2010年11月17日

教会について 2−39

p248〜255


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3.教会論的意味



  聖餐式には様々な局面があり、それぞれ非常に意義深い
ものですが、歴史的には、やはり贖罪論的な面、また救済論
な面だけが、「不当に」強調されて来たきらいがあります。
たとえば、すでに「VII.教会の働き」の、「B.教会自身
に対する働き」で簡単に触れたことではありますが、聖餐を
論じる時に必ず取り上げられるIコリ11:17−34でパ
ウロが語っていることは、しばしば救済論の「不当な」強調
によって歪められて理解されています。



  それは、特に27節から30節への言及で、パウロが語
る「主の体と血に対して罪を犯すことになる」という罪は、
具体的に何を意味しているか、私たちは自分のどのような点
について、吟味しなければならないのかということに関わり
ます。多くの人々は伝統的に、これを、主を信じていない者、
未信者が主のみ体の象徴であるパンを食べ、血潮の象徴であ
るぶどう酒を飲むことであると理解し、会衆の中に厳しい自
覚を喚起して、自分が本当に主を信じている者であるかどう
か、深く吟味するように促し、未信者が聖餐にあずかる事が
ないように細心の注意を払います。その結果、主を信じてい
ると自覚出来ている者と、自覚出来ていない者との間に厳し
い線を引き、会衆の中に差別を持ち込んでいます。



  主を信じていない者が、主のみ体と血潮の象徴であるパ
ンとぶどう酒を口にするのは、主に対する冒涜であると感じ
るのは、すでに触れているように、まさにカトリックの化体
説の残滓です。パンとぶどう酒に何か魔力的な力を信じてい
るからです。たとえカトリック教会が主張するように、パン
とぶどう酒が文字通りキリストの体と血潮に変化するのだと
しても、そして、たとえ未信者がそれを口にしたとしても、
呪いや罰を受けることなどあり得ないのです。キリストの裂
かれたみ体と流された血潮は、人々の救いと祝福のためであ
り、決して呪いと裁きのためではないからです。たとえ聖餐
のぶどう酒が床にこぼれたとしても、それは神への冒涜には
なり得ません。ぶどう酒が象徴する本物のキリストの血潮は、
十字架の上にも、岩の上にも流されたのです。物質がどこに
流れるかと言う問題ではないのです。



  また、このような救済論の強調から教会論が歪められ、
いわゆる聖餐式の「オープン」と「クローズド」の問題も起
こしています。オープンというのはたとえ自分の教会の会員
ではなくても、キリストを救い主と信じているならば、ある
いは洗礼を受けているならば、聖餐にあずかることを許すも
ので、クローズドは、自分の教会員以外には聖餐にあずから
せないことを言います。これは単に教会の管理上の問題では
なく、普遍的教会というものを正しく理解していないという、
教会論の欠陥から来るものです。



  パウロがIコリ11:17−34で主張していることは、
普通の常識ある聖書の読  み方をすると、すなわち神学的
先入観に捕らわれずに、素直に読むと極めて明快です。パウ
ロが口を極めて非難しているのは、愛餐会において弱い者や
貧しい者を無視して、自分たちだけで満腹している豊かな者
たちの愛のなさ、思いやりのなさに対してであり、そのよう
な形で主のみ体に分裂を持ち込む危険性を孕んでいる者に対
してです。そのような「貧しい者をはずかしめ」る態度が、
「神の教会を軽んじ」る事であり、その教会のために、また、
その教会がひとつであるために流された血と、裂かれた体に
対して罪を犯すことになると言っているのです。29節で言
われている「み体」とは、十字架にかかった主のみ体ではな
く、22節にある「神の教会」のことなのです。すなわち、
パウロはここで教会の愛餐会という具体的な場で行われてい
る、愛と思いやりのない行為を鋭く非難しているのであって、
会衆の中にいる信者と未信者を厳しく区別することではない
のです。実際のところ、パウロは愛餐会の食べ物が、すなわ
ち、主の裂かれたみ体と流された血潮を象徴するパンとぶど
う酒が、未信者にも行き渡ることに何の不安も感じていない
のです。このような場に、未信者がいる可能性は、パウロは
充分認識していたはずだからです。(14:23)



