2010年11月03日

教会について 2−26

p165〜172


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IX.教会の装備・賜物



 教会が与えられた使命を遂行し、働きを立派にやり遂げる
ために、神は、教会を装備してくださいました。教会に対して、
「徒手空拳で仕事をせよ」とおっしゃったのではありません。
教会が神の贖いの御計画の一端を担う大切な働きである宣教を
成し遂げ、遣わされたこの世界でしっかりと生きて成長して行
けるように、神は聖霊の賜物という装備を与えてくださいまし
た。教会は神に与えられる能力、聖霊の賜物によって神に託さ
れた使命を遂行し、働きを成し遂げて行くように定められてい
るのです。



 教会の歴史の中で、聖霊の賜物という主題について論じら
れ始めたのは、聖霊の働きを強調したペンテコステの信仰を標
榜する人たちによってであり、せいぜいここ100年のことです。
最近は伝統的なペンテコステ派に属する人々より、むしろカリ
スマ運動や第三の波運動の人々が、この分野に関心を持って活
動しているようです。しかし、何分、教会論がしっかりしてい
ないものですから、賜物に対する興味だけが先走りしている傾
向もあり、いろいろな混乱も起こっているようです。



A.賜物の理解



 そこで聖書が教える賜物について学ぶ前に、伝統的なペン
テコステ派の人々が、一般的にどのように賜物を理解し、それ
に対してカリスマ運動や第三の波運動の人たちがどのような理
解をして来たか、簡単に見ておきましょう。



1.伝統的ペンテコステ派の人々の一般的理解



 伝統的ペンテコステ信仰を持つ人々にとっては、何と言っ
ても聖霊のバプテスマの経験こそが、自分たちの特筆すべき経
験であり、ペンテコステ信仰の基本でした。その中から同じく
聖霊の働きに関わり、また、聖霊のバプテスマの目的とされて
いる宣教の力にも関わる、聖霊の賜物が理解されて来ました。
そのためか、幾つかの特徴的な考え方が生まれました。その第
一は、聖霊のバプテスマが超自然的であるように、超自然的な
賜物が強調され、自然の能力や後天的な習得による能力、ある
いは技能などというものにあまり関心が払われなかったことで
す。その結果、教会に与えられる賜物の範囲を狭め、行使の場
も狭めて来たきらいがあります。第二に、そのような超自然の
賜物の強調から、Iコリント12章4−11節に列挙されてい
る賜物をすべて超自然の賜物と考えて、さらに、これらの賜物
は聖霊のバプテスマを受けた者にだけ与えられるものであると
理解し、これらの賜物に対する不必要な思索を加えたことです。



 そのために、聖霊のバプテスマを経験していない人たち、
また聖霊のバプテスマを否定する教会には、聖霊の賜物が与え
られていないかのように言う独善的態度に陥り、他の教会との
間に不必要な隔たりを設けてしまいました。ただし時代が進む
につれて、ペンテコステ信仰を持つ人々もかなり公平に聖書を
読む態度を身に付け、最近では伝統的な理解の立場を取る人は
まれになって来ました。



2.カリスマ・第三の波運動の人々の一般的理解 



 伝統的なペンテコステ運動に啓発されて興りながら、神学
的にはそれに反発するようなところを多分に持つこの運動は、
賜物の理解においてもペンテコステ派の人々の考え方から発生
しながら、それに捕らわれず、聖書的発展をさせたところがあ
る一方、反発しながらも捕らわれている所もあります。 



 この人々は、賜物というものをペンテコステ派の人々より
も広い意味で捕らえ、超自然的な賜物だけではなく、生来の能
力、資質といったものから、後天的に習得した能力や社会的立
場、さらにはそれに付随する権力などまで含めて考える傾向を
見せています。これは、より広範囲に聖書を読み、たとえばロ
ーマ書12章3−8節やエペソ書4章4−16、あるいはIコ
リ7章なども取り入れた考え方です。



