2010年11月04日

教会について 2−27

p172〜179

 
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 2.賜物を活かす賜物



 信徒たちの中で、指導的役割を果たす賜物を持っている者が
指導者になる事は当然であり、それはそれで良いことです。し
かし、その指導者たちが他の信徒たちの役割としている働き
を、取り上げてしまってはならないのです。エペソ書4章のパ
ウロの教えを読むと、教会の中の使徒、預言者、伝道者、牧師
または教師の役割は、自分たちだけですべての働きをやり遂げ
てしまう事ではなく、信徒たちを整えて、彼らが働く事が出来
るようにして行くこと、すなわち教会に賦与された様々な賜物
を活かす事です。言うならば、様々な賜物を活かす賜物を持つ
者が指導者です。ここで「整える」と訳されている言葉は、元
々、外科医が骨折などを治療するという意味で用いられていた
もので、修理をするとも準備をするとも訳される言葉です。キ
リストがガリラヤ湖のほとりで漁師たちをお召しになった時、
漁師たちは網を繕っていたと言われていますが、この繕うと訳
された言葉が、原語では整えると訳された言葉と同じであると
いう事です。



 従って、教会の指導者たち、現在で言うならば教職たちを含
む働き人は、賜物を活かす賜物を与えられた信徒であり、他の
信徒たちが、各々に任せられた賜物を最大限に活用し、教会と
して活動をして行く事が出来るように、予め修理をし、準備
し、整えておく事こそが彼らの仕事です。たとえば、宣教師が
宣教の働きを進めて行くのは当たり前ですが、その働きを自分
ひとりの力で進め、自分の功績とするのではなく、あくまでも
教会の業として宣教を進め、自分の周囲の信徒たちすべてと共
に賜物を活かし合い、宣教の業に参画して働けるようにするの
です。信徒たちが宣教の業に参画し、賜物を活用できる働き場
を見つけ、働きをよりよく遂行出来るように賜物を整え、教え、
指導し、訓練し、励まし、また、修繕をして行くのです。牧師
が牧会の働きをするのは当然ですが、これも牧師の専門の働き
と考えて、ひとりで進めるのではなく、教会の信徒たち全員の
参加を促し、全員の力で共同の業としてやって行くのです。信
徒たちが自分たちに託された賜物を用いて、司会をし、奏楽を
し、小さな集会の責任を持つ事は、普通に行われている事でし
ょう。また、役員として牧師を補佐する信徒たちもいる事しょ
う。牧師の右腕と言われるような、便利な信徒も出て来ること
でしょう。しかし、あらゆる集まりで説教をし、聖書を教え、
責任をもって教会の活動計画を作成し、伝道のプログラムを考
案し、訪問伝道に歩き回り、家庭集会の開催を推し進めていく
信徒がいて良いのです。と言うより、そのような信徒が出現す
べきなのです。信徒は牧師の右腕ではなく、キリストのみ体の
肢体なのです。



 牧師の働きは、現在の牧師たちが行っているような働きすべ
てを、信徒たちがそれぞれに任せられた賜物を用いて、協力し
ながらやり遂げられるように、整えて行くことです。ひとりの
信徒には無理であるならば、多数の信徒で出来るようにするの
です。現在の私たちの団体の教会は、公平に見てなかなか優れ
ているものが多いと思います。しかし、牧師より説教が上手な
信徒がいる教会は、滅多にあるものではありません。牧師より
聖書を教えるのが上手な信徒がいる教会も、知りません。教会
の中には、牧師より優れた説教の賜物を任されている信徒もい
るはずであり、牧師より上手に教えることが出来る賜物を、委
ねられている信徒もいるはずです。



