にまみれた存在としての人間が、
ただ、一方的に神の恵みを受け、すなわち受けるに値しない者
に注がれる愛である恵みを受け、救われたのです。



  人間が愛され大切にされなければならない理由は、「人間
の命が全世界よりも尊いから」ではありません。これはキリス
トのみ言葉を完全に誤解して引用したものです。キリストは
「人が、たとえ全世界を獲得しても、自分の命を失ってしまっ
たら、何の益になるか」とおっしゃり、主観的な価値判断を述
べられたのであり、客観的に、一個の命の価値が地球より重い
とおっしゃったのではありません。罪によって価値を失った人
間を愛し、大切にしなければならない理由は、その人間にまだ
神の姿のかけらが残っているからではありません。むしろ、た
とえ本来的な価値は失われていたとしても、なおもその人間を
愛して止まない、神の愛のゆえなのです。どのような罪人でも、
価値のない人間であると思われても、事実価値のない人間であ
っても、神の愛の対象であるゆえに愛される価値を持つのです。
人間の価値は人間自身の中にあるのではなく、価値のないその
人間をなおも愛して止まない、神の愛の中にあるのです。



  従って、教会に連なるひとりひとりが、それぞれ固有の尊
厳と価値を持って教会に加わったのではありません。本来価値
も尊厳も持ち合わせていなかった人間が、罪によって命の源で
ある神から隔離されて霊的に死んでいた人間が、恵みによって
救われ、キリストのみ体である教会にバプタイズされた事によ
って、キリストに繋がり、キリストの命をいただいて 「生き
る」ものとなり、本来の人間としての尊厳と価値を取り戻して、
神のみ前における一個の人間として大切な存在となったのです。
ですから、キリストのみ体である教会に繋がっていないクリス
チャンなどというものはあり得ません。個人の自由によっては、
教会に加わることも教会を離れることも出来ないのです。



  個々のクリスチャンは、それほど不可分に教会と繋がって
います。このように、教会の共同体としての特色を強調すると、
現代個人主義の文化にあっては、あたかも時の流れに逆行する
考えかた、時代錯誤の感覚を持ち込もうとしているように思わ
れる危険性があります。戦後の日本でも、西洋風の個人の権利
や自由が強調される中で、共同体というものの欠点や弱点が攻
撃されてきました。確かに私たちの周囲に一般的に見られる共
同体は、多くの場合、個人の犠牲の上に成り立っている共同体
です。共同体全体の益のためにという名目のために、個人の権
利がないがしろにされ、個人の自由が妨害されることがたくさ
んあります。そのような共同体の中では、ともすれば、小さい
者や弱い者が最も犠牲になり、大きい者、強い者が利を貪り、
益を獲得することになります。



  たとえば、フィリピン文化も基本的に共同体文化です。社
会生活のすべての側面に共同体感覚が強く染み込んでいますが、
中でも、家族という共同体が最も重要です。この場合は親戚親
族を含めた大きな家族です。また、小さな集落における、共同
体感覚も非常に強力です。それぞれ自分勝手、身勝手な人間た
ちがこのような強力な共同体を構成して生きて行くと、どうし
ても、強い者が得をして弱い者が損をする形になってしまいま
す。部落の中で一番勢力のある家系の、一番力を持っている家
族がいつも利を得て、その中でも特に強い者が常に得をします。
もちろん、よくしたもので、多くの場合そのような力を持って
いる人間は、あれこれと弱い者、貧しい者の世話を見て助けま
す。それが共同体文化の良いところです。小さく弱い者は、大
きく強い者の助けを得、庇護を受けるのを当然と考えて生きて
います。とはいえ、大きく強い者の助けはいつも不充分です。
結局、弱い家系の弱い家族の、その中でも最も弱い者にしわ寄
せが集中することになります。最も弱い者は、いつも押しつけ
られ、押しのけられ、搾取され、略奪され、無視され、失敗の
責任をとらされ、功績を奪われてしまいます。このような共同
体では、弱い者の逃げ場がまったくなくなってしまいます。現
代のように人々が自由に移り住む時代ではまだ、姿をくらます
という方法も残されていますが、実際には、常に押しやられて
きた人間には、そのようなことを思いつくほどの能力も、それ
を実行するほどの力も無くなってしまいます。



  そこで、このような文化背景のフィリピンには、一風変わ
った病気が知られています。最も弱く小さな存在に甘んじて来
た人たちの逃亡先が、異なった土地ではなく空想上の異なった
世界になるのです。突然、小さく弱い彼、あるいは彼女は、空
想の世界に逃避するのです。若い娘なら、突然、お姫様か良家
のお嬢様になったかのように振る舞い始めます。すると周囲の
人々は心得たもので、みんなで、しばらくの間、彼女をお姫様
や良家のお嬢様のように扱うのです。そこで彼女は数日から数
週間、日ごろの耐え切れないような抑圧を忘れて、すっかりお
姫様になりきって開放されるのです。そしてしばらく経つと、
彼女は正気に返り、また元の生活に戻って行きます。男の場合
は、面白いことに、交通整理の警察官になったつもりになる例
が多いと言われています。ものすごい数の車を、ピッピーと笛
と手振りで操る警察官は、権威と力の象徴と映るのだろうと考
えられています。ただ、そんな「警察官」に出くわした運転手
には迷惑な話ですが、諦めるしかありません。また、このよう
な自己逃避を繰り返すと、精神に異常を来たすようになると言
われています。



  これは、小さい者、弱い者にしわ寄せが行く、一般の共同
体の悪い面が非常に興味深い形で現れている例です。日本にお
いても、共同体の悪い面はたくさんあります。フィリピンほど
強力な共同体が存在しなくなってしまった現代の日本ですが、
日本独特の共同体の悪い側面はいたるところにあります。たと
えば、諺を取り上げてみましょう。「見ざる、聞かざる、言わ
ざる」「臭いものには蓋をしろ」「長いものには巻かれれろ」
「寄らば大樹の陰」「出る杭いは打たれる」「もの言えば唇寒
し秋の空」「物言わざるは腹ふくるる業なり、穴を掘って言い
入りはべりけめ」このように諺で言われていることが、実際の
日常生活でふんだんに行われているのです。結局、強い者が得
をする、弱い者が損をする社会です。弱い者は強い者のお情け
と、時々の善意に期待して生きる他ないのです。自己主張をし
てはならないのです。



  そのような中では、ひとりひとりの意見や考えは滅多に取
り上げられません。言葉に注意して物を言わなければ、言った
内容の善し悪しではなく、多くの場合、まず、言った者がきち
っと立場をわきまえて言ったか、言い方が正しかったかなどと
いうことで判断されてしまいます。低い立場、弱い立場にある
人の考えや意見は、先ずこの種の、二重、三重の厳しい採点を
くぐらなければ、聞いてさえもらえないのです。強い立場の人
や上位者の採点だけではなく、弱い者たちの中の「よくできた
奴ら」のもっと厳しい批判も覚悟しなければなりません。そう
いう文化の中では、個々人の特色や固有の可能性というような
ものは、全体の、というより、一部の強い者の取りまとめた全
体の中に、埋没させられてしまいます。



  普通言われる日本の共同体は、結局強い者が共同体を支配
し、強い者の主張が共同体の考え方となり、強い者の益のため
に存在することになります。強い者に反対の声を上げると、そ
れがどのように正しい考えであろうと、多くの者を代表する声
であろうと、共同体への反逆として捕らえられるのです。たと
えば、日本の政権を担っている自民党の代議士は、日本の政府
の意向に沿わない行動した個人としての日本人を、「反国家的、
国家の敵」とみなす発言をします。少しでも権力に近い人はそ
のような発想しか出来ないのです。あらゆる考え方、人生観を
持った人々が共存する日本を認めることが出来ないで、権力者
たる自分たちの意見に同調しない者は、日本人でないかのよう
なことを言い出すのです。そして、かなり多くの平均的日本人
は、そのような自民党の代議士の言うことに、疑問を感じない
のです。  まだまだ、「お上に逆らっては」生きて行けない
日本なのです。



  人間は本来保守的な存在であると言われています。変化を
嫌うのです。変化は必然的に新しい適応を要求します。これは
人間にとって軋轢となり負担となります。ですから、保守的で
あるというのは自然な自己防御でもあるのです。特に社会の中
で指導的立場にあるものは、社会が通常に機能している限り、
断じて保守的であり続けます。したがって、独創的な人間、進
歩的・斬新的・発展的人間は、のけ者にされ、排除され、良く
ても無視されて行くことになります。この人間の本来の保守性
と共同体感覚が結びつくと、いよいよ個人が失われてしまうの
です。そのような文化の中で育った者は、常に周囲の顔色をう
かがうことになります。自分の意見を言わず、他の人の言うこ
とに無意味に同調します。いつも大勢に流され、権力に流され、
自分を見失ってしまいます。いわゆる自己確立のできていない
人間になってしまいます。



  教会の中にも、このような例はたくさん見ることができま
す。日本独特の、静かな、物言わぬ信徒がたくさんいます。牧
師の言うことが絶対の教会があります。自分で聖書を学ぶこと
を教えられず、ただ牧師の言うことを恐れ入って崇め奉るだけ
の信徒がいます。そのような信徒を「従順な良い信徒」と思い
込んでいる牧師がいます。教会の中で個人が確立されていない
のです。自分の特質、自分の固有の能力、賜物を生かしきれて
いない信徒がたくさんいます。それに気付いていない信徒がも
っとたくさんいます。そして、自分の特質や能力あるいは賜物
というものを、生かす場がないとフラストレーションを感じて
いる信徒が、僅かながらいるようです。













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教会について  2−Q

p107〜115


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  本来、キリストのみ体である教会は、個人が生かされる共
同体です。個人を犠牲にし、個人を埋没させて成り立つ共同体
ではありません。かえって個人の価値を認め、個人の尊厳と個
人の特色と多様性を生かす共同体です。そのあたりが、普通の
共同体とは大いに異なるところなのです。パウロは、コリント
第一の手紙の12章全体で、個人が生かされる共同体としての
教会を語っています。彼の強調点は、キリストのみ体のすべて
の部分が、それぞれ、神のみ心に従って体の中に備えられたも
のですから、大小に関わらずすべての部分がその存在価値を認
められ、与えられた機能に応じて活動することが期待されてい
るということであり、さらに、どのように小さくまた弱い者で
あっても、その存在を無視されたり、また犠牲にされたりせず
に生きるようにと、配慮されているという事実にあると読み取
ることができます。もし、教会の中に差別が存在するとしたら、
それはむしろ、強い者や富める者がぞんざいに扱われ、弱い者
や貧しい者が大切にされる差別です。(ヤコ2:1−9、マタ
18:1−14、ルカ4:18)そのようにすべての個人が生
かされてこそ、全体の徳となるのです。個人が自ら進んで他者
の、あるいは全体の犠牲になることは大いにあり得ますが、全
体が、あるいは他の部分が、小さな個人を犠牲にすることはあ
ってはならないのです。この非常に高い教会論を述べている章
が、多くの人たちに、ただ賜物について語っているように軽視
されているのは、非常に残念なことです。実際12、13、
14章は、賜物の章ではなく、キリストのみ体の章、教会論の
章です。13章も愛の章ではなく、教会論の中での愛を取り扱
っているのです。



  このように教会は、聖霊が自分たちの中にバプタイズして
くださる人々を、すべて受け入れ、彼らの居場所と活動の場を
提供できなければなりません。どのように役立たずに見えても、
いかに邪魔な存在に思えても、どれほど手がかかり世話が焼け
ようとも、また、いつも自分の意見と対立し馬が合わなくても、
顔を見たくない声も聞きたくない人であっても、聖霊がキリス
トのみ体にバプタイズしてくださったならば、その人は、神の
み心に従って教会の一部分とされたのです。どのようなことが
あっても、絶対に、その人を拒絶したり蔑視したり無視したり
することは許されないのです。かえって教会は、身分の低い人
や貧しい人、弱い人と歩調を合わせ、そのような人々と交わり
を深めるように、特別に心を用いるものなのです。強い人の強
さは、弱い人があって初めて強いのです。弱い人の弱さは、強
い人の強さが生かされるためにあるのです。



  日本式の共同体社会の特色、あるいは世界中の共同体社会
の特色とも言えるものに、多様性を嫌い、均一性、あるいは類
似性が強調されることがあります。アメリカなどの個人主義が
進んだ文化の中では、多様性が貴重な財産あるいは価値として
認められます。かつて、日本の総理大臣が、日本はアメリカな
どの多民族国家とは違い、単一民族国家であるから優れている、
という趣旨の発言をしたことがあります。日本が単一民族国家
であるという認識自体が誤っていますが、それよりも、アメリ
カ政府筋の人々がこれに激しく反発して、アメリカのアメリカ
たるところは、多民族国家であり、あらゆる民族の人々が「民
主主義」という大儀を受け入れて生きるところに、真実の強さ
があると主張したことがありました。アメリカのように、個人
の権利を最優先にした民主主義国家では、自分は他の人間とは
違う一個の人間なんだという主張が、当然のこととして認めら
れ受け入れられるのです。ところが日本では、他人と異なると
いうことを嫌います。みんな一緒、みんな同じ、他人に合わせ
る、協調するということが、何よりも大切であると教えられ育
ちます。  良い事をしようとして、存在している平穏さを壊す
より、何もしないで平穏さを楽しむ事のほうが、社会的に正し
いと考えられているのです。



  教会は、すでに述べたように徹底した共同体です。しかし
この共同体は、すべてを同じにしてしまう、個人の特色が消滅
してしまう共同体ではなく、個々人の存在価値と特色を最大限
に認めた共同体です。それぞれが違うということを前提とした、
共同体です。それは、あたかもアメリカという多民族国家のよ
うに、それぞれの個人の違いを大切な要素として取り込みなが
ら、個々人が自己中心に勝手に考え勝手に行動するのではなく、
あくまでもキリストの愛というひとつの固い絆で結ばれ、キリ
ストの命というひとつの命によって生かされている、堅固な共
同体なのです。この共同体の本質を、パウロはキリストの体と
いう表現で、見事に言い表しています。



  教会の中では、個人が大切にされなければなりません。個
人の違い、個人の特色、小さい者、弱い者、貧しい者が自由に
生き、自由に発言し、その発言がどのようにされたとか、誰に
よってされたとか言うことを抜きにして、その内容によって判
断されるべきです。「長いものには巻かれろ」「見ざる言わざ
る聞かざる」「出る杭は打たれる」などという日本的な、教会
の中の考え方であってはならず、そのような空気の中で会議を
行うことなども、あってはならないのです。教会はすべての側
面において、個人を生かす方向で考え、行動すべきです。そし
て個々のクリスチャンは、自分の損得ではなく、他者の益のた
めに働くことを喜びとし、主のみ栄えのために生きることを光
栄とするのです。



  ところで、このような教会の共同体としての側面、すなわ
ち、すべての信徒の存在価値が認められ、大切にされるべきで
あるということと、教会の中の特定の目的のための機能の中で
は、選択排除の作用があるという側面とを混同してはなりませ
ん。一方はすべてを包含し、他方は特定の者を選出するのです。
地域教会の中においても、管理上の個教会においても、あるい
は有機体としての教会にしても、かならず、ある特定の機能を
目的としたグループを必要としています。地域教会の中で子供
の教育をしようとすると、当然、子供の教育に関心と能力を持
っている者が選ばれなければなりません。ひとつの管理上の教
会の中で、役員会を構成しようとすると、当然、指導力とクリ
スチャン品性を持っている者が、選出されなければなりません。
有機的教会として、協力して海外宣教を行い、宣教師を送ろう
とするならば、当然、宣教師としての資質と、能力を兼ね備え
ている者が、送り出されるべきです。このように、ある特定の
分野の働きをするためには、その働きにふさわしい者が選ばれ、
その働きにふさわしくない者が選ばれてはならないのです。こ
こに、すべての者を包含する共同体の論理を持ち出してはなり
ません。これはあくまでも、特定の働きのための選択、選別、
そして排除なのです。



  ですから、たとえば、宣教師として送り出された者が、し
ばらくしてから、その宣教師が目的とする働きにふさわしい、
資質と能力を持っていなかったことが判明したならば、その宣
教師はできるだけ早くその働きを止め、自分に最もふさわしい
働きを探し出し、その働きに就くべきなのです。すべての者が
存在価値を認められるべきであると論じるのは、この場合間違
っているのです。なぜなら、ここで問われているのは存在では
なく、働きだからです。「キリストのみ体」というパウロの表
現を借りるならば、手は口の働きをしようとしてはならないし、
させようとしてもならないのです。同じように口は足の働きを
するべきではなく、足は鼻の働きをさせられてはならないので
す。そこに、かわいそうだから宣教師にしておくとか、一度宣
教師になった者を止めせるのは残酷だという、憐憫の情を入れ
てはならないのです。大切なのは個々人に与えられた機能を認
め、それに従った働きをしてもらうことです。個々人も、神が
自分に与えてくださった能力を、厳密に、また客観的に判断す
る必要があるのです。



