2010年11月09日

教会について 2−31

p200〜206


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B.聖霊のバプテスマ 



  しかし、いま私たちが注目しているのは、教会に力を与え
る聖霊のお働きです。聖霊は、教会が宣教の使命を果たして行
けるために、賜物を付与してくださいました。それだけではな
く、その賜物を充分に使いこなすために、必要な力をも与えて
くださるのです。聖霊の人格(personality)と働きに注意を
向けるようになったのは、メソジスト運動とそのリバイバルで
あったとも言えるホーリネス運動の功績ですが、ペンテコステ
運動の初期の指導者たちは、ホーリネス運動の人々が理解した
「清めの体験としての聖霊のバプテスマ」を、「宣教の力のた
めの聖霊のバプテスマ」と理解し直し、独創的な神学を構築し
たケズイックの流れを引き継ぎました。そしてこれが、その後
のペンテコステ教会の一貫した神学となって来たのです。その
聖書的根拠となったのは、ルカの福音書24章:47〜49節
と使徒の働き1章8節です。



  「・・・罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから
始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、
これらのことの証人です。さあ、わたしは、私の父の約束して
くださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと
高きところから力を着せられるまでは、都に留まっていなさい」
(ルカ24:47〜49)



  「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなた
がたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤ
の全土、および地の果てにまで、私の証人となります。」(使
徒1:8)
 


  医者ルカが記録した、キリストのふたつの言及によると、
確かに聖霊のバプテスマは、キリストの証人となるための力を
与えるものである事は明白です。キリストは、弟子たちがこの
力を持たないまま、証人として全世界に出て行く事をお望みに
なりませんでした。それだけ、この力は弟子たちの宣教に不可
欠であったと言えます。この聖霊からの力は、明らかにペンテ
コステの日の出来事によって、すなわち聖霊の降臨によっても
たらされました。キリストの復活の姿を目の当たりにしてもな
お、人々を恐れ身を隠していた弟子たちは、この聖霊の降臨の
直後からまったく人が変わったように大胆になり、非常に力強
い証人となって行ったのです。これは、福音書と使徒の働きを
読む者は誰でも、すぐに気付くことです。



  もちろん、このようなペンテコステの人々の聖書理解を、
様々な理由を付けて受け入れない人たちはたくさんいます。そ
の中でも、福音派に属する人々は聖書の解釈をもって、ペンテ
コステ信仰を誤りであると主張します。これらの中には、ふた
つの流れがあります。ひとつはカルビンの流れを汲む神学を持
つ、改革派やバプテスト派の人々です。彼らは、聖霊は人が信
仰を持った瞬間に内住されるのであるから、すべてのクリスチ
ャンは信仰を持った瞬間、聖霊のバプテスマを受けているので
あると主張します。彼らは聖霊の内住と聖霊のバプテスマを同
一の事柄と理解するのです。そしてペンテコステ神学を、メソ
ジストとホーリネスの流れを汲む人たちの、第二の恵みの神学
の変形と理解して、激しく非難します。



  アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの神学は、第二の恵みに
賛同するものではありませんが、聖霊の内住と聖霊のバプテス
マを、聖霊の、ふたつの異なったお働きと理解します。ただ、
ペンテコステの日の出来事は、贖いの歴史上初めて、聖霊が人
々の上にお降りになったということであり、この時は、人々の
内にお住みになる出来事と、バプテスマと呼ばれる出来事が同
時に起こっています。その後の聖霊のバプテスマの記述では、
「素直に読む限りすべて」、人々は先ずキリストを受け入れ、
聖霊の内住を得ていたことが明白です。



  また、ルカの記述を読むと、聖霊は祈りへの答えとして与
えられると記されています。(ルカ11:13) キリストが、
将来の事としての聖霊の内住を想定して、このようなお話をし
たとは考えられません。聖霊の内住は、個々の人間の祈りへの
答えとして与えられるものではないからです。むしろ、聖霊は
あたかも風のように、人に知られず気付かれないまま、人の内
に住んでくださる方なのです。(ヨハネ3:8)ヨハネは、読
者が永遠の命を持っていることに気付くように、第一の手紙を
書きましたが、それはまた、御霊の内住に気付くことでもあり
ました。(Iヨハネ5:13)したがってキリストは、ここで、
内住される聖霊ではない聖霊を求めるように、勧めているとし
か考えられません。とは言え、おふたりの異なった聖霊がいら
っしゃるわけではありませんから、聖霊の内住の体験とは異な
った聖霊体験を、信仰を持って求めるように励ましてくださっ
たのだと考えるべきです。そうだとするならば、これは聖霊の
バプテスマ以外のことではあり得ません。



