2010年11月02日

教会について 2−25

p159〜165


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C.世界に対する働き

 

 教会の働きの第三の分野は、教会の外の世界に対する働き
です。これについてはすでに「VI.教会の使命」において取
り扱いましたが、触れずじまいになっていた幾つかの点につい
て、述べておきましょう。



 教会の働きの他のふたつの分野、すなわち神に対する礼拝
と教会自体に対する交わりの働きは、永遠に続くものです。教
会の働きの中でも教育の分野は、すべての物事が明らかにされ
る時が来て、私たちにはもう学ぶ必要が無くなるのかも知れま
せん。古い黒人霊歌の中に、「私にはもうみ言葉を学ぶ必要も
なくなるのだ」と歌う、天のみ国に対する期待の歌があります
が、確かに、私たちの知識においても、生活の仕方においても、
愛においても、聖さにおいても完全にされた後は、もうこれ以
上学ぶ必要があるのかと思います。しかしその一方で、神の高
さ、大きさ、深さ、豊かさは決して計り知れず、永遠を費やし
ながら神を知るようになるのかも知れません。



 これらのふたつの分野に比べると、世界に対する教会の働
きははっきりしています。私たちが世界に対して責任を持って
いるのは、私たちがこの世界に留まっている間だけのことです。
私たちが神のもとに召されてこの世を離れて行く時、あるいは
教会がこの世から携え上げられる時、現在の私たちのこの世に
対する使命は終わりを告げるのです。私たちが再びキリストと
共にこの世に戻って来る時は、この世を裁き、支配するように
なるのかも知れませんが、それが果たして具体的にどういうこ
となのか、正確には不明なところが多く、また、現在の私たち
教会に課せられた使命ではありません。



 ともあれ、現在の教会にだけ出来る働きは明らかです。そ
れは教会の外部に対する働き、宣教の働きです。すでに述べた
ように、教会はこの働きを使命として、目的としてこの世に遣
わされ、存在させられているのです。教会は大きく分けてふた
つの方法で宣教を推し進めて行きます。第一は、教会の存在そ
のものがすでに宣教であるという意味の宣教です。教会に属す
るすべての信徒は、すなわち弱い者も小さな者も、強い者も大
きい者も、皆、互いに愛し合い助け合って生きる者です。その
生き方自体が、キリストの弟子である事の証明となり、この世
界に対する宣教の大きな力になっているのです。教会は教会と
して存在するだけで「地の塩、世の光」としての役割を果たし、
無意識のうちに、いわゆる「プレゼンス」の働きをしているの
です。  



 これは旧約時代のイスラエルの果たした役割に似ています。
イスラエルには神がいると、周辺の人々が認める事によって、
イスラエルが祝福の器となり得たように、教会の愛の共同体と
してのあり方に、周囲の人々は神の祝福と臨在を認めるように
なり、自分もまたその共同体の一員となりたいと願う事さえあ
り得るのです。



 ただこのようなプレゼンスの働きだけでは、教会は宣教の
働きを充分に果たすことは出来ません。聞く事がなければ信じ
る事もなく、宣べ伝える者がいなければ聞く者もいないからで
す。教会の使命はあくまでも宣べ伝える事であって、単に存在
するだけではありません。教会が宣べ伝えると言った場合、私
たちはすぐに説教を思い浮かべますが、説教はあくまでも宣べ
伝えるひとつの方法でしかありません。他にもたくさんの方法
があるはずです。



 また私たちが説教と言う時、そのほとんどは教会堂という
四方が壁で囲まれた、建物の中での説教を思い浮かべます。教
会堂の中にも未信者がいることでしょう。いわゆるEゼロの伝
道、すなわちクリスチャン家族に育っていながら、まだ明白な
救いの経験を持っていないというような、クリスチャン文化の
中の未信者もいるはずです。そのような人々に対する伝道は、
確かにの壁の中でも可能です。しかしそれでは真の意味での宣
教の行為にはなり得ません。教会は教会堂の外で福音を語って
こそ、初めて宣教の第一歩を踏み出すのです。ある教会堂の出
口の鴨居の上に、「あなたは今や、宣教地に入ろうとしている」
と、大きく書かれていたそうですが、教会堂の外に出る時、ま
さに私たちは宣教地に入るのです。



