2010年11月17日

教会について 2−39

p248〜255


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3.教会論的意味



  聖餐式には様々な局面があり、それぞれ非常に意義深い
ものですが、歴史的には、やはり贖罪論的な面、また救済論
な面だけが、「不当に」強調されて来たきらいがあります。
たとえば、すでに「VII.教会の働き」の、「B.教会自身
に対する働き」で簡単に触れたことではありますが、聖餐を
論じる時に必ず取り上げられるIコリ11:17−34でパ
ウロが語っていることは、しばしば救済論の「不当な」強調
によって歪められて理解されています。



  それは、特に27節から30節への言及で、パウロが語
る「主の体と血に対して罪を犯すことになる」という罪は、
具体的に何を意味しているか、私たちは自分のどのような点
について、吟味しなければならないのかということに関わり
ます。多くの人々は伝統的に、これを、主を信じていない者、
未信者が主のみ体の象徴であるパンを食べ、血潮の象徴であ
るぶどう酒を飲むことであると理解し、会衆の中に厳しい自
覚を喚起して、自分が本当に主を信じている者であるかどう
か、深く吟味するように促し、未信者が聖餐にあずかる事が
ないように細心の注意を払います。その結果、主を信じてい
ると自覚出来ている者と、自覚出来ていない者との間に厳し
い線を引き、会衆の中に差別を持ち込んでいます。



  主を信じていない者が、主のみ体と血潮の象徴であるパ
ンとぶどう酒を口にするのは、主に対する冒涜であると感じ
るのは、すでに触れているように、まさにカトリックの化体
説の残滓です。パンとぶどう酒に何か魔力的な力を信じてい
るからです。たとえカトリック教会が主張するように、パン
とぶどう酒が文字通りキリストの体と血潮に変化するのだと
しても、そして、たとえ未信者がそれを口にしたとしても、
呪いや罰を受けることなどあり得ないのです。キリストの裂
かれたみ体と流された血潮は、人々の救いと祝福のためであ
り、決して呪いと裁きのためではないからです。たとえ聖餐
のぶどう酒が床にこぼれたとしても、それは神への冒涜には
なり得ません。ぶどう酒が象徴する本物のキリストの血潮は、
十字架の上にも、岩の上にも流されたのです。物質がどこに
流れるかと言う問題ではないのです。



  また、このような救済論の強調から教会論が歪められ、
いわゆる聖餐式の「オープン」と「クローズド」の問題も起
こしています。オープンというのはたとえ自分の教会の会員
ではなくても、キリストを救い主と信じているならば、ある
いは洗礼を受けているならば、聖餐にあずかることを許すも
ので、クローズドは、自分の教会員以外には聖餐にあずから
せないことを言います。これは単に教会の管理上の問題では
なく、普遍的教会というものを正しく理解していないという、
教会論の欠陥から来るものです。



  パウロがIコリ11:17−34で主張していることは、
普通の常識ある聖書の読  み方をすると、すなわち神学的
先入観に捕らわれずに、素直に読むと極めて明快です。パウ
ロが口を極めて非難しているのは、愛餐会において弱い者や
貧しい者を無視して、自分たちだけで満腹している豊かな者
たちの愛のなさ、思いやりのなさに対してであり、そのよう
な形で主のみ体に分裂を持ち込む危険性を孕んでいる者に対
してです。そのような「貧しい者をはずかしめ」る態度が、
「神の教会を軽んじ」る事であり、その教会のために、また、
その教会がひとつであるために流された血と、裂かれた体に
対して罪を犯すことになると言っているのです。29節で言
われている「み体」とは、十字架にかかった主のみ体ではな
く、22節にある「神の教会」のことなのです。すなわち、
パウロはここで教会の愛餐会という具体的な場で行われてい
る、愛と思いやりのない行為を鋭く非難しているのであって、
会衆の中にいる信者と未信者を厳しく区別することではない
のです。実際のところ、パウロは愛餐会の食べ物が、すなわ
ち、主の裂かれたみ体と流された血潮を象徴するパンとぶど
う酒が、未信者にも行き渡ることに何の不安も感じていない
のです。このような場に、未信者がいる可能性は、パウロは
充分認識していたはずだからです。(14:23)