 教会の中には、牧師には出来て信徒には出来ないという働き
はありません。教職にだけ許されていて、信徒には許されてい
ない働きがあるという考え方は、たとえ実際的な多くの理由が
あるにせよ、基本的に誤った教会論に基づいていると言わざる
を得ません。たとえば私たちの教団では、原則的に、正教師で
なければ洗礼式と聖餐式、ならびに結婚式と葬式を執り行うこ
とが出来ません。信徒の中に聖職者と平信徒という二重構造を
持つことは誤った差別です。もちろん、たとえば結婚式や葬式
といった、より社会的要因の大きな事柄については、社会的な
信用などを重んじて、ある程度年齢の進んだ正教師が執り行う
ことには、それなりの意味がある事でしょう。また法律的に代
表役員となっている牧師には、牧師にしか出来ない働きもある
ことでしょう。しかし、教会の働きとして、洗礼と聖餐は福音
宣教の基本であり、宣教の一部です。それを信徒の集団である
教会から取り上げ、教会の中の少数者に過ぎない者の独占にす
るのは、聖書の教えに反します。システム、制度、組織が、自
由闊達な賜物の性格を殺してはならないのです。



 教職者制度は長いキリスト教の歴史の中で形成された習慣で
あり、誤った教会の誤った伝統です。プロテスタント教会は、
カトリック教会に反対して形成され、神学も多くの分野で反カ
トリックではありましたが、聖職者を中心に発展させられた神
学と制度は、多くの分野でそのまま引き継がれてしまいまし
た。余計な分野でカトリック教会と戦いたくはなかったのか、
真実な意味で聖書の教えに戻ることがなかったかです。



 プロテスタント諸教派の中でも、「信徒の活動」という様相
が強かった、アナバプテストや分離派の中には、急進的な聖書
主義を採る人々が出現し、聖職者中心主義から信徒中心主義に
移行して行きましたが、この人たちがプロテスタント教会の中
心になる事も、神学の分野で指導的立場を取る事もありません
でした。神さまがそれをお許しにならなかった理由が、他にあ
るのでしょう。ただ、はっきりしている事は、現在の多くの教
会が取り入れている教職制度は、多くの局面で聖書の原則に反
し、本来の、信徒の集団としての教会のダイナミックなバイタ
リテイー、自由闊達な活力を失わせる傾向にあるということで
す。指導者の役割は、信徒全員が賜物を活かして主に仕え、教
会の徳を高めて行けるようにすることです。
  


3.正当化出来る指導者制度



 指導者制度は、賜物を活かしたものでなければなりません。
現在の教職制度の存在が正当化されるのは、教職制度そのもの
が賜物を生かした制度となり、また、賜物をより活発に活用さ
せる役割分担となる場合だけです。すなわち、教職制度という
制度があるから、その制度に則って教職を育てるのではなく、
賜物を活発に用いて活動していることが教会全体に認められ、
また受け入れられ、さらに指導者としての資質も品性も備わっ
ていると判断されて、教職者として押し出され、立てられるの
ならば良いのです。ところが現実は、そのような賜物の行使が
認められる前に、聖書学校に送られ、聖書学校を卒業すると教
職者になる資格が与えられるという道筋になっています。その
結果、教職者として必要な賜物を与えられていない者が、教職
者になってしまう悲劇が起きています。ない袖は振れぬと言い
ますが、ない賜物は行使出来ないのです。牧師になるに相応し
い賜物を持っていない者が、牧師となってはいけないのです。
一方、教職者と言われる立場とその働きで主に仕えるべき、指
導者としての賜物を与えられている多くの信徒たちが、教職者
になれないばかりに、賜物を活かすことがないでいるという、
悲しい事実も存在します。



 聖書学校が、教職者になるに相応しい賜物と資質を示して
いる者に、さらに良い訓練の場を提供するためにあるのならば
良いことです。しかし実情は、聖書学校を出ていない者は教職
者とはなれないか、非常になりにくいのです。聖書学校という
狭い門を通る事が出来るのは、ごく僅かの者だけです。多くの
者は賜物を与えられ、それを用いたいと願い、その場を求めて
いながら与えられないで、教会の椅子を暖めるだけの信徒にな
っています。少数の者だけが賜物を用いる場を与えられ、賜物
を磨き、教職者となる資質を見せていますが、彼らの中のほと
んどが、聖書学校に入るだけの条件は整わず、結局、賜物の最
善の行使が出来ないでいます。