  言い方を変えると、共同体としての教会は聖霊が教会にバ
プタイズしてくださったすべての信徒を含みます。この世の中
で福音宣教を遂行するために、神がお選びになった最善のチー
ムでありますが、非常に広範囲で複雑な働きを含みますので、
単純なチームワークの概念にふさわしくなく、むしろ、ボデー
ミニストリー(体の働き)と呼ぶのが適当と思われます。その
中では、福音宣教の働きをするには最もふさわしくないと思わ
れる種類のクリスチャンたちも、神から必要な立場と役割を与
えられていると考えられます。レスリングをする強靭な肉体に
も、自分では動くことができない弱々しい肝臓だとか腎臓だと
か言う臓器があって、非常に大切な役割を果たしています。弱
々しく動くこともできないから、役に立たないのではないので
す。しかし、その体の中で特定の働きをするグループは、より
小さな狭い範囲の働きをするチームワークなのです。チームは、
その目的を遂行するために選び抜かれた人々によって構成され
ます。足ならば足としての機能を果たします。手ならば手とし
ての機能を高めるために鍛錬します。ですから、この観念の中
で、いわゆる教会ではないがきわめて教会的な存在である、パ
ラチャーチの存在が正当化されるのです。


  パラチャーチは教会そのものではありません。しかし、教
会の働きの一分野をより効果的に積極的に推進するために、有
機的教会の概念の中で作り上げられたチームなのです。多分、
教会の歴史上最初のパラチャーチは、パウロを中心とした伝道
チームであったのではないかと思われます。現代では、さまざ
まな目的のために組織された非常に多くのパラチャーチが存在
します。伝道を目的とした団体、出版を目的とした団体、音楽
を目的とした団体などが目白押しです。そしてそこでは当然、
資質と能力とが問われます。その目的遂行のために必要な能力
を持っていない者は、その組織に入る価値がないのです。



  パラチャーチとまでは言い切れないとしても、教会の中の
特殊な職務を全うするには、それだけの資質を求められます。
宣教師としての資質と能力を欠く者が、宣教師として派遣され
てはならず、牧師としての資質と能力を持たない者が牧師とし
て任命されてはならず、計算のできない者が教会の会計を任せ
られてはならず、子どもの教育に関心のない者が、教会学校の
子どものクラスを任せられてはならないのです。どのような人
間であっても、すべて重荷を負って苦労しているものは、キリ
ストのもとに招かれています。しかし、12弟子になれたのは
12人だけであり、70人に選ばれたのは70人だけでした。
その中に選ばれず、悔しい思いをした人たちもいたのです。 



  キリストの弟子の中には、明らかに種類の違う、あるいは
従う決心の固さの違う人々がいました。キリストはご自分の下
に来る者がいかに罪深く、弱く、惨めな人間であっても、彼ら
を拒絶なさることはありませんでした。キリストが拒絶なさっ
たのは、自分が病気であることを否認しようとする病人たち、
すなわち偽善なパリサイ人やサドカイ人、あるいは律法学者と
いった人々です。自分の弱さと醜さを知っている者は、キリス
トに助けを求めたときに、必ず受け入れられ、答えをいただい
たのです。どのように弱く、また、価値がないように思われて
いた人間も、キリストは受け入れ、彼らをご自分の弟子とする
ことを恥となさいませんでした。すべて重荷を負って苦労して
いる者は、キリストの下に来ることができたのです。



  しかし、キリストに従い、キリストのみ心を自分の心とし
て仕えようとする人々、キリストのお働きに参与したいと望む
者、キリストの贖いの働きを自分の働きとして継続して行こう
とする者、すなわち献身者には、キリストは非常に厳しい基準
をお定めになったのです。親兄弟、妻子を捨てなければならな
いとおっしゃいました。完全な自己否定をお求めになりました。
中途半端な献身者たちは、みな拒絶されてしまいました。「空
の鳥には巣がある、狐には穴がある。しかし人の子には枕する
ところがない」というお言葉は、数ヶ月の間キリストに従って
旅を共にしながら、ベッドが硬い、野宿はいやだと、不平をこ
ぼしていた弟子に対するお言葉だったのかも知れません。「死
人のことは死人に任せておきなさい」とは、いつも家族だとか
親戚だとかを気遣う優しさのために、ついつい、神のことを第
二にしてしまっていた弟子に対するお言葉であったのでしょう。
「鋤に手をかけてから後ろを振り向く者は、神の国にふさわし
くない」とは、キリストの一行に加わりながら、ときどき友人
のところに戻ったり、親族のことを気にかけたりして、果たさ
なければならない大切な仕事をするときになって、役に立たな
いことが時々あった、そんな弟子に対するお言葉だったとも考
えられます。



  キリストは、一方では、人生の重荷と痛みに悩む者、罪の
結果の悲惨な生活にあえいでいる者は、どのように弱く不甲斐
なく役立たずであっても、ご自分に従ってくることをお許しに
なりました。まさに人の弱さを知り、痛みを味わってくださっ
た大祭司のお姿があります。ところがもう一方では、非常に厳
格で一片の妥協も赦さずに、徹底した献身を要求しておられま
す。まるで、今まさに出陣しようとしている武将が、配下の者
に「お前の命は俺が預かった。俺と一緒に死んでくれ」と、献
身を求めている姿そのものです。



  一般信徒ならば、土曜日の真夜中にもかかわらず、電話で
牧師をたたき起こし、何時間もめそめそと泣き言を並べ、くど
くどと他人の悪口を言い続けて、すべてのことで責任転嫁をし、
挙句の果ては牧師には愛がないから、もう教会には行かないと
ダダをこねていたかと思うと、日曜日にはニコニコ顔でやって
きて、寝不足で赤い目をした牧師の説教を「どうも力がなかっ
たですね。どこかお悪いのでしょうか」などと、白々しいこと
をいう信徒でも、教会には居場所があるべきです。何回警告し
ても、パチンコが止められず、借金がかさみ、消費者金融に手
を出し、怖いお兄さんに脅かされて牧師に泣きついて、もうパ
チンコには手を出しませんと両手を着いて詫びていながら、三
月もすればまた、パチンコと自己破産で牧師を煩わす信徒でも、
教会には居場所があるべきです。幼い子どもを抱えて次々と男
を取替え、また捨てられたといっては牧師のところにやってき
ては、「神さまは、どうして私だけに、こんなひどい目にあわ
せるんでしょうね」とのたもう女も、牧師は拒絶すべきではあ
りません。イエス様がゴミ捨て場のようなお方でしたから、私
たちの教会も、牧師も、ゴミ捨て場で良いのです。



  しかし、牧師がそのような信徒と同じであってはならない
のです。昨日は恵みの高嶺を歩んでいたはずなのに、今日は死
の影の谷にいるような不安定な情緒では、牧師は務まりません。
少々の家庭の問題や経済の問題で、信徒に相談に行くような牧
師では、教会の指導は出来ません。信徒の問題を抱え込み、い
ちいち落ち込んでしまっていては、牧師はみな鬱病になってし
まいます。宣教師になって開発途上国などに行ってみると、も
っと大変です。同じ献身者仲間の牧師とさえ、言葉がなかなか
通じません。気持ちが通じません。会話が成り立ちません。誤
解に誤解が続きます。食べ物はおいしくありません。すぐお腹
が壊れます。お医者さんは信頼できず、薬もよく効きません。
トイレは汚いし、水がありません。交通の便は悪いし危険だら
けです。このようなところで忠実にキリストに従うためには、
徹底した献身が必要なのです。一般信徒と同じような感覚では、
とてもキリストに従い通すことは出来ません。



  キリストは何ヶ月も生活を共にし、行動を共にし、常に弟
子たちを観察し続けて、彼らの資質を見極めておられたのです。
その上で一晩祈り、熟慮し、12人の弟子たちをお選びになっ
たのです。このときは12弟子の中には選ばれなかったけれど、
やがて信仰の成長を遂げ、立派な弟子に成長した者もあったか
も知れません。たとえば、マルコは若すぎたのでしょうか。バ
ルナバは優柔不断なところがあったのでしょうか。想像の域を
出ませんが、大いに有り得ることです。



  パウロの第一伝道旅行の際でしたが、同行していたマルコ
が途中で帰ってしまったことがありました。第二伝道旅行に行
こうとしたとき、同行者のバルナバは、再び、甥にあたるマル
コも連れて行こうとしますが、パウロはこれを拒絶したために
激しいやり取りが交わされ、結局、伝道隊はふた手に分かれて
しまいます。仮に、宣教師の召しなどという概念がパウロやバ
ルナバにあったならば、召されているならば連れて行く、召さ
れていないならば置いて行くと、問題は簡単でしたが、本当の
問題はそのように単純なものではなく、非常に高度な神学問題、
あるいは文化的問題である、ユダヤ主義にあったと考えるべき
です。第一伝道旅行で、パウロとバルナバはガラテヤ書が宛て
られた地域の教会を建て上げました。ユダヤ教の会堂を回り、
ユダヤ教をしっかり信じ、メシヤの出現を待ち望んでいた人々
に、ナザレのイエスこそメシヤであると語る伝道でしたから、
現在の日本における伝道などとはまったく異なり、直ちに多く
の救われる者が起こりました。その上、会堂の中で教育や管理
を受け持ち、指導的な働きをしていた者たちも多数いたのです
から、その人たちを長老として任命し、次の町へと旅を続ける
ことも容易でした。



  ところがそのような「簡単な」伝道にも、大きな落とし穴
がありました。簡単であったがゆえに、彼らのユダヤ主義的傾
向は強く残ったままでした。そこで、パウロたちが去った後、
エルサレム教会からユダヤ主義的福音理解をした者たちが訪れ
て来て、ユダヤ主義の教えをし、割礼を受けるように教えたと
き、ほとんどの者が何の疑いもなくその「異なった福音」に流
れてしまったのです。その結果、パウロはガラテヤ書を書かな
ければならなくなり、エルサレム会議で調停をしなければなら
なくなったのです。幸い、エルサレム会議においてユダヤ主義
の誤りが明らかにされましたが、問題は、そのユダヤ主義の傾
向を強く持っていたと思われる、マルコの取り扱いでした。



  マルコは、多くの人が考えるようなひ弱な若者ではありま
せんでした。少なくてもパウロとは同年代あるいはむしろ年上
で、大祭司の親戚としてエリートであり、金持ちであり、高い
サドカイ派の教育を受けていたはずです。彼はパリサイ派とは
異なっていましたが、神殿と祭儀を大切にし、ユダヤ民族であ
ることを誇りにしていました。また、多くの年上の弟子たちが
キリストを見捨てて逃げてしまった中で、キリストの後をつけ
ようと試みた、数少ない弟子のひとりでした。途中、裸で逃げ
る羽目にはなりましたが、勇気があったのは事実です。彼が逃
げたのは単に怖くなったというだけではなく、大祭司の親戚と
しての立場もあったことでしょう。そのマルコが、パリサイ派
のエリートであったパウロの教えに、心から同調するのは易し
いことではなかったはずです。旅行の途中から、自分の叔父の
バルナバが伝道隊の長を退いて、脇役だったパウロが長になっ
たのも、面白くなかったかも知れません。マルコ自身も、キリ
ストの弟子としてはパウロよりずっと先輩だったのです。



  しかし、マルコが我慢できなかったのは、それらのことだ
けではありませんでした。パウロが、信仰による救いを宣べ伝
えていたことです。信仰による救いは当然、割礼を無用とし、
神殿礼拝を無用とし、ユダヤ民族の優越を否定し、特権を無視
することにつながりました。しっかりとしたユダヤ主義の教育
を受けていたマルコは、パウロの信仰による救いの教えから、
このようなことをたちまち理解したことでしょう。それは、熱
心なユダヤ主義者であり、特に祭司階級として、神殿と祭儀に
関わって生きていくはずのマルコには、絶対に許せなかったこ
となのです。たぶん、まず間違いなく、これがマルコの途中放
棄の本当の理由だったと考えられます。そして、そのようなマ
ルコであったために、神学にうるさいパウロ、福音の普遍性と
いう新しい啓示、奥義を与えられ、それを任せられていたパウ
ロには、非常に危険な人物と見えたはずです。ましてや、第二
伝道旅行で訪れようとしていた先は、この神学問題で大揺れに
揺れた直後の、ガラテヤの諸教会だったのです。  マルコがひ
弱な若造で、以前、途中放棄したことがあるから、今回連れて
行くのはいやだなどという「了見の狭い」パウロではなく、福
音の真髄のためにとことん戦うパウロだったために、彼は、マ
ルコを連れて行くことを拒絶したのです。その点、まだ普遍的
福音の真理の大切さを明瞭に理解していなかったと思われるバ
ルナバ、あるいはもともと優しい性格のバルナバは、マルコを
連れて行こうとしたのも理解できるのです。誤解をなくすため
にもういちど確認しておきますが、パウロが拒絶したのは「同
労者としてのマルコ」であって、「主にあってひとつとされた
兄弟マルコ」ではなかったのです。



  大切なのは、共同体としての教会の中でも、ひとつの目的
遂行のためには厳密な選択排除が行われるという事実です。徹
底して愛の共同体を説いたパウロではありますが、目的遂行を
任務とした「パラチャーチ」のメンバー選出には、非情とも思
われるほど厳しかったのです。この点を混同してしまうと、パ
ラチャーチは機能を果たせず、目的を遂行できなくなってしま
います。個人が生かされるということと、わがままが通るとい
うのは別です。体の個々の部分は、それぞれに与えられた機能
に従って存在を認められ、活動するのです。日本語では「ない
袖は振れない」といいますが、目に足の働きはできないし、足
に背中の働きは出来ません。小指に親指の働きを期待してはな
らず、耳に鼻の活躍を望んでもいけないのです。足の働きに目
が加わったり口を挟んだりしてはなりません。目は目の機能を
生かし、足の働きに貢献するのです。












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2010年10月27日

教会について 2−R

p115〜121


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VU.教会の使命



  すでに、教会の究極の使命は、神の栄光を現す事であると
学びました。(エペ1:6、12、14) しかし、教会が今
のこの世に存在している目的、すなわちこの世に遣わされてい
る使命は、宣教であるとも学びました。教会は遣わされるため
に召されたものであり、宣教こそが、教会という共同体の「こ
の世この代」における共通目的なのです。教会はその本質にお
いて人為的組織ではなく、キリストによって、目的に沿って建
てられたものであり、この教会にバプタイズされた者は、キリ
ストがお定めになったこの共通目的のためにバプタイズされて
いるのです。



  甦られたキリストは、間もなく誕生する教会の土台とも中
核ともなる、弟子たちの一団に対して、幾度か派遣の言葉を与
えておられます。マタイは、「あなたがたは行って、あらゆる
国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によ
ってバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいたす
べてのことを守るように、彼らを教えなさい」という命令を記
録し、(マタイ28:20)マルコは、「全世界に出て行き、
すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」というお言葉
を書き残しました。(マル16:15) ルカは「罪の許しを
得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人
々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です」
という教えを書き伝え、(ルカ24:47−48) ヨハネは、
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがた
を遣わす」という宣言を、読者に伝えようとしています。(ヨ
ハ20:21) ヨハネはとくに、キリストが大祭司の祈りの
中で、父なる神に向かって語りかけられた同じ内容の祈りを書
き止めていますので、このキリストの宣言によほど重要な意義
を感じていたのでしょう。(ヨハ17:18)



  これらのキリストの派遣のお言葉は、直接的には、当然、
エルサレムから全世界への派遣であったと考えるべきですが、
キリストがただそれだけの意味でおっしゃったようには思えま
せん。キリストの派遣は、単に場所的な意味での派遣を超えて、
もっと本質的な、霊的な意味での派遣であったように思われま
す。すなわちキリストは、神の国に召し入れられて神の国に属
するものとなった教会を、改めてこの世に送り返しておられる
のです。それはまさに、羊たちを狼の群れの中に遣わすような
危険なことではありましたが、そのようにしなければならない
理由がありました。それが福音の宣教でした。
  


  マタイとマルコとルカは、表現こそ異なりますが、福音宣
教ということを明確にしたキリストのみ言葉を書き残していま
す。ヨハネは少しばかり視点を変えて、キリストご自身が、こ
の世に派遣された時の姿に焦点を当ててお語りになった、含み
のあるお言葉を記録しています。ヨハネの記録したキリストの
み言葉を読むと、まず解ることは、教会は誕生前から遣わされ
ていること、あるいは遣わされるために誕生させられているこ
とです。そしてその遣わされ方は、「キリストが父なる神に遣
わされたように」という事です。ある人たちは、この「ように」
という言葉を、単に遣わされるという事が同じであるという意
味に取ります。類似しているのは遣わされるという事だけだと
理解するわけです。あるいはせいぜい「だから」という程度の
意味合いに考えます。「父がわたしをお遣わしになったのだか
ら、わたしもあなたがたを遣わす」というほどの事で、あまり
深い意味がないというのです。しかし、それではヨハネがこの
キリストのお言葉を、表現こそ違いますが、二回に渡って記録
した目的が軽視されているように思えます。ヨハネはこのお言
葉に深い意味を見たために、わざわざ二度も記録したと見るべ
きでしょう。ヨハネは、教会がキリストの派遣と同じ理念と原
則によって、同じ目的、同じ条件、同じ姿で遣わされていると
語っているのです。



A.キリストの派遣目的と同じ目的 



  キリストが父なる神に遣わされた目的は、人間を救うこと
です。キリストを通し、贖罪の業をもって、神は人間を救おう
となさったのです。キリストはこの地上で様々なお働きをなさ
いましたが、この地上に降り立ってくださったのは、あくまで
も贖いのみ業をもって人々を救うためでした。言い方を変える
ならば、キリストがこの世においでになった目的は、神の贖罪
愛の遂行のためであり、それ以外の何物でもありませんでした
。これが伝統的な福音派の教会の考え方です。先に触れた、キ
リストがこの地上で成し遂げようとされたもうひとつのお働き、
すなわち教会を建て上げることも、実は、教会を通して贖いの
福音を全世界に行き渡らせるためであり、贖いの愛の遂行の範
囲でのことなのです。