  パウロが聖餐について語った時、彼の主な関心は救済論
や贖罪論にではなく、教会論にあったことに、いま一度注目
すべきです。(参照・Iコリ10:14−22) それは、
贖罪論や救済論を軽んじることではなく、教会論の大切さに
陽を当てることです。パウロは、同じ杯から飲むという行為
は、同じキリストの血にあずかっているという霊的事実を象
徴するものであり、同じパンから食べるという行為は、キ
リストを信じる者はすべて、同じキリストの体にあずかって
いるという、深遠な霊的事実を表現するものであり、さらに
はキリストのみ体である、ひとつの教会に所属する者である
という、奥義を示すものだと教えています。すなわち、キリ
ストを信じている者はみな、同じキリストの愛によって愛さ
れ、同じキリストの贖いの血潮によって贖われ、同じキリス
トのみ体である教会にバプタイズされ、同じ命によって生か
される有機体となっているという事実、私たちは運命共同体
であるという事実を、声高に主張しているのです。そして、
この霊的事実を象徴する聖餐の場において、事もあろうに、
教会を分裂させる差別、冷淡、無関心が罷り通っていること
に、激しく憤っているのです。神の教会が「軽んじ」られて
いることに、激しく痛んでいるのです。(v22)

  

  くどいようですが、強調しておきます。聖餐にあずかり、
同じパンから食べ、同じ杯から飲むという行為が、キリスト
のみ体である教会の霊的一致を生み出し、ひとつの体とさせ、
有機的繋がりを生み出し、機能させるのではありません。目
に見える聖餐という儀式が霊的事実を作り出すのではなく、
目に見える聖餐の儀式は、すでに起こっている見えない霊的
出来事、霊的事実を表現し、思い起こさせ、理解させ、それ
を大切にさせる心を起こさせるのです。



4.宣教論的意味
 


  聖餐はまた、「主が来られるまで、主の死を告げ知らせ
る」ものです。(Iコリ11:26)これは、聖餐にあずか
るたびに主の死を思い起こさせるという、教育的な機能を持
った宣教論的意味と、さらに積極的に、聖餐の場に居合わせ
た未信の人々にその意味を説明することによって起こる、伝
道的な機能を持った宣教論的意味があります。



  イスラエルの子供たちは、年に一度の大切な祭りの時、
美味しくない固いパンを食べさせられて、「お母さん。今日
はお祭りなのに、どうしてこんな美味しくないパンなの?」
と聞いたことでしょう。すると母親や父親は、そのいわれを
語り、イスラエルの歴史を伝え、神がどんなに素晴らしい奇
跡を持ってイスラエル民族を救ってくださったかを教え、神
に対する信仰の重要性を、心の中にしっかりと植え付ける事
が出来ました。同じように、聖餐の場に同席するクリスチャ
ン子弟は、父や母にその意味を尋ねることでしょう。両親は
この時、しっかりとキリストに対する信仰を継承させていく
努力をしなければなりません。また、その場に居合わせた未
信者も、「いったいこれは何ですか? どのような意味があ
るのですか?」と尋ねることでしょう。その時、信仰を持っ
ている者たちは、それがどのような意味を持っているのか。
特に、尋ねたその人にとってどのような意味があるのか、丁
寧にしかも積極的に説明し、キリストの死とその意味を伝え
て行かねばなりません。聖餐は、福音なのです。言葉によら
ない、象徴的行為による福音なのです。私たちの教会の信徒
たちがこのことを、すなわち、聖餐の宣教論的意味を知って
いたならば、私たちの聖餐式に少なからぬ変化が起こるので
はないでしょうか。また、未信者が聖餐にあずかることも少
なくなりますし、そのような説明を聞いた後に、あえて未信
者のままで聖餐を口にする者は、福音を拒絶した者としての
裁きを受けることになるでしょう。また、聖餐式を執り行う
権利を、按手礼を受けた者たちだけに制限し、福音の伝達者
である伝道者たちから、聖餐の権利を剥奪する取り決めが誤
っていることも明白です。もし、伝道をするようにと信徒た
ちを励ますのであれば、その信徒たちでさえも、聖餐式を行
う権利があることを認めるべきです。



