2010年10月27日

教会について 2−R

p115〜121


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VU.教会の使命



  すでに、教会の究極の使命は、神の栄光を現す事であると
学びました。(エペ1:6、12、14) しかし、教会が今
のこの世に存在している目的、すなわちこの世に遣わされてい
る使命は、宣教であるとも学びました。教会は遣わされるため
に召されたものであり、宣教こそが、教会という共同体の「こ
の世この代」における共通目的なのです。教会はその本質にお
いて人為的組織ではなく、キリストによって、目的に沿って建
てられたものであり、この教会にバプタイズされた者は、キリ
ストがお定めになったこの共通目的のためにバプタイズされて
いるのです。



  甦られたキリストは、間もなく誕生する教会の土台とも中
核ともなる、弟子たちの一団に対して、幾度か派遣の言葉を与
えておられます。マタイは、「あなたがたは行って、あらゆる
国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によ
ってバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいたす
べてのことを守るように、彼らを教えなさい」という命令を記
録し、(マタイ28:20)マルコは、「全世界に出て行き、
すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」というお言葉
を書き残しました。(マル16:15) ルカは「罪の許しを
得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人
々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です」
という教えを書き伝え、(ルカ24:47−48) ヨハネは、
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがた
を遣わす」という宣言を、読者に伝えようとしています。(ヨ
ハ20:21) ヨハネはとくに、キリストが大祭司の祈りの
中で、父なる神に向かって語りかけられた同じ内容の祈りを書
き止めていますので、このキリストの宣言によほど重要な意義
を感じていたのでしょう。(ヨハ17:18)



  これらのキリストの派遣のお言葉は、直接的には、当然、
エルサレムから全世界への派遣であったと考えるべきですが、
キリストがただそれだけの意味でおっしゃったようには思えま
せん。キリストの派遣は、単に場所的な意味での派遣を超えて、
もっと本質的な、霊的な意味での派遣であったように思われま
す。すなわちキリストは、神の国に召し入れられて神の国に属
するものとなった教会を、改めてこの世に送り返しておられる
のです。それはまさに、羊たちを狼の群れの中に遣わすような
危険なことではありましたが、そのようにしなければならない
理由がありました。それが福音の宣教でした。
  


  マタイとマルコとルカは、表現こそ異なりますが、福音宣
教ということを明確にしたキリストのみ言葉を書き残していま
す。ヨハネは少しばかり視点を変えて、キリストご自身が、こ
の世に派遣された時の姿に焦点を当ててお語りになった、含み
のあるお言葉を記録しています。ヨハネの記録したキリストの
み言葉を読むと、まず解ることは、教会は誕生前から遣わされ
ていること、あるいは遣わされるために誕生させられているこ
とです。そしてその遣わされ方は、「キリストが父なる神に遣
わされたように」という事です。ある人たちは、この「ように」
という言葉を、単に遣わされるという事が同じであるという意
味に取ります。類似しているのは遣わされるという事だけだと
理解するわけです。あるいはせいぜい「だから」という程度の
意味合いに考えます。「父がわたしをお遣わしになったのだか
ら、わたしもあなたがたを遣わす」というほどの事で、あまり
深い意味がないというのです。しかし、それではヨハネがこの
キリストのお言葉を、表現こそ違いますが、二回に渡って記録
した目的が軽視されているように思えます。ヨハネはこのお言
葉に深い意味を見たために、わざわざ二度も記録したと見るべ
きでしょう。ヨハネは、教会がキリストの派遣と同じ理念と原
則によって、同じ目的、同じ条件、同じ姿で遣わされていると
語っているのです。



A.キリストの派遣目的と同じ目的 



  キリストが父なる神に遣わされた目的は、人間を救うこと
です。キリストを通し、贖罪の業をもって、神は人間を救おう
となさったのです。キリストはこの地上で様々なお働きをなさ
いましたが、この地上に降り立ってくださったのは、あくまで
も贖いのみ業をもって人々を救うためでした。言い方を変える
ならば、キリストがこの世においでになった目的は、神の贖罪
愛の遂行のためであり、それ以外の何物でもありませんでした
。これが伝統的な福音派の教会の考え方です。先に触れた、キ
リストがこの地上で成し遂げようとされたもうひとつのお働き、
すなわち教会を建て上げることも、実は、教会を通して贖いの
福音を全世界に行き渡らせるためであり、贖いの愛の遂行の範
囲でのことなのです。