1. 慈善的社会活動



  とは言え、確かにキリストは、贖いの愛には直接の関わり
を持たない事もなさいました。これもすでに述べたように、キ
リストが病の者を癒し、悪霊に捕らわれていた者を開放した働
きは、贖いの働きとは関係のないものでした。またキリストは、
常々、貧しい人々を助けるために金品を与えていたようです。
問題は、キリストがこのような贖いのみ業とは関わりのない慈
善的社会活動を、ご自分の目的としてこの世においでになった
のかどうかということです。キリストが、贖いのみ業の遂行の
ためにおいでになったということは、新約聖書でくり返し教え
られています。しかし、キリストが慈善的社会活動のためにこ
の世においでになったという言い方は、ただの一度もされてい
ません。キリストは福音を宣べ伝えるために、村々を行き巡ら
なければならないとおっしゃいましたが、病んでいる者を癒す
ために、貧しい者を助けるために、町々を訪れ、村々を訪ねな
ければならないとはおっしゃっていません。(マル5:38)



  このようなキリストの態度を象徴的に示すのが、5つのパ
ンと二匹の魚をもって5,000人を養ったあと、いまだ興奮冷め
やらぬ弟子たちに対して、まるで頭から冷水を浴びせるように
おっしゃったお言葉です。「なくなる食物のためではなく、い
つまでも保ち、永遠の命にいたる食物のために働きなさい。そ
れこそ、人の子があなたがたに与えるものです。」(ヨハ6:
27) キリストは、4つの福音書すべてが記しているこの記
念すべき奇跡を行われた後、それが「なくなる食物のため」の
働きであり、本来、ご自分の目的とする働きではないことを示
し、弟子たちがそのような働きを目的化し、主体を賭けて働く
べきものではないことをお教えになったのです。



  この一連の物語全体をよりよく理解するためには、弟子た
ちを始め当時の人々が、5つのパンと二匹の魚の奇跡をどのよ
うに受け取っていただろうと、考えてみることが役立ちます。
キリストは純粋に哀れみの心から、疲れ切った空腹の人々に食
べ物をお与えになっただけのようですが、そこに居合わせた人
々にとっては、この奇跡はまったく異なった意味を持っていた
と考えられるのです。



  その日その日の食べ物が与えられるようにと言う、主の祈
りの一節がたいした意味を持たない、21世紀の富める国に生
きている私たちには、この奇跡の影響の大きさはなかなか解ら
ない事です。もしこれと同じ奇跡が、今、東京の公園か競技場
で行われたとしたら、どうでしょう。どう表現してもおいしく
ない粗末なパンと、味付けもなっていない雑魚の干物をもらっ
て、喜ぶ日本人がひとりでもいるでしょうか。どうやら水もぶ
どう酒もなかったようですから、飲み込むのに、さぞかし苦労
をしたことでしょう。しかし、乏しい国の貧しい人々の間の事
です。お腹をすかせていた人々は歓声を上げて喜びました。弟
子たちはパンと魚を配りながら、このような奇跡に関与できた
ことを非常に誇りに思ったことでしょう。人々の驚きと感動、
喜びと感謝の言葉に、有頂天になったことでしょう。できれば、
このような働きをいつまでも続けたいと思ったことでしょう。
自分たちの受ける尊敬もいよいよ大きくなっただろうと、秘か
な嬉しさも込み上げてきたでしょう。



  現在の日本の教会は、わずかの例外を除いて、日本という
国の中にあっては、貧しさの底辺に生きるものです。しかしそ
のような教会でも、国家全体が極度に貧しい開発途上国へ赴き、
その中でも底辺に生きている人々に食料を分け与え、衣料品を
配り、井戸を掘り、学校を建て、人々の喜ぶ顔を見ることがで
きます。そして、そのような事が出来ることに自分たちの存在
意義を感じ、感動し、達成感に浸り、満足することができます。
確かに、人々の喜ぶ顔を見る事は、この上ない幸せです。キリ
ストの弟子たちが2,000年前に味わった喜びを、私たちも味わ
うことができます。しかしキリストは、弟子たちがこのような
働きに命を賭けることを、厳しく禁止されたのです。



  さらにキリストのこの奇跡を、当時の人々がどのように受
け取ったかを理解するためには、当時の政治情勢、社会情勢と
いうものを知らなければなりません。何世紀にも渡って、いく
つもの強力な国家によって蹂躙され、植民地の屈辱を忍んでき
た誇り高いイスラエルの民衆にとって、王とも救い主とも将軍
とも期待する人物が、無限に食料を供給することが出来る奇跡
を行ったのです。現代でも、通常兵器の戦闘では、食料の供給
が作戦上最も大切な要素です。ましてや当時の戦闘では、食料
の供給が勝敗を決定することがしばしばだったのです。つまり
、キリストは食料を無限に提供するというこの奇跡で、人々の
期待、ローマに敵対して軍を起こす救い主への期待を、嫌がお
うにも高めてしまったのです。だからこそこの奇跡の直後、人
々は無理にでもキリストを王として立てようと、捜し回ったの
です。しかしキリストは、そのような人々から身を隠してしま
われました。また、そのような期待は当然、イスラエルの復興
を誰よりも望んでいた弟子たちの中にも、大きく膨らんでいま
した。その弟子たちに向かってキリストはおっしゃったのです。
「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいの
ちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなた
がたに与えるものです。」



  このようにキリストは、ご自分がなさった、社会活動に繋
がる大きな奇跡の重要性を、自ら否定するようなことをおっし
ゃったのです。そこで、私たちはキリストの慈善的社会活動を
いかに理解すべきか、ということが問題になります。ある人々
は、キリストがこのような慈善的社会活動をなさったのだから、
わたしたちの教会もまた、同じようにしなければならないと主
張し、教会を挙げてそのような活動に取り組もうとします。他
の人々は、福音宣教のみに集中すべきだと主張しながら、慈善
的社会活動を無視することに何となく後ろめたさを感じていま
す。特に、ロ−ザンヌ会議以降のここ30年ほどは、この会議
が採択した宣言に影響されて、福音派の内部でも社会活動を教
会の存在目的として捉える人々が多くなり、福音派全体に少な
からぬ影響を及ぼす一方、社会派と言われる教会との交わりの
窓口を広げています。このような中にあって、私たちは福音派
としてのきちっとした考え方、すなわち聖書に立脚した正しい
理解を持っていなければならないのです。それを怠ると、単に、
世界的な超教派会議で、著名な人々が、社会活動を教会の宣教
の重要な一面であると位置付けたという理由だけで、それにな
びいてしまう危険に陥るのです。大切なのは、著名な人々がど
のように言うかではなく、聖書はどう語っているかなのです。



  私たちは社会派の主張や、社会派の人々の考え方を取り入
れた人々の主張にも、耳を傾けます。しかし、それが聖書の教
えと合致していない限り、同調する必要はまったくありません。
問題は、彼らがどれほど論にたけ、多くの知識を披露するかで
はありません。私たちが彼らより論にたけ、多くの知識を持っ
ている必要もないのです。重要なのは、その言わんとするとこ
ろが聖書に合致しているかどうかなのです。注意しなければな
らないことは、社会派の人々や彼らに影響を受けた人々は、し
ばしば私たちと同じ語彙を用い、同じことを言っているようで
ありながら、その語彙の意味がまったく異なり、別のことを言
っていることがあるという事実です。彼らの言う神は私たちの
信じる神と異なる場合があります。彼らの言うキリストも私た
ちの知っているキリストと同じとは限りません。神の愛、キリ
ストの愛と言っても、私たちが言う神の愛やキリストの愛では
ないことが多いのです。私たちは社会派の人々の多くが、啓蒙
主義、合理主義の流れに乗り、聖書の奇跡、神の絶対性、キリ
ストの神性、身代わりの死、福音の唯一性などを信じることが
出来なくなってしまい、他に信じるべきもの、自分たちが命を
賭けることの出来るものを、探しているのだということを理解
しなければなりません。福音の価値、唯一性が信じられなけれ
ば、それに命を賭けることは出来ません。そして、彼らが代わ
りに探し出したのが、近代ヒューマニズムの後ろ盾を得た社会
活動なのです。



  ですからこの教会論も、現在の世界の必要は何かとか、世
界の動きはどのようになっているのかなどということから、教
会について、またそのあり方や活動について論じるものではな
く、あくまでも聖書の権威を信じ、聖書はどう語っているかと
いうことを考え、論じ、その上で、現在世界のあり方に教会は
いかに対応すべきかを語るものなのです。

  聖書を読む限り、キリストがこの世界においでになった理
由、目的は明白です。それは贖罪愛の遂行です。ただキリスト
は、その贖罪愛の遂行の途上、贖罪愛とは関わりのない、様々
な慈善的活動も行われたということです。このような慈善活動
を、私たちは神の一般愛の表現と理解すべきです。私たちはア
ウグスチヌスが説明したように、神は三位一体の神であるから、
永遠の昔から、神以外の何物も存在しなかった天地創造以前か
ら、愛の神として存在しえたと信じています。(ヨハネ17:
24) その神がご自分の栄光と権威の表現としてだけではな
く、愛の表現として天地万物を創造し、最後に最も高度な愛の
表現、また対象として、ご自分に似せて人間をお造りになった
と信じています。この愛が、神の一般愛です。しかし、人間の
罪がこの神の愛を妨げ、本来の形では人間に届かなくしてしま
ったのです。そして神は、人間に対する愛の交わりと表現を回
復するために、特別な手段をお取りになりました。それがキリ
ストの贖罪による罪人の救いです。この罪人の救いのために取
られた、贖罪という手段に現されたのが贖罪愛です。



 神の一般愛は、より広いものです。それはまた根源的なもの
であり、ヨハネが神は愛であると言ったときの愛です。しかし、
神が満足し納得される形でその一般愛が人間に注がれるために
は、まず、十字架に示された特殊な愛である贖罪愛によって、
罪の問題が解決されなければならなかったのです。贖罪愛の適
応なくしては、一般愛の本来の姿は示し得ないのです。今のこ
の罪の世界においては、贖罪愛が一般愛に先行するのです。キ
リストがこの世においでになったのは、神の一般愛を、人間と
彼らが住む世界に充分に行き渡らせるために、贖罪愛をもって
罪の問題を解決するためだったのです。すなわち、キリストの
降臨の目的は、贖罪愛の遂行だったのです。



  しかし、キリストが神の本源的性質である愛としておいで
になった以上、その愛、すなわち一般愛は、行く先々で表現さ
れて行くことになりました。キリストが貧しいものを哀れみ施
しをされたのも、病の者を癒されたのも、人々に取り憑いてい
た悪霊を、権威を持って追い出されたのも、この一般愛の表現
でした。また空腹な者たちに同情して食べ物をお与えになった
のも、一般愛の発露でした。キリストは行く先々でご自分の愛
の性質を表現して行かれましたが、それは、キリストがこの世
においでになった目的ではなかったのです。目的はあくまでも、
十字架の身代わりの死によって罪の問題を処分する、贖罪愛の
遂行だったのです。



  教会が、キリストが遣わされたように遣わされているとい
う事は、キリストと同じように、贖罪愛の遂行を目的として、
そのために遣わされているとことです。教会の目的、存在理由
は、キリストの贖罪による救いの福音を宣べ伝える事によって、
贖罪の愛を継続する事なのです。しかし教会は、その福音宣教
の過程において、キリストと同じように、一般愛を表現して行
きます。それだけでなく、キリストの贖罪愛を通し、神の一般
愛を一段と深く広く体験した教会は、その愛と新たな命の力に
満ちて、より大きく愛を表現出来るようになって行きます。愛
は、惨めな状態にある者に遭遇すると見過ごしには出来ません。
彼らに心底から同情して共に痛むという反応をし、さらに助け
ると言う行為を生み出します。そして、その行為のために命を
失うような事があったとしても、後悔しません。愛の行為はそ
れが愛の行為であるだけで尊いのです。たとえ、その愛の行為
のために目的である贖罪愛の遂行が妨げられたとしても、後悔
は不要です。愛の行為はそれだけで尊いのです。また、すべて
をご存知の神が、すべてを治めておられるのです。それが愛の
行為であれば、たとえ未熟で愚かな行為であったとしても、神
はそれを意義あるものとしてくださるのです。(マタ26:6
−13) しかし、教会はこの一般愛を目的として存在するの
ではありません。それを目的として生きるのでもありません。
一般愛は教会の生きる姿であり、贖罪愛は教会の生きる目的な
のです。教会は生きる姿を損ねてはなりません。そして、生き
る目的を失ってはならないのです。姿を目的にしてはならない
し、目的を姿にしてもならないのです。











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2010年10月28日

教会について 2−S

p121〜128


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2.正義の戦いとしての社会活動

  

 では、教会が政治的社会的分野に活動範囲を広げることに
関しては、どのように考えるべきでしょうか。慈善的活動に関
しては、神の一般愛という視点から、一応の理解を得ることが
出来ましたが、教会は、社会派の人々が主張するように、ある
いはローザンヌ会議の宣言のように、社会悪に対して戦う使命
を帯びているものでしょうか。教会は社会悪に対して積極的に
戦いを挑まなければ、本来の教会の姿を失ってしまったことに
なるのでしょうか。あるいは、教会が社会悪に対して戦いを挑
むことは、聖書的に正しいことなのでしょうか。



 社会派の中には、単なる慈善的社会活動に限度を感じ、慈
善を必要とする人々を作り出している社会悪や政治悪と戦う、
戦闘的社会活動にのめり込んで行った者もたくさんいました。
中には単なる理論闘争にも満足出来ずに、様々な意思表示活動
を起こし、ついには武力闘争さえ擁護し、自ら武器を取った者
さえ現れたのです。この過程の中で見失われていたものは、し
っかりと聖書に学び、聖書に聞くという態度でした。しかし、
すでに聖書の絶対的権威を認められなくなっていた彼らは、聖
書に聞く代わりに、聖書を、自分たちの都合の良いように用い
てしまいました。啓蒙思想と合理主義に感化されて、聖書に対
する怖れを失っていた彼らであったために、そのようなことを
容易に行うことが出来たのです。もちろん、すべての社会派の
人々がそうなのではありませんし、福音派との交わりがまった
く不可能というわけでもありませんが、福音派の人々が、聖書
の絶対性と福音の唯一性を信じられない人々と交わりをし、共
に働くのは並大抵の事ではありません。



 繰り返しますが、私たちは現代社会の状況やその必要性か
ら、教会のあり方やその活動について論じるのではありません。
あくまでも、聖書がどう語っているかを学び、自分たちの教会
のあるべき姿を描き出し、活動すべき活動が何であるかを知ろ
うとするものです。時代は変わります。状況も変わり、必要も
変わります。教会のあり方自体や基本的活動が、そのように変
わり行くものに対応して決定されなければならないとしたら、
教会の本質が普遍・不変ではなくなってしまい、聖書が教える
教会ではなくなってしまうのです。まず、聖書が教える普遍・
不変の教会があり、その教会が社会の状況と必要に対してどの
ように呼応していくかが大切なのであり、決して、社会の状況
や必要性が教会のあり方や活動を決定するのではないのです。



 では聖書は、教会が社会悪に戦いを挑むべきであると、明
確に教えているでしょうか。「単に、抑圧されている人々に慈
善的活動をするだけでは、いたちごっこに過ぎない。我々は、
抑圧されている人々を生み出している社会の構造や政治のあり
方に積極的に発言し、必要ならば、闘争もいとうべきではない」
というような主張は、はたして聖書の教えに合致するものでし
ょうか。「教会は正義の神の代弁者として、あたかも旧約時代
の預言者がそうであったように、社会の悪を糾弾する活動をす
べきである」という尤もらしい主張は、聖書の教えから導き出
されたものでしょうか。



 先に述べましたように、これらの主張は聖書の正しい学び
から出てきたものでは決してありません。少なくても、現代の
聖書神学的な、より厳密な聖書の解釈から生まれてきた聖書の
理解ではなく、聖書を自分たちの主張に合わせて「使用する」
やり方から生まれて来た、前近代的理解なのです。もう一度明
確にしておきますが、私たちはそのような聖書の用い方に反対
し、そのような用い方から生まれてきた結論には、たとえそれ
が結果として正しい結論であったとしても、納得しないのです。



 まず、教会が社会悪と戦わなければならないという教えは、
聖書の中に見出せないことを明確にしておきましょう。社会派
の人々は、キリストが全世界に出て行って福音を宣べ伝えるこ
とを明確にお教えになり、新約聖書全体が福音の宣教を教会の
使命として教えているにも拘らず、福音宣教を意味のない事柄
として退け、宣教師の引き上げを主張したことを覚えておかな
ければなりません。もちろん、社会派の人々すべてがそれに賛
成したのではありませんが、そのような聖書の読み方をする傾
向があるという事実は否定出来ません。聖書の明確な教えをい
とも簡単に否定出来る彼らですから、聖書に書かれていない事
柄を、聖書の中に読む込む事もまた自然であり、聖書が命じて
いない社会悪に対する戦いを教会の使命であると、聖書を持っ
て主張することも可能なのです。