5.終末論的意味



  聖餐は「主が来られるまで」主の死を告げ知らせるもの
です。ここに、聖餐の終末論的な意味があります。私たちは
聖餐にあずかる毎に、「これは主が来られるまで」のことな
のだと、主がおいでになるその時への期待を大きくするので
す。このような期待を持つのは私たちだけではありません。
主ご自身が、大きな期待を持っていてくださるのです。



  聖餐をお定めになった時、主は不思議なことをおっしゃ
いました。マタイはそのお言葉を、「私の父の御国で、あな
たがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどう
の実で造った物を飲むことはありません」と記録しました。
マルコもほとんど同じように記し、ルカは「過ぎ越しが神の
国において成就するまでは、二度と過ぎ越しの食事をする事
はありません」と書き、さらに「神の国が来る時までは、わ
たしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありませ
ん」と、伝えています。



  過ぎ越しに関して、神様のご計画があり、完全な過ぎ越
しの成就は未来に属することであることが明らかですが、い
ま重要なのは、キリストはみ国において過ぎ越しの食事をす
る時まで、ぶどうの実から造った物を飲まないとおっしゃっ
たことです。この過ぎ越しの食事が、「小羊の婚宴」と同じ
ものである可能性もありますが、ともあれ、「神の国が来る
時までは」、キリストはぶどうの実から造った物を飲まない
とおっしゃったのです。甦られて栄光のみ体をお持ちになっ
たキリストにとって、ぶどうの実から造った物を飲まないこ
とが、実際どれほどのことなのかは私たちには分かりません。
しかし、イスラエル人にとって、ぶどうの実から造った物を
飲まないという宣言は、日本人の酒絶ちとは比べ物にならな
いほど、大変なことであると思わせたに違いありません。ま
さに魚絶ち、味噌汁絶ち、醤油絶ち以上の厳しい修行だった
に違いありません。


  しかしキリストは、そこまでして、神の国の到来を期待
し、待ちかねていらっしゃるのだということを、弟子たちに
お伝えになったのです。初代のクリスチャンたちは「マラナ
タ」、すなわち、「主よ、早くおいでください」という祈り
の言葉を、挨拶の言葉と変え、神の国の到来を期待しました。
しかし、キリストはそれ以上に期待しておられるのです。



6.パンとぶどう酒
  


  聖餐に用いられるのは、パンとぶどう酒です。しかし、
パンとぶどう酒でなければならないのでしょうか。たとえば、
パンの無い文化もあります。サツマイモではいけないのでし
ょうか。私が宣教師として働いていたフィリピンの山岳奥地
では、パンはありませんでした。協力伝道者が無理をして、
里からパンを持参したことはありますが、個人的には「サツ
マイモでも良いではないか」と思ったものです。



  さらにぶどう酒となるともっと大変です。世界中の多く
の国々ではぶどう酒がありませんでした。交通や流通が進ん
だ現在でも、ぶどう酒の無い国や地方がたくさんあります。
果物ジュースでは駄目なのでしょうか。あるいは果物さえな
い砂漠の地方、たとえばモンゴルでは、最も一般的な飲み物
である馬乳酒では駄目なのでしょうか。聖書を見ると、パン
とぶどう酒に特別な意義があるかのように、思えなくも無い
のですが、多分それは、イスラエルの文化においては、その
気候と作物と食文化において、パンとぶどう酒が欠かせなく、
一般的だったからでしょう。



