2010年10月30日

教会について 2−22

p136〜144


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D.キリストの派遣に伴ったと同じ権威



 キリストはこの世に遣わされた時、第二神格者としての栄
光と権威を横に置いて来られたという事については、すでに学
んだ通りです。しかし、キリストはその公生涯を開始なさった
時、明らかに、公生涯の働きを遂行するために聖霊をお受けに
なったと同時に、権威をも付与されたと考えられます。その権
威は甦られてから取り戻された権威とは別の権威、あるいは甦
られた後に取り戻された権威ほどの完全なものではありません
でしたが、(マタ20:19) 悪魔を叱り、(マタ4:10)
悪霊を追い出し、(マタ8:28−32) 病を癒し、断定的
に教え、(マタ7:28) 自然を治め、(マタ7:27) 
罪を許し、(マタ9:1−8) 死人を甦らせる権威でした。
実際、キリストはすべてのみ業を権威によって行い、信仰とは
キリストの権威を認める事であると教えておられるように思え
ます。(マタ8:5−11) キリストは、祭司長や長老たち
が敵愾心をもって、「何の権威によって、これらのことを教え
ているのか。だれがその権威を授けたのか」と質問をした時に、
敢えて彼らの挑発に乗るようなことはなさいませんでしたが、
答えは明らかです。(マタ21:23−27) 父なる神に与
えられた権威です。キリストは、ご自分の権威は父から来たも
のであることを、かなり明確に主張なさいました。(ヨハ5:
19−47、7:14−18、8:23−30、10:18)



 キリストの弟子たちは、このキリストから汚れた悪霊どもを
制する権威を与えられて、み国の福音を宣べ伝えるようにと派
遣されました。(マタ10:1−15) 弟子たちの派遣には
権威の委託が伴ったのです。弟子たちはこの権威を持って、与
えられた使命をまっとうしました。この権威はまた、権威を委
託した方の権威に関わるものであり、さらにその権威を委託し
た方をお遣わしになった、父なる神の権威に直結するものでし
た。(マタ10:40−42、ヨハネ13:20) こうして
見ると、弟子たちに与えられた権威は悪霊どもを制するだけに
止まらず、福音宣教全体に関わるものであることが分かりま
す。キリストは、未熟な弟子たちが悪霊に対する権威の力を目
の当たりに体験して、有頂天になってしまったのを戒めて、永
遠の命の大切さをもう一度強調し、確認しなおさなければなり
ませんでした。教会は、誕生前の胎児の時代から、権威を委託
され、権威によって働くようにされていたのです。



1.教会に与えられた権威与えられていない権威



 まだ人間の肉体を取っておられた時のキリストが、未だ生
まれてもいない教会の権威について、予め、お語りになってい
るのはとても興味深い事です。(マタイ18:15−20) 
教会が解くことは解かれ、教会がつなぐことはつながれるとい
うことですが、これが実際何を意味しているのかは、解釈者に
よって異なります。とは言え、これは懲罰ということでは教会
の内部の問題に関わることであり、福音の宣教とその結果とい
うことでは、外部の者に関わることであるということだけは明
ら。かです。



 教会が、自分たちの内部の問題に対しては、権威をもって、
しかも正しい手段で正しい判断をすべきことは当然のことです。
しかしいま取り上げようとしているのは、教会が外部の者に対
しても権威を持っているという側面です。福音宣教の使命を与
えられた教会は、使命と共に、福音に関わる権威をも与えられ
ています。教会がそのことを自覚していようがいまいが、与え
られているという事実にはかわりがないのです。教会が福音宣
教に携わるということは、人間の永遠の運命を定めるという結
果をもたらす、重大な権威を行使する事であり、軽々しく、い
たずらに取り扱うべきではないのです。福音は信じる者には命
を与える力ですが、拒絶する者には永遠の滅びを定めるものだ
からです。そしてまた、この福音宣教の使命がただ教会にだけ
与えられているという事実、教会以外の何者にも与えられてい
ないという事実が、非常に重要です。教会が独占している使命
であり、独占している働きであり、独占している権威なのです。
教会は、キリストが「あなたの罪は赦された」と宣言なさった
ように、福音を聞いて悔い改める者に「あなたの罪は赦された」
と宣言する権威を持つのです。



