2010年10月31日

教会について 2−23

p144〜151


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VV.教会の働き



 教会の使命は宣教です。教会はこの使命のためにこの世に
遣わされています。他に使命はありません。教会はこれを目的
として生き、これを目指して歩みます。教会の使命は、キリス
トがこの世に送られた目的を、自分の目的として生きる事です。
それはキリストの贖いの愛のみ業を、宣教という働きで継続し
て行くことです。しかし、教会の働きは宣教だけではありませ
ん。他にもたくさん働きがあるのです。



 伝統的なプロテスタント神学では、教会の働きを、王とし
ての働きと預言者としての働きと祭司としての働きに分けるの
が一般的でした。これはキリストの働きと言われる働きを、そ
のまま教会に適応したもので、それなりに説得力があり、教会
の働きの多くの分野を説明することがますが、いささか思弁に
過ぎ聖書の素直な読み方を離れる傾向がありますし、教会の働
きを充分に説明する事が出来ません。また、この思弁的傾向と
理解の仕方を進めると、王、預言者、祭司のどの働きの分野に
おいても、社会的活動を強力に推進して行く理論的基盤が出来
上がります。特に、千年紀後再臨説を採る多くの伝統的プロテ
スタント神学では、王としてのキリストがおいでになるにふさ
わしい世界を作り上げるために、この社会活動が大切な要因と
なって来ます。



 福音派の人たちの間では、教会の働きを上、すなわち神に
対する礼拝と、内、すなわち教会内部に対する交わりと、外、
すなわちこの世に対する伝道に分けて考えるのが一般的です。
これは王、預言者、祭司という理解の仕方に比べると、思弁を
避け、より聖書の直接的教えに根ざしていると考えられますが、
不充分なところもあるように思われます。それは例えば、内、
すなわち教会内に対する働きとして「交わり」しか挙げられて
いないところです。上、内、外、という分け方に捕らわれ過ぎ
て、教会内におけるもうひとつの大切な働きである、教育とい
う点が軽く取り扱われています。教育と交わりをひとつにする
のには、少々無理があると考えられます。また、先の王・預言
者・祭司の考え方が、社会活動に流れていく傾向を持つのに対
し、外に対しては「伝道」と定義し、社会活動の入る余地をな
くしています。



 このように物事を幾つかの分野に分類して考えるのは、考
えを整理するのには役立ちますが、ともすると、その分類に沿
った考え方をしてしまい、大切な側面を見落としてしまう傾向
があります。神は教会の働きを、そのような分類に合わせてお
定めになったわけではないからです。上=礼拝、内=交わり、外
=伝道では、あまりにも単純化されていると言えます。むしろ、
上=礼拝・奉仕・交わり・伝道であり、内=交わり・教育・訓練
・礼拝・伝道であり、外=伝道・一般愛の行使・礼拝・奉仕と
いうように、複雑に絡み合い、影響しあっているものです。

 

 そのような、分類の欠点というものを理解した上で、敢え
て分類の利点を考慮して取り入れると、むしろ、私たちの仲間
内で用いられている分類の方が、聖書の教えをより良く表現し
ているように思います。それは普通、WIFEという言葉で表現し
ます。これは、礼拝=WorshipのWと、教え=InstructionのI
と、交わり=FellowshipのFと、伝道=EvangelismのEを綴り
合わせて、WIFE(妻)としたものです。この分類でも、しばら
く前の福音派の分類らしく、社会活動という一面はまったく無
視されています。だからと言って、社会活動すなわちSocial
serviceのSを入れるとWIFESという存在しない単語になってし
まい、しっくりしません。ではと言って、社会活動を伝道の中
に加えてしまうと、先に述べたように、愛の行いが伝道のため
の道具あるいは手段とされ、釣り針の隠された餌となってしま
います。



 そこで、この学びでは福音派の上・内・外という言い方を
止め、単純に神に対する働き、教会自身に対する働き、世界に
対する働きと分けて考えて見ましょう。



A. 神に対する働き



 教会の究極の存在目的は、すでに学んだように、神の栄光
をほめ称える事、すなわち礼拝をする事です。自分たちの全存
在を賭けて、あらゆる方法をもって、神を礼拝することです。
教会はこの目的のために、天地創造以前から、神のご計画の中
に組み込まれていたのです。(エペ1:4−6) 現在教会に
与えられている多くの働きは、やがて完全なものが現れる時、
必要のない働きになるでしょう。教会がこの世に派遣された目
的である宣教と言う働きでさえ、永遠の中では不要になってし
まうのです。しかし、神をほめ称える礼拝の働きは永遠に途絶
えることのない働き、究極の働きとなるのです。