 またこの人々の特徴には、ペンテコステ派の人々と同じよ
うに、Iコリ12章に列挙されている9つの賜物は、すべて聖
霊のバプテスマを受けた者だけに与えられると、判断している
ように見られる点が挙げられます。と言うよりも、彼らは一般
に、聖霊のバプテスマに対する見解が、伝統的ペンテコステの
信仰を持つ人々と異なり、異言を語らなくても聖霊のバプテス
マを受けている事があり得ると主張し、聖霊のバプテスマの証
拠はむしろ、超自然的賜物にあると言おうとしているように見
受けられます。彼らはしばしば、癒しの賜物を持っている事が、
あるいは預言の賜物を持っている事が、聖霊のバプテスマを受
けている「しるし」であると主張しているからです。「私は異
言を語らない。しかし癒しの賜物を持っている。聖霊のバプテ
スマにどうして『低い賜物である』異言が必要であろう」とい
うような、言い方を聞くのです。彼らは異言を否定するのでは
なく、異言が聖霊のバプテスマの「唯一の確かな証拠」である
こと、異言の重要性を否定するのです。



 彼らの見解の良い点は、より広範囲の賜物を認めた事で、
多くの信徒たちがその賜物を行使する勇気と、機会を与えられ
るようになったという事です。教会の働きの様々な分野で、積
極的に自分たちの能力を用いて奉仕をする者が、増えて来たと
いう事が言えるのではないかと考えます。



3.聖書に見る聖霊の賜物

 

 伝統的なペンテコステ派の人々の賜物の理解は、初期の極
めて素人的な聖書の読み方ではありましたが、自分たちの体験
のモデルを聖書の中に見つけ出そうとした、あるいは、自分た
ちの特異な体験を聖書によって説明しようとした、素直な態度
から生まれたものと言えるでしょう。細部においては様々な誤
解を含みながら、歴史に揉まれ続ける事によって、正しいもの
になりつつあると考えられます。それに対し、カリスマ・第三
の波運動の人々は、自分たちが伝統的に持っていた神学の枠の
中で聖霊の賜物を理解しようと試み、結局、聖霊の自由闊達で
複雑な働きである賜物を、聖霊のことをあまり知らない時代に、
聖霊抜きで構築した、「神学の枠という牢獄」に閉じ込めてし
まったと言えそうです。このような運動がどのくらい継続する
かは非常に興味深いことです。  



a.賜物の教会論的見方



 聖書に記されている聖霊の賜物は、個人主義的なキリスト
教には理解出来ないものです。なぜなら、聖霊の賜物は徹底し
て教会論的な理解を必要とするからです。賜物に「聖霊の」と
いう修飾がついているため、聖霊論で取り扱われるものと考え
がちですが、むしろこれは教会論で取り扱われる主題です。た
とえば、Iコリント12章から14章に至るいわゆる賜物の章
は、賜物に焦点をあてて読むと正しく理解することが出来ませ
ん。これらの章は教会について語っているものであり、とくに
教会の中での多様性の一致を強調し、それを賜物という具体的
な事柄を取り上げて説明する中で、聖霊についてもある程度の
説明が加えられているのです。



 この章全体を「聖霊の賜物の章」と考え、それに続く章ま
でも賜物についての言及と見るようになってしまったのは、多
分、翻訳の影響によるところが大きいと思います。1節におい
て「御霊の賜物について」と翻訳されている部分は、英語にお
いても日本語においても、大部分の聖書がそのように訳してい
ますが、原語では「霊的な事柄」というほどの意味であって、
聖霊の賜物という意味はありません。このように訳したのは、
4節以降に聖霊の賜物についての言及が続いているため、それ
に調和させるためなのでしょう。



 しかしもともとの意味が「霊的な事柄」だとすると、聖霊
の賜物と理解する必要はなく、むしろ3節までを見ると、救い
と聖霊の関係、あるいは聖霊による新しい生き方について述べ
ているのであり、教会論の範疇に入ります。そして、その教会
論の中で、4節から聖霊の賜物の多様性、あるいは働きの多様
性を述べると共に、「同じ御霊」、「同じ神」、「ひとつの体」
「ひとつの御霊を飲む」などの言葉をもって、一致ということ
を語っています。すなわちパウロは、ここにおいて多様性の一
致という、教会の最も大切な局面を教えたのだということが明
らかです。そして話を自然に体のたとえに移行させ、キリスト
のみ体もまた普通の体と同じように、各々の肢体に与えられた
能力である賜物が有機的に機能し、互いの助け合いとなり、全
体の調和となって成長して行くのだと語っているのです。です
から、パウロの筆の運びから見ると、パウロが1節で言おうと
したのは「聖霊の賜物についてぜひ知っていて欲しい」という
ことではなく、「霊的な事柄である『教会について』、なんと
しても知らないでいて欲しくない」という事だったと、考える
ほうが正しいのです。