1. 慈善的社会活動



  とは言え、確かにキリストは、贖いの愛には直接の関わり
を持たない事もなさいました。これもすでに述べたように、キ
リストが病の者を癒し、悪霊に捕らわれていた者を開放した働
きは、贖いの働きとは関係のないものでした。またキリストは、
常々、貧しい人々を助けるために金品を与えていたようです。
問題は、キリストがこのような贖いのみ業とは関わりのない慈
善的社会活動を、ご自分の目的としてこの世においでになった
のかどうかということです。キリストが、贖いのみ業の遂行の
ためにおいでになったということは、新約聖書でくり返し教え
られています。しかし、キリストが慈善的社会活動のためにこ
の世においでになったという言い方は、ただの一度もされてい
ません。キリストは福音を宣べ伝えるために、村々を行き巡ら
なければならないとおっしゃいましたが、病んでいる者を癒す
ために、貧しい者を助けるために、町々を訪れ、村々を訪ねな
ければならないとはおっしゃっていません。(マル5:38)



  このようなキリストの態度を象徴的に示すのが、5つのパ
ンと二匹の魚をもって5,000人を養ったあと、いまだ興奮冷め
やらぬ弟子たちに対して、まるで頭から冷水を浴びせるように
おっしゃったお言葉です。「なくなる食物のためではなく、い
つまでも保ち、永遠の命にいたる食物のために働きなさい。そ
れこそ、人の子があなたがたに与えるものです。」(ヨハ6:
27) キリストは、4つの福音書すべてが記しているこの記
念すべき奇跡を行われた後、それが「なくなる食物のため」の
働きであり、本来、ご自分の目的とする働きではないことを示
し、弟子たちがそのような働きを目的化し、主体を賭けて働く
べきものではないことをお教えになったのです。



  この一連の物語全体をよりよく理解するためには、弟子た
ちを始め当時の人々が、5つのパンと二匹の魚の奇跡をどのよ
うに受け取っていただろうと、考えてみることが役立ちます。
キリストは純粋に哀れみの心から、疲れ切った空腹の人々に食
べ物をお与えになっただけのようですが、そこに居合わせた人
々にとっては、この奇跡はまったく異なった意味を持っていた
と考えられるのです。



  その日その日の食べ物が与えられるようにと言う、主の祈
りの一節がたいした意味を持たない、21世紀の富める国に生
きている私たちには、この奇跡の影響の大きさはなかなか解ら
ない事です。もしこれと同じ奇跡が、今、東京の公園か競技場
で行われたとしたら、どうでしょう。どう表現してもおいしく
ない粗末なパンと、味付けもなっていない雑魚の干物をもらっ
て、喜ぶ日本人がひとりでもいるでしょうか。どうやら水もぶ
どう酒もなかったようですから、飲み込むのに、さぞかし苦労
をしたことでしょう。しかし、乏しい国の貧しい人々の間の事
です。お腹をすかせていた人々は歓声を上げて喜びました。弟
子たちはパンと魚を配りながら、このような奇跡に関与できた
ことを非常に誇りに思ったことでしょう。人々の驚きと感動、
喜びと感謝の言葉に、有頂天になったことでしょう。できれば、
このような働きをいつまでも続けたいと思ったことでしょう。
自分たちの受ける尊敬もいよいよ大きくなっただろうと、秘か
な嬉しさも込み上げてきたでしょう。



  現在の日本の教会は、わずかの例外を除いて、日本という
国の中にあっては、貧しさの底辺に生きるものです。しかしそ
のような教会でも、国家全体が極度に貧しい開発途上国へ赴き、
その中でも底辺に生きている人々に食料を分け与え、衣料品を
配り、井戸を掘り、学校を建て、人々の喜ぶ顔を見ることがで
きます。そして、そのような事が出来ることに自分たちの存在
意義を感じ、感動し、達成感に浸り、満足することができます。
確かに、人々の喜ぶ顔を見る事は、この上ない幸せです。キリ
ストの弟子たちが2,000年前に味わった喜びを、私たちも味わ
うことができます。しかしキリストは、弟子たちがこのような
働きに命を賭けることを、厳しく禁止されたのです。