 教会は、神の贖いの愛を自分自身で体験したものとして、
誰かに聞いて知った事でも、横で見ていた事でもなく、自分の
人生の中で体験した愛、受けた愛として、感謝と喜びを持って、
神を礼拝します。このような礼拝が出来るのは、すべての創造
物の中で教会だけです。天使たちでさえ、そのような礼拝は出
来ないのです。教会は、神の愛の大きさと深さと広さを、知的
に理解するだけではなく、自らの体験として理解し、とこしえ
に神を称え、礼拝をし続けるのです。



1.礼拝の内容 



 礼拝とは、万物の創造者である神を、神として認め、神と
して崇める行為です。神は神であられるゆえに、崇められるべ
きなのです。神は万物の創造以前から、三位が互いに愛し合う
永遠の方として、何にもよらず自在し、すべての存在するもの
の源であり、たとえ万物が消滅したとしてもなお存在し続ける
お方です。万物が存在し続ける限り、万物の賞賛を受けるべき
お方です。万物は神の栄光の発露として造られたのです。人間
の礼拝とは、造られた者としての自覚を持って創造者を崇め称
えることです。自分が存在し生きていることを、存在させられ、
生かされているという事を神への賛美とする事です。



 しかしクリスチャンは、単に創造者としての神を、畏敬を
もって崇めるだけではありません。自分たちは神の愛の対象と
して造られている事を知っています。罪によって神の敵となっ
てしまった後も、なおも愛され続け、贖罪の愛によって贖い出
され、再び愛の交わりの中に入れられた事も理解しています。
その愛の経験を背後に、大きな感動をもって神を愛し、感謝の
心に満ち溢れてほめ称えるのです。



 ただし礼拝というものは、単に神をほめ称える事、賛美す
る事だけではありません。ほめ称える事は礼拝の中でも最も高
い部分であり、中心であり、永遠に続く部分でもあります。そ
の中には、言葉をもってほめ称える事、歌をもってほめ称える
事、音楽や創造的な芸術をもってほめ称える事、祭りをもって
ほめ称える事などが含まれるでしょう。教会は地上の一切の戦
いから開放されて永遠の安らぎに入った後も、その全存在を、
神を称える事に費やすのです。



 とはいえ、教会がこの地上に存在している間は、まだまだ
戦いの中にあり、悪魔と戦い、自らと戦い、痛みや困難と戦わ
なければなりません。ここで大切なのは、教会はただ自分の勝
利のために戦うのではなく、神への礼拝の行為として戦い、神
への礼拝の行為として勝利するのだという事です。ダビデが詩
篇23篇で、「み名のゆえに」と歌った時、そのような礼拝を思
い浮かべていたのでしょう。またゴリアテと戦った時も、神に
対する礼拝の気持ちが伺えます。さらに教会は、この世に存在
する限りは委ねられた福音を宣べ伝えます。しかしそれもまた、
ただ単に滅び行く同胞に対する愛のためにするものではなく、
究極的には神への礼拝の行為として行うのです。ましてや、自
分たちの教会を大きくしたり、有名にしたり、賞賛を受けたり
という自己目的のために行うのではありません。教会が、小さ
な者、弱い者、虐げられている者のために働くのもまた、ただ
彼らを愛し、痛みを共有して行うのではなく、神への礼拝の行
為として行うのです。



 さらに、教会の内部で互いに愛し合い、助け合い、教え合
い、励まし合い、あるいは厳しく躾け合い、互いに成長しよう
と励むのも、すべてそれ自体を目的として行うのではなく、神
への礼拝として行うのです。まさに、生きるのも死ぬのも主の
ため、飲むのも食べるのも、結婚をするのも子をもうけるのも
主の栄光のためなのです。人間の生の営みそれ自体が、神への
礼拝なのです。またそのような意識があり、神の臨在の感覚が
あり、臨在したもう神への怖れがあってこそ、自己顕示欲を押
しのけた伝道ができ、自己賛美から開放された愛の奉仕ができ
るのです。あらゆるところに満ち溢れていらっしゃる神を想い、
太陽が昇るのを見て感動し、七色にきらめく野の花の朝露には
っとして息を潜め、虫の音に耳を傾け、満天の星を感嘆して仰
ぐ中に、礼拝があるのです。



2.礼拝と献身



 従って、礼拝とは、神の栄光のために自分が存在している
と知り、神に自分を捧げることです。それこそ、パウロが霊的
な、本来あるべき礼拝の姿であると教えているものです。(ロ
ーマ12:1) かつて、私たちが死んでいた時には、自分の
幸福のために、自分の利益のために、自己の獲得のために生き
ていました。天地をお造りになった神を知り、神を信じて生き
るようになった後も、あくまでも自分の幸福のために、神をさ
え利用しようとしたに過ぎないものです。幸せになりたい、救
われたい、平安な暮らしがしたい、問題を解決してもらいたい
と、言うならば自分を獲得するために神を信じたのです。あく
までも自分が中心で、神は、自分の幸せに奉仕をするため、あ
るいは利用する多くの要因のひとつとして、自分の周りにある
ものに過ぎなかったのです。その信仰哲学は、悪魔と同じでし
た。(ヨブ1:9−10) 「私たちはいたずらに神を信じな
い。神が私たちの手の業を祝福してくださるから、神を信じて
いるのだ」と考え、「神が祝福を取り除かれたら、私たちも直
ちに神を信じるのをやめよう」と考えていました。 