 また、教会の誕生がいよいよ近くなった時、キリストは改
めて権威について触れておっしゃいました。「わたしには天に
おいても、地においても、一切の権威が与えられています。そ
れゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々(部族)を弟
子としなさい。」 甦られたキリストは、はじめから天でお持
ちになっていた権威を取り戻し、その権威をもって教会の土台
となる弟子たちに、「すべての民族を弟子とする」ようにお命
じになったのです。  甦られた後のキリストが、一切の権威を
与えられ、その権威のゆえにお命じになった世界宣教に関わる
教会の権威と、人間の肉体をお持ちだったときに、弟子たちに
お与えになった権威にどのような違いがあるのか、具体的には
定かではありませんが、肉体を持っておられた時のキリストの
権威は、いろいろな意味で限られていたと考えられます。とこ
ろが甦られたキリストは、受肉前の完全な権威を取り戻された
のです。従って教会は、美しの門に座っていた足の萎えた乞食
を、甦られたナザレのイエスの名、すなわち甦りのキリストの
権威によって立ち上がらせたペテロのように、よみがえりのキ
リストの権威によって福音宣教の働きを進めて行くのです。
(使徒3:1−4:12)

 

 パウロが、教会は和解の福音を任せられている「使節」で
あると語った時、教会に委譲されている権威について、思いを
及ばせていたと考えられます。この使節という言葉は、大使ま
たは全権大使、さらには代理とも訳すことが出来るということ
ですから、当然、遣わす者の権威が伴うと考えられるのです。
言語の意味合いから察するならば、キリストが父から遣わされ
たとおっしゃった時も、権威が伴っているという意味あいがあ
ったと考えられます。キリストが教会を遣わすとおっしゃった
言葉にも、同様に、権威の意味合いが込められていることが明
らかです。遣わすと訳されているふたつの原語には、権威を与
えて使わすという意味があるからです。



 教会はたとえどんなに小さく弱く見えても、どれほど貧し
く困窮しているようであっても、権威を帯びているのです。こ
の世界の、他のどのような者にも絶対に与えられていない、強
大な権威を与えられているのです。教会が福音を語る時は、神
の権威をもって語るのです。教会が病を癒し悪霊を追い出す時
には、甦られたキリストのみ名の権威によって行うのです。こ
の、権威によって癒しや悪霊の追放を行う働きは、癒しや悪霊
を追い出す賜物よりも、より基本的な教会の働きであり、賜物
を与えられている者だけが行う働きではなく、教会の基本的働
きとして、教会全体が関わっていく働きです。それはちょうど、
パウロの福音宣教がこの世の知恵や賢さによらず、福音の力に
よって行われたと言われているように、教会も自らの知恵や知
識といった資質に頼らず、福音宣教に伴う権威によってしるし
と奇跡を行い、悪魔の支配を打ち破って神の国の到来を明示す
るのです。



 一方教会には、福音宣教という使命に伴う権威以外の権威
は、与えられていません。教会は、福音宣教とは関係のないい
ろいろな分野で、権威を行使してきました。そのすべてが間違
った結果をもたらしたとは言えないまでも、多くの場合、誤っ
た判断に基づいた誤った結論となり、正義の神の名によって悪
を行う結果となってしまいました。特に教会が世俗の権力と手
を組んでいた時、あるいは、世俗の権力を手中にしていた時に
行使した権威は、多くの場合、悲惨な結末に終わってしまいま
した。この事についてはすでに簡単に述べたとおりです。教会
は与えられていない権威を行使してはならないのです。その権
威を行使する能力も与えられていないからです。与えられてい
ない能力と権威を行使すると、必ず悲惨な結果に終わるからで
す。



 教会の歴史は、キリストによって委任された権威と、教会
が世俗の力を掌握したときに獲得した権威の間の、葛藤、衝突、
融合、混乱の歴史でもありました。それは、ヨハネとヤコブと
の母が、ふたりの息子たちを、それぞれキリストの右と左に座
れるようにと画策した時から始まって、自己を捨てきれない不
肖の弟子たちの、権力闘争の場でもあったのです。このような
精神から権力を行使するならば、教会は内部の問題に対してさ
え、正しい手段を採って正当な判断をする事が出来なくなって
しまいます。原始教会から、原始カトリック教会に移行してい
く途上での、各地の監督たちの意見の相違と権力闘争は、やが
て東西教会の分裂をもたらしました。そして東西の教会共に、
権力の官僚機構を作り上げ、それを動かしがたいものとしてし
まいました。そしてこれが世俗の政治権力・経済力を手中に収
め、国家権力さえ掌握するに至って、教会の名によって、神の
名によって、そしてキリストの名によって、あらゆる犯罪行為
が行われてきました。もちろん、教会が行ったすべてのことが
犯罪であったわけではなく、多くの素晴らしいことも行われた
のですが、全体として見るならば、神の権威によって行われた
と言うにはとても恥ずかしいものです。



