2010年11月15日

教会について 2−37

p236〜243

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3.キリストがお命じになった洗礼



  甦られたキリストは、弟子たちに洗礼を授けるようにお
命じになっただけで、その意味についてはお語りにならなか
ったようです。したがって弟子たちは、外形においてもキリ
スト在世当時と変わらない洗礼を授け、その意味においても、
罪の許しの象徴、あるいは新しい信仰と人生へのイニシエー
ションの印として、継続して行ったと思われます。それは、
ペンテコステの日のペテロの説教にも伺い知ることがますし、
(使2:38)エチオピアの宦官へのピリポの洗礼にも見て
取れます。ペテロをはじめとするキリストの弟子たちは、多
分、かなり長い間この洗礼の理解に留まっていたのではない
かと思われますが、その本当の意味を理解したのはパウロで
した。



4.パウロが理解した洗礼
 


  パウロは、キリストがお命じになった洗礼をアナニヤか
ら受けた時、当然、罪の許しと新しい信仰と生活への、イニ
シエーションとしての洗礼を受けたはずです。その時の彼の
理解は、他の弟子たちとあまり変わらず、むしろ初心者とし
て、不明確なものだったと考えられます。ところがパウロは
神の奥義、すなわち、それまではまだ誰にも与えられていな
かった、真理の啓示を受けました。  そしてその奥義の大部
分は、教会に関するものでした。パウロの受けた奥義の啓示
を、贖罪論的にまた救済論的に語るだけでは充分ではありま
せん。むしろ教会論的に語ってこそ、その真の姿が明白にな
ると信じるものですが、この洗礼に関わる彼の理解も、奥義
の啓示としての教会論の中で理解されるべきものです。



  パウロが本当に重要な事柄として語ったのは、個々人の
救いに関する事柄も然ることながら、むしろ、共同体として
の教会でした。彼の著作を素直に読む限り、パウロは、個々
人の救いの歴史の中における洗礼の大切さについて語ること
よりも、教会という共同体に加えられる「バプテスマ」につ
いて、より高い関心を払って語っているように思えるのです。
救いという、ひとりの人間にとってこの上ないほど大切な事
柄について、パウロが語っているという理解には異論があり
ません。しかし、パウロの「バプテスマ論」を読むと、視点
というか関心は、個人にではなく共同体にあるように読める
のです。



  さて、そのように考えると、「洗礼」という日本語が正
しい翻訳であるかどうかという問題が発生して来ます。洗礼
という訳は、罪を洗い流すという意味を強調し、また、それ
が儀式であるということを示しています。これに対してバプ
テスト教会は異議を唱え、罪を洗うというのは洗礼の主たる
意味ではなく、もっと大切なのは、バプテスマという原語が
持つ「浸す」という意味に関わる、死と甦りであるから、
「浸礼」と訳すべきであると主張して譲りませんでした。そ
の結果、日本語聖書の多くは両方の意見を尊重して、「バプ
テスマ」という原語をそのまま残すことにしたのです。しか
しいま本当に問題なのは、パウロが「バプテスマ」と言って
いる時、はたしてそれは、水の中に浸す葬りの儀式を意味し
ているのか、あるいは水を注ぎかける洗いの儀式のことを語
っているのかということではありません。



  Iコリ12:13を読むと、私たちは聖霊によってキリ
ストのみ体に「バプタイズ」されたのだと、パウロが語って
いるのに気付きます。日本語の翻訳では「ひとつの体になる
ようにバプテスマを受け」となっていて意味が曖昧ですが、
ギリシヤ語原典によると、「私たちはひとつの御霊によって、
ひとつの体の中にバプタイズされ」となっています。ここで
パウロが用いている「バプタイズされ」という言葉は、「洗
礼を授けられ」とも、「浸礼を施され」とも、訳すことがな
いものです。パウロが語っているのは水に関わることではな
く、また儀式に関わることでもなく、聖霊がひとりひとりの
信徒すべてを、例外なく、キリストのみ体である教会に、バ
プタイズしてくださったという霊的事実、霊的次元に起こっ
た現実についてなのです。