 そして宣教地に入るのは「説教者」だけではありません。
実際、教会堂の外で「説教」する機会など滅多にあるものでは
ないのです。宣教が説教とすり変えられてしまうと、「説教者」
だけが宣教する者となり、説教者は宣教地では宣教する機会を
持てないという事になってしまいます。宣教地での宣教者は
「説教者」であってはならないという事です。むしろあらゆる
機会にキリストを証する「おしゃべり」でなければなりません。
説教のことをギリシヤ語ではホミリーと言うのだそうですが、
この言葉はもともと会話を意味していたという事です。会話こ
そ宣教の基本です。初代の教会がそうであったように、宣教を
会話にする事によって、ほとんどすべての信徒が宣教者になり
得、教会が宣教の共同体となるのです。そういう意味では、宣
教の働きは信徒全体を動員するものであり包括的なものです。



 一方宣教には、賜物を持っている一部の者だけがこの働き
に当たるという、排除的な部分があります。先に述べたように、
パウロの伝道旅行に同行する者は、それだけの資質を要求され
ました。同じように、宣教師の働きをするのには、宣教師にな
って働く事が出来るだけの資質を備えていなければなりません。
能力を持っていない者、賜物を与えられていない者、資質を備
えていない者は、それらの働きからは排除されることになるの
です。



 とは言え、排除されてしまった者は、これらの働きにまっ
たく参画出来なくなるのではありません。それらの働きに直接
関わることは出来ないという事ですが、間接的には、やはり、
すべての信徒が参画出来るものであり、またすべきなのです。
宣教師にはなれなくても、祈る事も献金する事も出来ますし、
さらにさまざまな支援をする事が可能です。またそのような参
画がなくては、宣教師は働く事が出来なくなるのです。



 私が宣教師として任命されて、はじめて全国の教会を巡回
した時の説教は、「私の宣教の働きのために祈る事は、私を助
けるための祈りではありません。私の働きのために献金する事
も、私の働きを助けるためにするのではありません。そうでは
なく、祈るのは、祈りによって宣教に参画する事であり、献金
するのは、献金という働きによって宣教に参加する事なのです。
あなたも私と一緒に宣教のために働く事なのです」というもの
でした。当時、多くの牧師も信徒も「宣教師を助ける」という
意識で祈りまた献金していたものですが、私は「自分は乞食で
はないから助けは要りません。私が欲しいのはキリストのみ体
としての協力です。宣教は宣教師という個人の働きではなく、
教会の使命であり、ここにいる信徒全員の働きなのです」と訴
え続けました。その結果、多くの牧師からは、「頼んだわけで
もないのに、勝手に教会を巡回して来たかと思うと、生意気な
事を言って、感謝の気持ちが足りない」と、随分ひんしゅくを
買ったものです。しかし、これは極めて重要な宣教の原則であ
り、教会のあり方に関わる大切な事なのですから、海外伝道部
の先生たちのご忠告も無視して「意地」を張り通し、巡回の最
後の教会まで同じ説教で貫いたものです。



 宣教とは共同体である教会の働きであり、教会がこの世に
存在している間だけ、可能な働きです。ですから、これこそが
教会がこの世に派遣され、この世に留まり、この世の悪と戦い、
痛みに耐え、人々と悲しみを共にしなければならない理由なの
です。パウロも、早くこの世を後にして栄光のみ国に入りたい
と望みながら、まだこの世で果たすべき使命があると自覚して、
その使命の遂行のために邁進しました。私たちもまた同じよう
に、私たちの国籍がある天に帰ることを望みながら、この世に
ある間、与えられた宣教の働きに全力を尽くすのです。