 すでに触れたように、教会は、世俗の事柄を裁く権威を与
えられていません。権限も能力も与えられていないのです。世
俗の事柄の善悪を見極め判断する知識も知恵も力も賦与されて
いないのです。それを与えられていると思い込み、神の名をも
って発言するのは愚かな事です。日本のように、教会が社会の
中で小さい場合は少数意見として無視され、せいぜい福音伝道
の妨げになるだけであり、アメリカのように、教会が社会の中
で力を持つほど大きい場合は、世論を誤った方向に導くものに
なってしまいます。人間が神の御前に正しい信仰を持って、良
心に恥じない生き方をするという事と、社会的にあるいは政治
的に正しい判断をし、正しい選択をして行くという事は、まっ
たく別の事柄なのです。その事がわかっていないと、「クリス
チャンの大統領ならば正しい事をするに違いない」とか、「キ
リスト教政党ができれば、それが最善だ」などという、幻想を
抱く事になるのです。ましてや、教会が神の名をもって発言し、
行動していくべきだなどと考えるのは、鯨が空を飛ぶ事を妄想
するようなものなのです。



 このような幻想は、カトリック教会が教皇をキリストの代
理とし、この地上におけるキリストの権威を主張したことに、
深く関わっています。教会内の官僚機構の頂点に立ち、さらに
地上の権力を掌握することによって、文字通り、教皇は絶対の
権力を手にしたことがあります。カトリック教会には、現在で
もその時代を懐かしんでいるところがありますし、あわよくば、
その権威をいくらかでも取り戻したいと考えている事も、様々
な国々でのカトリック教会の動きを見ていると明白です。カト
リック教会は、いつも国家権力と手を結ぼうとしています。



 プロテスタント教会もまた、そのようなカトリック教会と
基本的に同様である場合が多いのです。特に伝統的キリスト教
国家と言われる国々ではそうなのです。各国の宗教迫害を逃れ
て、新天地を求めて移住者が集まって来ていた開拓時代のアメ
リカでは、ロジャー・ワグナーによって提唱された政教分離の
原則が受け容れられました。戦後、アメリカの影響を強く受け
て民主主義を模索してきた日本では、このアメリカから輸入し
た政教分離が当然の原則のように語られていますが、決して世
界の常識ではないのです。教会がこの世におけるキリストの代
理であることは、聖書によって明白です。しかし、教会の官僚
機構がキリストの代理ではありませんし、ましてや、キリスト
はこの世の事柄には敢えて干渉なさらなかった、苦しみと痛み
の救い主だったのです。第一降臨のキリストは、「カイザルの
ものはカイザルに」とおっしゃって、自分を政治の世界、世俗
の世界に引きずり込もうとした人々に、はっきり「否」とお答
えになったキリストであり、そのキリストの代理を教会が勤め
ているのです。私たち教会は、雲に乗っておいでになる、第二
降臨のキリスト、裁き主としておいでになるキリストの代理で
はないのです。このことを明確に理解しなければ、私たちは、
自分がキリストと共に裁く者であるという幻覚を抱き、とんで
もない事をしでかしてしまうのです。この世の事に関しては、
今の教会、第一降臨のインマヌエルとしてのキリストの代理で
ある教会は、何の力も持っていないのです。ただ、良心と信仰
をもって、神のみ前に生きるだけなのです。教会に必要なのは、
「知りません」「わかりません」と言える勇気です。教会が裁
くようになるのは、すべてが明らかにされて、キリストから改
めて裁きの権威を与えられてからなのです。



2.権威の源と内容 
 


 では教会は、キリストから権威を与えられたからと言って、
自動的に福音宣教に関する事柄すべてに、権威を振るう事が出
来るのでしょうか。確かに、悪霊を追い出し病を癒す権威、キ
リストのみ名によって命ずる権威、キリストのみ名をもって福
音宣教に携わる権威は与えられており、その件に関しては、あ
まり深く考える必要はないように思います。しかし、私たちが
宣べ伝える福音の権威は、私たちがキリストの名をもって語る
だけで、自動的に権威を持つものでしょうか。



