2010年11月16日

教会について 2−38

p243〜248


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6.洗礼の時期



  バプテスト系以外の大多数の教会は、幼児洗礼を行って
います。それはどのように説明されても、カトリック教会の
残滓に過ぎないことは明らかです。彼らは、パウロのピリピ
での働きの例などを取り上げて、幼児洗礼を正当化しようと
します。つまり、パウロは看守の家族「全員」にバプテスマ
を授けたのであり、その中には当然子供も幼児も含まれてい
たはずだというのです。しかし、聖書が用いる「全員」とい
う言葉は、しばしば文字通りの「全員」、ひとりも残さずと
いう意味ではなく、「おしなべて」という意味であることを
知らなければなりません。私たちはむしろ、洗礼を受けた者
たちが必ず信仰告白をしているか、信仰告白をすることが出
来る人たちであったことに注意を向けるべきです。聖書は、
幼児が洗礼を受けた例をひとつも示していません。それをも
って、「なかった」と判断することはませんが、「あった」
と主張することはさらに無理なことです。



  ある人たちは、洗礼は新約聖書の割礼であると主張して、
(参照:コロ2:11) 割礼が幼児に対して行われていた事
実を挙げます。しかしパウロが洗礼を割礼と呼んだのは、ま
ったく別の意図、すなわち人の手によるかよらないかという
対比のためであり、文字通り、洗礼を新約時代の割礼である
と考えるのは正しくありません。ましてや、割礼は男子だけ
の儀式であり、洗礼は男女両方に対する儀式です。到底同じ
ものではあり得ないのです。




  聖書の例を見る限り、洗礼には明白な信仰告白が必要で
あるとは断言出来ないまでも、自主的な信仰を必要としてい
たことは明らかです。すなわち、信仰の表現が出来る年齢で
あるということが条件となります。ただし、聖書の例からは、
幼児だけではなく、子供が洗礼を受けたという事実を見出す
ことは出来ません。使徒の働きの記述では、多くの場合は成
人男子の数だけが数えられていますが、女性も洗礼を受けた
事実は明白です。(16:15) そうして見ると、子供が
受けた可能性は否定出来ません。またユダヤ人の習慣として、
子供たちが、早い時期から信仰告白を明確に行うことが推奨
されていたことから想像すると、子供たちの洗礼は大いにあ
りそうな事と言えます。



  現在、信仰告白を条件とする多くの教会では、また、幼
児洗礼を認めている多くの教会でも、大人になってから初め
て福音に接しキリストを信じると告白した人々に対しては、
洗礼を受けたいと願う人々をかなり長期間にわたって待たせ
るのが普通です。信仰告白をより確実なものとさせるため、
あるいは「悪い行い」を止めて、クリスチャンとしての証が
立つようにさせるため、そのような処置が取られているので
すが、



  このようなやり方も、聖書の中に例を見出すことが出来
ません。敢えて考えるならば、パウロが、コリントのクリス
チャンたちにはあまり洗礼を授けなかったという事実は、こ
れと関係があるのかも知れません。異教社会の中で育った者
が福音を信じるという場合、非常に長い期間が必要ですし、
聖霊がその人物の中に働いていることを証明する「クリスチ
ャンとしての成長」も、長時間の観察が必要です。道徳的廃
頽が凄まじかったコリントに滞在した数ヶ月の間に、パウロ
は、聖霊の内住を確信出来る信徒を、まだ群れの中に見出せ
なかったのかも知れません。



  しかし、現在多くの教会が、ある特定の道徳的標準を設
けて、洗礼を受けるための条件としたり、洗礼講座の学びを
して試験を行い、60点以上取らなければ洗礼を受けられな
いと決めてかかったりするのは、聖書の基本的教えに反する
ものです。自分たちの教会に、不道徳で証にならないクリス
チャンを作らない努力は認めますが、クリスチャンの信仰の
成長は、教会や地域社会が枠付けして期待するような形では、
起こらないことが多いのです。たとえば、「酒は絶対の不道
徳」と考える教会では、酒を飲んでいる人はたとえどのよう
に人生観が変わり、憎しみを取り去られ、愛に満たされるよ
うになり、偽りを言わなくなり、誠意をもって人と接するよ
うになったとしても、洗礼を受けることが出来ません。また、
クリスチャン信仰を聖書理解や神学の理解に強度に結びつけ
るのも、正しい信仰理解ではありません。個人的になります
が、私の次男は30歳になりますが、知能は5歳前後です。
聖書の教えも神学も、ほとんど理解は出来ません。しかし、
神様を崇め、イエス様を愛し、聖霊に信頼して、毎日祈りな
がら生きています。この次男が試験を受けても5点も取れな
いでしょう。カトリックのサクラメンタルな神学に反発した
プロテスタント教会の多くが、聖書主義を主張することによ
って主知主義神学に陥ってしまい、恵みを忘れてしまってい
るのです。