 しかし、そのような低い信仰の状態にあっても、神は忍耐
を持って私たちを教え導き、正しい信仰のあり方へと入れてく
ださいます。その正しい信仰のあり方が、自分自身を捧げる事
であり、それこそがまた、本来あるべき姿の、正しい礼拝であ
るという事です。この自分を捧げることこそ、人生の方向転換
です。クリスチャンになるということも、その人間の世界観、
人間観、価値観、宗教観の大きな変化ではありますが、自分を
世界の中心に据え、神さえも周辺に置き、すべてを自分中心に
考え、判断し、行動してきた生き方から、神中心の考え方と行
動に変えるのは、さらに大きな人生観の変化です。自分が中心
ではなく、神が中心になるのです。これをパウロは、「心を新
たにすることによって造り変えられ」と、表現しています。多
くの聖書翻訳者の理解が正しいとすると、心を新たにするのは
人間の側の行為で、それを受け止めて作り変えてくださるのは
神の行為です。  そしてこれは、救いの経験の後、クリスチャ
ン人生の成長段階で起こる事です。



 ですから本物の礼拝、真に霊的な礼拝、あるべき姿の礼拝
は、礼拝する側の自己放棄から始まります。ちょうど、24人の
長老が自分たちの冠を投げ捨てたように、(黙4:10)礼拝
者たちは己の冠を投げ捨てて、始めて真の礼拝者になるのです。
伝道の功績も、牧会の功績も、神学の分野の功績も、聖書学の
分野の功績も、あるいは音楽の分野の功績も、その他どのよう
な功績も、その冠を頭に頂いたままでは真の礼拝者にはなり得
ないのです。その冠を投げ捨てられない心でする奉仕は、しば
しば大きな争いと軋轢の原因となって来ました。たとえ、牧師
になり宣教師になっても、この心の一新によって作り変えられ
る体験、己の冠を投げ捨てる経験をしていない者は、いつまで
も、神の栄光を現す事よりも自分の功績を評価してもらうこと
に熱心になり、競い合いと、争いと、やっかみと、中傷の火種
を作り、主の働きを傷つけ、ご栄光を損ねます。しかもこの真
の自己放棄、本物の謙遜というものは、一度だけの事で終わる
のではなく、毎日まいにち、しかも一日に何度も繰り返さなけ
ればならないものなのです。

 
 
 正しい自己放棄を経験して、自分中心の人生観から神中心
の人生観に転換してこそ、本当の意味で、神に仕える事が出来
るのです。このことが徹底しないままで奉仕を続けていくと、
教会の中に虚栄心による妬みといがみ合いが起こり、分裂と分
派に進んで行くのです。個人主義に根ざしたアメリカなどの文
化では、独立あるいは、単立という言葉がもてはやされ、多く
の独立教会、単立教会が存在します。その影響で、日本でも、
あたかもそのような教会が、麗しいものであるように勘違いし
ている人々がいますが、多くの独立教会・単立教会は、正しい
自己放棄と献身の出来ていない働き人が作り出したものです。
多くの場合、彼らは大変謙遜で、神さまのみ声には聞き従いま
すが、キリストのみ体である教会の声に従うことはないのです。
もっと端的に言うと、「鶏頭となるも牛後になるな」という精
神に満ちているのです。本当にキリストの精神を持つならば、
牛後どころか鶏尾になっても良いはずですが、それが出来ない
のです。共同体としての教会の理解が出来ていないのです。



3.共同体としての礼拝



 教会は礼拝をする民です。個々人が礼拝することは当然で
すが、教会とはひとつの民として礼拝をするものです。民とし
てと言った場合、礼拝する個人がたくさん集まるという事では
ありません。西欧的な個人主義の中では、個々の人格を持った
個人の集合、自由意志によって集まるの個人の集団が「民」で
すが、共同体文化の中では、個人がその中に生まれ育つ人々が
「民」なのです。民の中に生まれたものは、その民の一部にな
るのです。個人は民を選ぶ事が出来ず、その中に生まれるので
す。従って、共同体文化の中で形成された教会は、礼拝をする
人々が自由意志で集まって、礼拝する集団となった民ではあり
ません。神によって生まれた者は、神の民、神の家族の中に生
まれたのです。つまり、個々のクリスチャンは礼拝をする民の
中に生まれ、礼拝をする民の一部となったのです。