 私たちは、福音宣教のために特別な召しを受けた牧師や伝
道者、あるいは宣教師たちが、「神のみ声を聞いて」説教をす
るのにしばしば出くわします。「今朝早く、何を語ろうかと祈
りながら瞑想しておりますと、神さまが語りかけて下さいまし
た」という枕詞で始まる説教を、実にしばしば聞かされたもの
です。彼らは自分が召されているという事と、神の声を聞いた
という二重の主張によって、自分たちの語ることを権威付けま
す。確かに全能の神が、何にも妨げられない自由意志によって
なさることですから、今も、み声をもってお語りになることも
あり得るでしょう。しかし、神はよちよち歩きの幼子ではあり
ません。自分に出来ることを、何でもして見たいというような
幼児性は持ち合わせておられません。神がなさることには必要
性あるいは必然性というものがあるのです。現在、神が世界中
の伝道者や牧師、宣教師たちにいちいちみ声をおかけになる、
必要性も必然性も認められないのです。神がみ声をおかけにな
ることがある事は否定いたしませんが、66巻の聖書が完結し
ている現在、人間に必要な事柄として神がお認めになった事に
ついては、すでに啓示され、霊感を受けて聖書の中に記録され
ているのですから、猫も杓子も神のみ声を聞くのは腑に落ちま
せん。「神のみ名をみだりに唱えてはならない」と旧約聖書は
教えています。もう少し、聖い神に対する畏れと誠実さをもっ
て、すなわち真の礼拝者の心をもって、自分の言葉に責任を持
って欲しいと望むものです。また、牧師や伝道者あるいは宣教
師として「召される」という体験もあり得ますが、これも聖書
の教えるところではない事はすでに述べた通りです。このよう
な聖書の権威を離れたところで、誠実さを欠いた権威付けをす
るのは、神の仕事を与る者にはふさわしくありません。



 では、福音の伝達者、宣教者としての教会を権威づけるの
は、いったい何でしょう。ある人たちは、立派な学校を卒業し、
修士号や博士号を持っていることで、権威を持っているかのよ
うに振舞います。他の人は癒しや奇跡を行うことによって、自
分には権威があるかのような言い方をします。あるいは自分が
祈れば人が倒れるとか、自分はたくさん預言をするとか言うこ
とで、あたかも権威ある者であるかのように見せかけます。大
多数の者は所属する団体から認証を受けている事を、自分の権
威とします。それらの事柄にはそれなりの価値があるかも知れ
ません。しかし、それは聖書の教えるところではありません。
パウロが、自分に授けられている権威について語ったとき、彼
が意味していたのは使徒としての権威、あるいはその教会を建
て上げた使徒のとしての権威であったと考えられます。(IIコ
リ10:8、13:10、Iテサ2:6) ただそれは教会内
の特定の権威であって、教会そのものの権威ではありません。



 福音伝達者としての教会、贖いの愛のみ業を継続する者と
しての教会を権威付けるのは、神のみ言葉です。たとえ天地が
滅びたとしても滅びることがない、神の言葉が教会の権威の拠
り所、また源です。カトリック教会では、教会が聖書を成立さ
せたと考えて、教会の権威を聖書の上に置いてきました。実質
的には信徒たちの共同体としての教会ではなく、教皇を頂点と
する聖職者の官僚機構としての教会が、聖書の上にありました。
しかし私たちは、教会が聖書を成立させたというのは皮相的だ
と考えます。聖書は聖霊によって成立させられたものであり、
教会は聖霊に動かされ用いられたに過ぎないと理解しているか
らです。私たちは聖書自体が主張するように、聖書は誤りのな
い神の言葉であると信じていますし、その誤りのない神の言葉
に、神の権威を認めています。教会は福音を宣べ伝える権威と
義務をキリストから与えられていますが、その福音とは現在の
教会にとっては、聖書に記された記録以外の何物でもありませ
ん。



 初代の教会が神の言葉として受け容れていた旧約聖書と、
神の子として信じていたイエスの生涯と教え、そしてその弟子
たちが聖霊の助けによって理解した福音を記した新約聖書が、
現代の教会の権威の拠り所です。キリストが教会に権威をお与
えになったということ自体が、聖書によって、そして聖書によ
ってのみ伝えられた事なのです。教会の権威は、霊感された神
の言葉である聖書の権威に拠るものです。教会の権威は、神の
言葉を預かるものの権威、つまり預言者の権威です。神の言葉
を預かっていなければ、権威を持たないのです。教会は、様々
な方法で啓示された福音、神の言葉が、霊感という神の手段に
よって記録された聖書によって、権威を持つのです。福音を委
ねられた教会は、霊感によって福音を記録した聖書を委ねられ
ているのです。