  聖書を見る限り、洗礼の時期がだらだらと遅らせられて
いる例はありません。明確な信仰が認められるならば、洗礼
が授けられていたと判断されます。しかし実際問題として、
目に見えない信仰が、目に見える日々の生活の中で表現され
なければ、教会としてその人物に洗礼を授けることは出来ま
せん。聖霊がその人物の中で働いておられること、その人物
が確かにキリストにバプタイズされ、キリストの命がその中
に漲っているという事実が、形をとって表現されてこなけれ
ば、教会は、洗礼を授けるべきではありません。しかし、も
しその人物の中に、明白な信仰告白があり、キリストにバプ
タイズされているという確実な証が見られるならば、その時
点で、出来るだけ早く、その教会や地域の倫理観とは関わり
なく、また、その人物の聖書理解や神学的知識に関わりなく、
洗礼を授けられるべきなのです。教会は、洗礼を授けること
によって、個人に起こった霊的出来事を公に確認するのです。



  正しいクリスチャン信仰の成長は、実質的にも象徴的に
も、霊的現実としてもこの世の組織の決め事の上でも、しっ
かりとキリストに繋がり、キリストのみ体である教会に繋が
っていてこそ、可能になるものです。霊的誕生をした者が、
正しい神の家族という環境に入れられなければ、本来望まれ
る成長を遂げることは不可能なのです。神の国に生まれた赤
子は、生まれた瞬間から、神の国の正しい養育を受けられな
ければならないのです。神の国の正しい養育は、教会という
共同体、神の家族以外に与えることが出来ないものです。で
すから、教会は人が救われたならば、その救いを神のなさっ
たこととして怖れと慄きを持って認め、また天において起こ
る大いなる喜びを自分たちのものとして、時間のずれが起き
ないように出来るだけ早い時期に洗礼を授け、正式に教会員
として迎え入れ、必要な養育を与え、健康な成長を促すべき
なのです。私たちは知らず知らずの内に、放蕩息子の兄のよ
うになってしまってはいないでしょうか。



7.洗礼の方法
 


  幼児洗礼を認めているほとんどの教会は、同時にいわゆ
る滴礼あるいは潅礼を認めています。それは、単純に、生ま
れたばかりの幼児を、水に沈めてしまうことが出来なかった
ためと考えられます。カトリックの一般的信仰の中では、洗
礼を受けるということが救いの必須条件だったために、どう
しても生まれたばかりの子供に洗礼を授ける必要が出て来ま
した。幼児死亡率が非常に高かった時代には、生まれたその
場で洗礼を授ける場合も少なくなかったのです。そのために、
出産の場にはしばしば神父が呼ばれていましたし、特例とし
て、助産婦が神父に代わって洗礼を授けることさえ認められ
ているのです。ですから、滴礼や灌礼が認められてきたのは
当然の帰結であったと言えます。



  もちろん、現在、滴礼や潅礼を認めている教会はそのよ
うな点を強調するはずもなく、それぞれ、滴礼や潅礼の正当
性を聖書から証明しようとしています。ところが聖書の中に
は、洗礼の方法が果たしてどのようなものであったかについ
て、述べているところはありません。洗礼と訳されているバ
プテスマという言葉の意味と、洗礼の実例の記述から推し測
る以外にはないのです。バプテスマという言葉が、染料の溶
かれた水の中に布を浸す時に用いられる言葉で、文字通り
「どっぷりと浸す」という意味であることは、バプテスト教
会を始め浸礼を主張する教会の強い拠り所となっています。
勿論これに反対する立場の人々の議論もありますが、原語の
意味からの議論では決定的に浸礼に有利です。また、そのよ
うな意味を込めて、パウロがこの言葉を用いて、信徒が教会
に、またキリストご自身に結び合わされる、神秘的有機的繋
がりのことを語っていることは明白です。バプテスマという
言葉が、単に潅ぐとか撒き散らすというような意味では、わ
ざわざ「ひとつの体にバプタイズされ」という言葉を選んだ、
パウロの教会論は成り立たないのです。



