2010年11月12日

教会について 2−34

p220〜224


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E. 教会の普遍性と文化的適応



  実はこのような弱さ、つまり、自分たちの文化を最善と
思い込む弱さは、どうやらすべての人間に共通と言えるよう
で、日本人宣教師が外国で福音伝道をし、教会を建てると、
同じようなことを行う危険性は充分にあります。ただ日本人
の宣教師は極端に少数ですし、自分の意思で外国に行って長
期にわたって活動しようとする宣教師の多くは、たとえ外国
であっても、「郷に入らば郷に従え」という諺を地で行くこ
とが出来る、10パーセントの少数派の日本人に入りますの
で、  この危険性が比較的少ないと言えそうです。でも、そ
れはあくまでも「比較的」であって、注意を要することに変
わりはありません。
 


  一方、今や世界中のいたるところで見ることが出来る、
韓国人宣教師たちの多くは、非常に危険なことをしていると
言わねばなりません。僅かの例外はあるにせよ、彼らは自分
たちの教会の形態と、その形態が取った韓国的文化適応を、
まさに教会そのものとして宣教地に押し付けて行きます。極
端な例と思われるかも知れませんが、自分たちが建てた教会
だけではなく、経済的支援をしたに過ぎない教会にまでも、
韓国式の礼拝、韓国式の教会運営を強要し、韓国語の教会名
を付けさせ、ハングル文字の看板を上げさせるなどと言うこ
とが、至る所で色々な団体の宣教師によって行われている始
末です。



  このような韓国人宣教師たちの感覚は、日本に来た場合
には特別に複雑なものとなります。彼らには、自分たちの祖
国と同胞を不当に蹂躙した、日本人に対する長年の国民的憤
りと恨みがあります。また彼らから見れば、未だに正当な方
法で謝罪していない現在の日本に対する苛立ちがあります。
これはただ年老いた人々の実体験を通した感覚だけではなく、
若者たちもまた、教科書と授業で教えられ叩き込まれて来た、
国民的感情です。さらに、経済面においても日本に対する強
い劣等感があります。ですから韓国人にとって、日本に勝て
るということは、それはもう大変な喜びであり、溜飲が下が
る思いをすることなのです。そういうわけで、サッカーでも、
バレーボールでも、柔道でも、日本に勝つということは特別
な事であり、日本人がスポーツで韓国に勝った時に持つ感覚
とは比較にならないのです。昭和30年代、力道山という希代
のレスラーが、次々と悪役のアメリカ人レスラーをなぎ倒し
たことに、溜飲を下げた日本人がたくさんいました。汚い反
則でさんざん暴れまくる醜いアメリカ人を、最後の最後まで
我慢し続け、あわや駄目かと思う一瞬、堪忍袋の緒を切って
繰り出す伝家の宝刀、空手チョップ。 敗戦の民、日本人は
彼の姿に熱狂し、勇気付けられました。彼の人気が、テレビ
の普及に大きく影響したほどでした。日本人はレスリングと
言う興行的スポーツの世界に、スポーツや興行の勝ち負け以
上の感情を含めていたのです。実のところ、あの堪忍袋の緒
を切るところに、忠臣蔵などに見られる美意識さえも見て、
ただし興行としての筋書きは見逃し、それに敗戦国の悲哀を
重ねていたのです。  現在の韓国人の、日本に対する感情は
それに良く似ていますが、もっともっと強力なものです。