 さて、先に、宣教地での宣教者は「説教者」であってはな
らないと述べた事につき、もう少し、議論を深めましょう。改
革派の人たちの中には、教会とは、肉体を持った人間が実際に
物理的に集まらなければ存在しないと主張する方がいます。教
会とはその中で説教があり、聖餐があってはじめて成り立つの
だとおっしゃるのですが、教会とは肉体が持った人間が文字通
り集まることを前提とし、要因として存在しますが、それが教
会の存在の絶対必要条件ではありません。かえって、実際には
集まっていない時にこそ、教会は社会の中で宣教者としての役
割を果たすのです。教会が四つの壁の中に閉じ込められている
時には、そこでどのように素晴らしい福音が語られていようと、
宣教者としての役割を充分に果たしているとは言えないのです。
このあたりに、キリスト教を国教とするかそれに近いほどの、
「キリスト教文化」を持った国の中で生まれた教会論と、国民
の1パーセントの何分の1のクリスチャンしか存在しない、宣
教地国の人間の理解の違いがあります。



 教会は必然的に「集まる」人々です。しかし集まった時に
教会が教会として存在するようになるのではなく、集まった時
に、教会としての必然的な表現をしているのです。しかし、集
まっていない時でも教会は教会として、地域の中に、個々のク
リスチャンの生活の場に存在しているのです。言い換えると、
一般の人々の生活の場にまで、宣教者としての教会が入り込ん
でいる事であり、まさに「地の果て」まで、教会が出て行って
いる事なのです。そこが「説教の場」になることは、まずほと
んどあり得ないでしょう。しかし、いつでも証の場となり、宣
教の場とはなり得ますし、そのようにして行くのが、ひとりひ
とりのクリスチャンの役目なのです。



 個々のクリスチャンは、あたかも大きな機械から取り外さ
れた部品のように、教会から切り離され、教会とは関係のない
教会の一部分としてではなく、み体である教会に繋がったまま
の肢体として存在しているのです。 クリスチャンすべてが、
「教会は、自分という存在を通してここに実在しているのだ、
ここで自分が生き活動している事は、取りも直さず、教会がこ
こに生き活動しているのだ」と理解すべきなのです。そのよう
に自覚して生きるべきなのです。そうすると、個々のクリスチ
ャンの職場での仕事も教会の活動の一部になります。教会のプ
ログラムのひとつとしての伝道会だけが伝道となるのではなく、
講壇から語られる牧師の説教だけが宣教になるのでもなく、買
い物をしている時も、文化サークルに出ている時も、電車の中
でおしゃべりをしている時も、信徒が生きているその時その所
が、教会の宣教の場となるのです。



 信仰の場と生活の場、礼拝の場と仕事の場、教会の場とプ
ライベートな場を分けるのは間違いです。クリスチャンは常に
礼拝をしているのです。生きることが礼拝です。そしてまた、
クリスチャンはいつでも教会の一部として、キリストのみ体の
一部として生きているのです。ですから教会の活動は、教会の
プログラムが進められている時だけに限られているのではない
のです。教会堂のドアの鍵が掛けられている時も、牧師が不在
の時も、教会は宣教地において活動をしているのです。



 このように考えると教会の活動には、教会の総意に基づい
て進められる計画あるいはプログラムと、個々のクリスチャン
の自由な意思と選択による、自発的な活動があることに気付き
ます。一般的には普通、前者だけが教会の活動と見られるので
すが、決してそうではありません。宣教としての教会という観
点から見るならば、かえって後者のほうに重要性があるのです。
すでに触れたように、宣教の基本は個々のクリスチャンの自発
的な、自由な証によるのです。



 もちろん、それぞれのクリスチャンの生活と活動、たとえ
ば結婚、仕事、社会活動、政治活動、あるいは学術研究などは、
あくまでも個人の自由と責任において行われます。それによっ
て教会全体の責任が問われることはありません。しかしながら、
それはやはり教会の働きの一部なのです。個々のクリスチャン
の生き方、考え方、行動には、キリストの命が流れ、キリスト
の精神が浸透しているはずだからです。しかし、教会が教会と
しての正当な決議に基づいて行う活動は、教会全体の責任が問
われます。