  さらにキリストのこの奇跡を、当時の人々がどのように受
け取ったかを理解するためには、当時の政治情勢、社会情勢と
いうものを知らなければなりません。何世紀にも渡って、いく
つもの強力な国家によって蹂躙され、植民地の屈辱を忍んでき
た誇り高いイスラエルの民衆にとって、王とも救い主とも将軍
とも期待する人物が、無限に食料を供給することが出来る奇跡
を行ったのです。現代でも、通常兵器の戦闘では、食料の供給
が作戦上最も大切な要素です。ましてや当時の戦闘では、食料
の供給が勝敗を決定することがしばしばだったのです。つまり
、キリストは食料を無限に提供するというこの奇跡で、人々の
期待、ローマに敵対して軍を起こす救い主への期待を、嫌がお
うにも高めてしまったのです。だからこそこの奇跡の直後、人
々は無理にでもキリストを王として立てようと、捜し回ったの
です。しかしキリストは、そのような人々から身を隠してしま
われました。また、そのような期待は当然、イスラエルの復興
を誰よりも望んでいた弟子たちの中にも、大きく膨らんでいま
した。その弟子たちに向かってキリストはおっしゃったのです。
「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいの
ちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなた
がたに与えるものです。」



  このようにキリストは、ご自分がなさった、社会活動に繋
がる大きな奇跡の重要性を、自ら否定するようなことをおっし
ゃったのです。そこで、私たちはキリストの慈善的社会活動を
いかに理解すべきか、ということが問題になります。ある人々
は、キリストがこのような慈善的社会活動をなさったのだから、
わたしたちの教会もまた、同じようにしなければならないと主
張し、教会を挙げてそのような活動に取り組もうとします。他
の人々は、福音宣教のみに集中すべきだと主張しながら、慈善
的社会活動を無視することに何となく後ろめたさを感じていま
す。特に、ロ−ザンヌ会議以降のここ30年ほどは、この会議
が採択した宣言に影響されて、福音派の内部でも社会活動を教
会の存在目的として捉える人々が多くなり、福音派全体に少な
からぬ影響を及ぼす一方、社会派と言われる教会との交わりの
窓口を広げています。このような中にあって、私たちは福音派
としてのきちっとした考え方、すなわち聖書に立脚した正しい
理解を持っていなければならないのです。それを怠ると、単に、
世界的な超教派会議で、著名な人々が、社会活動を教会の宣教
の重要な一面であると位置付けたという理由だけで、それにな
びいてしまう危険に陥るのです。大切なのは、著名な人々がど
のように言うかではなく、聖書はどう語っているかなのです。



  私たちは社会派の主張や、社会派の人々の考え方を取り入
れた人々の主張にも、耳を傾けます。しかし、それが聖書の教
えと合致していない限り、同調する必要はまったくありません。
問題は、彼らがどれほど論にたけ、多くの知識を披露するかで
はありません。私たちが彼らより論にたけ、多くの知識を持っ
ている必要もないのです。重要なのは、その言わんとするとこ
ろが聖書に合致しているかどうかなのです。注意しなければな
らないことは、社会派の人々や彼らに影響を受けた人々は、し
ばしば私たちと同じ語彙を用い、同じことを言っているようで
ありながら、その語彙の意味がまったく異なり、別のことを言
っていることがあるという事実です。彼らの言う神は私たちの
信じる神と異なる場合があります。彼らの言うキリストも私た
ちの知っているキリストと同じとは限りません。神の愛、キリ
ストの愛と言っても、私たちが言う神の愛やキリストの愛では
ないことが多いのです。私たちは社会派の人々の多くが、啓蒙
主義、合理主義の流れに乗り、聖書の奇跡、神の絶対性、キリ
ストの神性、身代わりの死、福音の唯一性などを信じることが
出来なくなってしまい、他に信じるべきもの、自分たちが命を
賭けることの出来るものを、探しているのだということを理解
しなければなりません。福音の価値、唯一性が信じられなけれ
ば、それに命を賭けることは出来ません。そして、彼らが代わ
りに探し出したのが、近代ヒューマニズムの後ろ盾を得た社会
活動なのです。



  ですからこの教会論も、現在の世界の必要は何かとか、世
界の動きはどのようになっているのかなどということから、教
会について、またそのあり方や活動について論じるものではな
く、あくまでも聖書の権威を信じ、聖書はどう語っているかと
いうことを考え、論じ、その上で、現在世界のあり方に教会は
いかに対応すべきかを語るものなのです。