4.賜物の活用と謙遜の美徳



 教会は、ありとあらゆる賜物が自由闊達に行使され、賜物
を行使する者同士が互いに認め、互いに尊敬し、互いに受け入
れ合う事によって機能し、与えられた使命を果たして行くこと
が出来るのです。どのように小さく見える賜物でも、それが主
の栄光と教会の益のために用いられる時は、大いにそれを喜び、
感謝し、認め、受け入れて行く事が肝要です。時には、賜物が
道筋を外れて、主の栄光にも教会の益にもなっていないことさ
え出てくるでしょう。それをまた上手に修正し、正しい賜物の
用いられ方に、直していく賜物を持っている人も出てくること
でしょう。賜物の行使は大いに認められ勧められ、励まされ受
け入れられるべきです。賜物は隠しておく謙遜の美徳のために
与えられたのではなく、用いられるために与えられたのです。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 日本人は、自分の能力を隠してお
くことに美徳を感じます。ある時、お
花を教えて生計を立てている姉妹に、
講壇の横のお花を生けてくださるよう
にお願いしたところ、「私など、とて
もそのようなことは・・・・」と断ら
れてしまいました。「こんな貧乏教会
の小さなお花を、何で私が生けなけれ
ばならないの?」と言われたのかと、
思わずひがみそうになりましたが、お
断りするのが、美徳であると考えてお
られた様子です。それに比べると、私
の愛するフィリピン人たちは、謙遜と
いう言葉をあまり知りません。ちょっ
と教えると何でも出来ると思い込みま
す。お花のことなど常識程度しか知ら
ない家内が、フィリピンの聖書大学の
女子学生たちに、日本の文化という話
の中で、2時間ほどお花の実践をし
た事があります。すると、その女の子
たちは早速、「私たちはお花を知って
いる」と言い出しました。フィリピン
人は天真爛漫なでしゃばりです。フィ
リピンで育った私の娘に、「私は知っ
ている」と言わさず、「わたしに出来
る」と語らせないために、随分苦労し
たものです。フィリピン人には申し訳
ないのですが、フィリピン人と初めて
お付き合いをする人は、彼らの「安請
け合い」に注意しなければなりません。
何でも気軽に「俺に任せておけ。大丈
夫」と言って安心させてくれるのです
が、まず、ほとんどの場合は、何だか
んだで、結局、出来ず仕舞いに終わっ
てしまうのがオチです。



 ですから、フィリピン人クリスチ
ャンは、教会で伝道の話をすると、す
ぐ、伝道について知っていると思い込
みます。すぐ、自分にも出来ると考え
ます。そして、誰にも相談しないで、
適当なところで伝道を開始します。多
くの場合は、失敗に終わります。しか
し、10にひとつくらいは成功します。
何もしないよりは余程良いのです。そ
して失敗した90パーセントの者も、
まったく悪びれず、深刻にもならず、
ちょっと励まし指導すると、また試み
ます。私が北部山岳地で14年間働い
て、宣教師を辞める時には、9つの教
会と、およそ、50ほどの伝道所が建
てられていましたが、そのほとんどが、
このようなフィリピン人の性格から来
る、信徒たちの自主的な伝道活動によ
るものでした。賜物を用いると言う事
では、フィリピンの教会は日本の教会
より、ずっと優れていると言わざるを
得ません。宣教師として私がしたこと
は、彼らをおだててその気にさせ、そ
の気にさせ続けて止めなかった事だけ
です。神は彼らにも、賜物を豊かに与
えておられたのです。自分に任せられ
た賜物について誇ることは愚かですが、
隠すことはさらに愚かです。賜物は主
に委ねられた物であって、自分の物で
はないのです。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 賜物は用いられなければ失われてしまいます。反対に用い
られると増えて行きます。それはキリストが、タラントの喩え
をもって説明しておられる通りです。私たちの教会は実に多く
の賜物を失って来たのではないでしょうか。また、失いつつあ
るのではないでしょうか。その理由のひとつが、日本人の美徳
である謙遜であるとしたら、謙遜もほどほどにと言いたくなり
ます。