  また、聖書に記述されている洗礼の具体的様子から見て
も、完全に水に浸す洗礼の方法が否定されるものはありませ
ん。滴礼や潅礼を主張する人たちは、たとえば、当時のエル
サレムで、成人男子だけで3千人もの人々が一度に洗礼を受
けることは、物理的に不可能であったと言います。(使徒2
:41) エルサレムとその近郊には、それほど大勢の人々
に一度に浸礼を施すことが出来るような、多量の水がある場
所はなかったからです。したがって彼らの受けた洗礼は滴礼
であったと、彼らは推測します。しかし、それは3千人以上
の人々が、1日のうちに洗礼を受けたと解釈するところから
生まれた推論に過ぎません。使徒の働きの記述から見ると、
3千人以上の人々がその日1日のうちに受洗したと考える必
要はありまあせん。また、浸礼を主張する人たちが論証に使
う、ヨハネ3:23の「水が多かった」という記述は、水の
量が多くて浸礼に適していたということではなく、水源がた
くさんあったという意味であると説明して、浸礼には適して
いなかったと言おうとしていますが、水源がたくさんあった
という理解は正しいとしても、それが浸礼の否定に繋がると
は思えません。



  もちろん洗礼は、それ自体に何かの力があるものではな
く、象徴として大切な役割を果たしていたと考えるならば、
たとえ滴礼であろうと潅礼であろうと、それで洗礼の意義が
完全に失われてしまうと、考えるべきではないと言えます。
浸礼にこだわる人々は、水に沈めることが葬りを意味し、水
から引き上げられることは甦りを意味すると考えるためにそ
うするのですが、どうやらこれは、パウロの言おうとしてい
たことではないことは、すでに説明した通りです。実際、あ
る特殊な場合には、滴礼や潅礼のような方法が採られていた
可能性を、否定する必要はありません。しかし、使徒時代の
すぐ後のクリスチャンたちが、岩を十字の形に深く切り掘っ
て、それを洗礼槽として使用していたという歴史的事実が、
残された多くの遺跡によって証明されていることから考えて
も、初代の教会においては、洗礼は浸礼によって行われてい
たと考えるのが無難です。またパウロが言う、キリストのみ
体へのバプテスマと言う概念、霊的事実を象徴する儀式とし
ても、どっぷりと水に浸すのがもっとも相応しいと考えられ
ます。

 

  もし今ここで述べたような洗礼の理解が、誤っていない
とするならば、キリストはその大宣教命令の時点から、教会
設立を前提としたご命令をお与えになっていたことが明白で
す。洗礼というものが、単に贖罪論的にまた救済論的に論じ
られるならば、それは個人の人間の救いの歴史に関わる重要
な事で終わってしまいますが、教会論的に論じられて、キリ
ストにバプタイズされたことを象徴し、キリストのみ体であ
る教会にバプタイズされたことを表明し、またその事実を教
会が認め、交わりの中に具体的に受け入れて行くことである
と理解すると、キリストは、パウロがやがて聖霊の啓示によ
ってそのような理解に到達するであろう事をご存知の上で、
「バプテスマを施し」とおっしゃったと考えられるからです。



B.聖餐式
  


  聖餐式についても、歴史的にいろいろな考え方が発展さ
せられて来たことは、周知の事実です。今ここでそれらの様
々な考え方に論及する必要はありません。ただ私たちは、カ
トリックの化体説を、聖書に立脚せず魔術的要素を混入させ
た考え方として拒絶し、ルターの立場を、カトリックの迷信
から脱出し切れていない、非聖書的見解として退け、カルビ
ンの主張も、まだしっかりと聖書に立つことが出来ないでい
る折衷的理解と判断し、聖職者的な聖書の読み方をしなかっ
たツイングリが主張した象徴説を、基本的に受け入れている
ものです。とは言え、聖餐にあずかるということは、単なる
象徴的儀式に加わるというだけで終わるのではなく、真実な
意味で裂かれた主のみ体と流された血潮を思い、感謝してそ
れを受けるならば、そこに特別な意味で主がご臨在を現して
くださることを信じるものであることを、加えておきたいと
思います。しかし、繰り返しになりますが、聖餐式はあくま
でも霊的真実を目に見える行為で表現する儀式であり、その
儀式が目に見えない霊的真実を作り上げるものではなく、そ
の儀式が霊的真実の強化に直結するものでもないことを、明
確にしなければなりません。



1. 過ぎ越しの祭りとの関係



  主が聖餐を制定してくださった時、それは、過ぎ越しの
食事の場のことでした。それは偶然そのようになったのでは
なく、キリストがその日が来ることを渇望してお定めになっ
たのです。(ルカ22:15) イスラエル人はすべて、昔、
主がイスラエル人をエジプトの奴隷状態から解放してくださ
った事実を忘れないために、特別に過ぎ越しのパンを作り、
それを食べました。それはまさに記念としての意味を持った
ものでした。



