2010年11月10日

教会について 2−32

p206〜213

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XI.教会と付随物

    (このページでは、原文に挿入されていた
     図解を入れることが出来ないために、
     少しわかりにくいところがあります)



  神の御心の中にある教会、普遍的な見えない教会が、この
世において地域教会、あるいは見える形の有機的教会として姿
を現す時、様々な方法で自己を表現し、色々な形態や様式を採
ります。教会が歴史の中でずっと陥ってきた重大な過ちのひと
つは、教会が採ったこれらの様々な自己表現、あるいは形態や
様式というものを、教会そのものと誤解したことです。



 カトリック教会は、自分たちの歴史の中で構築された政治形
態や官僚機構というものを、教会そのものと看做して来ました。
あるいは礼拝の形式や秘蹟などを、教会そのものと混同して来
ました。これはほとんどのプロテスタント教会でも同じでした。
カトリック教会に反旗を翻し、教会に改革を持ち込んだ人たち
も、自分たちの教会組織が出来上がるとそれを定着させ、固定
化し、その形が教会そのものであると見做すようになって行き
ました。それが教会の形骸化を招き、新しい土地の文化や生活
様式に馴染まず、宣教に困難をもたらす結果となったり、時代
に取り残され、人々から省みられなくなったりする問題となっ
て、表面化しています。



A.教会と教会の自己表現



  現在私たちが、自分たちの置かれている場所と環境で教会
を建てようとする時、慎重に注意深く実行しなければならない
のは、教会そのものと、教会に密着して付随しているこれらの
自己表現、あるいは形式や様態というものを、しっかりと見分
けて決して混同しないことです。



  図を挿入できないので、頭の中に図を描いてみてください。
まず、太い線でCDディスクのような円を、思い浮かべてくださ
い。その円を、教会そのものと想定しましょう。つまり、神の
御心にある理想的教会、普遍的教会、見えない教会です。



  その円の内側に、細い線で描かれた同心円をいくつか想像
してみてください。それらの同心円は、今まで論じて来た教会
の姿を示しています。まず、中心の一番小さな円、真ん中の円
は、より基本的なもので教会の本質を示しています。それは人
です。人ではなく、ひとびとです。しかも単なる人間の集まり
聖霊がその集団の中に宿り、また、一人ひとりの中にも宿って
くださっている集団です。この聖霊が、人々の集団を単なる人
為的な、組織的な集まりではなく、いのちによってつなぎ合わ
され結び合わされている、有機的な集団にしています。この中
いるすべての人は、同じ命を共有し、このいのちに生かされて
いるのです。


  ここにいる人々は、この世から召し出され、神の国に召し
入れられた人々です。その人々が聖霊の内住を得て、神の国の
民の共同体である、教会を形成しているのです。教会とは人間
でありその他の何ものでもありません。ただし、この人間の共
同体には聖霊がお宿りになっている、神秘的な共同体であり、
この聖霊の内住によって、キリストの命が共同体のすべての構
成員に行き渡ることにより、互いが密接に繋がり、ひとつにな
るという有機的共同体です。それはまた、やがて現される完全
な神の国をこの世において予め現し示す、神の国の共同体です。




  その外側の円は、このキリストのみ体である教会の特質、
あるいは使命を示しています。この教会の使命は、キリストが
この世に遣わされたと同じように遣わされていることにありま
す。キリストがこの世に使わされた理由、あるいは目的はただ
一つです。贖いのみ業を成し遂げ、すべての人々に救いを提供
することです。同じように教会も、そのキリストによって完成
された救いみ業を、実効のあるものとして人々に告げ知らせる
使命を与えられています。これが教会の唯一の使命です。教会
はキリ権威を与えられた上、キストの代理としてこの世に遣わ
されているのです。



  さらにその外側の円は、宣教を使命として生きる教会の、
様々な働きを意味しています。それらの働きは、色々な区分で
整理が可能ですが、神に対する上に向けての働きである礼拝と、
教会自身に対する内に向けての働きである交わりと、この世に
対する外に向けての働きである伝道に分けられます。また、礼
拝(W)、教え(I)、交わり(F)、伝道(E)と分けて理解し、
wifeと覚えるのも覚えやすいでしょう。



  その上を取り巻いている円は、これらの働きを遂行するた
め教会に与えられている装備、聖霊の賜物を意味しています。
この聖霊の賜物が与えられていない地域教会はありませんし、
賜物を任せられていない個人もありません。教会はこの賜物を
用いて、与えられた使命を遂行するのです。