 教会は、社会悪と戦うようにという使命を与えられていな
いだけではなく、社会悪と戦うべきであるという教えも与えら
れていません。ですから、教会には何が社会悪であり何が社会
悪でないかという判断能力も与えられていません。パウロは、
教会の外部の人々を裁くのは私たちのすべき事ではないと、は
っきりと述べています。(Iコリ5:12−13) パウロが
語った文脈を読むと、世の中の不品行な者、貪欲な者、偶像を
礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者を裁くの
は、教会のすべき事ではないということです。それらの人々の
裁きは神に任せておきなさいという事です。教会は、やがて、
世界だけではなく、み使いをも裁くようになるのですが、今は
そうではないのです。



 ところが教会は、歴史的に、世俗の権力も手にする事によ
って自らの能力を過信し、委ねられていない権威を掌握し、任
せられていない働きを遂行しようとしました。しかし、任せな
かった働きのための能力を、神は教会にお与えになっていない
のです。教会はこの世の世俗的な支配者としての能力も、社会
悪と戦う能力も与えられていないばかりか、社会的な問題に関
する善悪の判断能力さえ、与えられていないのです。ですから
教会は、社会的問題に関しては非常に大きな誤りと、過ちを繰
り返してきました。十字軍や宗教裁判を持ち出すまでもなく、
近代では、先進国の植民地政策への積極的参画、アメリカを主
な舞台とした奴隷問題や黒人問題への対応、ドイツ教会のヒト
ラーへの追従、アメリカ福音主義教会のベトナム戦争をはじめ
とする数々の戦争への積極的賛同があります。教会が自らに与
えられていない能力を用い、権力を行使しようとした時、悲劇
が繰り返されて来たのです。このような外部の事柄に関しては、
教会は善悪の判断能力を与えられていないのです。ですから、
このような事柄に関して、教会の中に基本的理解の一致さえ出
来ていないのです。



 イスラエルの預言者たちが、「主は言われる」と叫んで、
社会悪・政治悪に腐敗したイスラエルに対して、神の代弁者と
しての役割を果たした事は良く知られています。しかし、教会
は、果たして旧約の預言者のこの働きを直接引き継ぐものでし
ょうか。直接引き継ぐのだという教えは聖書のどこにもありま
せん。また、預言者たちが語った対象は、あくまでも代理神聖
政治を取っていたイスラエルであり、他民族について語られた
部分でさえも、彼らがイスラエルに関わる範囲で語られている
のです。つまり、旧約の預言者の働きは、神に救い出された歴
史を持ち、神を前提とした世界観と人生観を持っていた、神の
民イスラエルに対するものであり、一般諸国、一般社会に対す
るものではないのです。ですから、イスラエルの預言者の義の
叫びの働きを、現代社会や国家に対する教会の働きとするのは、
完全な間違いです。ヨナの物語でさえ、表面的には、アッシリ
ヤの首都ニネベに住む人々の悪に対する、神の義と裁きのメッ
セージのように受け取られますが、本質はむしろ、イスラエル
に敵対する異邦人に対してさえ、哀れみをお持ちになる神の愛
の表示にあると思われ、イスラエルを通して啓示される神の救
いの歴史の中で理解されるべきものです。



 さらに、教会がキリストの大使であり代理であり、キリス
トの使命を継承するものであることは確かですが、キリストの
使命を先取りするものではありません。世界を糾弾し、お裁き
になるキリストは、2,000年前にベツレヘムの馬小屋でお生ま
れになった謙卑のキリストではなく、やがて雲に乗っておいで
になる栄光のキリストです。私たち教会は謙卑のキリストの代
理であり、キリストが遣わされたように遣わされているのです
が、栄光のキリストの働きを先取りして、栄光のキリストのよ
うに遣わされているのではありません。パウロは、確かに教会
が裁く者となると語っていますが、それはあくまでも「やがて」
であり、キリストが雲に乗っておいでになる時に続く事なので
す。



 謙卑のキリストは、社会を糾弾する働きをなさいませんで
した。キリストが住んでおられた当時のイスラエルには、あら
ゆる社会悪が満ちていました。植民地であった国家には腐敗が
蔓延していました。巷には差別と抑圧が横行していました。行
く先々で貧しい者を助け、小さな者を保護する慈善的働きでは、
まさに焼け石に水の気休め に過ぎなかったはずです。しかし
キリストは、ご自分の慈善的働きを組織化して、もっと大きく、
効率的にし、社会的にインパクトを与え、より多くの人々がこ
の働きに賛同し、社会を作り変えて行くようにしようなどとは
なさいませんでした。キリストの慈善的社会活動は、あくまで
も、行く先々で遭遇する人々を対象としたものだったのです。
ましてや、社会的弱者を生み出している社会構造を変えようと
か、政治体制を変えようとか、社会や政治を牛耳っている者に
対して、大衆運動を起こして戦いを挑んで行こうなどとは、ま
ったく考えておられなかったと断言出来ます。キリストは、ロ
ーマの兵士たちがイスラエル人たちを思いのままに徴用し、労
働させているのを幾度もご覧になったはずです。そして、その
ような現実に抗議をし、反対運動を起こし、改めるように働き
かけたりなどはなさいませんでした。かえって、「無理に1里
行かせようとする者には、2里行きなさい」とおっしゃって、
文句を言わず、ローマ軍の荷物を背負って、言われた以上の距
離を運んでやるようにお教えになったのです。キリストは、あ
くまでも贖罪愛の遂行を目的としてお働きになったからです。



 また、パウロやペテロを始めとする、新約聖書の時代の人
々や当時の教会を調べてみても、社会悪に戦いを挑んで行く姿
からは程遠いものです。宗主国ローマは、当時としては非常に
寛容であったとは言え、とても残忍で、あらゆる非人間的な政
策と差別に満ちていました。社会の貧富の差は激しく、民族間
の差別もありました。奴隷はごく一般的であり、非人道的取り
扱いが日常の事でした。女性の社会的地位は低く、人権が無視
されていました。肉体的・精神的ハンデイキャップを負った人
々は、社会的にも経済的にも宗教的にも差別されていました。
そのような中で、使徒たちはどのような抗議行動をとり、どの
ような戦いを進めて行ったのでしょうか。



 パウロはローマの為政者たちの権威を認め、彼らのために
祈る事を教えました。ローマの国家が素晴らしいものだと誤解
していたからではありません。ローマ国家が邪悪なものである
ことをも承知でそのように教えたのです。奴隷制度に関しても、
パウロは充分にその犯罪性を理解していたと考えられます。し
かし彼は、その社会的風潮、習慣に、あえて立ち向かう事をし
ませんでした。かえって、奴隷制度に従った行動をとるように
奴隷たちを教え、逃亡奴隷のオネシモを、主人のピレモンのも
とに送り返しています。(ピレモンへの手紙) 女性差別にし
ても、表面的には、パウロは反対運動や抗議運動を起こすよう
な過激な真似をせず、当時の社会通念に従った指導をしていま
す。パウロは当時の、たとえば奴隷制度や女性の身分に対して、
直接あからさまに異議を唱え、反対運動を起こし、敢えてその
ような社会通念に反した行動をとった場合、どのような社会的
反応が起こるか、また、教会の使命である福音伝達にいかなる
影響を与えるかを、注意深く考慮したのではないでしょうか。
社会の機構と経済産業に深く関わっているこのような問題に対
し、基本的人権と平等の御旗を翻して、直接、戦いを挑む事が
決して益にならないと判断したのではないでしょうか。しかし
その一方でパウロは、奴隷を主にある兄弟として取り扱うよう
にと諭して、奴隷制度廃止の礎を築き、主にあっては女性と男
性との間に差別はない事を教えて、女性差別撤廃の土台を据え
ているのです。



 そういう訳で、私たちは、教会の使命は唯一、贖罪愛の遂
行である福音伝道であると考えます。一般愛の表現である社会
活動は、教会の生きる姿、教会のあり方ではありますが、教会
がこの世に派遣された使命、目的ではありません。また正義の
ために戦う事は教会の使命や目的ではないばかりか、この世に
おける教会の姿でもありません。教会は正しい生き方をする事、
またそのためには種々の苦しみをも耐えるべき事が教えられて
いますが、社会悪と戦うことは教会がなすべき事ではありませ
ん。教会は、自らが正しい生き方をするようにと教えられては
いますが、世の罪人に「正しく生きよ」と叫ぶようには教えら
れていないのです。教会がこの世に派遣されるにあたって与え
られた使命、目的はただひとつ、贖罪愛の遂行である福音伝道
です。



 ところで、日本語では名詞の単数形と複数形の間に区別が
ありませんから、「使命」あるいは「目的」と簡単に言ってし
まいますが、実は「使命」と訳されている英語には単数形と複
数形があり、果たして教会の使命はいくつもあるのか、それと
もひとつだけなのかという議論があります。 「mission」か
「missions」 かという事です。 伝統的に、 教会は普通
「missions」と複数形で表現してきた歴史がありますが、そ
れは、教会がこの世で果たすべき使命はいくつもあると考えて
いたからです。教会というものの理解が曖昧で、その使命ある
いは目的と、様々な働きとの関係の理解に混乱があったためで
す。つまり、教会には礼拝会や伝道会、日曜学校や聖書の勉強
会、それから幼稚園や学校の運営、さらには町内会に参加し、
地域社会で世の光地の塩として生きる事、その上に宣教師を送
り、教会を建て、病院を建て、貧しい者を助け、無教育な者に
教育の機会を与えるなど、実にいろいろあり、それがみな大切
な働きであること考えられ、「使命」であると受け取られてい
たためです。



 後でも触れますが、教会がこの世界で存在して行くために
は様々な活動をしなければなりませんし、その多くは非常に大
切ですが、教会がこの世界で生きるための活動と、教会がこの
世に派遣された目的の活動、すなわち使命との間には、明確な
違いがある事を理解しなければなりません。たとえば、日本の
大使がアメリカに派遣されている目的と、その大使がアメリカ
で生活するために必要な活動、すなわち、住居を借りたり、洋
服を買ったり、食料を買い込んだり、子供を学校に入れたりと
いう働きとの間には、明確な相違があるというのと同じです。
教会にはさまざまな活動があり、多くの仕事があります。しか
し、教会がこの世に派遣されている理由、目的、使命はただひ
とつです。ですから、ここでの私たちの学びでは、教会の単数
の使命 「mission」 についであって、 複数の様々な使命
「missions」についてではありません。



3.派遣の目的・宣教か伝道か



 さて、教会がこの世に派遣されている目的は、福音の宣教
であって、すなわち贖罪愛の遂行あるいは継続であって、一般
愛の表現である社会活動ではないと言う事は明らかになりまし
たが、それでは、福音宣教とは何でしょう。伝道とどこが違う
のでしょう。

 

 元々私たちは、宣教という言葉と伝道という言葉を、時に
は同じ意味に、時には少しばかり違う意味に、明確な定義をし
ないままかなり曖昧に用いて来ました。すでに述べたように、
宣教というのは、英語の「mission(s)」の訳として用いてき
ましたが、もともとは、任務を与えて派遣するという意味の新
約聖書用語「アポステロー」のラテン語訳である、「ミッシオ」
に語源を持つものです。「アポステロー」の名詞形が「アポス
トロス」で、日本語では使徒と訳されています。それらの事か
ら、「宣教」の厳密な意味は曖昧でありながらも、常に「派遣」
と深く関わるものとして理解されてきました。ですから、すで
に幾度も繰り返した言い方ではありますが、宣教とは教会が派
遣された使命、任務、あるいは目的と理解するのが適当でしょ
う。宣教するとは、教会の目的、使命、任務を遂行するという
ことです。そしてその目的、使命、任務とは何かというと、贖
罪愛の遂行である福音伝道です。この理解からすると、伝道と
は教会の「missions」、すなわち多くの使命のひとつなので
はなく、教会の「mission」唯一の使命そのものであるという
事になります。



 では、伝道とは何でしょう。いろいろな定義がありますが、
最もふさわしい定義は単に福音を宣言するだけではなく、人々
を救いに導く事でもなく、洗礼を授けことでもなく、また、個
々人をキリストの弟子とする事で終わるのでもなく、救われた
人々で構成される、キリストのみ体を建て上げる事であり、そ
のみ体、すなわち地域に自己を表現した不変・普遍の教会を、
キリストの身丈まで成長させる事です。キリストの身丈まで成
長した教会は、必然的にさらに教会を生み出して行く教会にな
ります。



 このように、原則的には、宣教とはすなわち伝道であると
言う事になりますが、それだけでは充分ではない側面もありま
す。伝道をしている教会のすべてが、必ずしも宣教をしている
と言えないところがあるからです。たとえば、誕生間もなくの
エルサレム教会は、間違いなく伝道の教会でした。伝道の情熱
に燃えていました。多くの人々が福音を聞き、救われ、洗礼を
受け、教会に加えられ、交わりとみ言葉と祈りによって育てら
れていました。しかし、このエルサレム教会は、果たして宣教
の教会だったでしょうか。



 現在、キリスト教の影響の非常に強い国、あるいは地域、
民族の中にある教会はどうでしょう。熱心に福音を語り、多く
の人々を救いに導き、洗礼を施し、教会に加え、教育訓練をし
ているならば、立派に伝道をしていると言えます。しかし、果
たして、宣教はしているでしょうか。自分たちの場所に留まっ
ているだけでは、教会は、宣教をしていると言い難いのです。
まだ、福音が伝えられていない地域、福音を聞いたことのない
人々のグループに出て行って、福音を語る努力をしていなけれ
ば、宣教に携わっている、すなわち、キリストの遺言を遂行し
ていると言い切れないのです。エルサレム教会は、伝道はして
いました。しかし、エルサレムに留まり続けていたのです。そ
の間、宣教は出来ていなかったのです。しかし神は、そのよう
なエルサレム教会を、本来の使命である宣教に駆り立てるため
に敢えて迫害を起こし、クリスチャンたちを四方八方に散らし
てくださいました。散らされたクリスチャンたちは、そうとは
知らずに「派遣」されていたのです。そうとは知らずに、行く
先々の人々に甦られたイエスのことを話し聞かせる事によって、
宣教の使命を果たしていたのです。



 ですからこの宣教の使命は、直ちに弟子たちに理解され、
遂行されたのではありません。ユダヤ人として、ユダヤ人の先
入観に固まっていた弟子たちは、キリストの命令の意味、派遣
の意味を把握出来ないでいたのです。それを弟子たちに理解さ
せ、その使命に取り組ませるためには、聖霊の強い働きかけが
必要でした。聖霊はまず、ユダヤ人たちの間でも比較的柔軟な
ユダヤ主義を採っていたと思われる、デイアスポラのユダヤ人
を奮い立たせ、福音の普遍性に対して少しずつ目覚めさせて行
きました。ステパノを通して神殿の不要性を説かせ、ピリポを
通してサマリヤ人に福音をもたらし、さらにエチオピア人にも
救いを適用しました。その後、使徒たちの中でも中心人物であ
ったペテロを、聖霊はかなり無理をして説得し、ローマの軍人
にも福音を宣べ伝えさせ、聖霊がペテロに先行してお働きにな
る事によって、異邦人も救いに与る事が出来るという事実を明
確に見せ、教会全体に福音の普遍性を徐々に理解させ、世界宣
教の土台を築いて行かれたのです。そして、その上にバルナバ
とサウロの異邦人社会への伝道、すなわち宣教が重なるのです。



 しかし、バルナバとサウロでさえも、また、彼らを派遣し
たアンテオケ教会でさえも、この異邦人世界へ出て行って伝道
をする働きの重要性、すなわち宣教の使命をはっきりと自覚し
ていたのではありません。彼らの派遣は、聖霊の明確な先導と
強烈な後押しがあって、初めて可能だったのです。アンテオケ
教会は、多くの人たちが考えるほど、異邦人宣教に積極的だっ
たわけではありません。バルナバとサウロを積極的に派遣した
のは聖霊ご自身で、アンテオケ教会ではありません。アンテオ
ケ教会は聖霊の働きを妨げず、ただ出て行くふたりを許して見
送ったに過ぎません。  教会が世界を畑として種を蒔くよう
になるには、福音の普遍性と自分に与えられた使命を鮮明に理
解する必要がありました。



 今日の多くの教会も、エルサレムの教会と同様に、自分た
ちの周辺にいる人々、自分と同じ国の人々、あるいは同じ文化
圏の人々には伝道をしていることでしょう。それなりに教会も
大きくなり、地域教会、あるいは管理上の個教会も増加してい
ることでしょう。しかし、すでに教会が存在し、多くのクリス
チャンが存在しているところで伝道をして、成功を収めている
だけで満足していてはならないのです。キリストのみ体である
教会として、与えられた世界宣教の使命を果たしていく責任が
あるのです。世界には、まだまだ福音が充分に伝えられていな
い人々が、たくさん存在するからです。すべての地域教会が、
あるいは管理上の個教会が、直接世界宣教に携わるのは効果的
ではありませんし、現実的ではありません。ほとんどの場合不
可能でしょう。しかし有機的教会として、そして普遍的教会と
して、互いに有機的に関わり協力する事によって、世界宣教に
積極的にまた具体的に関わって行く事が出来ますし、そのよう
にすべきなのです。
   


 宣教とは派遣に関わり、常に出て行く事に関わります。出
て行ってやることは伝道です。しかし、出て行く事を止めた伝
道は宣教ではありません。キリストは天のみ位を捨て、失われ
た羊を尋ね求めて神と人との間の無限の隔たりを旅し、人とな
ってこの世に来てくださった宣教師です。しかし、キリストは
この世に来てくださっただけで満足なさらず、さらに町々村々
を行き巡ってくださった方です。今日の多くの教会に必要なの
は、この、町々村々を行き巡るキリストの姿です。