  同じように、ガラ3:27でパウロが語っているのも、
日本語では「バプテスマを受けてキリストにつく者とされた
あなたがたはみな」と訳されていて、あたかも「人の手によ
る儀式としての洗礼を受けて、キリストにつく者とされた」
と理解されがちですが、原語で見ると「キリストの中にバプ
タイズされたあなた方はみな」となっています。すると、
「聖霊による霊的事実として、キリストの中にバプタイズさ
れた者」と理解するのが正しいことが解ります。この、キリ
ストの中にバプタイズされるという考え方は、パウロが好ん
で用いた「キリストにあって」という表現に通じるものです。
ここでも日本語では「あって」という少々曖昧な表現になっ
てしまいますが、ギリシヤ語では「キリストの中で」という
はっきりした言い方になっていて、英語でも「in Christ」
と訳されています。パウロに取っては、キリストのみ体であ
る教会にバプタイズされることと、キリストご自身にバプタ
イズされることに大きな違いはなかったようです。実際パウ
ロは、Iコリ12:13の一節前において、教会をキリスト
と言い切って、教会とキリストを同一視し、キリストのみ体
にバプタイズされることは、キリストにバプタイズされるこ
とであるとさえ語っているのです。パウロに取って、キリス
トにバプタイズされていながら、キリストのみ体にバプタイ
ズされていないことなどあり得ず、キリストのみ体にバプタ
イズされていながら、キリストにバプタイズされていないな
どということも、あり得なかったのです。これらはふたつの
別個のことではなく、同一の事柄のふたつの面に過ぎないの
です。



  このことをしっかりと理解して、パウロの「バプテスマ」
に対する言及を見ると、今まで理解されて来たものとは異な
る理解が生まれてきます。たとえばローマ6:2−6に記さ
れているパウロの「バプテスマ論」は、もはや洗礼論でも浸
礼論でもなくなってしまいます。彼がここで語っている「キ
リストにつくバプテスマ」は、人間によって施される水に関
わる儀式ではなく、聖霊によってキリストにバプタイズされ、
同時に、キリストのみ体である教会にバプタイズされること
であると、理解されるからです。人の手による洗礼と言う儀
式によって、キリストの死にあずかるのでも、またその甦り
にあずかるのでもなく、聖霊が私たちをキリストにバプタイ
ズしてくださることによって、私たちはキリストの死にあず
かり、キリストの甦りにあずかる者となるのです。パウロが
語っていることは水の儀式ではなく、聖霊が霊的次元で成し
遂げてくださる神秘的な事実なのです。 



  これはまた、コロ2:11−12でパウロが語っている
こととも調和します。12節でパウロが語るバプテスマは、
水に関わるバプテスマではなく、聖霊が働いてくださるバプ
テスマのはずです。原語では11節と12節はひとつのセン
テンスですから、11節で言われている「人の手によらない、
・・・キリストの割礼」は12節のバプテスマのことです。
そしてこのバプテスマは人の手によらないバプテスマ、すな
わち、聖霊によるキリストへの、あるいはキリストのみ体へ
のバプテスマであり、「人の手によって」水を用いて行われ
る洗礼でも浸礼でもないということです。私たちは、元より、
洗礼という儀式によってキリストの死と甦りにあずかる者と
なるとは理解していませんでしたが、洗礼という儀式が、
「信仰によってキリストの死と甦りにあずかる者となったと
いう事実を象徴的に表現する」という言い方も、充分ではな
いということになります。むしろ私たちは、「聖霊によるキ
リストの中へのバプテスマ」によって、キリストと繋がり、
その死と甦りにあずかる者となるのであり、その事実を象徴
するのが、人の手による洗礼と言う儀式であるというべきな
のです。



  では、パウロに取って、水によるバプテスマはどのよう
な意味を持っていたのでしょう。パウロが水のバプテスマに
ついて明確に言及しているのは、Iコリ1:13−17、
10:21−4、そして15:29の3回だけです。これら
の言及の中からパウロの理解を探すと、まず、第一の言及で
は、パウロは水のバプテスマを福音宣教ほどには重要視して
いなかったことがわかります。それは、洗礼が救いのための
絶対必要条件ではないと考えていたことを教えてくれます。
洗礼が救いのための条件であったならば、パウロは決してこ
のような言い方をしなかったでしょう。第二の言及では、モ
ーセに付くバプテスマという表現で、雲と海という物質を水
のバプテスマになぞらえています。これによってパウロは物
質によるバプテスマが、真の霊的なバプテスマの象徴である
ことを示しています。第三の言及では、当時、水のバプテス
マが間違った理解で実践されていたという事実を示していま
す。