 ここでもう一度、教会とは和解の共同体であるという、基
本的な理解を思い起こす必要があります。教会とは、ありとあ
らゆる種類の人々が、キリストの和解によって和解させられた
共同体です。その種々雑多な人々が、種々雑多な思想と主義と、
考え方と、やり方を持ったままで、ただ、キリストを救い主と
して信じたという一事によって、その一事を唯一の共通要因と
して集められた集団なのです。ですから、教会は「多様性の一
致」による共同体なのです。同じ思想、同じ考え方を持ってい
る者はひとりとしていないのです。信仰による一致に達し、キ
リストの満ち満ちた身丈にまで成長するという事は、全員がま
ったく同じになる、画一的になるというわけではなく、ただ、
聖書が教える極めて基本的知識において一致し、信仰により、
愛によって繋がり、同じキリストの命によって生かされる事な
のです。



 それぞれのクリスチャンによって信仰の度合い、信仰の成
長の段階が異なります。信仰の成長が進めばおのずと一致出来
る事柄でさえ、現実には、なかなか一致出来ないのです。教会
とはそのように、まさにばらばらな考え方の者たちが同じ命を
共有して生きる、運命共同体なのです。ですから、同じひとつ
の地方教会の中に左翼的な傾向を持つ人がいても良いし、右翼
的な言動をする人がいても良いのです。もっと社会活動に参加
すべきであると考える人たちがいても良いし、社会活動より直
接伝道に力を入れるべきだという人たちがいても良いのです。
クリスチャンは小説なんぞ読むべきではないという方がいても
良いし、いや、週刊誌だって読んでおくべきだという方がいて
も良いのです。またある意味で、いるべきなのです。そのよう
な人たちが、それぞれ不完全ではありながら、キリストの命に
よって生かされ、キリストの教えによって新たな方向付けをさ
れ、聖霊の力によって新たな方向に歩ませられている事実をも
って、それぞれの生き方と方法で、社会の中で証をして行くの
です。教会は、それらひとりひとりのクリスチャンの、右翼的
傾向や左翼的言動に責任を持つ必要はありません。それは彼ら
が教会とは別のところで別の要因で持っている考え方なのです。
しかし、それら個々のクリスチャンの考え方の中にもキリスト
の教えが反映し、生き方の中にもキリストの命があらわであり、
聖霊のお働きが事実として存在していることが大切なのです。
そして、それこそが証の要因なのです。



 その一方で、ひとつの地域教会全体としては、あるいは有
機的教会としても、ある特定の政治的信条や社会的見解など、
キリストへの信仰以外の要因を掲げてはならないのです。もし
それをすると、その教会はたちまち排除の教会になってしまう
からです。教会は和解の共同体であり、排除の共同体となって
はならないのです。たとえば、平和を愛し、平和を作り出すこ
とにはすべてのクリスチャンが賛成すべきであり、教会の宣言
となっても良いのです。それはキリストへの信仰、キリストの
教えへの従順に直接繋がることだからであり、たとえそのよう
に謳っても、信仰以外の要因を持って排除する事にはならない
からです。しかしその平和実現のために祈るだけにするか、平
和運動に参加すべきか、特定の平和団体に所属すべきか、政治
運動に身を置くべきか、武器を持って平和のために戦うべきか
などは、それぞれの文化背景や受けた教育、あるいは体験や考
え方、さらにはクリスチャン信仰の度合いによっても異なるの
です。それをひとつに限定することは排除になるのです。



 したがって教会は、個々のクリスチャンがキリストに従う
者としての信仰と良心をもって、社会のあらゆる分野において
活発に生き発言するのを推奨していくべきです。たとえある者
たちは、クリスチャンとしての成長が未発達なために、さまざ
まな間違いを犯すこともあり得たとしても、それを恐れる必要
はありませんし、それに対して教会として社会的責任を負う必
要もありません。しかし、教会が共同体として何かを計画し実
行して行くならば、それは、あくまでも聖書が直接教える信仰
の分野に留めるべきなのです。それを超えると、排除の共同体
になり、また、教会として社会的責任をも負わなければならな
くなります。












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