  それからその外側の円は、それらの賜物をより効果的に、
また力強く用いて行くために与えられている力、エネルギーを
示しています。その力、エネルギーとは聖霊の力です。教会は
自分に与えられた使命を人間的な能力によって推し進めるので
はなく、聖霊の力によって成し遂げていくのです。その聖霊の
力は、聖霊のバプテスマという圧倒的な神との交わりの結果と
して、最も顕著に現されます。


 
  うまいぐあいに、頭の中にこのCDディスクのような円を描
出来たでしょうか。この円で示したものが教会です。
なのです。
 

  それから、この円の外側を取り囲む、もう一つの円、と言
うより「輪」を思い浮かべてください。缶詰のパイナップルを
想像してくださるとよいでしょう。これが最初のCDディスクを
包んでいるのです。この輪は、最初の円を包んでいますが、円
とは別のもので、円と繋がってはいません。これは、教会に付
随している教会の自己表現の姿、組織や形態や様式、システム
といったものを表しています。教会は、この組織形態、様式、
システムを持たないではこの世に存在することは出来ないので
す。


  この輪を、放射線状の線で、たくさんの小部屋に区切って
みてくださいです。パイナップルの繊維にしたがって切るよう
な感じです。それらひとつひとつの小部屋は、礼拝会の形式、
教会堂という建物、日曜学校、聖書学校、聖書研究会、青年部、
婦人部、壮年部、などの信徒の部、あるいは、教会の政治の形
態、教職者の制度、聖歌隊や、伝道部、奉仕部、さらには聖歌
隊などなどで、ふつう教会と考えられている多くのものが入っ
ています。



  これらは教会として見られ、教会であるかのように考えら
れていますが、教会ではありません。あくまでも、教会に付随
しているもです。それでいながら、教会は、このようなものを
通さないでは自己を表現することが出来ませんし、使命を遂行
することも、働きを完遂することも出来ません。ですから教会
は、常に、このような外面的形態である組織やシステム、ある
いは制度というものを付随させているのです。そしてこれらが
本当の教会を包み込んでいるために、外部からは本当の教会が
なかなか見えません。それで、誰もがそのような付随物を教会
だと思い込んでしますのです。



  でもそれは、あくまでも教会に付随するもの、言わばある
種のパラチャーチであって、教会そのものではないのです。と
ころが、一般には外側の形態が教会だと思われている以上、こ
れらを通しての「正式な」活動のみが教会の活動であると思い
込まれ、もっと基本的で本来的な、ひとりひとりのクリスチャ
ンの、組織に捕らわれない自由な活動が、まったくないがしろ
にされてきたきらいがあります。



  これらのふたつを比較してみると、より明確に違いが判り
ます。


(内側の円・本当の教会)               
1. 神によって造られた(神為的)                 
2. 聖書的(聖書に立脚)
3. 普遍的(場所を超越)          
4. 不変的(時代を超越)          
5. 宣教のための神のエイジェント     
6. 聖書に合致しているかどうか        
7. 本質的(なくてはならない)      
8. 神の啓示による             
9. 神の栄光のため


(外側の円・教会に付属する形態)
1. 人間によって作られた(人為的)
2. 社会的(社会に適応)
3. 地域的(地域の文化に拘束される)
4. 常変的(時代の文化に拘束される)
5. 宣教のための人間の組織と方策
6. 会の働きを機能させているかどうか
7. 付随的(無益ならばなくても良い
8. 人間の判断による
9. 教会に仕えるため 



  内側のCDディスクのような円は、聖書によって定められた
神のみ心としての教会の、あるべき姿であり、社会状況、文化
背景、時代の流れ、経済的事情などによって人為的に変えられ
てはならないものです。一方、外側を取り囲んでいる半円は、
あくまでも教会の働きをより良くするための人為的手段であり、
社会状況、文化背景、時代の流れ、あるいは経済的事情によっ
て、変えられて行くべきものです。内側の円は、効果的である
かどうか、人が集まるか集まらないか、献金額が多いか少ない
かによって、変えられてはならないものですが。それに対して
外側の円は、その目的に対する効率性によって、常に変えられ
て行かなければならないもので
す。



  ところが組織や形態というものは、常に変えられて行かな
ければならないものでありながら、一度作り上げられてしまう
とたちまち固定化し、その設立目的や必要性とは関わりなく独
り歩きを始め、ただそれ自体の存続、自己の存続のために存続
し続けるという、「化け物」になってしまう危険性があります。
伝統とか習慣などというものが、本来の領域を超えて重要視さ
れ、小さな改善でさえ大改革と受け取られ、本当の改革は破壊
的行為として敵視されるようになってしまいます。その一方、
設立当時の本来の目的はないがしろにされ、窒息死させられる
ようになるのです。キリストの時代にも、神のみ言葉が人の伝
統のゆえに疎んじられ、ないがしろにされていましたが、(マ
タイ15:1 −11)現代もまったく同様です。