  イスラエルがエジプトでの奴隷の身分から解放されたと
いう事は、予表論(タイポロジー)などをあまり受け入れな
い神学的立場の人々によっても、キリストの贖罪の死とそれ
による罪人の救いの予表であると考えられています。過ぎ越
しの出来事全体が、キリストによる救い全体を予表するもの
なのです。屠れた小羊は勿論キリストを指し示すものであり、
鴨居に塗られた血はキリストの血潮を意味し、モーセの言葉
を信じてその血を鴨居に塗るという行為は、私たちがキリス
トを信じ、その流された血潮が私たちの救いのためであった
と信じる、信仰を現すと理解されています。



  イスラエル人たちは、自分たちが奴隷の身分から解放さ
れた者だと言う、歴史的事実をしっかりと記憶し続けるため
に、わざわざ種を入れないパンを作り、それを食べる祭りを
国民挙げて毎年繰り返したのです。主がこの過ぎ越しの食事
の場を選んで、聖餐の制定を行われた背後には、聖餐には過
ぎ越しと同じ意義があることをお伝えになったのだと考える
べきです。小羊の血がイスラエルを救ったように、神の小羊
イエスの血は、信じるすべての罪人を救うことになったので
す。また、種を入れないパンを食べるという行為が、過ぎ越
しの事実を思い出し感謝を捧げ続けるために、重大な意義と
機能を持っていたように、聖餐という行為は、小羊イエスの
血潮によって私たち罪人は救われたのだという、厳粛な事実
を常に思い起こさせ続ける機能を持つものです。そして新約
時代の記念である聖餐が、旧約時代の記念としての過ぎ越し
の祝いと決定的に異なっているのは、屠られたキリストの霊、
御霊がそこに臨在することによって、聖餐を単なる過去の事
実あるいは歴史的出来事の、記念以上のものにしてくださる
ことです。すなわち、過去の出来事が現在に継続して効力を
発揮しているという事実、キリストの贖いの力は過去のもの
となってしまったのではなく、現在もその同じ贖いを現実し
てくださる力であるという事実を表しているのです。



2.贖罪論的意味



  そう言うわけで、聖餐の最も重要な意義は、贖罪論的な
ものです。ぶどう酒は、キリストが罪人のためにお流しにな
った血潮を象徴し、パンは裂かれたキリストの肉体を意味す
るのです。これを飲み、食べるという行為は、キリストが流
してくださった血潮を自分の命として取り込み、キリストの
裂かれたみ体を、自分の癒しのためであったという事実を受
け入れることなのです。私たちはその打たれた傷によって癒
されたのです。



  聖餐における、「飲む」、「食べる」という行為は、信
仰の象徴であり、信じるという内面の動きを、外面的行為を
もって告白しているのです。キリストは、そのような言い方
をすると必ず誤解を生み、反対する者たちをますます勢い付
かせ、従う者たちを躓かせてしまうことを明らかにご存知の
上で、あえて、ご自分を信じるということを、ご自分の肉を
食べ血を飲むという表現で強調なさいました。信仰を持つと
いう内面的な心の行為を、外面的な「飲む」、「食べる」と
いう行為で表現したのです。(ヨハネ6:48−66)自分
を決定的に不利な状況に押しやってしまうことを、百も承知
の上で、キリストが敢えてそのような表現をなさったのは、
これが、やがて行われることになっていた聖餐式制定に繋が
る、重要な教えであったからに他なりません。聖餐は突然の
思い付きによる制定ではなく、始めから予定され、準備され
た上での重要な制定なのです。



  とは言え、キリストを信じない者が聖餐のパンを食べ、
ぶどう酒を飲んだところで、それが信仰の行為になるのでは
ありません。口で告白して救われるからと言って、ただ、オ
ウム返しのように告白をさせたところで、それが救いに至る
ものにはならないのと同じです。また逆に、信仰を持ってい
ない者が聖餐のパンを食べ、ぶどう酒を飲んだところで、そ
れが呪いになったり罰当たりになったりすることもありませ
ん。先に述べたように、そのような考え方は、聖餐を魔術的
にしてしまったところから来るものです。そう言うわけで、
聖餐を聖餐として成り立たせる、絶対になくてはならない要
素は、信仰です。厳かな祈りの雰囲気も、荘厳な音楽も、黙
想のひと時も大いに結構です。しかしそれらは無くてはなら
ないものではありません。牧師の祝福の祈りさえ絶対必要条
件ではありません。司祭の祝福によって、パンとぶどう酒が
キリストの体と血に変わるという、カトリックの教えを信じ
ているならば話は別ですが、聖書の教えからはそのような結
論は出て来ません。











posted by MS at 00:00| Comment(0) | 聖書の学び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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