  パウロが聖餐について語った時、彼の主な関心は救済論
や贖罪論にではなく、教会論にあったことに、いま一度注目
すべきです。(参照・Iコリ10:14−22) それは、
贖罪論や救済論を軽んじることではなく、教会論の大切さに
陽を当てることです。パウロは、同じ杯から飲むという行為
は、同じキリストの血にあずかっているという霊的事実を象
徴するものであり、同じパンから食べるという行為は、キ
リストを信じる者はすべて、同じキリストの体にあずかって
いるという、深遠な霊的事実を表現するものであり、さらに
はキリストのみ体である、ひとつの教会に所属する者である
という、奥義を示すものだと教えています。すなわち、キリ
ストを信じている者はみな、同じキリストの愛によって愛さ
れ、同じキリストの贖いの血潮によって贖われ、同じキリス
トのみ体である教会にバプタイズされ、同じ命によって生か
される有機体となっているという事実、私たちは運命共同体
であるという事実を、声高に主張しているのです。そして、
この霊的事実を象徴する聖餐の場において、事もあろうに、
教会を分裂させる差別、冷淡、無関心が罷り通っていること
に、激しく憤っているのです。神の教会が「軽んじ」られて
いることに、激しく痛んでいるのです。(v22)

  

  くどいようですが、強調しておきます。聖餐にあずかり、
同じパンから食べ、同じ杯から飲むという行為が、キリスト
のみ体である教会の霊的一致を生み出し、ひとつの体とさせ、
有機的繋がりを生み出し、機能させるのではありません。目
に見える聖餐という儀式が霊的事実を作り出すのではなく、
目に見える聖餐の儀式は、すでに起こっている見えない霊的
出来事、霊的事実を表現し、思い起こさせ、理解させ、それ
を大切にさせる心を起こさせるのです。



4.宣教論的意味
 


  聖餐はまた、「主が来られるまで、主の死を告げ知らせ
る」ものです。(Iコリ11:26)これは、聖餐にあずか
るたびに主の死を思い起こさせるという、教育的な機能を持
った宣教論的意味と、さらに積極的に、聖餐の場に居合わせ
た未信の人々にその意味を説明することによって起こる、伝
道的な機能を持った宣教論的意味があります。



  イスラエルの子供たちは、年に一度の大切な祭りの時、
美味しくない固いパンを食べさせられて、「お母さん。今日
はお祭りなのに、どうしてこんな美味しくないパンなの?」
と聞いたことでしょう。すると母親や父親は、そのいわれを
語り、イスラエルの歴史を伝え、神がどんなに素晴らしい奇
跡を持ってイスラエル民族を救ってくださったかを教え、神
に対する信仰の重要性を、心の中にしっかりと植え付ける事
が出来ました。同じように、聖餐の場に同席するクリスチャ
ン子弟は、父や母にその意味を尋ねることでしょう。両親は
この時、しっかりとキリストに対する信仰を継承させていく
努力をしなければなりません。また、その場に居合わせた未
信者も、「いったいこれは何ですか? どのような意味があ
るのですか?」と尋ねることでしょう。その時、信仰を持っ
ている者たちは、それがどのような意味を持っているのか。
特に、尋ねたその人にとってどのような意味があるのか、丁
寧にしかも積極的に説明し、キリストの死とその意味を伝え
て行かねばなりません。聖餐は、福音なのです。言葉によら
ない、象徴的行為による福音なのです。私たちの教会の信徒
たちがこのことを、すなわち、聖餐の宣教論的意味を知って
いたならば、私たちの聖餐式に少なからぬ変化が起こるので
はないでしょうか。また、未信者が聖餐にあずかることも少
なくなりますし、そのような説明を聞いた後に、あえて未信
者のままで聖餐を口にする者は、福音を拒絶した者としての
裁きを受けることになるでしょう。また、聖餐式を執り行う
権利を、按手礼を受けた者たちだけに制限し、福音の伝達者
である伝道者たちから、聖餐の権利を剥奪する取り決めが誤
っていることも明白です。もし、伝道をするようにと信徒た
ちを励ますのであれば、その信徒たちでさえも、聖餐式を行
う権利があることを認めるべきです。