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2010年10月29日

教会について 2−21

p127〜136


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B.キリストの派遣条件と同じ条件



 完全無欠、絶対無限の存在。至高の聖さと本源的主権を備
えておられる第二格の神が、罪ある人間に近付き、その人間と
共に住んでくださるためには、自らへりくだり、ご自分の神と
しての資質を横に置き、有限をまとい、服従を道としなければ
なりませんでした。第二神格者が、本来、自分の本質である至
高の聖さと絶対の主権を所持したまま、罪ある人間に近付いた
ならば、罪ある人間は、燃え盛る火の中に投げ込まれた昆虫の
ように、瞬時に消滅する以外にあり得ないからです。罪人を救
おうとされる神が、罪人を滅ぼさずに罪人に近付くためには、
神としての性質を、自ら進んで放棄しなければならなかったの
です。この自発的自己放棄こそ、キリストが派遣されるための
絶対必要条件だったのです。そしてこの絶対条件こそ、キリス
トの代理である教会にも、またその教会を構成しているクリス
チャンひとりひとりにも、求められているものです。



 この自己放棄の教会、へりくだって仕える者の姿を取り、
服従の道を歩む教会というのは、現在の富める国の教会には、
なかなかなか見る事ことが出来ないものです。特に、大きな教
会、成長している教会、しるしと不思議が顕著に現れている教
会に、この自己放棄と謙遜の姿を認めるのは非常に困難な事で
す。勢いがあり、力があり、美しく、魅力的な教会を作ろうと、
全教会を上げて努力し、取り組みます。そのような努力には、
当然ながら正当性がありますし、賞賛されるべきものでさえあ
ります。しかし、その努力の途上で、自己放棄と謙遜が忘れら
れてしまっては、キリストの大使としての資質を失ってしまう
のです。様々なキリスト教書物を読んでみると、個々のクリス
チャンの霊的成長として、謙遜や自己放棄が重要な課題として
取り上げられることは良くありますが、ひとつの地域教会とし
て、あるいは管理上の個教会として、それが取り上げられてい
るのを見た事がありません。むしろ、個々のクリスチャンの自
己放棄は、教会を大きく華美にする手段として用いられ、牧師
の栄光のために利用されているようにさえ思えます。ましてや
キリストのみ体として、教会全体として、謙遜や自己放棄が語
られているのには出会った事がありません。



 18世紀から始まった近代世界宣教の歴史を見ると、わず
かの例外はあるとは言え、 宣教は富める強国から貧しい弱国
へ行われて来ました。富める強国から派遣された宣教師のほと
んどは、それぞれ非常に優秀で、献身態度も自己放棄も、一般
人はおろか、並みのクリスチャンたちに比べても、非常に立派
であったと言えるでしょう。その一方で、経済的に強い事、高
度な文明を背景にしている事、高等教育を受けている事、また、
多くが白人であった事などに不可避的に影響されて、思わず知
らず高慢な宣教師になっていたのではないかと考えさせられま
す。しょうもなく未開で、貧しく、何も知らない現地人を、教
えてやる、助けてやる、指導してやる、訓練してやるという態
度が、あまりにも鮮明だったのではないでしょうか。現地の人
々に取っては教師であり、指導者であり、管理者であり、監督
であり、雇い主であったのではないでしょうか。それがどのよ
うに愛と善意に溢れたものであっても、高いところにいる人が、
低いところにいる者を哀れみ見下しながら、助けの手を差し伸
べるという意識が強かったように思われます。 有名な絵本の
「ちび黒サンボ」が、その善意いっぱいの著者の思惑から外れ
て、差別文書として槍玉に上げられてしまったのも、そのよう
な意識が読み取れたからです。



 キリストは、救おうとされた人々とまったく同じ立場まで
降りて来て、降りて来た方であることを誰にも知らさず、公生
涯を始めるまでの三十年間、天から降りて来た神としてではな
く、周囲の人々の助けなしには生きて行けない、ひとりのか弱
い人間として生活してくださいました。「自己犠牲の神」は、
あくまでもキリストが天にお帰りになってから、弟子たちが悟
ったキリストであって、キリスト在世当時は誰ひとりとして理
解しなかったのです。その姿は人と異ならなかったとは、自分
ひとりでは生きて行けなかった弱々しさを持っていたという事
です。この弱さを30年間経験してから、キリストは公生涯を
お始めになったのです。罪人のための身代わりの死だけが必要
だったのならば、キリストは生まれてすぐに死ぬ事も出来たで
しょう。紫の衣を着て王宮に住む事も出来たでしょう。しかし
キリストは大工の倅として生きたのです。人を頼り、人に助け
られて生きたのです。そのような生き方に大きな意義があった
からこそ、キリストは敢えてそのようになさったのです。



 教会は、このキリストが遣わされたように、遣わされてい
るのです。そしてその遣わされている事実と、遣わされている
意味を最も深刻に考え、キリストに倣う者となろうとするのが
宣教師です。しばらく前になりますが、日本からフィリピンに
遣わされていた宣教師家族が、現地の銀行の不手際のために、
日本から届くはずの支援金を数ヶ月にわたって受け取ることが
出来ず、文字通り食べるにも窮したことがありました。そのと
き、彼らの痛々しい姿を見て、粗末な食べ物を運び、あれこれ
と助けてくれたのが、何の関わりもない、ただ同じところに住
んでいるというだけの、貧しいフィリピン人たちでした。彼ら
の宣教師としての生き方が、貧しいフィピン人にさえ、哀れみ
を起こさせるに充分だったのでしょう。そしてそのような彼ら
だからこそ、フィリピン人たちの心に届く働きを、いまも継続
しているのでしょう。彼はフィリピン人に対する貢献を認めら
れて、無料でフィリピン政府から永久ビサを与えられた、数少
ない日本人のひとりです。



 このように、現地の人々に助けられなければ、生きて行け
ないような弱さを持った宣教師が必要なのです。本来は富み、
能力を持ち、力があり、高度な訓練を積んできた宣教師が、あ
たかも貧しく、何もない能無しのように見られる事もまた、必
要なのです。宣教師たちが、自分たちは本国ではどのようにい
い暮らしをしていたか、どんなに豊かだったか、どんなに立派
な家を持っていたか、どんなに高度な教育を受け将来を嘱望さ
れていたかなどという事を、現地の人々に理解してもらおうと
している姿を見るのは、情けないことです。謙卑の極限である
クリスマスでさえよく理解できず、「イエス様。お誕生日おめ
でとうございます!」とやっている普通の牧師や信徒に、まし
てや一般の人々に、宣教師が本国の栄光と富と力と将来を捨て
てやって来ているなどということが、理解してもらえるはずが
ないからです。宣教師は本国のことを語らず、遣わされた先の
人々と共に住み、共に生きるのです。イエス様も、天上のこと
をお話しすることはありませんでした。(参照:ヨハ3:12)


 貧しいフィリピンの中でも一段と貧しかった、山岳部族の
中で働きながら、教会成長運動や、繁栄の福音に影響された欧
米の宣教師たち、あるいは都市部の豊かな教会の牧師たちの、
心無い教えをしばしば聞かなければならなかったのは、私にと
ってはこの上ない苦痛でした。教会が苦しむ人々と共に苦しむ
ことや、宣教師が遣わされた先の人々と共に痛むことが、あた
かも敗北であり、不信仰の罪の結果であるかのような言われ方
をしたのも、1度や2度ではありません。いったい、教会成長
運動や繁栄の福音には、自己放棄や謙遜という教えは含まれて
いないのでしょうか。現在の、欲望むき出しの資本主義経済の
中で繁栄するという事は、まず例外なく、弱者を痛め傷つける
事に直結しているという事に気付かず、「正当な労働で得た富
は神の祝福である」と主張し続けるほど、私たちのキリスト教
は天真爛漫に無知なのでしょうか。豊かで強い先進国が、自分
たちに都合の良い経済協定を結び、都合よく解釈し都合よく適
用して、貧しく弱い国々から「正当に」搾取をくり返している
という現実が見えないほど、私たちのキリスト教は盲目なので
しょうか。持っているもので満足出来ず、もっと持ちたいと願
うことが貪りであり、新約聖書のいう偶像礼拝の罪であること
がわからないのでしょうか。(コロ3:5)



 このような社会的、文化的、経済的、人種的おごりを持ち
ながら、教会は宣教を続けて来ました。たくさんの宣教師が、
多くの人々の批判の通り、ゴールドとグローリーとゴスペルと
いう[みっつのG]のために働いて来ました。その中でも、困
難な状況の中で自分の働きを立派にやり遂げたという賞賛を得
るために、一生懸命に働いた宣教師が最も多かったのではない
でしょうか。宣教地の宣教師たちが、自分を捨てる事がないた
めに、名誉を賭けて互いに競い争う醜い姿を嫌というほど見て
きました。しかし、それでも、キリストの大使としての役割を、
少しでも果たせたことを喜ぶべきでしょう。私たちは、完全に
ならなければ主に用いられないのではないからです。まさに、
不完全に泣きながら、不完全な者をもお用いになる主の哀れみ
と忍耐に、ただただ感謝しながら働きを続けるのみです。ただ、
そのような不完全さにいつまでも甘んじているべきではないと
思うのです。教会は、キリストが遣わされた時に実践された、
謙遜と自己放棄を自らの模範として、それを模倣して生きるこ
とを条件として、キリストの大使なのです。



C.キリストの派遣の姿と同じ姿



 キリストは弱小植民地の寒村で、非常に貧しい誕生をなさ
いました。汚れた家畜小屋の不潔な飼い葉おけが、最初のベッ
ドでした。彼の育った家庭もごくごく貧しく、まともな税金も
納める事がないほどでした。(ルカ2:23、レビ12:8)
しかも、父親の役割を与えられたヨセフは、どうやら早死にし
たらしく、キリストは少なくても4人の弟とふたりの妹の、父
親代わりになって働かなければなりませんでした。ヨセフは年
季の入った大工で、良い手間賃を取る事が出来たとしても、キ
リストはまだ若くあまりよい仕事は出来ませんでしたから、手
間賃も安かったに違いありません。

  天地の創造者、絶対の力と栄光の主が、人のためにご自分
の位を捨てて、人となり、人として生きてくださったのです。
その姿はまったく普通の人でした。キリストはどんなに貧しく
ても、自分たちの生活のために奇跡を行うことはありませんで
した。石をパンに変えることはなかったのです。そっと隠れて
「み言葉」をもって家具や農機具をお造りになることもありま
せんでした。み言葉によって天地をお造りになった主が、手に
切り傷や打ち傷を作り、額に汗を流し、ちり芥にまみれて働き、
貧しい家計のためにお働きになったのです。食べ物に事欠いた
事は、1度や2度ではなかったでしょう。暑さ寒さのために体
を壊し、無理をして働いた事もあったでしょう。弟や妹のため
に自分は食べるのも着るのも控えて、我慢した事もたびたびだ
ったはずです。近所の人たちが見るに見かねて、そっと食べ物
を運んでくれた事があったかもしれません。古着を分けてくれ
た事もあったでしょう。だからこそ、公生涯に入ったキリスト
が故郷を訪れたとき、誰も、彼が救い主であると信じる事がで
きなかったのです。「あの、ヨセフの子が!?」と言うわけで
す。



 キリストは完全な人間になってくださいました。天の栄光
と力を放棄して、まったくお用いにならなかったのです。公生
涯においてさえ、キリストは聖霊の力によってみ業を行われた
のであり、第二神格者としての力と権威を行使されたのではあ
りません。キリストは、人間以外の何物でもないお方になって
くださったのです。ですから、自らの無限を有限の中に閉じ込
められたキリスト、人の姿をお取りになって、この地上で生き
ておられた時のキリストには、出来ない事や知らない事がたく
さんありました。当然のことです。ある人々はこの事実を取り
上げて、「キリストには出来ない事も知らない事もあった。だ
からキリストは神ではない。神の子でもない。単なる偉大な人
間に過ぎなかった。神に最初に造られた者であった」などと誤
って主張して、キリストの恵みから落ちてしまいました。その
ように誤解されるほど、キリストは完全に自己を否定なさった
のです。キリストは神であり、神でなかった事はありません。
しかし、人の救いのために、一時期とは言え、神の位を放棄な
さった神であられたのです。このようにして、キリストはまさ
にインマヌエルとなってくださったのです。



 キリストは、このようにご自分を空しくして、罪人の救い
のために罪人と生活を共にしてくださいました。そしてこの姿
こそ、キリストが「ように」とおっしゃった内容なのです。教
会はこのキリストのみ姿のように、それと同じように、同じ形
で、同じ原則と様態で、この世に派遣されているのです。すな
わち、自分を空しくして、自分の地位や名誉や栄光、権威権力
というものを放棄し、あくまでも仕える者の姿をとって、遣わ
された対象の人々と同じようになって、共に住み、共に生きる
という事です。言い換えると、現在の教会は勝利の教会であっ
てはならないのです。繁栄の教会であってはならないのです。
悩みも痛みも、病も苦痛も持たない、喜びの教会であってはな
らないのです。そのような完成は、やがて与えられるものとし
て、間違いなく約束されています。そして、その約束の証印と
して、いま、部分的とは言え、癒しを体験し、新しい命を体験
しています。その事のために喜びましょう。おおいに喜びまし
ょう。しかし、基本的に、そして原則的に、今の私たちの教会
は、キリストが遣わされたように遣わされた教会であり、キリ
ストが人々と共に生き共に苦しまれたように、人々と苦しみを
共にするものなのです。



 私たちの国籍は天にあり、私たちの富は天に蓄えられてい
ます。「金は我がもの銀も我がもの」とおっしゃる神が、私た
ちの父です。私たちが豊かになるために、キリストが貧しくな
ってくださいました。私たちは豊かなのです。しかし、今は、
貧しい者と共に生きるために、キリストと同じように貧しい者
として遣わされているのです。痛んでいる人々と共に生きるた
めに、キリストと同じように痛む者として遣わされているので
す。キリストが痛みをもって完成された福音は、キリストのみ
体である教会の痛みを通して、宣べ伝えられるのです。言い換
えると、キリストは今も教会というみ体をもって、痛みながら
贖罪愛を遂行なさっているのです。すなわち、教会の痛みはキ
リストの痛みなのです。(コロ1:24)



 そういう訳で、教会の苦しみ、クリスチャンひとりひとり
の苦しみには、大切な意味と意義があるのです。私たちは理由
なく苦しんでいるのではないのです。私たちの罪と弱さの結果
としてだけ、苦しんでいるのでもないのです。私たちはキリス
トの大使として、キリストの代理として、私たちに与えられて
いるキリストの苦しみを苦しんでいるのです。(ピリ1:29、
3:10) 私たちが苦しみを嫌い、避けようとするのはごく
自然です。しかし、キリストの代理としての苦しみ、苦しんで
いる世の人々と共に生きるための苦しみを、避けようとしては
ならないのです。また教会は、苦しむことを恥じてはならない
のです。痛んでいることを隠す必要もないのです。痛み苦しん
でいることこそ、キリストの大使として派遣されていることの
印だからです。
 


 キリストは、私たちがこの世に生きる限り苦しみに遭うこ
とを、はっきりとお話しになりました。また、私たちから苦し
みを取り去ってくださるようにとではなく、私たちが苦しみに
打ち勝つことが出来るようにと、父に祈ってくださいました。
苦難は、クリスチャン人生の大切な一要素なのです。それは、
キリストの生涯にとって苦難が重要な要素であったのと同じで
す。では、キリストにとって、この世に生き、人々と共に苦し
むという事は、どのような意味を持っていたのでしょう。キリ
ストが罪人と共に住み、共に生きたという事実の背後には、ど
のような意義があったのでしょう。



 ヘブル書の著者は、「あわれみ深い大祭司となるために、
主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませ
んでした。それは民の罪のために、なだめがされるためなので
す。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられて
いる者たちを助けることがおできになるのです」 と説明し、
(2:17−18)「私たちの大祭司は、私たちに同情できな
い方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点
で、私たちと同じように、試みに会われたのです」と教えてい
ます。(4:15) すなわち、キリストが苦しみに会われた
のは、もっぱら私たち、弱い人間のためだったのです。キリス
トご自身が、ご自分の必要や条件のためにお苦しみになったの
ではありません。弱い人間の弱さを自ら身をもって体験するこ
とによって、弱い人間に真実の意味で同情をすることが出来る
ようになってくださったのです。もちろん、キリストが弱い人
間の弱さ、苦しみ、痛みを理解するために、自らそれらを体験
する必要はありませんでした。そのようなものは、全知全能の
主であられる方は、体験せずともご存知であり、主ご自身、滅
び行く罪人たち本人が自分たちの滅びを痛み悲しむよりも、は
るかに深く痛ましいほどに、罪人の滅びのために悲しみ呻いて
くださったのです。そこに救いを提供して下さろうという御心
の原点があるのです。しかし、もしキリストが人間の弱さを身
に帯びず、勇ましく猛々しいみ姿のまま、ユダのライオンとし
て、英雄の死を遂げられたとしたならば、はたして、弱々しい
私たちは、このキリストに恐れなく近寄ることが出来たでしょ
うか。