  さらに、聖霊のバプテスマの事は新約聖書の時代に限られ
ていたとか、特別な宣教の転換期あるいは要の時期に起こった
事柄で、現在はあり得ないというような、もっともらしい議論
もありますが、ここでは、自分たちの主張を強弁するために、
聖書を公平に読めなくなっているという、彼らの欠点を指摘す
るだけで、細部の議論には入らないでおきましょう。



  ホーリネス系の人々の批判は、あまり聖書的な議論ではな
く、ただ、聖霊のバプテスマに伴うとペンテコステ派の人々が
主張する、異言が嫌いであると言うことだけのようです。もと
もと聖霊のバプテスマという体験自体が、彼らによって宣伝さ
れたものであり、彼らがその体験を否定する根拠がないからで
す。ただ、彼らの聖霊のバプテスマは清められたと感じる、主
観的体験であり、聖書にその例を見ることが出来ないものであ
るのに対し、ペンテコステ派の人々の信じる聖霊のバプテスマ
は、宣教の力を付与する体験であり、聖書にその根拠を求める
ことが出来、さらに、異言と言う客観的に察知しうる出来事を
伴うということを、聖書をもって説明出来るものであると言う
ことです。



  ルカの記述を見ると、聖霊のバプテスマを受けた人々は、
大胆に福音を語ることが出来るようになっていることが明らか
です。キリストが「力」と表現したものは、この大胆さに関係
するのではないでしょうか。しかし、聖霊のバプテスマを証の
力、宣教の力と理解したきっかけは、必ずしも聖書の理解によ
るものではなかった可能性もあります。現在のペンテコステ運
動が起こる直前、初期のペンテコステ運動の指導者のひとりは、
聖霊のバプテスマを受けた人々が異言(ゼノラリア)を語ると
言う現象について聞き及び、これは世界宣教のための特別な能
力である、すなわち、たとえ宣教師たちが言葉の解らない土地
に遣わされたとしても、ただちにその土地の言葉を話し出す事
が出来る能力だと考え、異言の価値を強調しました。また事実、
当時、この異言を信じ、まったく言葉のわからない土地へ、何
の準備もなく宣教師として出て行く者たちも現れました。しか
し間もなく、これらの異言の多くはゼノラリアではなく、グロ
ッソラリアであることが判明し 、大変失望する事になりました。
しかしこのゼノラリアへの期待が、聖霊のバプテスマすなわち
証の力という理解に、関係したのではないかとも考えられます。
聖書の読み方においては素人であった当時のペンテコステ運動
の指導者は、聖書の教えを先ず理解する事からより、自分たち
の真摯な経験を聖書に照らし合わせて解釈する方向にあったか
らです。(これは必ずしも誤った方法ではありません)そのよ
うな過程の中で、ルカが記録したキリストのふたつの言及に行
き当たったというのが、ありそうなところです。



  聖霊のバプテスマが証の力、宣教の力に深く関わっている
と言う事実は、聖書からもまた宣教の現場の実証からも疑いの
余地はありません。ペンテコステ運動による宣教は、キリスト
教の宣教歴史の中で最も輝かしいものです。しかし、聖霊のバ
プテスマが宣教の力の付与であるという考え方、あるいは、聖
霊のバプテスマは証の力を与えるためのものであるという理解
は、果たして聖書の主張と調和するものか、もう少し注意深く
学んでみる必要がありそうです。なぜならここに挙げたキリス
トの言及では、聖霊のバプテスマが宣教の力に関わっているこ
とは明白でも、宣教の力の付与のために聖霊のバプテスマがあ
るという理解は、生まれて来ないからです。すなわち、聖霊の
バプテスマの目的は、宣教のための力の付与であるとは言い切
れないと言うことです。



  著者の現在の見解を言うならば、聖霊のバプテスマとは単
なる力の付与ではなく、もっと幅の広いものであり、神との交
わりのひとつの頂点であり、より親密な交わりへの入り口です。
人は神と和解させられ、神との交わりの中に入れられます。し
かし、現在の世界における神との交わりはまだ不完全であり、
非常に浅いものです。聖霊のバプテスマは、この世における神
との交わりのひとつの高嶺、多分最も高い嶺です。そしてその
交わりのために特別に与えられるのが、人間の言葉の限界を超
えた所での交わりを可能にする異言です。異言は、証拠として
聖霊のバプテスマに付随するのではなく、聖霊のバプテスマを
聖霊のバプテスマとして成り立たせる、神からの賜物です。異
言がなくては、聖霊のバプテスマという神との交わりの高嶺は、
あり得ないのです。異言は単なる証拠としての価値しかないの
ではなく、交わりの手段として、大きな価値を持つのです。で
すからパウロは、異言がコリントの教会の無秩序と亀裂の原因
になっていることを充分に知っていながら、誰よりも多く異言
を語ることを喜び、(Iコリント14:18) すべての信徒
が異言を語ることを望み、(14:5) 異言を語ることを禁
じてはならないと警告しているのです。(14:39) 聖霊
のバプテスマを宣教の力の付与のためと理解し、異言をそのバ
プテスマの証拠と理解する限り、私たちの仲間が時々語る「異
言を求めるのではなく、聖霊のバプテスマを求めましょう。力
を求めましょう」というお勧めは、正当化されるでしょう。し
かし異言そのものが、神との交わりの高嶺である聖霊のバプテ
スマを構成している大切な要因だとすると、パウロと共に、異
言を語りましょうと言うことが出来るはずです。