  実際のところ、私たちの教会のほとんどは、聖書のよう
なパンとぶどう酒を用いていません。私たちの教会はピュー
リタンとメソジスト、ホーリネスの影響を強く受けた、アメ
リカの福音主義の流れを汲みます。一時的とは言え、禁酒法
が成立したような国家で発生し、その制定に極めて熱心だっ
た人々の精神を受け継いで、成長した教団に所属しています。
ですから、アルコール分を毛嫌いします。従って、ぶどう酒
は用いない伝統になっているのです。変わりに「ぶどうジュ
ース」を用います。ぶどうジュースと言うのはやっかいな代
物で、すぐ醗酵して酒になってしまうため、特別に処理をし
たものでなければなりません。フィリピンの私たちの教会が、
めったに、少なくても田舎の教会は、めったに聖餐式をしな
いのは、何とか手に入れることが出来るぶどう酒が禁じられ
ている上、ぶどうジュースは絶対と言えるほど、手に入らな
かったからではないかと考えたことがあります。信徒には飲
ませないで自分だけで杯を飲み干し、酔っ払ってしまってい
るカトリックの司祭を、不道徳とみなし、ぶどう酒はご法度
なのです。ですから私たちの教会では、「ぶどう酒ではなく
馬乳酒ではどうか」と言うモンゴルへ派遣された宣教師の問
いに、首を縦に振る人は非常に少ないことでしょう。たとえ
微量でもアルコールが含まれていることがまず問題で、ぶど
うから造られた物ではないことも指摘されるでしょう。



  一方、私たちの教会の多くは普通の食パンを購入して、
始めからサイコロのように切って配ります。あるいはカトリ
ック教会のように、小さなウエハースを購入して配っている
教会もあります。これで良いのでしょうか。これで、本当に
聖餐の意義が表現されるのでしょうか。自分のことを持ち出
して恐縮ですが、私の場合はいつも、家内が種を入れないま
ま煎餅のように焼くパンを用います。パン種の入ったものは、
やはり本来の姿ではないと思うからです。(参照・Iコリ6
:6、7)  聖餐式の時にそれを取り上げ、信徒の目の前で
裂いて分け、信徒がまたそれぞれ千切りとって食べるのです。
ひとつのパンから食べ同じキリストの体にあずかると言う、
聖書の教える意味を明らかにするためです。(Iコリ10:
17) 単純に、出来るだけ聖書の記述に近くしたいのです。

  

  私は、本格的な聖書の解釈などには縁遠い、開拓伝道者
に過ぎませんから、あまりたいした事は言えないのですが、
ただ、出来る限り単純に聖書の記述に近いやり方をしようと
考えています。ですから、ぶどうジュースも使わずに、ぶど
う酒を使います。禁酒の主張をここまで持ち込むのは、やり
過ぎであり聖書の軽視だと思うからです。イエス様は明らか
にぶどう酒を飲みましたし、ぶどう酒をお造りにもなりまし
た。使徒たちも間違いなくぶどう酒を飲んだことでしょう。
パウロはテモテに飲むことを勧めています。コリントの教会
の愛餐会には、酔っ払っている者さえいましたが、ぶどう酒
を飲むこと自体を禁じてはいません。



  私たちの母団体にあたる、アメリカのアッセンブリーズ
・オブ・ゴッド教団が中心になってまとめあげた、「New
Life Study Bible」という英語の聖書の説明には、イエス
様が飲み、また造ったぶどう酒は、アルコール分の無いぶど
う酒であったなどと言う、陳腐な説が数ページにも渡って書
かれていますが、自分たちの主義主張のために、事実を曲げ、
聖書の中に都合の良い読み込みを行ってしまうという、醜い
ことが行われたのは非常に嘆かわしいことです。聖書がぶど
う酒と言っているのですから、ぶどう酒で良いではないです
か。それが私たちの立場のはずです。だからと言って、ウエ
ハーでの聖餐式を無効だと言うのでも、食パンの聖餐式には
参加しないと言うのでもありません。ぶどうジュースの聖餐
にも喜んで参加いたします。



  一方、ぶどうと言うことに固執する人は、ぶどうが元々
小さな粒で成り立ち、それがつぶされてひとつの液体になり、
改めて分配されることに、ばらばらの人間が救われてひとつ
とされ、ひとつの命にあずかるという意義があると主張しま
すが、それもいささか「読み込み」過ぎていると言わねばな
りません。聖書はそのようなことに触れていませんし、それ
では蜜柑でも良い事になります。もしそれほどのことに意義
を見ようとするならば、ぶどう酒は、ひとつの杯から回し飲
みにしなければなりません。公衆衛生の観念が発達して、そ
れがなくなったなどと言うのは言い訳に過ぎなくなります。
神であられる主イエス様は、公衆衛生を知らなかったのでは
なく、無視しておられたのだからです。
 