 キリストは、弱い私たちが恐れることなく近づくことが出
来るように、敢えて弱い者となってくださったのです。弱い者
が、先ず、第一に求めるのは、自分たちの弱さ、痛み、苦しみ、
悲しみというものを理解してくれる人です。じっと話を聞き、
共に痛み、共に苦しみ、共に悲しみ、共に憤慨し、共に怒って
くれる人です。それは同じような体験をし、痛んだ事がある人、
苦しんだ事がある人、悲しんだ事がある人、憤慨し、怒った事
がある人に限られるのです。聖書に記されているキリストの生
涯を知らないカトリックの信徒たちは、キリストは雄々しい方
で、弱々しい人間の痛みを理解してくださらないからと考え、
人間としての弱さを充分に体験し、良く知っていると思われる
「マリヤ様」という女性におすがりします。これはキリストに
対する冒涜であり、キリストの努力を水泡に帰し、み心を痛め
るものです。



 教会は、このキリストのみ姿に似る者です。キリストが遣
わされたように、それに倣って遣わされているのです。本来、
教会は苦しむ必要はありません。すでにこの世の者ではなくな
っているのです。私たちは天に属する者です。しかしながら、
キリストが派遣されたように、私たちも派遣されているのです。
教会は、キリストが罪人と共に生き共に苦しまれ、あたかも罪
人のひとりであるかのようになってくださったのと同じく、こ
の世の人々と同じように生き、同じように苦しむのです。それ
は、苦しみながらも力強く生きる教会、痛みながらも負けない
で生きる教会の姿を見て、人々が教会に近づいてくるためです。
強い教会、負けない教会だけではだめなのです。それでは近づ
いて来られない人々が多いのです。教会は、キリストが持って
おられなかった不完全さを持っています。それは、自ら苦しま
ないでは苦しんでいる者の苦しみを理解出来ないということで
す。教会は、キリストの大使、代理、み体として、キリストの
贖いの働きを継承していくために、苦しみを通して、あるいは
痛みを通して、人々の苦しみと痛みを理解するようにならなけ
ればならないのです。痛みを知らない教会、苦しみを知らない
教会は、真の意味では、悲しみの人で病を知っていたキリスト
の代理にはなれないのです。


 キリストが遣わされたように、教会もまた遣わされている
という真理を、最も重く受け止めなければならないのが、宣教
師である事についてはすでに述べましたが、開発途上国で働く
先進国からの宣教師の多くが、現地の人々の尊敬や憧れは勝ち
取ることができても、効果的な福音の伝達が出来ないでいるひ
とつの理由がここにあります。同じ現地人牧師が何かするより、
先進国から来た宣教師が、金と物資と機動力と能力を発揮して
やったほうが、断然多くの人集めができます。しかし、それで
福音伝達がうまく出来て、教会が建て上げられ、その教会がキ
リストのみ丈まで成長して行くというのは、まれな事です。ほ
とんどの場合、貧しく能力も劣る現地の牧師の方が、効果的な
福音伝達をし、より強力な教会を建て上げることが出来るので
す。先進国からやってくる宣教師たちの多くは、後進国の生活
に溶け込むことがないためです。彼らの非文明的生活様式、理
屈に合わない文化習慣、非生産的な社会形態、非効率的な労働
慣習。どれをとっても先進国からの宣教師にとっては珍糞で、
批判し、嘲笑し、帰国して友人たちとコーヒーを飲むときの会
話の面白い「つまみ」にはしますが、自分がその中に入り込み、
その中で生活するなど、考えても見たくありません。しかし、
現地の人々の苦しみや悲しみは、現地の人々の生活様式に入っ
て、現地の人々と同じように生きてみなければ理解出来ないも
のです。また、そのように生活してみて始めて、表面的にはま
さにばかばかしいような習慣や文化、あるいは社会の仕組みと
いうものが、それなりの歴史と存在理由を持ち、時には、それ
らが非常に美しいものであることさえ解るのです。そしてそれ
らが解ってはじめて、現地の人々の心が解り、福音を有意義に
語ることが出来るのです。



 現地の人々の生活様式に入り込むということは、具体的に
言うと、現地の人々と同じ種類の家に住み、同じ種類の食べ物
を食べ、同じ経済感覚を持つことです。それが単に、現地の国
民服を着るとか現地語で挨拶が出来るとかいう表面の事柄に止
まらず、日常の生活感覚が現地の人々と同じになるということ
です。もっとわかり易く言うならば、現地の人々と1ヶ月間、
あるいは2ヵ月間、一緒に暮らしてみることです。現地の伝道
者の家にお世話になってみることです。そして現地の人々と同
じ家に住み、同じ食卓で同じ食器から同じ食べ物を食べてみる
ことです。同じ寝具で眠り、同じ便所を使い、一緒に買い物に
出かけ、一緒に安いものを探し、一緒に信徒を訪問してみるこ
とです。現地の伝道者たちと伝道旅行に出かけるのも良いでし
ょう。同じ宿の同じ部屋に泊まり、同じ食事をし、同じ乗り物
に乗り、何もかも同じに10日間くらい生活してみることです。
そうすると、単に現地の人々の生活感覚や考え方、習慣や文化
が理解出来るだけではなく、その中で生きる人々の苦労や喜び
も解ってきます。何よりも、現地の人々と心の繋がりが出来て
きます。



 このような実験をするには、当然独身の宣教師の方が有利
でしょう。しかし、たとえ家族持ちでも、敢えてそのくらいの
冒険は出来るでしょうし、やってみる価値はおおいにあります。
ようするに現地の人々に溶け込み、現地の人々の感覚を得るこ
とです。1度でわからなければ、2度3度と繰り返してみると
良いでしょう。誰と余暇を過ごしたいと望むかが、宣教師にと
って重要な個人評価になります。同じ宣教師仲間や同じ国から
来ている人々を求めているうちは、まだまだなっていないと知
るべきです。現地の協力者、現地の人々と過ごすのが最も楽し
くなって、初めて、宣教師の心に近づいたのです。宣教師たち
が自分の家族の生活を第一にして、現地の人々とはほとんど交
わりを持てないような環境で、交わりを拒絶するような生活様
式を保っているのは、つまり、出来るだけ母国に近い生活を保
とうとしているのを見ると、非常に悲しくなります。家族を大
切にするのも理解出来ますが、宣教師はやはり何と言っても、
人の姿を取り、人と共に生き、人と共に住んでくださった、キ
リストの姿に倣う者だからです。



 宣教師が現地の人々と共に生活し、彼らの痛みと苦しみを
理解し出すと、現地人や現地の生活習慣や文化に対する、一方
的な批判が少なくなります。寛容性が増し、現地のやり方に対
する忍耐力も加わります。現地で起こるさまざまな問題に対し
て、宣教師的な解決方法、つまり、現地の習慣を無視した宣教
師の母国のやり方を用いないで、現地のやり方を学び、現地の
人々の示唆と助けを求めるようになります。すると、現地の人
々は喜んで助けてくれます。現地の人々は、助ける事が出来る
ことに、助けられるより喜びを感じるからです。このようにし
て、コミュニュニケーシヨンが築かれるのです。徐々に、現地
の人々は隔てなく宣教師と付き合うことが出来るようになり、
宣教師も隔てを感じないで共に仕事が出来るようになるのです。
そうなってはじめて、宣教師たちは現地の人々が恐れなく近づ
くことが出来る者、痛みを分かち合うことが出来る者として理
解されるのです。



 教会は、キリストが遣わされたように、遣わされているの
です。教会全体が、あたかも宣教師のような意識になって、自
らがキリストと同じようにこの世に遣わされている存在である
ということをしっかり認識するならば、教会の中に大きな変化、
改革が起こるに違いありません。教会は、遭遇する痛みや苦し
みに不平不満を募らせるのではなく、キリストの苦しみに与る
ことができる喜び、キリストのゆえに苦しむのに足る者とされ
た喜びを知るべきなのです。












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2010年10月30日

教会について 2−22

p136〜144


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D.キリストの派遣に伴ったと同じ権威



 キリストはこの世に遣わされた時、第二神格者としての栄
光と権威を横に置いて来られたという事については、すでに学
んだ通りです。しかし、キリストはその公生涯を開始なさった
時、明らかに、公生涯の働きを遂行するために聖霊をお受けに
なったと同時に、権威をも付与されたと考えられます。その権
威は甦られてから取り戻された権威とは別の権威、あるいは甦
られた後に取り戻された権威ほどの完全なものではありません
でしたが、(マタ20:19) 悪魔を叱り、(マタ4:10)
悪霊を追い出し、(マタ8:28−32) 病を癒し、断定的
に教え、(マタ7:28) 自然を治め、(マタ7:27) 
罪を許し、(マタ9:1−8) 死人を甦らせる権威でした。
実際、キリストはすべてのみ業を権威によって行い、信仰とは
キリストの権威を認める事であると教えておられるように思え
ます。(マタ8:5−11) キリストは、祭司長や長老たち
が敵愾心をもって、「何の権威によって、これらのことを教え
ているのか。だれがその権威を授けたのか」と質問をした時に、
敢えて彼らの挑発に乗るようなことはなさいませんでしたが、
答えは明らかです。(マタ21:23−27) 父なる神に与
えられた権威です。キリストは、ご自分の権威は父から来たも
のであることを、かなり明確に主張なさいました。(ヨハ5:
19−47、7:14−18、8:23−30、10:18)



 キリストの弟子たちは、このキリストから汚れた悪霊どもを
制する権威を与えられて、み国の福音を宣べ伝えるようにと派
遣されました。(マタ10:1−15) 弟子たちの派遣には
権威の委託が伴ったのです。弟子たちはこの権威を持って、与
えられた使命をまっとうしました。この権威はまた、権威を委
託した方の権威に関わるものであり、さらにその権威を委託し
た方をお遣わしになった、父なる神の権威に直結するものでし
た。(マタ10:40−42、ヨハネ13:20) こうして
見ると、弟子たちに与えられた権威は悪霊どもを制するだけに
止まらず、福音宣教全体に関わるものであることが分かりま
す。キリストは、未熟な弟子たちが悪霊に対する権威の力を目
の当たりに体験して、有頂天になってしまったのを戒めて、永
遠の命の大切さをもう一度強調し、確認しなおさなければなり
ませんでした。教会は、誕生前の胎児の時代から、権威を委託
され、権威によって働くようにされていたのです。



1.教会に与えられた権威与えられていない権威



 まだ人間の肉体を取っておられた時のキリストが、未だ生
まれてもいない教会の権威について、予め、お語りになってい
るのはとても興味深い事です。(マタイ18:15−20) 
教会が解くことは解かれ、教会がつなぐことはつながれるとい
うことですが、これが実際何を意味しているのかは、解釈者に
よって異なります。とは言え、これは懲罰ということでは教会
の内部の問題に関わることであり、福音の宣教とその結果とい
うことでは、外部の者に関わることであるということだけは明
ら。かです。



 教会が、自分たちの内部の問題に対しては、権威をもって、
しかも正しい手段で正しい判断をすべきことは当然のことです。
しかしいま取り上げようとしているのは、教会が外部の者に対
しても権威を持っているという側面です。福音宣教の使命を与
えられた教会は、使命と共に、福音に関わる権威をも与えられ
ています。教会がそのことを自覚していようがいまいが、与え
られているという事実にはかわりがないのです。教会が福音宣
教に携わるということは、人間の永遠の運命を定めるという結
果をもたらす、重大な権威を行使する事であり、軽々しく、い
たずらに取り扱うべきではないのです。福音は信じる者には命
を与える力ですが、拒絶する者には永遠の滅びを定めるものだ
からです。そしてまた、この福音宣教の使命がただ教会にだけ
与えられているという事実、教会以外の何者にも与えられてい
ないという事実が、非常に重要です。教会が独占している使命
であり、独占している働きであり、独占している権威なのです。
教会は、キリストが「あなたの罪は赦された」と宣言なさった
ように、福音を聞いて悔い改める者に「あなたの罪は赦された」
と宣言する権威を持つのです。



 また、教会の誕生がいよいよ近くなった時、キリストは改
めて権威について触れておっしゃいました。「わたしには天に
おいても、地においても、一切の権威が与えられています。そ
れゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々(部族)を弟
子としなさい。」 甦られたキリストは、はじめから天でお持
ちになっていた権威を取り戻し、その権威をもって教会の土台
となる弟子たちに、「すべての民族を弟子とする」ようにお命
じになったのです。  甦られた後のキリストが、一切の権威を
与えられ、その権威のゆえにお命じになった世界宣教に関わる
教会の権威と、人間の肉体をお持ちだったときに、弟子たちに
お与えになった権威にどのような違いがあるのか、具体的には
定かではありませんが、肉体を持っておられた時のキリストの
権威は、いろいろな意味で限られていたと考えられます。とこ
ろが甦られたキリストは、受肉前の完全な権威を取り戻された
のです。従って教会は、美しの門に座っていた足の萎えた乞食
を、甦られたナザレのイエスの名、すなわち甦りのキリストの
権威によって立ち上がらせたペテロのように、よみがえりのキ
リストの権威によって福音宣教の働きを進めて行くのです。
(使徒3:1−4:12)

 

 パウロが、教会は和解の福音を任せられている「使節」で
あると語った時、教会に委譲されている権威について、思いを
及ばせていたと考えられます。この使節という言葉は、大使ま
たは全権大使、さらには代理とも訳すことが出来るということ
ですから、当然、遣わす者の権威が伴うと考えられるのです。
言語の意味合いから察するならば、キリストが父から遣わされ
たとおっしゃった時も、権威が伴っているという意味あいがあ
ったと考えられます。キリストが教会を遣わすとおっしゃった
言葉にも、同様に、権威の意味合いが込められていることが明
らかです。遣わすと訳されているふたつの原語には、権威を与
えて使わすという意味があるからです。



 教会はたとえどんなに小さく弱く見えても、どれほど貧し
く困窮しているようであっても、権威を帯びているのです。こ
の世界の、他のどのような者にも絶対に与えられていない、強
大な権威を与えられているのです。教会が福音を語る時は、神
の権威をもって語るのです。教会が病を癒し悪霊を追い出す時
には、甦られたキリストのみ名の権威によって行うのです。こ
の、権威によって癒しや悪霊の追放を行う働きは、癒しや悪霊
を追い出す賜物よりも、より基本的な教会の働きであり、賜物
を与えられている者だけが行う働きではなく、教会の基本的働
きとして、教会全体が関わっていく働きです。それはちょうど、
パウロの福音宣教がこの世の知恵や賢さによらず、福音の力に
よって行われたと言われているように、教会も自らの知恵や知
識といった資質に頼らず、福音宣教に伴う権威によってしるし
と奇跡を行い、悪魔の支配を打ち破って神の国の到来を明示す
るのです。



 一方教会には、福音宣教という使命に伴う権威以外の権威
は、与えられていません。教会は、福音宣教とは関係のないい
ろいろな分野で、権威を行使してきました。そのすべてが間違
った結果をもたらしたとは言えないまでも、多くの場合、誤っ
た判断に基づいた誤った結論となり、正義の神の名によって悪
を行う結果となってしまいました。特に教会が世俗の権力と手
を組んでいた時、あるいは、世俗の権力を手中にしていた時に
行使した権威は、多くの場合、悲惨な結末に終わってしまいま
した。この事についてはすでに簡単に述べたとおりです。教会
は与えられていない権威を行使してはならないのです。その権
威を行使する能力も与えられていないからです。与えられてい
ない能力と権威を行使すると、必ず悲惨な結果に終わるからで
す。



 教会の歴史は、キリストによって委任された権威と、教会
が世俗の力を掌握したときに獲得した権威の間の、葛藤、衝突、
融合、混乱の歴史でもありました。それは、ヨハネとヤコブと
の母が、ふたりの息子たちを、それぞれキリストの右と左に座
れるようにと画策した時から始まって、自己を捨てきれない不
肖の弟子たちの、権力闘争の場でもあったのです。このような
精神から権力を行使するならば、教会は内部の問題に対してさ
え、正しい手段を採って正当な判断をする事が出来なくなって
しまいます。原始教会から、原始カトリック教会に移行してい
く途上での、各地の監督たちの意見の相違と権力闘争は、やが
て東西教会の分裂をもたらしました。そして東西の教会共に、
権力の官僚機構を作り上げ、それを動かしがたいものとしてし
まいました。そしてこれが世俗の政治権力・経済力を手中に収
め、国家権力さえ掌握するに至って、教会の名によって、神の
名によって、そしてキリストの名によって、あらゆる犯罪行為
が行われてきました。もちろん、教会が行ったすべてのことが
犯罪であったわけではなく、多くの素晴らしいことも行われた
のですが、全体として見るならば、神の権威によって行われた
と言うにはとても恥ずかしいものです。



 すでに触れたように、教会は、世俗の事柄を裁く権威を与
えられていません。権限も能力も与えられていないのです。世
俗の事柄の善悪を見極め判断する知識も知恵も力も賦与されて
いないのです。それを与えられていると思い込み、神の名をも
って発言するのは愚かな事です。日本のように、教会が社会の
中で小さい場合は少数意見として無視され、せいぜい福音伝道
の妨げになるだけであり、アメリカのように、教会が社会の中
で力を持つほど大きい場合は、世論を誤った方向に導くものに
なってしまいます。人間が神の御前に正しい信仰を持って、良
心に恥じない生き方をするという事と、社会的にあるいは政治
的に正しい判断をし、正しい選択をして行くという事は、まっ
たく別の事柄なのです。その事がわかっていないと、「クリス
チャンの大統領ならば正しい事をするに違いない」とか、「キ
リスト教政党ができれば、それが最善だ」などという、幻想を
抱く事になるのです。ましてや、教会が神の名をもって発言し、
行動していくべきだなどと考えるのは、鯨が空を飛ぶ事を妄想
するようなものなのです。