  キリストの福音によって浄化されまた昇華された韓国の
教会は、宿敵日本に福音を伝えるという素晴らしい働きを始
めました。日本人を赦し、愛し、共にみ国に入ることが出来
るように、自分を犠牲にして働こうと、まさに尊い理念で日
本にやって来てくださいました。しかしその一方で、奇跡的
成長を遂げた韓国の教会と宣教師たち、素晴らしく祝福され
た韓国教会と宣教師たちは、いつまでたっても小さく弱い日
本の教会、神様からの祝福をいまだに受け損なっていると見
える日本の教会に対して、憐憫の情を持って働き、教え、導
くという、大きな満足を味わうことが出来たのです。韓国教
会と宣教師は、まさに福音宣教という面で、日本に対する長
年の鬱積した感情を克服することが出来たのです。韓国を訪
れた日本人クリスチャンが、思いも掛けないほどの歓待を受
けて、かつて自分たちの国が犯した罪を思い起こし、韓国人
の寛大さに感激するというような話がたくさんあります。そ
のような歓待をしてくださる韓国のクリスチャンたちに対し
ては、ただ感謝するのみですが、そのような歓待の中に「勝
利者の寛容」が読み取れるのです。そして勝利者は、自分た
ちのやり方を押し付けます。かつての日本が韓国において天
皇崇拝を押し付け、氏名を変えるように、つまり、自分たち
と同じ日本人にしてやろうと、「親切で寛容な強制」をした
のと同じです。私たちの身近にも、韓国式の礼拝会、韓国式
の祈祷会、韓国式の断食、韓国式の教会運営、韓国式の上下
関係を受け入れざるを得なかった教会がありました。すべて
の十字架を、赤い色に塗り変えさせられた教会もあったと聞
きます。 



  韓国の教会は、日本の宣教のために多くの犠牲を払って、
誠心誠意、尽くしてくださいました。しかし彼らは、日本に
おいて韓国と同じような教会の成長を見ることがないこと、
宣教の実が想定したほど多くないことに焦燥感を抱いていま
す。日本側からするならば、同じアジアの国からの宣教師は
大いに歓迎するところですが、やはり、日本の文化を理解せ
ず、「勝利の教会」の感覚で侵入してくる韓国キリスト教に
は、強い違和感を抱いてしまうのです。同じことは、最近日
本に対して強い働きかけをしているオーストラリアの教会に
も言えることです。日本人は、諸外国の人々には例を見ない
ほど、様々な理由で非常に強い同族意識、同一文化意識を持
っています。日本人として日本に留まっている限りあまり意
識しないことではありますが、ひとたび諸外国で暮らして見
ると、その特徴が非常に良くわかります。多くの国家では、
あらゆる手を尽くして国民の間に国家としてのアイデンティ
ティを植え付けようと、苦心惨憺しています。ところが日本
では散々自分たちの国家の悪口を言い、日の丸を飾ることに
反対し、君が代は国歌ではないと叫び、皇室は廃止せよと主
張していたとしても、国家が努力して、日本人としてのアイ
デンティティを持たせようなどとしなくても、日本人そのも
のなのです。このような日本に、日本的でないものが外から
侵入して来ると、それが日本人の生活によほど有益でない限
り、かなり強烈な反発を持って拒絶することになるのです。



  とは言え、どこの社会にも一風変わった人たち、ある種
の極端な趣向を持った人々がいるものです。極端に非日本人
的な考え方や生活様式などに触れると、かえって興味と憧れ
を感ずる少数の日本人たちがいます。アメリカ的な教会に非
常に魅力を感じる人々もあれば、韓国的なキリスト教表現に
信仰の醍醐味を感じる日本人もいるということです。あるい
は酒とタバコは絶対にやらないことに信仰の意義を感じる人
もあり、日曜日には仕事をしないことに誇りを持ち、自分の
信仰を賭ける人もいるということです。そのような人々を集
めるだけの強烈さを持っていれば、アメリカ的な教会も韓国
的な教会も、禁酒禁煙運動のキリスト教会も、ある程度の成
長は可能です。そして、事実そのようにして成長している教
会もあります。しかし日本人全体としては、むしろそのよう
な形のキリスト教とその教えに、心を閉ざしてしまうことに
なってしまいます。



