2010年10月28日

教会について 2−S

p121〜128


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2.正義の戦いとしての社会活動

  

 では、教会が政治的社会的分野に活動範囲を広げることに
関しては、どのように考えるべきでしょうか。慈善的活動に関
しては、神の一般愛という視点から、一応の理解を得ることが
出来ましたが、教会は、社会派の人々が主張するように、ある
いはローザンヌ会議の宣言のように、社会悪に対して戦う使命
を帯びているものでしょうか。教会は社会悪に対して積極的に
戦いを挑まなければ、本来の教会の姿を失ってしまったことに
なるのでしょうか。あるいは、教会が社会悪に対して戦いを挑
むことは、聖書的に正しいことなのでしょうか。



 社会派の中には、単なる慈善的社会活動に限度を感じ、慈
善を必要とする人々を作り出している社会悪や政治悪と戦う、
戦闘的社会活動にのめり込んで行った者もたくさんいました。
中には単なる理論闘争にも満足出来ずに、様々な意思表示活動
を起こし、ついには武力闘争さえ擁護し、自ら武器を取った者
さえ現れたのです。この過程の中で見失われていたものは、し
っかりと聖書に学び、聖書に聞くという態度でした。しかし、
すでに聖書の絶対的権威を認められなくなっていた彼らは、聖
書に聞く代わりに、聖書を、自分たちの都合の良いように用い
てしまいました。啓蒙思想と合理主義に感化されて、聖書に対
する怖れを失っていた彼らであったために、そのようなことを
容易に行うことが出来たのです。もちろん、すべての社会派の
人々がそうなのではありませんし、福音派との交わりがまった
く不可能というわけでもありませんが、福音派の人々が、聖書
の絶対性と福音の唯一性を信じられない人々と交わりをし、共
に働くのは並大抵の事ではありません。



 繰り返しますが、私たちは現代社会の状況やその必要性か
ら、教会のあり方やその活動について論じるのではありません。
あくまでも、聖書がどう語っているかを学び、自分たちの教会
のあるべき姿を描き出し、活動すべき活動が何であるかを知ろ
うとするものです。時代は変わります。状況も変わり、必要も
変わります。教会のあり方自体や基本的活動が、そのように変
わり行くものに対応して決定されなければならないとしたら、
教会の本質が普遍・不変ではなくなってしまい、聖書が教える
教会ではなくなってしまうのです。まず、聖書が教える普遍・
不変の教会があり、その教会が社会の状況と必要に対してどの
ように呼応していくかが大切なのであり、決して、社会の状況
や必要性が教会のあり方や活動を決定するのではないのです。



 では聖書は、教会が社会悪に戦いを挑むべきであると、明
確に教えているでしょうか。「単に、抑圧されている人々に慈
善的活動をするだけでは、いたちごっこに過ぎない。我々は、
抑圧されている人々を生み出している社会の構造や政治のあり
方に積極的に発言し、必要ならば、闘争もいとうべきではない」
というような主張は、はたして聖書の教えに合致するものでし
ょうか。「教会は正義の神の代弁者として、あたかも旧約時代
の預言者がそうであったように、社会の悪を糾弾する活動をす
べきである」という尤もらしい主張は、聖書の教えから導き出
されたものでしょうか。



 先に述べましたように、これらの主張は聖書の正しい学び
から出てきたものでは決してありません。少なくても、現代の
聖書神学的な、より厳密な聖書の解釈から生まれてきた聖書の
理解ではなく、聖書を自分たちの主張に合わせて「使用する」
やり方から生まれて来た、前近代的理解なのです。もう一度明
確にしておきますが、私たちはそのような聖書の用い方に反対
し、そのような用い方から生まれてきた結論には、たとえそれ
が結果として正しい結論であったとしても、納得しないのです。



 まず、教会が社会悪と戦わなければならないという教えは、
聖書の中に見出せないことを明確にしておきましょう。社会派
の人々は、キリストが全世界に出て行って福音を宣べ伝えるこ
とを明確にお教えになり、新約聖書全体が福音の宣教を教会の
使命として教えているにも拘らず、福音宣教を意味のない事柄
として退け、宣教師の引き上げを主張したことを覚えておかな
ければなりません。もちろん、社会派の人々すべてがそれに賛
成したのではありませんが、そのような聖書の読み方をする傾
向があるという事実は否定出来ません。聖書の明確な教えをい
とも簡単に否定出来る彼らですから、聖書に書かれていない事
柄を、聖書の中に読む込む事もまた自然であり、聖書が命じて
いない社会悪に対する戦いを教会の使命であると、聖書を持っ
て主張することも可能なのです。