 このような幻想は、カトリック教会が教皇をキリストの代
理とし、この地上におけるキリストの権威を主張したことに、
深く関わっています。教会内の官僚機構の頂点に立ち、さらに
地上の権力を掌握することによって、文字通り、教皇は絶対の
権力を手にしたことがあります。カトリック教会には、現在で
もその時代を懐かしんでいるところがありますし、あわよくば、
その権威をいくらかでも取り戻したいと考えている事も、様々
な国々でのカトリック教会の動きを見ていると明白です。カト
リック教会は、いつも国家権力と手を結ぼうとしています。



 プロテスタント教会もまた、そのようなカトリック教会と
基本的に同様である場合が多いのです。特に伝統的キリスト教
国家と言われる国々ではそうなのです。各国の宗教迫害を逃れ
て、新天地を求めて移住者が集まって来ていた開拓時代のアメ
リカでは、ロジャー・ワグナーによって提唱された政教分離の
原則が受け容れられました。戦後、アメリカの影響を強く受け
て民主主義を模索してきた日本では、このアメリカから輸入し
た政教分離が当然の原則のように語られていますが、決して世
界の常識ではないのです。教会がこの世におけるキリストの代
理であることは、聖書によって明白です。しかし、教会の官僚
機構がキリストの代理ではありませんし、ましてや、キリスト
はこの世の事柄には敢えて干渉なさらなかった、苦しみと痛み
の救い主だったのです。第一降臨のキリストは、「カイザルの
ものはカイザルに」とおっしゃって、自分を政治の世界、世俗
の世界に引きずり込もうとした人々に、はっきり「否」とお答
えになったキリストであり、そのキリストの代理を教会が勤め
ているのです。私たち教会は、雲に乗っておいでになる、第二
降臨のキリスト、裁き主としておいでになるキリストの代理で
はないのです。このことを明確に理解しなければ、私たちは、
自分がキリストと共に裁く者であるという幻覚を抱き、とんで
もない事をしでかしてしまうのです。この世の事に関しては、
今の教会、第一降臨のインマヌエルとしてのキリストの代理で
ある教会は、何の力も持っていないのです。ただ、良心と信仰
をもって、神のみ前に生きるだけなのです。教会に必要なのは、
「知りません」「わかりません」と言える勇気です。教会が裁
くようになるのは、すべてが明らかにされて、キリストから改
めて裁きの権威を与えられてからなのです。



2.権威の源と内容 
 


 では教会は、キリストから権威を与えられたからと言って、
自動的に福音宣教に関する事柄すべてに、権威を振るう事が出
来るのでしょうか。確かに、悪霊を追い出し病を癒す権威、キ
リストのみ名によって命ずる権威、キリストのみ名をもって福
音宣教に携わる権威は与えられており、その件に関しては、あ
まり深く考える必要はないように思います。しかし、私たちが
宣べ伝える福音の権威は、私たちがキリストの名をもって語る
だけで、自動的に権威を持つものでしょうか。



 私たちは、福音宣教のために特別な召しを受けた牧師や伝
道者、あるいは宣教師たちが、「神のみ声を聞いて」説教をす
るのにしばしば出くわします。「今朝早く、何を語ろうかと祈
りながら瞑想しておりますと、神さまが語りかけて下さいまし
た」という枕詞で始まる説教を、実にしばしば聞かされたもの
です。彼らは自分が召されているという事と、神の声を聞いた
という二重の主張によって、自分たちの語ることを権威付けま
す。確かに全能の神が、何にも妨げられない自由意志によって
なさることですから、今も、み声をもってお語りになることも
あり得るでしょう。しかし、神はよちよち歩きの幼子ではあり
ません。自分に出来ることを、何でもして見たいというような
幼児性は持ち合わせておられません。神がなさることには必要
性あるいは必然性というものがあるのです。現在、神が世界中
の伝道者や牧師、宣教師たちにいちいちみ声をおかけになる、
必要性も必然性も認められないのです。神がみ声をおかけにな
ることがある事は否定いたしませんが、66巻の聖書が完結し
ている現在、人間に必要な事柄として神がお認めになった事に
ついては、すでに啓示され、霊感を受けて聖書の中に記録され
ているのですから、猫も杓子も神のみ声を聞くのは腑に落ちま
せん。「神のみ名をみだりに唱えてはならない」と旧約聖書は
教えています。もう少し、聖い神に対する畏れと誠実さをもっ
て、すなわち真の礼拝者の心をもって、自分の言葉に責任を持
って欲しいと望むものです。また、牧師や伝道者あるいは宣教
師として「召される」という体験もあり得ますが、これも聖書
の教えるところではない事はすでに述べた通りです。このよう
な聖書の権威を離れたところで、誠実さを欠いた権威付けをす
るのは、神の仕事を与る者にはふさわしくありません。



 では、福音の伝達者、宣教者としての教会を権威づけるの
は、いったい何でしょう。ある人たちは、立派な学校を卒業し、
修士号や博士号を持っていることで、権威を持っているかのよ
うに振舞います。他の人は癒しや奇跡を行うことによって、自
分には権威があるかのような言い方をします。あるいは自分が
祈れば人が倒れるとか、自分はたくさん預言をするとか言うこ
とで、あたかも権威ある者であるかのように見せかけます。大
多数の者は所属する団体から認証を受けている事を、自分の権
威とします。それらの事柄にはそれなりの価値があるかも知れ
ません。しかし、それは聖書の教えるところではありません。
パウロが、自分に授けられている権威について語ったとき、彼
が意味していたのは使徒としての権威、あるいはその教会を建
て上げた使徒のとしての権威であったと考えられます。(IIコ
リ10:8、13:10、Iテサ2:6) ただそれは教会内
の特定の権威であって、教会そのものの権威ではありません。



 福音伝達者としての教会、贖いの愛のみ業を継続する者と
しての教会を権威付けるのは、神のみ言葉です。たとえ天地が
滅びたとしても滅びることがない、神の言葉が教会の権威の拠
り所、また源です。カトリック教会では、教会が聖書を成立さ
せたと考えて、教会の権威を聖書の上に置いてきました。実質
的には信徒たちの共同体としての教会ではなく、教皇を頂点と
する聖職者の官僚機構としての教会が、聖書の上にありました。
しかし私たちは、教会が聖書を成立させたというのは皮相的だ
と考えます。聖書は聖霊によって成立させられたものであり、
教会は聖霊に動かされ用いられたに過ぎないと理解しているか
らです。私たちは聖書自体が主張するように、聖書は誤りのな
い神の言葉であると信じていますし、その誤りのない神の言葉
に、神の権威を認めています。教会は福音を宣べ伝える権威と
義務をキリストから与えられていますが、その福音とは現在の
教会にとっては、聖書に記された記録以外の何物でもありませ
ん。



 初代の教会が神の言葉として受け容れていた旧約聖書と、
神の子として信じていたイエスの生涯と教え、そしてその弟子
たちが聖霊の助けによって理解した福音を記した新約聖書が、
現代の教会の権威の拠り所です。キリストが教会に権威をお与
えになったということ自体が、聖書によって、そして聖書によ
ってのみ伝えられた事なのです。教会の権威は、霊感された神
の言葉である聖書の権威に拠るものです。教会の権威は、神の
言葉を預かるものの権威、つまり預言者の権威です。神の言葉
を預かっていなければ、権威を持たないのです。教会は、様々
な方法で啓示された福音、神の言葉が、霊感という神の手段に
よって記録された聖書によって、権威を持つのです。福音を委
ねられた教会は、霊感によって福音を記録した聖書を委ねられ
ているのです。


 しかし、教会が聖書を所持しているというだけで、神の権
威を所持しているという事にはなりません。神の言葉は正しく
理解され、正しく語られてこそ、神の言葉だからです。正しく
理解されておらず、正しく語られていない神の言葉は、神の言
葉ではないのです。勝手気ままに、自分に都合の良いように聖
書を用いるのではなく、厳密な聖書解釈による、正しい聖書の
理解を心がけなければなりません。この点においては、私たち
の仲間もかなり厳しい自己批判をする必要があると言わざるを
得ません。聖書、聖書といいながら、自分の勝手な思い込みを
聖書の中に読み込んで、聖書の教えであると主張している場合
がかなりあるからです。聖書を用いて、聖書に法って語ると主
張している私たちは、神の名によって語っているのですから、
純粋な怖れをもって、聖書を学び、語らなければなりません。



 そういう意味では、熱心さを最優先に掲げてきた私たちペ
ンテコステ派の人々は、聖書に対する真摯な学びを欠く傾向が
あります。とは言え、改革派神学を基盤にした、現在の厳密な
聖書解釈の手法の主流には、おおいに問題を感じるところがあ
ります。この手法では、パウロの聖書解釈の方法が誤りになっ
てしまい、復活のキリストがエマオの途上で、また昇天の直前
に弟子たちにお教えになった時にお用いになった、旧約聖書の
解釈の方法が受け容れられなくなってしまうからです。西欧的
な思考方法で聖書の解釈法を決定してしまうのでは、聖書の言
うところが不明になってしまうことがあるのは明らかです。こ
のあたりに、まだまだ、研究の余地が残っていると言えるでし
ょう。今ここで、改革派神学を基盤とした聖書解釈に欠けてい
るものをひとつ挙げるとするならば、それは、聖書をお書きに
なった聖霊が、お書きになった事柄の意味を明らかにしようと、
今も、私たちに働きかけてくださっているという事実を、大切
にしない事です。



 ペンテコステ派の伝統的聖書の読み方は、「素人的読み方」
です。この素人的読み方は聖書の厳密な解釈、一字一句の厳密
な学びなどには、無知と誤りを露呈しながら、大きな全体的な
意味の捕らえ方においては、ひどい誤りに陥っていないばかり
か、大要において正しい捕らえ方をしているという事です。細
部にわたる厳密な研究の大切さと必要性は言を待ちませんが、
木を見て森を見ない誤りに陥りやすいという欠点があります。
幸いペンテコステ派の主流の人々の聖書の読み方は、素人的で
非学問的でありながら、改革派やバプテスト派、あるいはメソ
ジスト派の基本的神学を受け容れつつ、それ以上追求しようと
はせずに、その枠付けの中で聖書を読んで来たために、自分に
都合が良いように勝手に読んで、細かいところでは支離滅裂な
解釈を持ち込みながらも、わずかの例外を除いては、大きな間
違いに陥らずに済んだと言えるでしょう。手前味噌な言い方で
すが、あるいはそのようなところにも、聖霊の導きと照明に期
待して祈りながら聖書を読むペンテコステ派の人々に対して、
聖霊が働きかけてくださっていたのかも知れません。



 実際、でたらめな聖書解釈による説教などを聴くと、神の
言葉を委ねられ、その権威によって立つ教会としては恥ずかし
い限りで、その誤った聖書解釈によって権威が乱用されるのを
見るのは、実に残念なことです。ただ教会は、福音の本質の理
解を「神の許容範囲の中で」最小限の誤りの範疇に止めながら、
神の権威を行使していると見るべきでしょう。私たちは、神の
言葉に立つことによって初めて権威を持つのですから、聖書の
正しい解釈、正しい理解を求めて、最大の努力をしなければな
りません。



 ペンテコステ派の、聖書理解の間違いから来る問題のひと
つに、「預言」があります。多くの人々が預言の賜物を与えら
れたと主張し、彼らは自分たちの預言に、何らかの権威を認め
ることを要求しているからです。彼らは聖書を単純に読むペン
テコステの伝統から、先ず、「預言者」という働きについて、
勝手な思い込みをしてしまいました。また、「預言」というも
のについても、「預言の賜物」の賜物についても、聖書を正し
く理解することに失敗してしまいました。その結果、現在でも、
あたかも旧約聖書の時代の預言者のように、「主はこのように
言われる」と、主の権威を持って語りだすことができる預言者
の出現を信じる事によって、預言者と自称する人たちの語る言
葉を「聖書以外の権威」として受け入れ、本当の神の言葉が教
えていない教えに、迷い出る可能性があるのです。実際、多く
の信徒たちが、誤った教職たちによってこの預言を信じるよう
に指導され、聖書によらない信仰へと誘われてしまったのです。



 伝統的福音派の教会、すなわち、正統的プロテスタント教
会にとって、聖書以外の「神的権威」を認めることは、絶対に
あり得ない事です。もしペンテコステ派の教会が、現代におけ
る神的起源の預言の存在を認めると、聖書以外の権威を認める
事になり、正統的プロテスタント教会の仲間として、認めても
らえなくなる危険性があるのです。では、伝統的、正統的プロ
テスタント教会の仲間と認めてもらうために、私たちは、現代
における預言の可能性を否定してしまうのでしょうか。ペンテ
コステ派の神学者の間にも、そのような傾向の方々がいます。
しかし、現代における神的起源の預言を認め、しかも聖書の権
威を損ねない信仰と理解のあり方を求めることも可能です。



 聖書の教えを素直に読む限り、現代においても、神からの
直接の語りかけとしての預言を否定する理由がありません。そ
の一方で、聖書に書き加えることは禁じられています。すなわ
ち、聖書と同等の権威を持つものの存在が否定されています。
言い方を変えると、聖書に従属する権威は否定されていないの
です。歴史を見ても、教会は様々な信条や信仰告白を作成して
来ました。これらは聖書のまじめな学びから導き出されたもの
とは言え、聖書と同等の権威を持つものではなく、あくまでも
聖書の権威に従属するものです。現代の預言もまた、たとえそ
れが、正真正銘、神からのものであったとしても、聖書と同等
の権威を持つものではありません。あくまでも聖書の教えの範
囲内で、聖書の教えを補佐する形で、聖書の教えに光を当てる
という意味で権威を持つものです。従って、聖書の中には含ま
れていない、新たな啓示としての預言というものについては、
厳しい疑いの目を持たなければなりません。聖書に書き加える
べき事はないからです。



 現代の預言や啓示がどれほど明瞭なものであり、素晴らし
い内容であったとしても、それらは聖書の霊感と同じ霊感を受
けたものではありません。聖書が権威を持つのはそれが啓示の
書だからでも、預言の書だからでも、キリストの言葉が含まれ
ているからでもありません。それが霊感を受けて書かれたもの
だからです。聖書の権威は霊感に拠るのです。現在の預言は、
たとえそれが、現代の電子機器によって誤りなく記録されたと
しても、その言葉は人間の表現であり、人間の言葉です。預言
の言葉、啓示の言葉が神の言葉となるのは、霊感という聖霊の
お働きによってです。聖書の言葉は、人間の選択による言葉で
はありますが、霊感によって、すべての言葉、一字一句が、神
の承認を受けた言葉、神の言葉となったのです。例えばヨハネ
は新しい天と新しい地を見て、「透き通ったガラスのような純
金」という表現を用いましたが、その表現を、聖霊は霊感によ
ってよしとしてくださったのです。今かりに、預言者と言われ
る人が同じ幻を見せられたとするならば、たぶん、異なった表
現をする事でしょう。間違いなく同じ幻ですが、それを見た人
たちによって表現は異なるのです。その表現は、幻を見た人の
ものであり、それだけでは神の絶対の権威にはなり得ないので
す。それが神の権威を持った表現とされるには、霊感が必要な
のです。霊感は単に、聖霊が著者を導いたという事ではなく、
神がその言葉の選択をよしと認められたという事なのです。現
代の預言には霊感がない、すなわち、聖霊のお墨付きがないの
です。



 私たちは、教会の権威が、神の言葉である聖書の正しい理
解と、その理解したことを明確に宣言して行く事にあると、し
っかり確認しておかなければなりません。誤った権威を主張し
たり、権威を失ったりする事がないためです。私たちは、キリ
ストから権威を託されて、派遣されているのです。私たちが語
る言葉によって、人々は永遠の命を獲得するか、永遠の死に定
められるのです。これは実に大変な権威です。












posted by MS at 00:00| Comment(0) | 聖書の学び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月31日

教会について 2−23

p144〜151


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VV.教会の働き



 教会の使命は宣教です。教会はこの使命のためにこの世に
遣わされています。他に使命はありません。教会はこれを目的
として生き、これを目指して歩みます。教会の使命は、キリス
トがこの世に送られた目的を、自分の目的として生きる事です。
それはキリストの贖いの愛のみ業を、宣教という働きで継続し
て行くことです。しかし、教会の働きは宣教だけではありませ
ん。他にもたくさん働きがあるのです。



 伝統的なプロテスタント神学では、教会の働きを、王とし
ての働きと預言者としての働きと祭司としての働きに分けるの
が一般的でした。これはキリストの働きと言われる働きを、そ
のまま教会に適応したもので、それなりに説得力があり、教会
の働きの多くの分野を説明することがますが、いささか思弁に
過ぎ聖書の素直な読み方を離れる傾向がありますし、教会の働
きを充分に説明する事が出来ません。また、この思弁的傾向と
理解の仕方を進めると、王、預言者、祭司のどの働きの分野に
おいても、社会的活動を強力に推進して行く理論的基盤が出来
上がります。特に、千年紀後再臨説を採る多くの伝統的プロテ
スタント神学では、王としてのキリストがおいでになるにふさ
わしい世界を作り上げるために、この社会活動が大切な要因と
なって来ます。