 パウロは確かに聖霊の賜物について語っています。ただし、
それは教会というものが多くの異なった人々、さまざまな能力
や資質を持った人々によって構成されながら、同じ聖霊によっ
て一致調和して存在すべきものであるという事を、賜物と働き
という側面から説明したのです。そして結論的に、教会のすべ
ての構成員は自分を喜ばせるためではなく、全体の益になるこ
と、すなわち『教会の徳を高める』ために、自分に託されてい
るあらゆる能力と資質を用いて、生きるべきであるということ
を教えたのです。



 このように読んで見て初めて、教会の中における、またひ
とりひとりの信徒の中における賜物の位置、重要性というもの
が解って来るのです。伝統的ペンテコステ派の人々の理解にし
ても、カリスマ・第三の波の人々の理解にしても、決定的に足
りなかったのはこの教会論的な理解です。確かに賜物は教会全
体の益のために用いるのだというような、表層的な教えはあり
ましたが、それは有機体としての教会を理解しないままでの教
えですので、表層的でしかあり得ないのです。



 まず、賜物の出所はそれがどのような賜物であろうと、同
じ主、同じ聖霊でです。そこに基本的な有機性を見なければな
りません。主が御心のままに、賜物を分配なさるのです。その
種々の賜物の中に、主の御心による有機的繋がりを認めなけれ
ばなりません。ばらばらの、互いに関連性のない、個々の賜物
などはあり得ないのです。そして賜物は具体的に繋がりを持っ
て活用させるべきものなのです。



 次に、賜物は教会に与えられた物であって、個々のクリス
チャンの所有として与えられたのではありません。キリストの
み体という共同体に与えられ、キリストのみ体の個々の肢体の
管理と活用に任せられていながら、あくまでもみ体全体の益の
ために与えられているのです。個人主義的クリスチャンは、こ
のようなことにまったく関心を示しません。自分に託されてい
る賜物を自分に与えられたものと勘違いし、すべて自分の益の
ために用いているのが普通であるだけでなく、自分の能力を神
から託された賜物である事さえ理解していないのです。本来教
会に与えられた賜物を託された個人が、教会とは何ら関わりの
ない自分の家庭、仕事、儲け、趣味などのために用いているの
です。また、主の栄光のためと言いながら、教会の事など少し
も考えずに自分の好き勝手な事ばかりして、迷惑を掛けている
人もいます。本来成長したクリスチャンの仲間に入れられるべ
き宣教師たちの間にも、地域教会や有機的教会の事を爪の垢ほ
ども考えないで、自分の功績ばかり追及しているとしか思えな
いような、活動をしている者が数多くいます。



 賜物は教会の中で、教会の調和と一致の理念の中で用いら
れるべきものです。ですから、体のすべての肢体が、常に全力
で機能する事が良い事ではないように、個々のクリスチャンに
託された賜物も、常に用いられる事が良いとも限りません。体
の他の部分と調整するために、半分の力だけを用いたり、まっ
たく休んだりする事さえ大切な場合があります。教会の中の強
い者が、弱い者のために歩調を緩める思いやり、痛んでいる者
のために荷物を軽くして共に担ぐいたわり、失敗して落伍しそ
うになっている者を裁かず、手を伸ばしてあげる寛容が必要な
のです、御霊の賜物は御霊の実によって覆われて用いられなけ
れば、誇り高ぶりとなり、痛め傷つけるものとなってしまうの
です。賜物は教会全体の益のために与えられています。教会に
益を及ぼさないような賜物の用いられ方は間違っています。