  目に見えない霊的真理や事実を象徴する事物、すなわち
洗礼式や聖餐式、そしてそこで用いられる物や行為というも
のは、出来る限りその象徴する霊的真理や事実を彷彿とさせ
るものであるべきです。ぶどう酒には血の色を連想させる効
果があったのだと思います。ですから、白ぶどう酒ではなく、
赤ぶどう酒を用います。ひとつのものを分け合うという霊的
真実は、ひとつのパンを裂くという行為によって示されます。
しかし、ぶどう酒がぶどうジュースになったからと言って、
聖餐が無効になるのではありません。赤ぶどう酒が白ぶどう
酒になったからと言って、聖餐の力が無くなるのでもありま
せん。ですから、たとえばモンゴルのような砂漠の国の田舎
で、ぶどう酒はおろか、果物ジュースも手に入らないよう中
では、水でも良いのではないでしょうか。馬乳酒でも良いの
ではないでしょうか。勿論、私はモンゴルにおける水や馬乳
酒の、道徳的、宗教的イメージについては何も知りませんの
で、あくまでもたとえばの話です。もしも、かつて巡回した
フィリピンの山奥で、もう一度聖餐式をする機会が与えられ
るなら、彼らの主食であるサツマイモと水で行いたいと思い
ます。すると、遠くから里の人間がわざわざパンとぶどう酒
を持って行かなくても、彼らだけで、聖餐式が出来るからで
す。



  私たちは、ここでもう一度、「伝統」から物事を論じる
悪癖から脱して、あくまでも聖書の教えから論じることを強
調しなければなりません。教会論をはじめすべての神学がそ
うですが、特に、礼典においてはそのことを強調し過ぎるこ
とはありません。私たちの多くが、聖書のみ言葉に考察の基
を置かないで、自分たちの教会の伝統を盾に、不毛の議論を
続けているからです。聖書が、伝統を守るための道具とされ
てしまっているのは、実に情けないことと言わねばなりませ
ん。



あとがき



  何年たっても遅々として成長しない、地方の開拓伝道に
身を置く一介の伝道者が、恐れ多くも、自分の不足や失敗か
ら学んだことを通して、同労者諸師のお役に立てればと願っ
て、やさしく具体的な教会論を書いてみようとしたのですが、
書き疲れて読み返してみると、やはり、自信をもってお勧め
出来るほどの内容には、ほど遠いと言わざるを得ないようで
す。まさに竜頭蛇尾の見本です。ここまでお読みくださった
方には、「お気の毒」とお詫びをしたい気持ちで一杯です。
とは言え、このようなものでも、必ず役に立つという気持ち
もなくなっていません。それは、まともな教会論が存在しな
い現状では、このようなエッセイの寄せ集めのような論でも、
無いよりはましだと思うからです。どうか、もっときちっと
した学びを積んだ方たちが、この論をきっかけとし、これを
切り刻み、批判し、反論し、さらにしっかりとした「論文」
を書き上げて下さるようにと願うものです。




  まったくの言い訳になりますが、仕事の合間合間に書き
続けていくと、どうしても論が不明瞭になったり、記述が反
復したりするところが出て来てしまいます。特に私のように、
全体の構成などを考えず、直ちにワープロに向かい思いつく
まま書き始める、「ものぐさ」の文章ではそれが多いようで
す。誤字脱字、日本語の間違いなどは笑ってお赦しください。
また、面倒でもそれらを指摘してくだされば、誠に幸いに存
じます。直ちに修正したいと思います。厳しく添削をしてく
ださる方や、きちっと校正してくださる方がいないままのひ
とり仕事ですので、大いに助かります。さらに、批判、改善、
訂正、反論、示唆、その他どのようなものでもお送りくださ
れば、大変うれしいことです。


お読みくださった方の上に、神様の豊かな祝福がありますよ
うに。












posted by MS at 00:00| Comment(0) | 聖書の学び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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