 しかし、教会が聖書を所持しているというだけで、神の権
威を所持しているという事にはなりません。神の言葉は正しく
理解され、正しく語られてこそ、神の言葉だからです。正しく
理解されておらず、正しく語られていない神の言葉は、神の言
葉ではないのです。勝手気ままに、自分に都合の良いように聖
書を用いるのではなく、厳密な聖書解釈による、正しい聖書の
理解を心がけなければなりません。この点においては、私たち
の仲間もかなり厳しい自己批判をする必要があると言わざるを
得ません。聖書、聖書といいながら、自分の勝手な思い込みを
聖書の中に読み込んで、聖書の教えであると主張している場合
がかなりあるからです。聖書を用いて、聖書に法って語ると主
張している私たちは、神の名によって語っているのですから、
純粋な怖れをもって、聖書を学び、語らなければなりません。



 そういう意味では、熱心さを最優先に掲げてきた私たちペ
ンテコステ派の人々は、聖書に対する真摯な学びを欠く傾向が
あります。とは言え、改革派神学を基盤にした、現在の厳密な
聖書解釈の手法の主流には、おおいに問題を感じるところがあ
ります。この手法では、パウロの聖書解釈の方法が誤りになっ
てしまい、復活のキリストがエマオの途上で、また昇天の直前
に弟子たちにお教えになった時にお用いになった、旧約聖書の
解釈の方法が受け容れられなくなってしまうからです。西欧的
な思考方法で聖書の解釈法を決定してしまうのでは、聖書の言
うところが不明になってしまうことがあるのは明らかです。こ
のあたりに、まだまだ、研究の余地が残っていると言えるでし
ょう。今ここで、改革派神学を基盤とした聖書解釈に欠けてい
るものをひとつ挙げるとするならば、それは、聖書をお書きに
なった聖霊が、お書きになった事柄の意味を明らかにしようと、
今も、私たちに働きかけてくださっているという事実を、大切
にしない事です。



 ペンテコステ派の伝統的聖書の読み方は、「素人的読み方」
です。この素人的読み方は聖書の厳密な解釈、一字一句の厳密
な学びなどには、無知と誤りを露呈しながら、大きな全体的な
意味の捕らえ方においては、ひどい誤りに陥っていないばかり
か、大要において正しい捕らえ方をしているという事です。細
部にわたる厳密な研究の大切さと必要性は言を待ちませんが、
木を見て森を見ない誤りに陥りやすいという欠点があります。
幸いペンテコステ派の主流の人々の聖書の読み方は、素人的で
非学問的でありながら、改革派やバプテスト派、あるいはメソ
ジスト派の基本的神学を受け容れつつ、それ以上追求しようと
はせずに、その枠付けの中で聖書を読んで来たために、自分に
都合が良いように勝手に読んで、細かいところでは支離滅裂な
解釈を持ち込みながらも、わずかの例外を除いては、大きな間
違いに陥らずに済んだと言えるでしょう。手前味噌な言い方で
すが、あるいはそのようなところにも、聖霊の導きと照明に期
待して祈りながら聖書を読むペンテコステ派の人々に対して、
聖霊が働きかけてくださっていたのかも知れません。



 実際、でたらめな聖書解釈による説教などを聴くと、神の
言葉を委ねられ、その権威によって立つ教会としては恥ずかし
い限りで、その誤った聖書解釈によって権威が乱用されるのを
見るのは、実に残念なことです。ただ教会は、福音の本質の理
解を「神の許容範囲の中で」最小限の誤りの範疇に止めながら、
神の権威を行使していると見るべきでしょう。私たちは、神の
言葉に立つことによって初めて権威を持つのですから、聖書の
正しい解釈、正しい理解を求めて、最大の努力をしなければな
りません。