  聖書を読む限り、キリストがこの世界においでになった理
由、目的は明白です。それは贖罪愛の遂行です。ただキリスト
は、その贖罪愛の遂行の途上、贖罪愛とは関わりのない、様々
な慈善的活動も行われたということです。このような慈善活動
を、私たちは神の一般愛の表現と理解すべきです。私たちはア
ウグスチヌスが説明したように、神は三位一体の神であるから、
永遠の昔から、神以外の何物も存在しなかった天地創造以前か
ら、愛の神として存在しえたと信じています。(ヨハネ17:
24) その神がご自分の栄光と権威の表現としてだけではな
く、愛の表現として天地万物を創造し、最後に最も高度な愛の
表現、また対象として、ご自分に似せて人間をお造りになった
と信じています。この愛が、神の一般愛です。しかし、人間の
罪がこの神の愛を妨げ、本来の形では人間に届かなくしてしま
ったのです。そして神は、人間に対する愛の交わりと表現を回
復するために、特別な手段をお取りになりました。それがキリ
ストの贖罪による罪人の救いです。この罪人の救いのために取
られた、贖罪という手段に現されたのが贖罪愛です。



 神の一般愛は、より広いものです。それはまた根源的なもの
であり、ヨハネが神は愛であると言ったときの愛です。しかし、
神が満足し納得される形でその一般愛が人間に注がれるために
は、まず、十字架に示された特殊な愛である贖罪愛によって、
罪の問題が解決されなければならなかったのです。贖罪愛の適
応なくしては、一般愛の本来の姿は示し得ないのです。今のこ
の罪の世界においては、贖罪愛が一般愛に先行するのです。キ
リストがこの世においでになったのは、神の一般愛を、人間と
彼らが住む世界に充分に行き渡らせるために、贖罪愛をもって
罪の問題を解決するためだったのです。すなわち、キリストの
降臨の目的は、贖罪愛の遂行だったのです。



  しかし、キリストが神の本源的性質である愛としておいで
になった以上、その愛、すなわち一般愛は、行く先々で表現さ
れて行くことになりました。キリストが貧しいものを哀れみ施
しをされたのも、病の者を癒されたのも、人々に取り憑いてい
た悪霊を、権威を持って追い出されたのも、この一般愛の表現
でした。また空腹な者たちに同情して食べ物をお与えになった
のも、一般愛の発露でした。キリストは行く先々でご自分の愛
の性質を表現して行かれましたが、それは、キリストがこの世
においでになった目的ではなかったのです。目的はあくまでも、
十字架の身代わりの死によって罪の問題を処分する、贖罪愛の
遂行だったのです。



  教会が、キリストが遣わされたように遣わされているとい
う事は、キリストと同じように、贖罪愛の遂行を目的として、
そのために遣わされているとことです。教会の目的、存在理由
は、キリストの贖罪による救いの福音を宣べ伝える事によって、
贖罪の愛を継続する事なのです。しかし教会は、その福音宣教
の過程において、キリストと同じように、一般愛を表現して行
きます。それだけでなく、キリストの贖罪愛を通し、神の一般
愛を一段と深く広く体験した教会は、その愛と新たな命の力に
満ちて、より大きく愛を表現出来るようになって行きます。愛
は、惨めな状態にある者に遭遇すると見過ごしには出来ません。
彼らに心底から同情して共に痛むという反応をし、さらに助け
ると言う行為を生み出します。そして、その行為のために命を
失うような事があったとしても、後悔しません。愛の行為はそ
れが愛の行為であるだけで尊いのです。たとえ、その愛の行為
のために目的である贖罪愛の遂行が妨げられたとしても、後悔
は不要です。愛の行為はそれだけで尊いのです。また、すべて
をご存知の神が、すべてを治めておられるのです。それが愛の
行為であれば、たとえ未熟で愚かな行為であったとしても、神
はそれを意義あるものとしてくださるのです。(マタ26:6
−13) しかし、教会はこの一般愛を目的として存在するの
ではありません。それを目的として生きるのでもありません。
一般愛は教会の生きる姿であり、贖罪愛は教会の生きる目的な
のです。教会は生きる姿を損ねてはなりません。そして、生き
る目的を失ってはならないのです。姿を目的にしてはならない
し、目的を姿にしてもならないのです。











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