 福音派の人たちの間では、教会の働きを上、すなわち神に
対する礼拝と、内、すなわち教会内部に対する交わりと、外、
すなわちこの世に対する伝道に分けて考えるのが一般的です。
これは王、預言者、祭司という理解の仕方に比べると、思弁を
避け、より聖書の直接的教えに根ざしていると考えられますが、
不充分なところもあるように思われます。それは例えば、内、
すなわち教会内に対する働きとして「交わり」しか挙げられて
いないところです。上、内、外、という分け方に捕らわれ過ぎ
て、教会内におけるもうひとつの大切な働きである、教育とい
う点が軽く取り扱われています。教育と交わりをひとつにする
のには、少々無理があると考えられます。また、先の王・預言
者・祭司の考え方が、社会活動に流れていく傾向を持つのに対
し、外に対しては「伝道」と定義し、社会活動の入る余地をな
くしています。



 このように物事を幾つかの分野に分類して考えるのは、考
えを整理するのには役立ちますが、ともすると、その分類に沿
った考え方をしてしまい、大切な側面を見落としてしまう傾向
があります。神は教会の働きを、そのような分類に合わせてお
定めになったわけではないからです。上=礼拝、内=交わり、外
=伝道では、あまりにも単純化されていると言えます。むしろ、
上=礼拝・奉仕・交わり・伝道であり、内=交わり・教育・訓練
・礼拝・伝道であり、外=伝道・一般愛の行使・礼拝・奉仕と
いうように、複雑に絡み合い、影響しあっているものです。

 

 そのような、分類の欠点というものを理解した上で、敢え
て分類の利点を考慮して取り入れると、むしろ、私たちの仲間
内で用いられている分類の方が、聖書の教えをより良く表現し
ているように思います。それは普通、WIFEという言葉で表現し
ます。これは、礼拝=WorshipのWと、教え=InstructionのI
と、交わり=FellowshipのFと、伝道=EvangelismのEを綴り
合わせて、WIFE(妻)としたものです。この分類でも、しばら
く前の福音派の分類らしく、社会活動という一面はまったく無
視されています。だからと言って、社会活動すなわちSocial
serviceのSを入れるとWIFESという存在しない単語になってし
まい、しっくりしません。ではと言って、社会活動を伝道の中
に加えてしまうと、先に述べたように、愛の行いが伝道のため
の道具あるいは手段とされ、釣り針の隠された餌となってしま
います。



 そこで、この学びでは福音派の上・内・外という言い方を
止め、単純に神に対する働き、教会自身に対する働き、世界に
対する働きと分けて考えて見ましょう。



A. 神に対する働き



 教会の究極の存在目的は、すでに学んだように、神の栄光
をほめ称える事、すなわち礼拝をする事です。自分たちの全存
在を賭けて、あらゆる方法をもって、神を礼拝することです。
教会はこの目的のために、天地創造以前から、神のご計画の中
に組み込まれていたのです。(エペ1:4−6) 現在教会に
与えられている多くの働きは、やがて完全なものが現れる時、
必要のない働きになるでしょう。教会がこの世に派遣された目
的である宣教と言う働きでさえ、永遠の中では不要になってし
まうのです。しかし、神をほめ称える礼拝の働きは永遠に途絶
えることのない働き、究極の働きとなるのです。



 教会は、神の贖いの愛を自分自身で体験したものとして、
誰かに聞いて知った事でも、横で見ていた事でもなく、自分の
人生の中で体験した愛、受けた愛として、感謝と喜びを持って、
神を礼拝します。このような礼拝が出来るのは、すべての創造
物の中で教会だけです。天使たちでさえ、そのような礼拝は出
来ないのです。教会は、神の愛の大きさと深さと広さを、知的
に理解するだけではなく、自らの体験として理解し、とこしえ
に神を称え、礼拝をし続けるのです。



1.礼拝の内容 



 礼拝とは、万物の創造者である神を、神として認め、神と
して崇める行為です。神は神であられるゆえに、崇められるべ
きなのです。神は万物の創造以前から、三位が互いに愛し合う
永遠の方として、何にもよらず自在し、すべての存在するもの
の源であり、たとえ万物が消滅したとしてもなお存在し続ける
お方です。万物が存在し続ける限り、万物の賞賛を受けるべき
お方です。万物は神の栄光の発露として造られたのです。人間
の礼拝とは、造られた者としての自覚を持って創造者を崇め称
えることです。自分が存在し生きていることを、存在させられ、
生かされているという事を神への賛美とする事です。



 しかしクリスチャンは、単に創造者としての神を、畏敬を
もって崇めるだけではありません。自分たちは神の愛の対象と
して造られている事を知っています。罪によって神の敵となっ
てしまった後も、なおも愛され続け、贖罪の愛によって贖い出
され、再び愛の交わりの中に入れられた事も理解しています。
その愛の経験を背後に、大きな感動をもって神を愛し、感謝の
心に満ち溢れてほめ称えるのです。



 ただし礼拝というものは、単に神をほめ称える事、賛美す
る事だけではありません。ほめ称える事は礼拝の中でも最も高
い部分であり、中心であり、永遠に続く部分でもあります。そ
の中には、言葉をもってほめ称える事、歌をもってほめ称える
事、音楽や創造的な芸術をもってほめ称える事、祭りをもって
ほめ称える事などが含まれるでしょう。教会は地上の一切の戦
いから開放されて永遠の安らぎに入った後も、その全存在を、
神を称える事に費やすのです。



 とはいえ、教会がこの地上に存在している間は、まだまだ
戦いの中にあり、悪魔と戦い、自らと戦い、痛みや困難と戦わ
なければなりません。ここで大切なのは、教会はただ自分の勝
利のために戦うのではなく、神への礼拝の行為として戦い、神
への礼拝の行為として勝利するのだという事です。ダビデが詩
篇23篇で、「み名のゆえに」と歌った時、そのような礼拝を思
い浮かべていたのでしょう。またゴリアテと戦った時も、神に
対する礼拝の気持ちが伺えます。さらに教会は、この世に存在
する限りは委ねられた福音を宣べ伝えます。しかしそれもまた、
ただ単に滅び行く同胞に対する愛のためにするものではなく、
究極的には神への礼拝の行為として行うのです。ましてや、自
分たちの教会を大きくしたり、有名にしたり、賞賛を受けたり
という自己目的のために行うのではありません。教会が、小さ
な者、弱い者、虐げられている者のために働くのもまた、ただ
彼らを愛し、痛みを共有して行うのではなく、神への礼拝の行
為として行うのです。



 さらに、教会の内部で互いに愛し合い、助け合い、教え合
い、励まし合い、あるいは厳しく躾け合い、互いに成長しよう
と励むのも、すべてそれ自体を目的として行うのではなく、神
への礼拝として行うのです。まさに、生きるのも死ぬのも主の
ため、飲むのも食べるのも、結婚をするのも子をもうけるのも
主の栄光のためなのです。人間の生の営みそれ自体が、神への
礼拝なのです。またそのような意識があり、神の臨在の感覚が
あり、臨在したもう神への怖れがあってこそ、自己顕示欲を押
しのけた伝道ができ、自己賛美から開放された愛の奉仕ができ
るのです。あらゆるところに満ち溢れていらっしゃる神を想い、
太陽が昇るのを見て感動し、七色にきらめく野の花の朝露には
っとして息を潜め、虫の音に耳を傾け、満天の星を感嘆して仰
ぐ中に、礼拝があるのです。



2.礼拝と献身



 従って、礼拝とは、神の栄光のために自分が存在している
と知り、神に自分を捧げることです。それこそ、パウロが霊的
な、本来あるべき礼拝の姿であると教えているものです。(ロ
ーマ12:1) かつて、私たちが死んでいた時には、自分の
幸福のために、自分の利益のために、自己の獲得のために生き
ていました。天地をお造りになった神を知り、神を信じて生き
るようになった後も、あくまでも自分の幸福のために、神をさ
え利用しようとしたに過ぎないものです。幸せになりたい、救
われたい、平安な暮らしがしたい、問題を解決してもらいたい
と、言うならば自分を獲得するために神を信じたのです。あく
までも自分が中心で、神は、自分の幸せに奉仕をするため、あ
るいは利用する多くの要因のひとつとして、自分の周りにある
ものに過ぎなかったのです。その信仰哲学は、悪魔と同じでし
た。(ヨブ1:9−10) 「私たちはいたずらに神を信じな
い。神が私たちの手の業を祝福してくださるから、神を信じて
いるのだ」と考え、「神が祝福を取り除かれたら、私たちも直
ちに神を信じるのをやめよう」と考えていました。 



 しかし、そのような低い信仰の状態にあっても、神は忍耐
を持って私たちを教え導き、正しい信仰のあり方へと入れてく
ださいます。その正しい信仰のあり方が、自分自身を捧げる事
であり、それこそがまた、本来あるべき姿の、正しい礼拝であ
るという事です。この自分を捧げることこそ、人生の方向転換
です。クリスチャンになるということも、その人間の世界観、
人間観、価値観、宗教観の大きな変化ではありますが、自分を
世界の中心に据え、神さえも周辺に置き、すべてを自分中心に
考え、判断し、行動してきた生き方から、神中心の考え方と行
動に変えるのは、さらに大きな人生観の変化です。自分が中心
ではなく、神が中心になるのです。これをパウロは、「心を新
たにすることによって造り変えられ」と、表現しています。多
くの聖書翻訳者の理解が正しいとすると、心を新たにするのは
人間の側の行為で、それを受け止めて作り変えてくださるのは
神の行為です。  そしてこれは、救いの経験の後、クリスチャ
ン人生の成長段階で起こる事です。



 ですから本物の礼拝、真に霊的な礼拝、あるべき姿の礼拝
は、礼拝する側の自己放棄から始まります。ちょうど、24人の
長老が自分たちの冠を投げ捨てたように、(黙4:10)礼拝
者たちは己の冠を投げ捨てて、始めて真の礼拝者になるのです。
伝道の功績も、牧会の功績も、神学の分野の功績も、聖書学の
分野の功績も、あるいは音楽の分野の功績も、その他どのよう
な功績も、その冠を頭に頂いたままでは真の礼拝者にはなり得
ないのです。その冠を投げ捨てられない心でする奉仕は、しば
しば大きな争いと軋轢の原因となって来ました。たとえ、牧師
になり宣教師になっても、この心の一新によって作り変えられ
る体験、己の冠を投げ捨てる経験をしていない者は、いつまで
も、神の栄光を現す事よりも自分の功績を評価してもらうこと
に熱心になり、競い合いと、争いと、やっかみと、中傷の火種
を作り、主の働きを傷つけ、ご栄光を損ねます。しかもこの真
の自己放棄、本物の謙遜というものは、一度だけの事で終わる
のではなく、毎日まいにち、しかも一日に何度も繰り返さなけ
ればならないものなのです。

 
 
 正しい自己放棄を経験して、自分中心の人生観から神中心
の人生観に転換してこそ、本当の意味で、神に仕える事が出来
るのです。このことが徹底しないままで奉仕を続けていくと、
教会の中に虚栄心による妬みといがみ合いが起こり、分裂と分
派に進んで行くのです。個人主義に根ざしたアメリカなどの文
化では、独立あるいは、単立という言葉がもてはやされ、多く
の独立教会、単立教会が存在します。その影響で、日本でも、
あたかもそのような教会が、麗しいものであるように勘違いし
ている人々がいますが、多くの独立教会・単立教会は、正しい
自己放棄と献身の出来ていない働き人が作り出したものです。
多くの場合、彼らは大変謙遜で、神さまのみ声には聞き従いま
すが、キリストのみ体である教会の声に従うことはないのです。
もっと端的に言うと、「鶏頭となるも牛後になるな」という精
神に満ちているのです。本当にキリストの精神を持つならば、
牛後どころか鶏尾になっても良いはずですが、それが出来ない
のです。共同体としての教会の理解が出来ていないのです。



3.共同体としての礼拝



 教会は礼拝をする民です。個々人が礼拝することは当然で
すが、教会とはひとつの民として礼拝をするものです。民とし
てと言った場合、礼拝する個人がたくさん集まるという事では
ありません。西欧的な個人主義の中では、個々の人格を持った
個人の集合、自由意志によって集まるの個人の集団が「民」で
すが、共同体文化の中では、個人がその中に生まれ育つ人々が
「民」なのです。民の中に生まれたものは、その民の一部にな
るのです。個人は民を選ぶ事が出来ず、その中に生まれるので
す。従って、共同体文化の中で形成された教会は、礼拝をする
人々が自由意志で集まって、礼拝する集団となった民ではあり
ません。神によって生まれた者は、神の民、神の家族の中に生
まれたのです。つまり、個々のクリスチャンは礼拝をする民の
中に生まれ、礼拝をする民の一部となったのです。




 個人主義の国アメリカは、憲法によって成り立つ国です。
アメリカという国を成り立たせているのは、人種でも、原語で
も、文化でもなく、合衆国憲法です。それにも拘らず、アメリ
カという国土と領空に生まれた者は、その背景と理由を問わず、
アメリカの国籍を持つことができます。アメリカに生まれれば
アメリカ人なのです。これは、三代も4代も前から日本の国土
に住んでいても、日本国籍を取る事の出来ない人がいる日本と
大きな違いです。日本では日本人の血が国籍感覚を決めるとこ
ろがあります。ですから、祖父母の代からブラジル住んでいて、
ブラジルの国籍を持ち、ポルトガル語を話していても、血が日
本人の血であるため日本人であると勘違いされて、「日本人の
くせに日本語がわからないとは」と非難されるわけです。どち
らにしても、子供は自分の所属を選択する事が出来ません。



 クリスチャンは礼拝する民、神の民の中に生まれたのです。
ですから、神を礼拝する民の中で、神を礼拝する民の一部とし
て、神を礼拝するのが当然なのです。それはアメリカの国土と
領空に生まれた者はすべて、アメリカ国民して認められ、アメ
リカ国民としての権利を有するのと同じように、そしてそれ以
上に、神の国に生まれた者は、神の国の国民としての国籍と権
利を持って礼拝するのです。これが公同の礼拝と言われるもの
です。単に、礼拝する個々人が任意で集まった礼拝会が、公同
の礼拝なのではありません。ひとりひとりが、自分は礼拝をす
る神の民という共同体の中に生まれた者であり、この共同体か
ら切り離されることはあり得ないという強い自覚と意識をもっ
て、共に礼拝するのです。神の家族として、キリストのみ体と
して、不可分の者として共に礼拝をするのです。同じ神を信じ、
同じキリストの血の贖いを受け、同じ聖霊によって生かされ、
同じ愛と同じ目的を共有し、同じ永遠のみ国を受け継ぐ者とし
て、そのような自覚を持って、ひとつにしてくださったひとり
の神を崇めるのです。



 ですから、クリスチャンが礼拝会に集まるのは、個々人の
礼拝として集まるのではなく、礼拝会に集まるのです。共に礼
拝するために集まるのです。自分たちが主にあってひとつであ
ることを確認するために集まり、ひとつの民として礼拝するの
です。そこで大切なのは、主にあってひとつであるという、強
烈な思いです。互いに憎み合い、いがみ合っていては、この公
同の礼拝は不可能なのです。たとえ個人的にはどのように素晴
らしいささげ物を携えて来ていても、もし、兄弟と仲たがいし
ているのを思い出したら、そのささげ物をそこに残して、まず、
兄弟と和解しに行くことが大切なのです。兄弟をさげすみ、嫌
い、憎み、ないがしろにし、あしざまに言いながら、真実の礼
拝会はあり得ないのです。自分のために命を捨ててくださった
主を愛しているならば、主が命をお捨てになるほど愛しておら
れる人間をさげすみ、嫌い、憎み、ないがしろにし、あしざま
に言うことは出来ないのです。



 それはまた、クリスチャンたちが協力して神に奉仕をする
時、そこに共同の礼拝が形成されるという事です。クリスチャ
ンがキリストの名によって集まり、キリストの名によって協力
して働く時、たとえそれがひとつの地域教会であろうと、ある
いは管理上のひとつの教会であろうとも、あるいは有機的教会
としてであろうと、そこに奉仕という公同の礼拝が成立すると
いう事です。キリストが「2、3人私の名によって集うところ
には、わたしもその中にいる」とおっしゃったとき、ひとりだ
けの時にはそこにおられないとおっしゃったのではなく、特別
な意味において、臨在してくださるとおっしゃったわけですが、
その特別な意味とは公同性ではないかと考えます。たとえわず
かな数のクリスチャンであっても、主にある信仰に一致を具体
的に表現するとき、たとえまだまだ未成熟であり胚芽の状態で
はあっても、そこには公同性が形成されるからです。ですから
公同の礼拝には、質においても価値においても、個人の礼拝と
は異なるところがあるのです。それは私たちが判断する価値で
はなく、礼拝をお受けになる神がそのように判断されているの
です。



B. 教会自身に対する働き



 教会の働きの第二の分野は、教会自身に対する働きです。
教会は、すでに学んだように有機体ですから、すべての部分が
有機的に繋がって、それぞれの働きが互いに影響し合い、補佐
し合っていますので、それぞれの働きを別個に取り上げて語る
ことは困難ですが、一応、ここではふたつの分野に大別する事
が出来るでしょう。それは、交わりに関する働きと教育に関す
る働きです。












posted by MS at 00:00| Comment(0) | 聖書の学び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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