  さらにまた、ルカが記録したパウロの言行録によると、
パウロ自らが、信じた者たちに水のバプテスマを授けていた
ことがわかります。(使16:15、33、18:8、19
:5) 重要なのは、パウロがエペソの信徒たちと交わした
会話です。(19:1−7) ここにおいてパウロは、ヨハ
ネのバプテスマとイエスのみ名によるバプテスマが、まった
く異なったものであることを示し、クリスチャンにはイエス
のみ名によるバプテスマが必要であること、また、そのバプ
テスマを受けることは、さらに聖霊によるバプテスマを受け
ることへの、通常の段階であることを教えています。



  キリストへのバプテスマ、あるいはキリストのみ体への
バプテスマと、水のバプテスマの関係を、パウロがどのよう
に理解していたかは、彼の語った、モーセに付くバプテスマ
への言及の中に、少なくても基本的部分を伺い知ることが出
来ると考えます。それはすでに述べたように、雲と海という
物質によるバプテスマが、モーセに付くという霊的なバプテ
スマを象徴するということです。物質が霊的な事実を指し示
す象徴となっているのです。そしてパウロは、このモーセに
付くバプテスマを、キリストに付くバプテスマの予表と理解
していたことにも、注意をしなければなりません。水のバプ
テスマは、聖霊による、人の手によらない本当のバプテスマ、
キリストに付くバプテスマ、キリストのみ体に付くバプテス
マを象徴するものなのです。



  キリストは、単純に、それまで繰り返されていた水のバ
プテスマを、継続するようにお命じになりました。それは、
やがてパウロが啓示によってその意味を明らかにすることを
ご存知の上で、それを前提としてお命じになったはずです。
そのように考えると、キリストがヨハネのバプテスマをお受
けになったこともまた、将来のバプテスマの理解を前提とし
てのことだったのではないかと思わされます。キリストはバ
プテスマを受ける人々とご自分を同一視され、彼らの長子と
なり、また頭となってくださったのではないでしょうか。そ
のように考えると、パウロに取って教会論がいかに大切であ
ったかと言うことが明白になり、私たちもまた、教会論をも
っと大切にしなければならない、というより、教会をこれま
で以上に大切にしなければならないということがはっきりし
ます。ただし、パウロの洗礼観についてのこの議論は、私の
ような素人の聖書解釈では歯が立たないところがありますの
で、しっかりとした学者にその議論は譲りたいと思いますが、
単純な聖書の読み方から読み取ったことを表明して、専門家
の議論を待ちたいと思います。



5.洗礼の意味 
 


  すでに、パウロが理解した洗礼の項で幾分触れましたが、
改めて、洗礼の意味について考察してみましょう。



a.洗い



  洗礼と訳されているバプテスマは、確かに洗うという意
味を持っています。パウロも自分の洗礼を省みて、彼に洗礼
を授けたアナニヤの言葉を引用しています。 「そのみ名を
呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。」
初期の弟子たちの間では、洗礼の第一の意味は、やはり罪の
悔い改めの象徴であり、(使2:38) そこから、罪を洗
い流し清めるとい理解に繋がって行ったのは明らかです。水
が洗い清めるという宗教感覚と繋がっているのは、イスラエ
ルの歴史に見られる感覚というだけではなく、多くの民族の
中に共通に見られるもので、日本においても禊という言葉が
ある通り普通の感覚です。



  パウロはまた、エペソ5:26やテトス3:5において
も、洗礼が洗い清めることに関係しているような言い方をし
ていますが、これらの言及の厳密な解釈は困難です。たとえ
ば、Iコリ6:11においてパウロは、私たちを洗って下さ
るのは聖霊であるとも語っているのです。ともあれ、パウロ
は洗礼の水が実際に私たちの罪を洗い流したり、体を清めた
りすると主張しているのではなく、キリストの贖いによって
もたらされる、罪の清めを象徴していると語っているのでし
ょう。また、ヘブル人への手紙の著者は、「きよめの洗いに
ついての教え」という表現を用いていますが、(6:2)こ
れは洗礼に関する言及とも考えられ、その場合、洗礼が清め
に関わるものであることを示すものと考えられます。ただし、
洗礼以外の洗いの意味にも取れますので、確実ではありませ
ん。(参照:9:10) さらにヘブル人への手紙は、イスラ
エルの幕屋での祭儀を通して、クリスチャンの救いについて
教えていますが、その中で、「体を清い水で洗われた」と語
り、(10:22) クリスチャンの体が心と共に清められたこ
とを教えていますが、これは明らかに幕屋の中にある洗盤で
の儀式を想定して語り、実際上は洗礼のことを語っているの
かも知れません。ここでも、清い水が文字通り体を清めると
いうことを言っているのではなく、象徴として語っているの
だと理解されます。



b.信仰の告白 



  聖書には、キリストのみ名による洗礼を信仰告白と結び
つけて語っているところはありませんが、洗礼の実例の状況
は明らかに信仰告白の様相を帯びていました。それは自分自
身に対する確認としての、行為を通しての告白であり、さら
に、他の人々に対する明確な意思表示としての告白でした。
キリスト在世当時の弟子たちのバプテスマの場合も、さらに
キリストの昇天後のクリスチャンたちのバプテスマの場合も、
ヨハネのバプテスマの場合と同様に、罪の悔い改めの告白が
伴っていたと見るべきです。また新しい生活へのイニシエー
ションとしても、明白な告白をもって行われるものでした。