 教会は、社会悪と戦うようにという使命を与えられていな
いだけではなく、社会悪と戦うべきであるという教えも与えら
れていません。ですから、教会には何が社会悪であり何が社会
悪でないかという判断能力も与えられていません。パウロは、
教会の外部の人々を裁くのは私たちのすべき事ではないと、は
っきりと述べています。(Iコリ5:12−13) パウロが
語った文脈を読むと、世の中の不品行な者、貪欲な者、偶像を
礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者を裁くの
は、教会のすべき事ではないということです。それらの人々の
裁きは神に任せておきなさいという事です。教会は、やがて、
世界だけではなく、み使いをも裁くようになるのですが、今は
そうではないのです。



 ところが教会は、歴史的に、世俗の権力も手にする事によ
って自らの能力を過信し、委ねられていない権威を掌握し、任
せられていない働きを遂行しようとしました。しかし、任せな
かった働きのための能力を、神は教会にお与えになっていない
のです。教会はこの世の世俗的な支配者としての能力も、社会
悪と戦う能力も与えられていないばかりか、社会的な問題に関
する善悪の判断能力さえ、与えられていないのです。ですから
教会は、社会的問題に関しては非常に大きな誤りと、過ちを繰
り返してきました。十字軍や宗教裁判を持ち出すまでもなく、
近代では、先進国の植民地政策への積極的参画、アメリカを主
な舞台とした奴隷問題や黒人問題への対応、ドイツ教会のヒト
ラーへの追従、アメリカ福音主義教会のベトナム戦争をはじめ
とする数々の戦争への積極的賛同があります。教会が自らに与
えられていない能力を用い、権力を行使しようとした時、悲劇
が繰り返されて来たのです。このような外部の事柄に関しては、
教会は善悪の判断能力を与えられていないのです。ですから、
このような事柄に関して、教会の中に基本的理解の一致さえ出
来ていないのです。



 イスラエルの預言者たちが、「主は言われる」と叫んで、
社会悪・政治悪に腐敗したイスラエルに対して、神の代弁者と
しての役割を果たした事は良く知られています。しかし、教会
は、果たして旧約の預言者のこの働きを直接引き継ぐものでし
ょうか。直接引き継ぐのだという教えは聖書のどこにもありま
せん。また、預言者たちが語った対象は、あくまでも代理神聖
政治を取っていたイスラエルであり、他民族について語られた
部分でさえも、彼らがイスラエルに関わる範囲で語られている
のです。つまり、旧約の預言者の働きは、神に救い出された歴
史を持ち、神を前提とした世界観と人生観を持っていた、神の
民イスラエルに対するものであり、一般諸国、一般社会に対す
るものではないのです。ですから、イスラエルの預言者の義の
叫びの働きを、現代社会や国家に対する教会の働きとするのは、
完全な間違いです。ヨナの物語でさえ、表面的には、アッシリ
ヤの首都ニネベに住む人々の悪に対する、神の義と裁きのメッ
セージのように受け取られますが、本質はむしろ、イスラエル
に敵対する異邦人に対してさえ、哀れみをお持ちになる神の愛
の表示にあると思われ、イスラエルを通して啓示される神の救
いの歴史の中で理解されるべきものです。



 さらに、教会がキリストの大使であり代理であり、キリス
トの使命を継承するものであることは確かですが、キリストの
使命を先取りするものではありません。世界を糾弾し、お裁き
になるキリストは、2,000年前にベツレヘムの馬小屋でお生ま
れになった謙卑のキリストではなく、やがて雲に乗っておいで
になる栄光のキリストです。私たち教会は謙卑のキリストの代
理であり、キリストが遣わされたように遣わされているのです
が、栄光のキリストの働きを先取りして、栄光のキリストのよ
うに遣わされているのではありません。パウロは、確かに教会
が裁く者となると語っていますが、それはあくまでも「やがて」
であり、キリストが雲に乗っておいでになる時に続く事なので
す。