 このようにして、賜物が教会という共同体の中で共同体全
体の益のために用いられて行くことによって、共同体全体とし
て、主に与えられた使命を遂行して行けるようになるのです。
賜物には宣教の働きに直結した物もあれば、直接には何の関わ
りもないように思える物もあります。教会は機械的組織ではな
く有機的共同体です。すべての部分の働き、すべての肢体の機
能が、体全体の益のために活動し、体全体として与えられた働
きを成し遂げて行くのです。



b.賜物の種類



 ところで、先に、ペンテコステ派の人々とカリスマ第三の
波の人々に、賜物の理解に違いがある事について触れましたが、
この点についてもう少し説明を加えながら、話を進めましょう。
初期のペンテコステ運動の人々には、賜物を超自然の能力に限
る傾向がありました。現在ではそこまでは行かなくても、超自
然の賜物をより重要視する傾向があります。超自然の賜物を強
調するのは、何もペンテコステ派の人間に限った事ではなく、
カリスマ・第三の波運動の人たちの間にでも普通の現象のよう
ですが、ペンテコステ派の間にその傾向がより強いと感じられ
ます。一般的に、ペンテコステ派の人々は生まれながらの能力
や、学習や訓練によって習得した能力を、単なる能力とみなし
て賜物とは認めないのに比べ、カリスマ・第三の波に属する人
たちは、より広く理解して、天性の能力、後になって習得した
能力、さらには生まれつきの性格や資質、さらに資産や財産ま
でも賜物と見るようです。



 ペンテコステ派の人々は「聖霊の」という修飾語を大切に
し、聖霊に直結しない能力は聖霊の賜物とは看做したくないよ
うに感じられますが、「聖霊の」という言葉をそのように狭く
理解する必要はないと考えます。パウロの記述によれば、聖霊
が、召されたひとりひとりをキリストのみ体にバプタイズして
くださったのですが、また、「神は御心に従って、体の中にそ
れぞれの器官を備えてくださった」と語り、 (Iコリ12:
18)バプタイズされたひとりひとりも、明確に「賜物」とい
う言葉こそ用いてはいませんが、賜物として教会に与えられて
いるのだとも、言っているように読み取れます。これはエペソ
書4章3−16で語っている事柄と、基本的に同じです。信徒
たちの能力や資質が賜物であるだけではなく、信徒たちそのも
のが神から教会に与えられた賜物なのです。神は、悪魔の子と
して自分の父に仕えていた者たちを、キリストの血潮で買い取
ってご自分の所有とされ、その買い取られた者を賜物として、
教会にお与えになったのです。ですから、聖霊によってバプタ
イズされた者は、所有するすべての資質すなわち、力、能力、
性格、身分、学力、資産、地位などと共に、あるいは弱さ、不
完全さ、失敗もあり成功もあった過去の様々な経験などをも含
めて、キリストによって、ご自身の血潮をもって聖められ、教
会に与えられたのです。ローマ12章に列挙されている賜物の
中には「分け与える人」や「慈善を行う人」が含まれています
が、これは賜物が単なる能力だけに限られたものではなく、資
産とか家柄というものまで含んだ、広い概念であることを示し
ています。



 ペンテコステ派の人々は生まれながらの資質や、天性の資
質などは聖霊の賜物ではないと考えたり、超自然の聖霊の賜物
との間に区別を設けたりする傾向がありますが、それを正当化
できる聖書の言及はありません。ローマ12章に挙げられてい
る賜物はすべて「自然の」賜物です。「預言」でさえ超自然と
考える必然性はありません。パウロがルカ文書と同じような意
味で、「預言」という言葉を用いたということは大いにあり得
ますが、そうだとすると、ここで言われている預言は必ずしも
超自然の預言と理解する必要はなく、神のみ言葉を預かって語
ること、すなわち現代の説教に近いものも含まれていると、考
える事が出来るからです。そうすると、Iコリント12章の9
つの賜物も、すべて超自然の賜物と理解しなければならない理
由は無くなります。それはまた、この9つの賜物が、聖霊のバ
プテスマを受けた者だけに与えられるものであるという理解も、
根拠が無くなります。