  教会は普遍的なものです。土地や時代によって変わるも
のではありません。しかし教会が取る形態は常に変わるべき
ものです。教会はその周囲の環境により、またそれを構成す
る人々により、常にその存在の仕方、その生きている表現の
仕方を変えていくべきものです。アメリカ人的感覚を持って、
アメリカ人の文化と感覚に適応した形態を取る教会があって
しかるべきであり、韓国人の感覚と韓国の実情に応じた形態
を取る教会があって当然です。同じように、日本においては
日本人を対象とした形態を取る教会がなければならないので
す。日本の宣教の障害となって来た様々な要因のひとつは、
日本に入って来たアメリカを中心とする西欧的キリスト教が、
日本の文化や習慣と言うものに理解を示すことがなく、日本
的な教会の形態を取ることがなかったことです。



  今となっては、そのような日本的な形態を取ることに失
敗した教会に慣らされてしまった私たちが、改めて「日本的
な形態を」と考えるのが非常に困難になってしまいました。
西欧的な形態を取った日本の教会は、単に外形だけに止まら
ず、その精神や考え方まで、西欧化してしまい、日本の文化
を異教的なもの、偶像崇拝に関係するものとして拒絶し、排
斥し、敵視し、攻撃して来たのです。その結果、クリスチャ
ンになることは外国の文化習慣を受け入れること、「ある程
度」日本人であることを止める事にさえなって来たのです。



  普遍的教会はまた不変の教会です。しかしその存在形態
は、地域に応じて千差万別でなければなりません。教会が普
遍的存在形態を取ろうと考え、地域や時代を超えて不変の外
形を持とうと試みると、それはもう真実の教会のあり方から
外れているのです。普遍不変の性質は、真実の教会そのもの
の性質であり、教会の形態の性質ではないのです。真実の教
会は普遍的なものであるために、すべての地域教会は、あら
ゆる差別や排除を取り除かなければなりませんが、その一方
で、地域教会はある特定の表現や形式、あるいは様態を取ら
ないでは存在出来ないために、その地域、あるいはその構成
員に最もふさわしい形式や様態を取り入れ、結果として、選
択排除をして行かざるを得なくなります。ここに矛盾が起こ
ります。従って大切なことは、ひとつの地域教会が本来の普
遍的教会のすべての特性を持ち、それを効果的に表現して行
くことは不可能であると知り、互いに、自分たちとは異なっ
た形の表現をし、異なった様態を持ち、異なった活動をして
いる地域教会を認め合い、感謝し合い、受け入れ合うという
ことです。そのように、地域の諸教会が自分たちはひとつの
教会であると理解しあってこそ、普遍的教会の本当の姿に近
付くことが出来るのです。ですから、違った団体の教会、違
った教派の教会、違った神学の教会さえ必要なのです。同じ
団体、同じ教派、同じ神学の教会では、普遍的教会の地域的
表現として必要とされている、多様な形を取ることがないの
ですから、私たちは、同じではない教会の存在を大いに喜ぶ
べきなのです。

  そう言う意味では、非常にアメリカ的な教会やまるで韓
国的な教会が日本にあることの意義も、私たちは認めなけれ
ばなりません。すでに述べたように、日本人の中にも、その
ようなものを好む少数の人々がいて、彼らは、そのような教
会が無ければ救われないかも知れないからです。私たちは極
端派、過激派、あるいは奇異な様態の教会さえ、その必要性
を認めるべきです。しかし大切なのは、そのような極端で過
激、そして奇異な教会を中心としてはならない、多数派とし
てはならないということです。大多数の教会が、日本の文化
に馴染み、日本文化に適した形式を整え、日本文化に応じた
様態を整え、日本文化に受け入れられる活動をしている中で、
極端で過激なあるいは奇異な教会が周縁に存在しても良いし、
存在すべきなのです。いまの日本の教会の問題は、本来周縁
にあるべき教会が、大多数となり中心になっているというこ
となのです。


















posted by MS at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 聖書の学び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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