5.賜物の活用と寛容



 日本人はまた、異常なほど間違いを恐れます。間違いや失
敗を指摘されることを非常に恥ずかしい事として嫌います。ま
た、間違いを犯した人や失敗をした人をなかなか許すことが出
来ず、あれこれと言い続けます。まさに一億総批評家です。寛
容を持ち合わせず、寛容を期待出来ないのです。そのために、
何事をするにも非常に慎重になり、間違いを犯さないように、
準備に大変な時間と費用と労力を費やします。立派に物事をや
り遂げるために、慎重な準備をするには越した事はありません
が、物事を最善にやり遂げるためというより、他人から後ろ指
を指されたくないから、後で批判されたくないからと言って、
慎重に、慎重に物事を準備する事が、いかに多い事でしょう。



 日本のことをよく知っているイタリア人が、「日本人は百
円のビジネスに千円かけて準備をする」と笑っていましたが、
笑えないところがあります。確かに日本人は、石橋を叩いて渡
らないどころか、叩きすぎて壊してしまい、結局、渡れなくし
てしまう事があるからです。その点、アメリカ人などちょっと
叩いただけですぐ渡り始めます。フィリピン人などは叩きもし
ないで先ず渡り始めます。ですから何でもすぐに始まります。
始まってすぐ失敗しても、誰もあまり厳しい批判もしません。
失敗した本人もたいして悪びれる様子もなく、懲りずにまた何
かやり出します。フィリピン人にとって大切なのは、何か新し
いことを始める事で、それを持続する事ではありません。です
から国家プロジェクトから始まって、町内会のプロジェクトま
で、毎年新しい事が始められ、2、3ヶ月後にはそれが放棄さ
れて建物は廃墟となり、施設はみな放棄されて泥棒の盗むまま
にされます。そして次の年にはまた新たなプロジェクトが作ら
れ、盛大に完工式が行われ、開催式が挙行されます。人々は食
べて歌って楽しみます。そしてまた来年が来るのです。



 このような外国人たちと協力して仕事を進めると、歩調が
合わずに大変苦労します。私たち日本人があれやこれやと考え、
将来のことを予測し、想定し、資源を調査し、持ち駒を評価し、
可能性を考えている間に、彼らはさっさと始めてしまうのです。
そして、日本人がやっと「よし、やれそうだ。やってみよう」
と言って重い腰を上げ、話に加わろうとする時には、もう彼ら
は他の事を始めているのです。「あれ、あの話はどうなったの」
と言うと、「何を今さら。あれは上手く行かなかったから、も
う止めにして、次の方法を試しているところじゃないか」とな
るのです。それぞれ長所短所がありますが、賜物を活用すると
言う意味では、フィリピン人のやり方に軍配が上がります。賜
物は用いられてみて初めてその有無が判るものであり、用いら
れなければ有無も判らず、改善する事も磨きをかける事もない
からです。



 本来、教会の働きはビジネスの働きと違い、専門家集団の
仕事ではなく、基本的に素人の仕事です。賜物を用いようとし
て失敗する人がいても、それを受け入れ、許し、励まし、慰め
る人がたくさんいなければなりません。寛容のないところに、
本来の自由闊達な賜物の活用はあり得ません。賜物の活用には
必ず失敗が付いて回るからです。さらにまた、喜んで他人の失
敗の後始末をする賜物を持っている人が、現れなければなりま
せん。「聖徒たちを整える」という言葉には「修理をする」と
いう意味もあるのです。整えるとは修理をし、後始末をし、次
に備えることです。そのような寛容な精神を持たずには、賜物
の力は発揮されないのです。