 とは言え賜物の中には、確かにペンテコステ派の人々が強
調する、直接聖霊が関わる超自然的な能力もあり、また、聖霊
のバプテスマを受けた者だけが持つ事が出来ると、考えられる
賜物もあります。たとえば、使徒の働きの記述によりますと、
異言は常に聖霊のバプテスマと関連付けられています。著者の
ルカはパウロの教えを受けた人物であり、使徒の働きがパウロ
の目に触れた可能性さえある事を考え合わせると、そこにパウ
ロの神学との協調性が充分に考えられます。そうすると、パウ
ロが語る異言の賜物は、聖霊のバプテスマを受けた者だけが持
つことの出来る賜物であると、仮定することが可能です。少な
くても、聖書からも実際の体験からも、この仮定を否定するこ
とは出来ません。



 ペンテコステ派の人々が、Iコリ12章の9つの賜物を持つ
ことが出来るのは、聖霊のバプテスマを体験した者だけである
と主張したのは、その体験があまりにも素晴らしく、有頂天に
なってしまったからとも言えますが、もうひとつの理由は、そ
の体験をした者たちが、より積極的に、より大胆に、より頻繁
に、そしてより効果的にそれらの賜物を用いていたという事実
があったからです。



B.賜物の活用



 聖霊の賜物は非常に幅の広い概念であり、無理に聖霊との
関連を強調する必要はないと考えられます。「聖霊の」という
修飾は、教会というものが1から10まで、すべて聖霊との関
係によって存在し、成り立ち、機能しているという事実から用
いられたとのだと判断されます。キリストがお語りになった譬
えの中に、主人が遠くに旅立ってまた帰って来るまでの間、僕
たちが仕事を続けることが出来るように、タラントが預けられ
る物語があります。これは、キリストの昇天から再臨までの間、
弟子たちに託される仕事とその仕事のために預けられる賜物を
物語っているのですが、ここで、タラントをお預けになってい
るのはキリストご自身です。つまり聖霊の賜物は、キリストの
賜物でもあるということなのです。



 キリストのタラントの譬えで大切なのは、託されたタラン
トを忠実に用いることです。預けられたタラントの多少に関わ
らず、また、儲けの多少にも関わらず、信頼され、預けられた
ものを、忠実に用いることが最も重要であると教えられていま
す。用いられなかったタラントは取り上げられてしまったこと
に、注意を促すべきです。



1.賜物の自由な活用



 キリストのみ体にバプタイズされたすべての人々が、教会
に対する賜物であり、それらの人々が持っている、あらゆる能
力や資質も賜物であるという事ですから、賜物をまったく持っ
ていない信徒というものはありません。すべての信徒が何らか
の形で互いに貢献し合い、教会全体としてキリストから託され
た使命を遂行して行くのです。



 従って非常に重要なことは、信徒たちの活動です。本来教
会というものは、すべての信徒たちの自由闊達な、有機的活動
で成り立つべきものです。しばらく前に、「信徒の動員」とい
う意味の言葉が盛んに用いられたことがありました。すべての
信徒が賜物を持っているのであるから、その賜物を充分に生か
すために、できるだけ多くの信徒たちを動員するのが、教会の
成長の秘訣であるという考え方です。これは、もっぱら教職だ
けが働いている現在の教会活動のあり方に警鐘を鳴らし、もっ
と信徒たちを生かし、賜物を用いて行くという意味で聞くに値
する意見です。しかし、本来、信徒は動員されてはならないも
のです。動員されるとは、もともと活発ではなく、放って置か
れたものを取り込んで用いて行くということですから、教会の
本当の姿を現してはいないのです。教会とは、始めから信徒の
活発な活動、自発的な参与参画を前提として存在するものであ
り、信徒を動員しなければならなくしてはいけないのです。



 聖霊が召されたものを教会にバプタイズしてくださった時、
その人間がキリストのみ体である教会の、活発に機能する肢体
となるようにと、バプタイズしてくださったのです。体に繋が
って栄養だけはもらいながら、何の機能も果たさず、少しも役
に立たない「いぼ」のようになるために、バプタイズしてくだ
さったのではありません。信徒たちは教会の寄生生物ではあり
ません。信徒たちが教会なのです。現在の私たちの教会の最大
の問題のひとつは、教会が教職者たちの商店となり、信徒たち
はお客さんになっていることです。教職者たちが主役になって、
信徒たちは脇役に回されてしまっていることです。 
    











posted by MS at 00:00| Comment(0) | 聖書の学び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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