  一方ペテロは、ノアの洪水を洗礼の予表として示した上
で、あたかも、洗礼が救いをもたらすものであるかのような
表現を用いながら、実質的には、洗礼は体の清めさえも行な
うものではなく、むしろ、「正しい良心の神への誓い」とし
て行われるものであると語っています。(Iペテ3:21)ペ
テロも、洗礼が清めの意味を持っているものであることは認
めながら、実質的な清めは洗礼によって行なわれるのではな
いと伝え、洗礼はあくまでも象徴的なものであり、その象徴
的行為をする時の心の状態、神に対する態度の大切さを教え
ているのです。



  ではバプテスマが、単に罪の悔い改めと清めの象徴、あ
るいはキリストに従う人生のイニシエーションとして行われ
ていた初期の段階を過ぎ、パウロに与えられた啓示などを通
してより高い理解に至ったころ、人々はどのような意味でバ
プテスマを受けるようになったのでしょう。私たちは普通、
キリストが私たちの身代わりになって死んでくださったこと
と、私たちの初穂として甦ってくださったことを信じ、その
信仰を告白する儀式として洗礼を理解して来ました。そのよ
うな意味で、バプテスマによって、キリストの死と甦りが自
分の死と甦りであることを告白していたのです。しかしすで
に見たように、ここにはパウロの理解と少しばかりの隔たり
があるように思います。パウロの理解に従うならば、水のバ
プテスマは、私たちがすでにひとつの御霊によって、キリス
トに、また、キリストのみ体にバプタイズされているのだと
いう事実を、象徴し、その事実を告白する行為であるという
ことになります。そして、キリストにバプタイズされている
からこそ、キリストの死と命に連なるものとされているので
す。少なくても、パウロの教えの影響を強く受けていた教会
では、このようなパウロの理解が一般的になっていたのでは
ないでしょうか。それは、パウロの最も初期の書であるガラ
テヤ人への手紙にすでに記されており、 コリントの教会でも
知られていたと考えるべきであり、パウロがまだ訪ねたこと
がなかったローマの教会でさえも、すでにパウロの影響を受
けた人々によって伝えられ、受け入れられていたと考えるの
が妥当であると思われます。
   


c.教会の承認 



  キリストとキリストのみ体にバプタイズされたという霊
的事実は、霊の次元で起こったリアルな事ではありますが、
多くの場合、その霊的事が起こった「場」であるクリスチャ
ン本人でさえ、気付かずにいることが多いような、密かな事
でもあるのです。イエス様がおっしゃるように、「風はどこ
から来てどこへ行くのか」解らないのです。しかしながらそ
の事は、遅かれ早かれ、当人が気付き、周囲の者も気付くべ
きものです。なぜなら、キリストにバプタイズされた者は、
必ずキリストの命の漲りを感じるからです。聖霊に生かされ
ているという実感を持つようになるからです。事実、キリス
トの命のゆえに、新しい生き方を始めるようになるからです。
それは自動的ではありませんが、自覚を持って生きるならば
必然的なことなのです。



  そこで教会は、その人物の中に、キリストの命が漲って
いること、その人物の生活が新しくされたこと、あるいはそ
の人物の信仰告白が真実であることを認めたならば、その人
物がキリストのみ体である教会に、聖霊によってバプタイズ
された者であるということを、水のバプテスマによって公に
認め、その人物を正式に仲間として迎え入れるのです。こう
して水のバプテスマは、この時から正式に教会の交わりに入
るイニシエーションともなるのです。ですから、水のバプテ
スマは、神がなさったことを教会が確認する作業なのです。
神がなさることの先取りではありません。すなわち水のバプ
テスマが人に新たな命を与えるのでも、キリストの死と復活
に与らせるのでもありません。あくまでも神が行ってくださ
ったことを、確認する作業なのです。
 










posted by MS at 00:00| Comment(0) | 聖書の学び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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