B.教会の外的形態と文化 



  教会の外面的形態というものが、教会それ自体より重要視
されて来たことによって、教会は大きな痛手を被り、宣教は暗
礁に乗り上げて来 ました。次の図を頭に思い浮かべてもらい
ながら、話を進めましょう。



  まず左側に、直径3cmほどの円を描いて頭に入れておい
てください。これは聖書に教えられている普遍的教会を示して
います。次に、その右側に一辺が5cmほどの四角を想定して
ください。これははアメリカの文化を表しています。そしてさ
らにその右側に、高さが5cmくらいの三角を想像してくださ
い。これは日本の文化を表現しています。右側の円をその左の
四角の中に入れてみてください。円は変わりなく円のままです。
普遍的教会がアメリカという文化に入り込んでも、普遍的教会
の形は変わりません。普遍的で、不変だからです。その円をさ
らに右側の三角に入れても円のままです。普遍的教会は、日本
の文化に入り込んでもまったく同じであることを表しています。
教会そのものは文化を超えた存在、超文化的存在なのです。




  ところが教会がアメリカに入った場合、アメリカの文化に
合わせた自己表現をし、アメリカに合った組織、形態、政治、
システム、活動、手段、音楽、あるいは建物などを持つように
なるのです。それらは教会に付随するするものであり、なくて
はならないものですが、教会そのものではなく、あくまでも教
会の自己表現に過ぎません。その四角いアメリカ文化のアメリ
カ的な自己表現を、四角の中におさまった円を取り巻く、かな
り四角くなった円で表しましょう。そしてそれを斜線で埋めて
ください。その斜線の部分が、ふつういわれる、アメリカの教
会です。丸い本当の教会のアメリカ的な表現です。



  一方、三角で表現された日本文化に入った丸い教会は、三
角の文化に適応して、角の取れた円に近い三角の自己表現をし
ます。これは教会の本来のあるべき姿です。教会が入って行っ
たそれぞれの土地で、何にも妨げられず自己表現をするとこの
ようになるのです。



  ところが、実際に起こっていることはこれに程遠いものと
言わねばなりません。




  これは実際に起こっている現象を説明しましょう。アメリ
カから来た宣教師たちも、アメリカで教育を受けた日本人教職
者たちも、四角いアメリカ文化の中で自己表現をし、アメリカ
の状況に適応した、かなり四角に近い形になった教会のあり方、
組織、システム、活動などの外的形態を、教会そのものと信じ
て疑うことなく、そのまま三角形文化の日本に輸入してしまっ
たのです。アメリカをヨーロッパに置き換えても、同じことで
す。



  頭に三角を描き、その中にの中にうまく四角をおさめてみ
てください。どんなに頑張ってもうまく行きません。無理なの
です。三角の日本文化、日本の状況の中に、アメリカ文化に合
わせて形成された、四角に近い教会の形態を持ち込もうとして
も、不可能なのです。ところがその不可能なことを、長い間遣
り通そうとして来たのが、日本でのキリスト教伝道なのです。



  この間違いは今日、さらに大がかりに進められています。
数少ない日本人クリスチャンが、日頃小さな教会で経済的にも
厳しく、まともな活動さえままならないでいる中、アメリカな
どの教会を訪れては、その立派さ、その華やかさ、その活発さ
に感動して帰って来ます。その素晴らしいアメリカの教会のよ
うになりたいと願って、真似を始めるのです。その結果、日本
の教会はますますアメリカの教会に似るようになり、そしてそ
のアメリカの教会に似た外的形態のために、日本に適応出来な
いものとなり、まともな成長をすることが出来ないまま、いた
ずらに年月を重ねて行くことになります。それで、何とか教会
を成長させようと画策するあまり、絶対に変えてはならない本
来の教会の姿を変えて、現代日本の文化に迎合してもらおうと
いう動きさえあります。 その場合でさえ、外面的形態に対して
はあくまでも保守的で、かたくなに形骸化した西欧的形態を守
り通そうとしているのです。あるいはアメリカ型の表現形式を
取った「教会」が、日本に馴染み易くなるようにと、三角の日
本文化を四角のアメリカ文化に変えようとする人々さえ、現れ
て来ました。  