 日本では、あまり洗練された能力を持っていない人が何か
しようとすると、善意を持ってそれを止める人がたくさん現れ
ます。フィリピンでは善意を持って励ます人がたくさん出現し
ます。日本では始める前にたくさんの警告をもらうのが普通で
す。フィリピンでは、大概は無責任な言葉ですが、それでも励
ましと支援をもらえます。 繰り返しますが、 フィリピン人が
「俺に任せておけ」と言う時は、絶対に信頼して任せてはなり
ません。裏切られて、フィリピン人が嫌いにならないためにで
す。せいぜい信頼しないで任せることです。そんなわけで、日
本では信徒が何か始めると、牧師が「だめ」と止めがちです。
フィリピンでは勝手にさせてもらえる事が多いようです。私た
ちは教会の中で賜物を用いようとしている人に対して、フィリ
ピン人ほどにはならなくても、せめてイエス様ほどにはなりた
いと思います。失敗ばかりしている弟子たちを信頼して、仕事
をお任せになっているのです。イエス様は、弟子たちの失敗の
後始末をする覚悟でおられたに違いありません。失敗から学ぶ
ことの大切さを、イエス様はご存知だったのでしょう。



 日本の教会で、教会を飛び出す熱心な信徒の多くが、自分
がしようとしている事を牧師に止められたために、嫌になった
者たちです。走り始めてスピードに乗り出した頃、「だめ」と
止められると、ガツンとぶつかって転んでしまうのです。しか
し、スピードに乗っている者を褒め、励まし、さらにスピード
に乗らせ、ちょっとだけ横からサジェッションをして、ほんの
少しだけ方向を変えるのは、あまり難しくありません。2回か
3回、ちょっとだけ方向を変えさせると、最初とは随分違う正
しい方向へ向かうものです。賜物は、第一に自由に溌剌と用い
られるべきです。賜物を用いようとして失敗したものを責めて
はなりません。悪いのは賜物を用いようとしないことです。用
いようとしている者を止めてはなりません。方向が誤っている
ならば、励ましてあげながら、ちょっと横から力を貸すと、方
向は変わります。「やー、それはいいね。ぜひやったらいいよ。
特にこの辺はいいなあ。そして、ここはもうちょっとこうした
らどうかな・・・・」と一緒に考え、祈って上げるのです。

   

C.賜物のシステム化



 賜物と言う物は神からの物であり、自由闊達に用いられる
べきだと述べましたが、自由闊達に用いられておればそれで良
いと言う物はありません。賜物は、教会として、キリストのみ
体として、より効果的に用いて行けるように、上手にシステム
化されなければなりません。体全体が調和を保つためには、そ
れぞれの肢体が自分をわきまえ、自分の機能を知り、自分の出
幕を心得ていなければならないのと同じです。このシステム化、
あるいは組織化は人為の働きです。



1.賜物とシステムを取り違えない



 賜物を整備してより良く使われるようにし、より良く機能
するようにするのがシステム化です。システムは賜物ではあり
ません。賜物とシステムを取り違えてはならないのです。また
システムは、賜物を使いにくくしたり、機能を弱めたりするた
めに存在するのではありません。賜物は先ず、自由闊達に用い
られるべきであり、何よりもそれが優先されるべきです。次に、
それが上手に機能し、互いに補い合い、助け合うように、シス
テムが作られ組織が建てられるのです。システムや制度、ある
いは組織と言ったものを先行させて、賜物をそこに押し付ける
のは前後が逆です。賜物があってシステムが必要なのです。



 また多くの場合、システムあるいは組織というものは、い
ったん作り上げられると、自由闊達な働きを効果的にするとい
う本来の目的を失い、それ自体の存続のために働き出すという
性質を持っています。つまり、日が経つにつれて、賜物がシス
テムに取り違えられてしまうのです。たとえば教会の長老とか
監督と言われる立場は、教会全体の賜物がより円滑にまた効果
的に用いられ、機能するために設けられました。しかし間もな
くこれは、多くの信徒の賜物を用いさせないで、選ばれた小数
の特殊な人々が、働きを独占するために存続するようになりま
した。聖書学校は本来、賜物にさらに磨きをかけるために創立
されました。しかし間もなく聖書学校は、そこで学ばない人は
教職にはなれないようにする、狭い門となり、多くの人々の賜
物を用いさせないようにする、効果的手段となりました。