 個人主義の国アメリカは、憲法によって成り立つ国です。
アメリカという国を成り立たせているのは、人種でも、原語で
も、文化でもなく、合衆国憲法です。それにも拘らず、アメリ
カという国土と領空に生まれた者は、その背景と理由を問わず、
アメリカの国籍を持つことができます。アメリカに生まれれば
アメリカ人なのです。これは、三代も4代も前から日本の国土
に住んでいても、日本国籍を取る事の出来ない人がいる日本と
大きな違いです。日本では日本人の血が国籍感覚を決めるとこ
ろがあります。ですから、祖父母の代からブラジル住んでいて、
ブラジルの国籍を持ち、ポルトガル語を話していても、血が日
本人の血であるため日本人であると勘違いされて、「日本人の
くせに日本語がわからないとは」と非難されるわけです。どち
らにしても、子供は自分の所属を選択する事が出来ません。



 クリスチャンは礼拝する民、神の民の中に生まれたのです。
ですから、神を礼拝する民の中で、神を礼拝する民の一部とし
て、神を礼拝するのが当然なのです。それはアメリカの国土と
領空に生まれた者はすべて、アメリカ国民して認められ、アメ
リカ国民としての権利を有するのと同じように、そしてそれ以
上に、神の国に生まれた者は、神の国の国民としての国籍と権
利を持って礼拝するのです。これが公同の礼拝と言われるもの
です。単に、礼拝する個々人が任意で集まった礼拝会が、公同
の礼拝なのではありません。ひとりひとりが、自分は礼拝をす
る神の民という共同体の中に生まれた者であり、この共同体か
ら切り離されることはあり得ないという強い自覚と意識をもっ
て、共に礼拝するのです。神の家族として、キリストのみ体と
して、不可分の者として共に礼拝をするのです。同じ神を信じ、
同じキリストの血の贖いを受け、同じ聖霊によって生かされ、
同じ愛と同じ目的を共有し、同じ永遠のみ国を受け継ぐ者とし
て、そのような自覚を持って、ひとつにしてくださったひとり
の神を崇めるのです。



 ですから、クリスチャンが礼拝会に集まるのは、個々人の
礼拝として集まるのではなく、礼拝会に集まるのです。共に礼
拝するために集まるのです。自分たちが主にあってひとつであ
ることを確認するために集まり、ひとつの民として礼拝するの
です。そこで大切なのは、主にあってひとつであるという、強
烈な思いです。互いに憎み合い、いがみ合っていては、この公
同の礼拝は不可能なのです。たとえ個人的にはどのように素晴
らしいささげ物を携えて来ていても、もし、兄弟と仲たがいし
ているのを思い出したら、そのささげ物をそこに残して、まず、
兄弟と和解しに行くことが大切なのです。兄弟をさげすみ、嫌
い、憎み、ないがしろにし、あしざまに言いながら、真実の礼
拝会はあり得ないのです。自分のために命を捨ててくださった
主を愛しているならば、主が命をお捨てになるほど愛しておら
れる人間をさげすみ、嫌い、憎み、ないがしろにし、あしざま
に言うことは出来ないのです。



 それはまた、クリスチャンたちが協力して神に奉仕をする
時、そこに共同の礼拝が形成されるという事です。クリスチャ
ンがキリストの名によって集まり、キリストの名によって協力
して働く時、たとえそれがひとつの地域教会であろうと、ある
いは管理上のひとつの教会であろうとも、あるいは有機的教会
としてであろうと、そこに奉仕という公同の礼拝が成立すると
いう事です。キリストが「2、3人私の名によって集うところ
には、わたしもその中にいる」とおっしゃったとき、ひとりだ
けの時にはそこにおられないとおっしゃったのではなく、特別
な意味において、臨在してくださるとおっしゃったわけですが、
その特別な意味とは公同性ではないかと考えます。たとえわず
かな数のクリスチャンであっても、主にある信仰に一致を具体
的に表現するとき、たとえまだまだ未成熟であり胚芽の状態で
はあっても、そこには公同性が形成されるからです。ですから
公同の礼拝には、質においても価値においても、個人の礼拝と
は異なるところがあるのです。それは私たちが判断する価値で
はなく、礼拝をお受けになる神がそのように判断されているの
です。



B. 教会自身に対する働き



 教会の働きの第二の分野は、教会自身に対する働きです。
教会は、すでに学んだように有機体ですから、すべての部分が
有機的に繋がって、それぞれの働きが互いに影響し合い、補佐
し合っていますので、それぞれの働きを別個に取り上げて語る
ことは困難ですが、一応、ここではふたつの分野に大別する事
が出来るでしょう。それは、交わりに関する働きと教育に関す
る働きです。












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