 謙卑のキリストは、社会を糾弾する働きをなさいませんで
した。キリストが住んでおられた当時のイスラエルには、あら
ゆる社会悪が満ちていました。植民地であった国家には腐敗が
蔓延していました。巷には差別と抑圧が横行していました。行
く先々で貧しい者を助け、小さな者を保護する慈善的働きでは、
まさに焼け石に水の気休め に過ぎなかったはずです。しかし
キリストは、ご自分の慈善的働きを組織化して、もっと大きく、
効率的にし、社会的にインパクトを与え、より多くの人々がこ
の働きに賛同し、社会を作り変えて行くようにしようなどとは
なさいませんでした。キリストの慈善的社会活動は、あくまで
も、行く先々で遭遇する人々を対象としたものだったのです。
ましてや、社会的弱者を生み出している社会構造を変えようと
か、政治体制を変えようとか、社会や政治を牛耳っている者に
対して、大衆運動を起こして戦いを挑んで行こうなどとは、ま
ったく考えておられなかったと断言出来ます。キリストは、ロ
ーマの兵士たちがイスラエル人たちを思いのままに徴用し、労
働させているのを幾度もご覧になったはずです。そして、その
ような現実に抗議をし、反対運動を起こし、改めるように働き
かけたりなどはなさいませんでした。かえって、「無理に1里
行かせようとする者には、2里行きなさい」とおっしゃって、
文句を言わず、ローマ軍の荷物を背負って、言われた以上の距
離を運んでやるようにお教えになったのです。キリストは、あ
くまでも贖罪愛の遂行を目的としてお働きになったからです。



 また、パウロやペテロを始めとする、新約聖書の時代の人
々や当時の教会を調べてみても、社会悪に戦いを挑んで行く姿
からは程遠いものです。宗主国ローマは、当時としては非常に
寛容であったとは言え、とても残忍で、あらゆる非人間的な政
策と差別に満ちていました。社会の貧富の差は激しく、民族間
の差別もありました。奴隷はごく一般的であり、非人道的取り
扱いが日常の事でした。女性の社会的地位は低く、人権が無視
されていました。肉体的・精神的ハンデイキャップを負った人
々は、社会的にも経済的にも宗教的にも差別されていました。
そのような中で、使徒たちはどのような抗議行動をとり、どの
ような戦いを進めて行ったのでしょうか。



 パウロはローマの為政者たちの権威を認め、彼らのために
祈る事を教えました。ローマの国家が素晴らしいものだと誤解
していたからではありません。ローマ国家が邪悪なものである
ことをも承知でそのように教えたのです。奴隷制度に関しても、
パウロは充分にその犯罪性を理解していたと考えられます。し
かし彼は、その社会的風潮、習慣に、あえて立ち向かう事をし
ませんでした。かえって、奴隷制度に従った行動をとるように
奴隷たちを教え、逃亡奴隷のオネシモを、主人のピレモンのも
とに送り返しています。(ピレモンへの手紙) 女性差別にし
ても、表面的には、パウロは反対運動や抗議運動を起こすよう
な過激な真似をせず、当時の社会通念に従った指導をしていま
す。パウロは当時の、たとえば奴隷制度や女性の身分に対して、
直接あからさまに異議を唱え、反対運動を起こし、敢えてその
ような社会通念に反した行動をとった場合、どのような社会的
反応が起こるか、また、教会の使命である福音伝達にいかなる
影響を与えるかを、注意深く考慮したのではないでしょうか。
社会の機構と経済産業に深く関わっているこのような問題に対
し、基本的人権と平等の御旗を翻して、直接、戦いを挑む事が
決して益にならないと判断したのではないでしょうか。しかし
その一方でパウロは、奴隷を主にある兄弟として取り扱うよう
にと諭して、奴隷制度廃止の礎を築き、主にあっては女性と男
性との間に差別はない事を教えて、女性差別撤廃の土台を据え
ているのです。



 そういう訳で、私たちは、教会の使命は唯一、贖罪愛の遂
行である福音伝道であると考えます。一般愛の表現である社会
活動は、教会の生きる姿、教会のあり方ではありますが、教会
がこの世に派遣された使命、目的ではありません。また正義の
ために戦う事は教会の使命や目的ではないばかりか、この世に
おける教会の姿でもありません。教会は正しい生き方をする事、
またそのためには種々の苦しみをも耐えるべき事が教えられて
いますが、社会悪と戦うことは教会がなすべき事ではありませ
ん。教会は、自らが正しい生き方をするようにと教えられては
いますが、世の罪人に「正しく生きよ」と叫ぶようには教えら
れていないのです。教会がこの世に派遣されるにあたって与え
られた使命、目的はただひとつ、贖罪愛の遂行である福音伝道
です。