  しかし本来の教会そのものを、日本文化に適応させようと
いう試みは、教会を教会ではないものに変えてしまう危険性を
孕み、日本文化を、他の文化の中で形成された教会の表現に合
うように変えようとする試みは、文化の衝突を起こし、多くの
場合、教会の使命である福音宣教の妨げになってしまいます。
個人主義を基本とするアメリカ型キリスト教の信徒になるため
には、日本人も、ある程度共同体社会の日本文化を捨て、アメ
リカ的個人主義を受け入れ、それにあった生活習慣を身に着け
なければならないのです。



  たとえば、日曜日に学校行事を行うことは、日曜学校を妨
げるもので、信教の自由に反するなどと主張して、訴訟を起こ
した牧師がおりましたが、そのような行為自体が、大多数の一
般的な日本人には、教会が日本社会に馴染もうとせず、かえっ
て敵対している証拠として、受け取られてしまうということで
す。日曜学校が教会にとって絶対になくてはならないものであ
り、どのような文化においても、必ず日曜日の朝に行わなけれ
ばならないものであると、「聖書によって」明確ならば、その
死守のために命を賭けましょう。しかし日曜学校は、たとえど
れほど教会に貢献した時代があったとしても、たかだか200
年ほど前にイギリスで始まった教会の表現、教会の付随物のひ
とつに過ぎず、真ん中の円の部分に関わるものではなく、外側
の、パイナップルの形にあたる部分の事柄です。教会が進出し
て行く社会の中で、状況に応じて柔軟に変えられて行くべきも
のなのです。今も私たちに必要なのはニーバーが祈った時と同
様に、何が変えられるべきものであり、何が変えられてはなら
ないものであるかを、見分ける能力であり、変えられなければ
ならないものは大胆に変え、変えられてはならないものは絶対
に変えない勇気です。



  私たちはCDディスクのような円で表された概念をしっかり
と理解し、その外側を覆っているパイナップル状の付随物と、
峻別するところから始めなければなりません。このことが明確
にされていないと、変えてはならないものを変え、変えなけれ
ばならないものにいつまでも固執することになってしまいます。
実際問題として、四角い形状を三角の中に無理やりに押し込も
うとするようなことが実に多くの分野で起こっているのです。
私たちの分析能力を増すために、もう少し、具体的な例を挙げ
て考えて見ましょう。



  いわゆるキリスト教国、あるいはキリスト教的感覚の濃厚
な土地で発展してきたキリスト教が、異教の背景を持つ文化に
対面する時は、普通、非常に強い批判的態度あるいは断罪的態
度を取ります。特に、厳格な保守的キリスト教精神を建国の理
念として来たアメリカの保守系のキリスト教は、自分たちの理
念、価値観、信念などを非常に大切にし、それを普遍的なもの
と考えてしまいがちです。ですから彼らは自分たちの信念や価
値観を、自信を持ってすべての国に輸出しそこで定着させよう
とします。彼らの信念や価値観を受け入れない文化を、彼らは
罪深い文化と断罪し、これを何とか破壊し、自分たちの価値観
を植えつけようと努力します。これがいわゆる「嫌われるアメ
リカ人」の主な理由です。



  ましてや、キリスト教会の中での事柄になると、アメリカ
を始めとする西欧諸国の教会は、ほとんど何の疑いもなく「自
国にある自分たちの教会」が本来の教会のあるべき姿であると
いう前提で、その教会のクローンを宣教国に建て上げようと努
力します。たとえば、私たち日本の教会も、以前から、婦人会、
壮年会、青年会などという「区分」を教会の中に作り、それな
りの活動をして来ました。しかしこれらは、西欧化の進んだ現
在の日本ならば、ある程度の存在価値もあるとは思いますが、
40年、50年前の日本の文化の中で、どれほどの効果があっ
たでしょうか。家族と言う絆を非常に大切にしていた日本の社
会構造の中で、その家族の絆を強めるのでも利用するのでもな
く、むしろその絆を断ち切り、家族と言うものを崩壊させる方
向にある、年代と性別による区別は、教会にあまり良い影響を
与えなかったのではないでしょうか。むしろ、家族を結束させ、
親族の絆を強めるような指導と組織作りが必要だったのではな
いでしょうか。