  聖霊のバプテスマが力となるのは、特に大胆さと繋がる力
となるのは、聖霊のバプテスマが神との交わりの高嶺であるか
らです。異言を通して、神との高く深く豊かな交わりを体験し
た者は、強烈な神の臨在感に浸ったのです。神が共におられ、
内におられることを、非常な現実感をもって感じたのです。そ
のような実感はすべての恐れを消し去ります。宣教の大胆さは
そこから来るのです。神との交わりの現実感が情熱を生み出し、
献身を強烈にし、より頻繁に、激しく、効果的に賜物を行使す
る力となり、教会の働きのあらゆる分野に及ぶのです。同じ賜
物を任せられた人間でも、聖霊のバプテスマを受けた者は、恐
れることなく大胆に、情熱と喜びをもってその賜物を行使する
のです。その結果、より小さな賜物しか任せられていなかった
者も、大きな賜物を委託されていた者より、大きなことをやり
遂げることが出来るようになるのです。宣教の力は、聖霊のバ
プテスマの目的ではなく、聖霊のバプテスマの結果です。しか
し、宣教と言う視点から見ると、聖霊のバプテスマは、宣教の
力の付与であるということが可能でしょう。神は教会が与えら
れた宣教の使命を遂行して行けるように、賜物を持って教会を
装備し、聖霊のバプテスマをもって、その装備を駆使する力を
お与えになったのです。



  キリストは、弟子たちが聖霊のバプテスマを受けずに、エ
ルサレムを離れることをお望みになりませんでした。すべての
弟子たちがこの素晴らしい体験を持って、力に溢れて全世界に
出て行くことを願われたのです。この体験を、聖霊の他の働き、
すなわち新生に伴って聖霊がひとりひとりの内に住んでくださ
る働きと同一に見てしまったり、それと取り替えてしまったり
してはなりません。聖霊のバプテスマは、受ける側の自覚を伴
う体験です。しかし聖霊の内住の体験は、内住をしていただく
者が自覚しないうちに行われることが普通なのです。この聖霊
の内住も、それに気付き、それを自覚して歩む信徒を励まし力
付けるものに相違ありません。しかし、聖霊のバプテスマは単
なる内住ではない、圧倒的な聖霊の働きかけなのです。



  聖霊の内住自体、神との交わりの素晴らしい回復です。罪
によって断ち切られた神との交わりは、神のみ姿を捨てて人と
なられた神、インマヌエルなる神キリストが、人と共に住み人
の間に宿を取られた事によって、人と人との交わり程度には回
復されたのです。しかし、このキリストが十字架において贖い
を成し遂げ、その血潮をもって罪を清めて下さった事により、
聖い神が神のみ姿のままで人との交わりを回復出来るように、
神殿の幕が上から下までまっぷたつに切って落とされたのです。
そして贖いを成し遂げ、宣教の派遣を明確にして天にお帰りに
なったキリストは、聖霊をお遣わしになったのです。神のみ姿
のままでおいでになった神、聖霊は、人と共に住むだけではな
く、人の内にお住みになり、さらに深い交わりを回復してくだ
さったのです。まさに、キリストが天にお帰りになる事は、私
たちにとって益だったのです。現在のクリスチャンたちは、聖
霊のリアリティを通して、弟子たちがキリストと共に過ごした
3年半よりも、はるかに濃厚な神との交わりを経験するのです。