 ところで、日本語では名詞の単数形と複数形の間に区別が
ありませんから、「使命」あるいは「目的」と簡単に言ってし
まいますが、実は「使命」と訳されている英語には単数形と複
数形があり、果たして教会の使命はいくつもあるのか、それと
もひとつだけなのかという議論があります。 「mission」か
「missions」 かという事です。 伝統的に、 教会は普通
「missions」と複数形で表現してきた歴史がありますが、そ
れは、教会がこの世で果たすべき使命はいくつもあると考えて
いたからです。教会というものの理解が曖昧で、その使命ある
いは目的と、様々な働きとの関係の理解に混乱があったためで
す。つまり、教会には礼拝会や伝道会、日曜学校や聖書の勉強
会、それから幼稚園や学校の運営、さらには町内会に参加し、
地域社会で世の光地の塩として生きる事、その上に宣教師を送
り、教会を建て、病院を建て、貧しい者を助け、無教育な者に
教育の機会を与えるなど、実にいろいろあり、それがみな大切
な働きであること考えられ、「使命」であると受け取られてい
たためです。



 後でも触れますが、教会がこの世界で存在して行くために
は様々な活動をしなければなりませんし、その多くは非常に大
切ですが、教会がこの世界で生きるための活動と、教会がこの
世に派遣された目的の活動、すなわち使命との間には、明確な
違いがある事を理解しなければなりません。たとえば、日本の
大使がアメリカに派遣されている目的と、その大使がアメリカ
で生活するために必要な活動、すなわち、住居を借りたり、洋
服を買ったり、食料を買い込んだり、子供を学校に入れたりと
いう働きとの間には、明確な相違があるというのと同じです。
教会にはさまざまな活動があり、多くの仕事があります。しか
し、教会がこの世に派遣されている理由、目的、使命はただひ
とつです。ですから、ここでの私たちの学びでは、教会の単数
の使命 「mission」 についであって、 複数の様々な使命
「missions」についてではありません。



3.派遣の目的・宣教か伝道か



 さて、教会がこの世に派遣されている目的は、福音の宣教
であって、すなわち贖罪愛の遂行あるいは継続であって、一般
愛の表現である社会活動ではないと言う事は明らかになりまし
たが、それでは、福音宣教とは何でしょう。伝道とどこが違う
のでしょう。

 

 元々私たちは、宣教という言葉と伝道という言葉を、時に
は同じ意味に、時には少しばかり違う意味に、明確な定義をし
ないままかなり曖昧に用いて来ました。すでに述べたように、
宣教というのは、英語の「mission(s)」の訳として用いてき
ましたが、もともとは、任務を与えて派遣するという意味の新
約聖書用語「アポステロー」のラテン語訳である、「ミッシオ」
に語源を持つものです。「アポステロー」の名詞形が「アポス
トロス」で、日本語では使徒と訳されています。それらの事か
ら、「宣教」の厳密な意味は曖昧でありながらも、常に「派遣」
と深く関わるものとして理解されてきました。ですから、すで
に幾度も繰り返した言い方ではありますが、宣教とは教会が派
遣された使命、任務、あるいは目的と理解するのが適当でしょ
う。宣教するとは、教会の目的、使命、任務を遂行するという
ことです。そしてその目的、使命、任務とは何かというと、贖
罪愛の遂行である福音伝道です。この理解からすると、伝道と
は教会の「missions」、すなわち多くの使命のひとつなので
はなく、教会の「mission」唯一の使命そのものであるという
事になります。



 では、伝道とは何でしょう。いろいろな定義がありますが、
最もふさわしい定義は単に福音を宣言するだけではなく、人々
を救いに導く事でもなく、洗礼を授けことでもなく、また、個
々人をキリストの弟子とする事で終わるのでもなく、救われた
人々で構成される、キリストのみ体を建て上げる事であり、そ
のみ体、すなわち地域に自己を表現した不変・普遍の教会を、
キリストの身丈まで成長させる事です。キリストの身丈まで成
長した教会は、必然的にさらに教会を生み出して行く教会にな
ります。



 このように、原則的には、宣教とはすなわち伝道であると
言う事になりますが、それだけでは充分ではない側面もありま
す。伝道をしている教会のすべてが、必ずしも宣教をしている
と言えないところがあるからです。たとえば、誕生間もなくの
エルサレム教会は、間違いなく伝道の教会でした。伝道の情熱
に燃えていました。多くの人々が福音を聞き、救われ、洗礼を
受け、教会に加えられ、交わりとみ言葉と祈りによって育てら
れていました。しかし、このエルサレム教会は、果たして宣教
の教会だったでしょうか。