 ペンテコステ派の、聖書理解の間違いから来る問題のひと
つに、「預言」があります。多くの人々が預言の賜物を与えら
れたと主張し、彼らは自分たちの預言に、何らかの権威を認め
ることを要求しているからです。彼らは聖書を単純に読むペン
テコステの伝統から、先ず、「預言者」という働きについて、
勝手な思い込みをしてしまいました。また、「預言」というも
のについても、「預言の賜物」の賜物についても、聖書を正し
く理解することに失敗してしまいました。その結果、現在でも、
あたかも旧約聖書の時代の預言者のように、「主はこのように
言われる」と、主の権威を持って語りだすことができる預言者
の出現を信じる事によって、預言者と自称する人たちの語る言
葉を「聖書以外の権威」として受け入れ、本当の神の言葉が教
えていない教えに、迷い出る可能性があるのです。実際、多く
の信徒たちが、誤った教職たちによってこの預言を信じるよう
に指導され、聖書によらない信仰へと誘われてしまったのです。



 伝統的福音派の教会、すなわち、正統的プロテスタント教
会にとって、聖書以外の「神的権威」を認めることは、絶対に
あり得ない事です。もしペンテコステ派の教会が、現代におけ
る神的起源の預言の存在を認めると、聖書以外の権威を認める
事になり、正統的プロテスタント教会の仲間として、認めても
らえなくなる危険性があるのです。では、伝統的、正統的プロ
テスタント教会の仲間と認めてもらうために、私たちは、現代
における預言の可能性を否定してしまうのでしょうか。ペンテ
コステ派の神学者の間にも、そのような傾向の方々がいます。
しかし、現代における神的起源の預言を認め、しかも聖書の権
威を損ねない信仰と理解のあり方を求めることも可能です。



 聖書の教えを素直に読む限り、現代においても、神からの
直接の語りかけとしての預言を否定する理由がありません。そ
の一方で、聖書に書き加えることは禁じられています。すなわ
ち、聖書と同等の権威を持つものの存在が否定されています。
言い方を変えると、聖書に従属する権威は否定されていないの
です。歴史を見ても、教会は様々な信条や信仰告白を作成して
来ました。これらは聖書のまじめな学びから導き出されたもの
とは言え、聖書と同等の権威を持つものではなく、あくまでも
聖書の権威に従属するものです。現代の預言もまた、たとえそ
れが、正真正銘、神からのものであったとしても、聖書と同等
の権威を持つものではありません。あくまでも聖書の教えの範
囲内で、聖書の教えを補佐する形で、聖書の教えに光を当てる
という意味で権威を持つものです。従って、聖書の中には含ま
れていない、新たな啓示としての預言というものについては、
厳しい疑いの目を持たなければなりません。聖書に書き加える
べき事はないからです。



 現代の預言や啓示がどれほど明瞭なものであり、素晴らし
い内容であったとしても、それらは聖書の霊感と同じ霊感を受
けたものではありません。聖書が権威を持つのはそれが啓示の
書だからでも、預言の書だからでも、キリストの言葉が含まれ
ているからでもありません。それが霊感を受けて書かれたもの
だからです。聖書の権威は霊感に拠るのです。現在の預言は、
たとえそれが、現代の電子機器によって誤りなく記録されたと
しても、その言葉は人間の表現であり、人間の言葉です。預言
の言葉、啓示の言葉が神の言葉となるのは、霊感という聖霊の
お働きによってです。聖書の言葉は、人間の選択による言葉で
はありますが、霊感によって、すべての言葉、一字一句が、神
の承認を受けた言葉、神の言葉となったのです。例えばヨハネ
は新しい天と新しい地を見て、「透き通ったガラスのような純
金」という表現を用いましたが、その表現を、聖霊は霊感によ
ってよしとしてくださったのです。今かりに、預言者と言われ
る人が同じ幻を見せられたとするならば、たぶん、異なった表
現をする事でしょう。間違いなく同じ幻ですが、それを見た人
たちによって表現は異なるのです。その表現は、幻を見た人の
ものであり、それだけでは神の絶対の権威にはなり得ないので
す。それが神の権威を持った表現とされるには、霊感が必要な
のです。霊感は単に、聖霊が著者を導いたという事ではなく、
神がその言葉の選択をよしと認められたという事なのです。現
代の預言には霊感がない、すなわち、聖霊のお墨付きがないの
です。



 私たちは、教会の権威が、神の言葉である聖書の正しい理
解と、その理解したことを明確に宣言して行く事にあると、し
っかり確認しておかなければなりません。誤った権威を主張し
たり、権威を失ったりする事がないためです。私たちは、キリ
ストから権威を託されて、派遣されているのです。私たちが語
る言葉によって、人々は永遠の命を獲得するか、永遠の死に定
められるのです。これは実に大変な権威です。












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