 システムや組織は存在しなければなりません。それは有機
体である教会の骨格のようなものであり、それぞれの部分を体
として調和の取れた存在にさせるものです。手が手首に繋がり、
腕に繋がり、肩に繋がり、足がすねに繋がり、膝に繋がり、腰
に繋がるように、それぞれの持ち場で最善に機能させるのがシ
ステムや組織の役割です。教会とは個々のクリスチャンが自由
に集まり、それぞれの賜物を活発に用いて自由に活動するだけ
では足りないのです。それぞれが有機体として繋がっているこ
とを理解し、さらにより良く機能するように、それぞれの賜物
に応じて持場立場が与えられ、体を形成するのです。クリスチ
ャンたちがそれぞれ自分の能力や技術などの特性を生かして、
主のためにまた教会のために活動するのは素晴らしい事です。
しかしただ、てんでばらばらに活動し、脈略もないまま勝手に
動き回っていたのでは、効果的な働きは出来ないばかりか、互
いに相反する力となったり無駄な重複となったりしてしまいま
す。



 しかしその一方で、システムや組織を先に立てて、実際の
賜物の有無を確かめず、ただシステムや組織があるからといっ
て、それに人間を当てはめるような事をし出すと、賜物は生か
されません。まず、自由な賜物の行使が生かされ、用いられる
ようになり、それがより良く形を整え機能するように、システ
ムとされ組織とされて行かなければなりません。賜物がなけれ
ばシステムも組織も機能しないのです。キリストは使徒という
役職を制定し、その職のために12人を選んで任命されたので
はありません。むしろ多くの弟子たちの日ごろの生活態度や能
力を、じっくりと時間をかけて観察し、深い祈りをもってそれ
らを吟味し、ご自分のお働きを託すに相応しい12人を選び出
し、その上で、彼らに使徒という名前をお与えになったのです。
役職や立場が先ではなく、賜物の行使が先なのです。



 もうひとつ大切なのは、システムや組織はあくまでも暫定
的なものであり、地域や状況によっても異なるものであると知
ることです。たとえば、家族や親族、あるいは地域社会の人間
関係を非常に重要視する文化の中の小さな開拓教会が、欧米流
の個人主義に根ざした青年会、婦人会、壮年部などという組織
を模倣するのは、はたして効果的でしょうか。人々の賜物もま
た、文化や社会状況によって異なった行使の仕方になって現れ
ます。ですから、作り上げるシステムや組織は常に柔軟でなけ
ればなりません。それは有機的命を生かすための無機的な殻で
あり、骨格なのです。



 ずいぶん前のことですが、海岸の岩の上を歩いていると、
脱皮をしている最中の蟹に出くわしました。しっかりと岩をつ
かみ、体を震わせながら、なんとも頼りなげなあめ色の柔らか
い蟹が姿を現しました。それが意外に早く殻を脱ぎ捨て、静か
にたたずんでいたかと思う間に体が茶色くなり始め、やがて、
脱ぎ捨てたからを置き去りにして岩間に消えて行きました。息
をひそめて見つめながら、自然の神秘に触れた気がしました。
あのような複雑な形をした殻を、よくも上手に脱ぎ捨てるもの
だと、驚嘆する思いでした。まだしっかりと岩を抱いている殻
をそっと取り上げてみると、殻はカサコソと意外に軽く、波を
呼ぶ風に吹き飛ばされそうになりました。私はこの殻を長いこ
と自分の机の上に置き、自戒としていました。蟹の殻は命であ
る蟹を守る無機質な組織です。これは命を維持するために絶対
に必要です。しかし、殻は常に脱ぎ捨てられなければなりませ
ん。脱ぎ捨てられるように出来ているのです。これをいつまで
も持ち続けようとすると、蟹は死んでしまうのです。



 教会がシステムや組織をいつまでも大切に保存し続けよう
とすると、それが守り生かそうとしてきた命である賜物が死ん
でしまいます。異なった環境に入ったり異なった賜物が与えら
れたりした時に、それまでと同じシステムと組織を、同じよう
に継続し、同じように運営しようとしていては駄目なのです。
成長している命に対応した新たな殻が必要だからです。











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