 現在、キリスト教の影響の非常に強い国、あるいは地域、
民族の中にある教会はどうでしょう。熱心に福音を語り、多く
の人々を救いに導き、洗礼を施し、教会に加え、教育訓練をし
ているならば、立派に伝道をしていると言えます。しかし、果
たして、宣教はしているでしょうか。自分たちの場所に留まっ
ているだけでは、教会は、宣教をしていると言い難いのです。
まだ、福音が伝えられていない地域、福音を聞いたことのない
人々のグループに出て行って、福音を語る努力をしていなけれ
ば、宣教に携わっている、すなわち、キリストの遺言を遂行し
ていると言い切れないのです。エルサレム教会は、伝道はして
いました。しかし、エルサレムに留まり続けていたのです。そ
の間、宣教は出来ていなかったのです。しかし神は、そのよう
なエルサレム教会を、本来の使命である宣教に駆り立てるため
に敢えて迫害を起こし、クリスチャンたちを四方八方に散らし
てくださいました。散らされたクリスチャンたちは、そうとは
知らずに「派遣」されていたのです。そうとは知らずに、行く
先々の人々に甦られたイエスのことを話し聞かせる事によって、
宣教の使命を果たしていたのです。



 ですからこの宣教の使命は、直ちに弟子たちに理解され、
遂行されたのではありません。ユダヤ人として、ユダヤ人の先
入観に固まっていた弟子たちは、キリストの命令の意味、派遣
の意味を把握出来ないでいたのです。それを弟子たちに理解さ
せ、その使命に取り組ませるためには、聖霊の強い働きかけが
必要でした。聖霊はまず、ユダヤ人たちの間でも比較的柔軟な
ユダヤ主義を採っていたと思われる、デイアスポラのユダヤ人
を奮い立たせ、福音の普遍性に対して少しずつ目覚めさせて行
きました。ステパノを通して神殿の不要性を説かせ、ピリポを
通してサマリヤ人に福音をもたらし、さらにエチオピア人にも
救いを適用しました。その後、使徒たちの中でも中心人物であ
ったペテロを、聖霊はかなり無理をして説得し、ローマの軍人
にも福音を宣べ伝えさせ、聖霊がペテロに先行してお働きにな
る事によって、異邦人も救いに与る事が出来るという事実を明
確に見せ、教会全体に福音の普遍性を徐々に理解させ、世界宣
教の土台を築いて行かれたのです。そして、その上にバルナバ
とサウロの異邦人社会への伝道、すなわち宣教が重なるのです。



 しかし、バルナバとサウロでさえも、また、彼らを派遣し
たアンテオケ教会でさえも、この異邦人世界へ出て行って伝道
をする働きの重要性、すなわち宣教の使命をはっきりと自覚し
ていたのではありません。彼らの派遣は、聖霊の明確な先導と
強烈な後押しがあって、初めて可能だったのです。アンテオケ
教会は、多くの人たちが考えるほど、異邦人宣教に積極的だっ
たわけではありません。バルナバとサウロを積極的に派遣した
のは聖霊ご自身で、アンテオケ教会ではありません。アンテオ
ケ教会は聖霊の働きを妨げず、ただ出て行くふたりを許して見
送ったに過ぎません。  教会が世界を畑として種を蒔くよう
になるには、福音の普遍性と自分に与えられた使命を鮮明に理
解する必要がありました。



 今日の多くの教会も、エルサレムの教会と同様に、自分た
ちの周辺にいる人々、自分と同じ国の人々、あるいは同じ文化
圏の人々には伝道をしていることでしょう。それなりに教会も
大きくなり、地域教会、あるいは管理上の個教会も増加してい
ることでしょう。しかし、すでに教会が存在し、多くのクリス
チャンが存在しているところで伝道をして、成功を収めている
だけで満足していてはならないのです。キリストのみ体である
教会として、与えられた世界宣教の使命を果たしていく責任が
あるのです。世界には、まだまだ福音が充分に伝えられていな
い人々が、たくさん存在するからです。すべての地域教会が、
あるいは管理上の個教会が、直接世界宣教に携わるのは効果的
ではありませんし、現実的ではありません。ほとんどの場合不
可能でしょう。しかし有機的教会として、そして普遍的教会と
して、互いに有機的に関わり協力する事によって、世界宣教に
積極的にまた具体的に関わって行く事が出来ますし、そのよう
にすべきなのです。
   


 宣教とは派遣に関わり、常に出て行く事に関わります。出
て行ってやることは伝道です。しかし、出て行く事を止めた伝
道は宣教ではありません。キリストは天のみ位を捨て、失われ
た羊を尋ね求めて神と人との間の無限の隔たりを旅し、人とな
ってこの世に来てくださった宣教師です。しかし、キリストは
この世に来てくださっただけで満足なさらず、さらに町々村々
を行き巡ってくださった方です。今日の多くの教会に必要なの
は、この、町々村々を行き巡るキリストの姿です。












posted by MS at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 聖書の学び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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