  少なくても、キリストの弟子たちは、キリストと共に生活
したという体験によっては、あまり力を得る事がありませんで
した。甦られたキリストに出会い、共に食事をした後でさえ、
恐れと失望はなくなりませんでした。ところが、聖霊の降臨を
体験して、あのように大胆不敵になったのです。この時、弟子
たちを大胆不敵にしたのは、自覚されないままに起こりうる聖
霊の内住ではなく、強烈な体験として自覚出来た聖霊のバプテ
スマによるのです。ただし、聖霊の内住は、たとえその瞬間は
何の自覚もなしに起こったとしても、いつまでも自覚を伴わな
いままで行くというものではありません。それは、新たな命に
生きる力となり、聖い生き方、愛の生き方、キリストに仕える
生き方の力となるものです。それはまさに、新たに生まれた者
の命であり、キリストのみ体を有機体とさせる要因そのもので
す。しかしそれはまた、パウロが「聖霊によって生きるならば
聖霊によって歩もう」と勧めた通り、自覚を持つように励まさ
れなければならない事もあった、そのような出来事なのです。
それとは対照的に聖霊のバプテスマは、鮮烈な自覚を伴う出来
事です。それは自覚を持って大胆にさせる出来事です。異言と
いう神から与えられる超自然の現象を通して可能となる、神と
の深い交わりです。高いレベルでの交わりです。自らの言葉を
知的に用いていては、どうしても到達出来ない種類の交わりで
す。



  またこの聖霊のバプテスマに始まる交わりは、一回限りの
交わりではありません。聖霊のバプテスマ自体は、それぞれの
信徒の生涯に一回限りの体験ですが、聖霊のバプテスマに始ま
る異言を通しての交わりは、いくたびも繰り返される交わりで
す。繰り返されるたびに異言を語り、異言を語るごとに深めら
れ高められる交わりです。パウロはその交わりの崇高さ、素晴
らしさを充分に知っていたからこそ、自分が誰よりも多く異言
を語ることが出来ることを喜び、すべての信徒が異言を語る事
が出来るようになるのを望んだのです。そして、このような交
わりが宣教の力となったのです。聖霊のバプテスマはそのよう
な高度な交わりへの、入り口の体験とも言えるものです。聖霊
のバプテスマによっていただく力は、「力」と表書きされた小
包を受け取るようなものではなく、本来人間が持っていた神と
の交わりを回復した人間が、少なくてもその交わりの多くの部
分を回復した人間が、その交わりの結果として持つ神への信仰
と愛による大胆さと、神を愛しお仕えしたいと願う積極性がも
たらすものなのです。



  聖霊のバプテスマは、神との交わりを最も親密なレベルま
で引き上げるものです。その交わりは、異言という媒体を通し
て可能になります。この神との親密な交わりを体験した者は、
その体験の深さ、高さ、濃厚さのために、すなわち、その体験
のリアルさのゆえに、神以外の何者をも恐れない大胆さを得、
神にお仕えしたいという燃えるような思いに駆られるのです。
それは、肉体を持っていたときのキリストの胸に抱かれる体験
よりも、さらに勝った体験であり、神のみ姿を捨てた神ではな
く、まさに神のみ姿のままの神との恐ろしいほど高い交わりな
のです。



  私たちの仲間の中にも、最近は聖地旅行に出かける人たち
がたくさんいます。色々な意味で、それは有益なことだと思い
ます。しかし、「2,000年前にキリストがご覧になった山を自
分の目で見、キリストがお触れになったガリラヤ湖の水に手を
浸し、キリストがお歩きになった道を自分の足で歩いて、本当
に、キリストが近くにおられるように感じた」などと言う感想
を、ペンテコステ教会の牧師から聞くのは実に情けないことで
す。一般の旅行者ならばいざ知らず、また、普通のクリスチャ
ンならば「まあ、仕方が無いか」と見逃すことも出来ますし、
ペンテコステ経験のない牧師が言うのならば我慢もできます。
しかし、聖霊のバプテスマの圧倒的な体験をしているはずの伝
道者が、そのようなことを言うのは恥ずかしいことです。私た
ちの聖霊体験は、そのような遺跡旅行の感慨にも劣るものでし
ょうか。聖霊のバプテスマのリアルな体験は、ガリラヤ湖の水
の感触にさえ劣る程度のものでしょうか。今私たちは、神殿で
もエルサレムでもなく、霊と誠とをもって神を礼拝し、聖霊に
よって、最も深い神との交わりを体験出来るのです。そしてそ
の体験が、私たちの力なのです。



  キリストは、ご自分に従って来る者たちが、この聖霊の体
験を持つことをお望みになりました。聖霊を積極的に求めるよ
うにお勧めになりました。その体験を持たないままでは、弟子
たちがエルサレムを離れて、宣教のために出て行くことをお望
みになりませんでした。キリストは、宣教が力に溢れたもので
あるように願っておられるのです。キリストは、教会が宣教に
邁進できるように、必要な賜物を装備してくださっただけでは
なく、その賜物を大胆にそして有効に用いることが出来るよう
に、聖霊のバプテスマと言う、神との交わりの高嶺の体験を与
え、力づけてくださるのです。



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