  日曜日が休日となり切っていなかった頃から、私たちは日
曜日の礼拝会を「神聖なもの」として大切にするように指導さ
れて来ました。日曜日は新約時代の安息日であるというむちゃ
くちゃな神学を、「聖書的」な教えであると教えられて、忠実
なクリスチャンになるためには、何が何でも日曜日の礼拝会に
出席しなければならないと、同僚と争い、上司に逆らい、職場
を換えてまで日曜日を確保して来たものです。キリスト教文化
が長い間定着していた国々では、日曜日休日が常識となってお
り、日曜日の礼拝会に出席することは比較的に容易でした。日
曜日に礼拝会に出席することは反社会的行為とはならず、存在
する秩序の破壊にも繋がらず、かえって善良な市民としての特
徴ですらあったのですが、日本では、多くの人々が日曜日でも
働いており、社会全体が日曜日にも活動する前提で仕組まれて
いて、それに反する行動を取るということは、反社会的行為、
存在する秩序を乱す行為と理解されたのです。何事においても
「和」を最も大切にする日本人にとって、そのようなことを教
えるキリスト教は、反社会的宗教となってしまったのです。一
般的日本人のキリスト教に対するイメージは、現在でも、「個
人の信念としては、尊敬に値するほど立派だけれど、そのよう
な人が自分の回りにいてくれると、「和」が保てなくなって迷
惑する」と言うものであり、反社会的宗教と受け取られている
のです。聖書が本当に、日曜日を旧約時代の安息日に代わる神
聖なものとして教えており、日曜日にもたれる礼拝会を、すべ
ての神を敬う人間が必ず出席しなければならないものと教えて
いるならば、話は別です。それならば、何が何でも日曜日の礼
拝会を守らなければなりません。私たちは聖書に忠実に従おう
とするクリスチャンです。



  この日曜日神聖論が子どもたちへの活動にまで延長されて、
先にも述べた日曜学校の神聖化に及んでいます。子供が大切で
あり、子どもの頃から神さまを礼拝する態度を付けさせること
に異論はありませんし、それについては、聖書からも正当に論
じることが出来るでしょう。しかし、子どもの信仰教育を日曜
日に行わなければならないという主張は、聖書を正しく学ぼう
とする限り出て来ません。また、日曜学校の発端を学ぶならば、
もっと柔軟なあり方さえ考えられます。日曜日に学校行事が行
われる日本では、日曜学校のあり方をもっと多角的に考えるべ
きでした。教会学校として、日曜日以外の活動を考えるのもひ
とつの方法であったはずです。教会学校の場所についても、教
会堂が手狭で不便な日本では、もっと他の方法が取られるべき
だったはずです。ところが、多くの場合、宣教師は自分が育っ
た環境を理想としてそのコピーを作り出そうとしますし、日本
のクリスチャンたちは、欧米の教会のパラチャーチ的な外枠を
教会と考え違いをしてしまって、盛んにそれを模倣しようと努
力して来たのです。幸か不幸か、最近の日本の社会情勢では、
旧来の日曜学校では頭打ちになって来ていますので、多くの教
会が輸入された子どもの教育方法に捕らわれず、何とか改革を
持ち込もうとしていますので、少なくても、子どもの教育と言
う側面では、外側の形が教会なのではないということについて、
理解され始めているとも言えるでしょう。これが大人の日曜日
についても考えを促すことになれば良いと願うものです。



  教会は、金曜日を休日としている文化に入っては、金曜日
に礼拝会をしてはならないのでしょうか。太陽暦ではなく、太
陰暦で生活している零細漁業の村落で伝道をする場合、太陰暦
に沿った教会活動はないものでしょうか。日、月、火、という
曜日には関係なく、彼らは満月の時期には休み、新月の頃は働
くのです。村全体がそのようになっているのです。


  ここで、四角いアメリカ文化に適応した四角に近い教会形
態を持ち込んでも、それなりにうまく言っている国や文化があ
ることにも触れておくべきだと思います。四角に近い教会の形
態が教会と誤解されたまま持ち込まれたとしても、それを受け
入れた国や地域の文化が、それほど強固なものでなかった場合、
人々がその文化にあまり強い執着、誇り、あるいはアイデンテ
ィフィケーションを持っていなかった場合は、それが星型だろ
うが、ひょうたん型だろうが、文化としてまだまだ固定化して
おらず、弾力性、柔軟性があるために、四角だろうがなんだろ
うが、受け入れることが出来るのです。多くの発展途上国が、
そのような状況であったと言うことができます。彼らはアメリ
カに代表される西欧文化を、喜んで迎え入れ、取り入れたので
す。


  しかぢ、自分たちの生活、習慣、宗教など、いわゆる文化
に誇りを持っている人々の間では、伝道がなかなか進まなかっ
た背景には、そういう理由もあるのです。









posted by MS at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 聖書の学び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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