5.終末論的意味



  聖餐は「主が来られるまで」主の死を告げ知らせるもの
です。ここに、聖餐の終末論的な意味があります。私たちは
聖餐にあずかる毎に、「これは主が来られるまで」のことな
のだと、主がおいでになるその時への期待を大きくするので
す。このような期待を持つのは私たちだけではありません。
主ご自身が、大きな期待を持っていてくださるのです。



  聖餐をお定めになった時、主は不思議なことをおっしゃ
いました。マタイはそのお言葉を、「私の父の御国で、あな
たがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどう
の実で造った物を飲むことはありません」と記録しました。
マルコもほとんど同じように記し、ルカは「過ぎ越しが神の
国において成就するまでは、二度と過ぎ越しの食事をする事
はありません」と書き、さらに「神の国が来る時までは、わ
たしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありませ
ん」と、伝えています。



  過ぎ越しに関して、神様のご計画があり、完全な過ぎ越
しの成就は未来に属することであることが明らかですが、い
ま重要なのは、キリストはみ国において過ぎ越しの食事をす
る時まで、ぶどうの実から造った物を飲まないとおっしゃっ
たことです。この過ぎ越しの食事が、「小羊の婚宴」と同じ
ものである可能性もありますが、ともあれ、「神の国が来る
時までは」、キリストはぶどうの実から造った物を飲まない
とおっしゃったのです。甦られて栄光のみ体をお持ちになっ
たキリストにとって、ぶどうの実から造った物を飲まないこ
とが、実際どれほどのことなのかは私たちには分かりません。
しかし、イスラエル人にとって、ぶどうの実から造った物を
飲まないという宣言は、日本人の酒絶ちとは比べ物にならな
いほど、大変なことであると思わせたに違いありません。ま
さに魚絶ち、味噌汁絶ち、醤油絶ち以上の厳しい修行だった
に違いありません。


  しかしキリストは、そこまでして、神の国の到来を期待
し、待ちかねていらっしゃるのだということを、弟子たちに
お伝えになったのです。初代のクリスチャンたちは「マラナ
タ」、すなわち、「主よ、早くおいでください」という祈り
の言葉を、挨拶の言葉と変え、神の国の到来を期待しました。
しかし、キリストはそれ以上に期待しておられるのです。



6.パンとぶどう酒
  


  聖餐に用いられるのは、パンとぶどう酒です。しかし、
パンとぶどう酒でなければならないのでしょうか。たとえば、
パンの無い文化もあります。サツマイモではいけないのでし
ょうか。私が宣教師として働いていたフィリピンの山岳奥地
では、パンはありませんでした。協力伝道者が無理をして、
里からパンを持参したことはありますが、個人的には「サツ
マイモでも良いではないか」と思ったものです。



  さらにぶどう酒となるともっと大変です。世界中の多く
の国々ではぶどう酒がありませんでした。交通や流通が進ん
だ現在でも、ぶどう酒の無い国や地方がたくさんあります。
果物ジュースでは駄目なのでしょうか。あるいは果物さえな
い砂漠の地方、たとえばモンゴルでは、最も一般的な飲み物
である馬乳酒では駄目なのでしょうか。聖書を見ると、パン
とぶどう酒に特別な意義があるかのように、思えなくも無い
のですが、多分それは、イスラエルの文化においては、その
気候と作物と食文化において、パンとぶどう酒が欠かせなく、
一般的だったからでしょう。



  実際のところ、私たちの教会のほとんどは、聖書のよう
なパンとぶどう酒を用いていません。私たちの教会はピュー
リタンとメソジスト、ホーリネスの影響を強く受けた、アメ
リカの福音主義の流れを汲みます。一時的とは言え、禁酒法
が成立したような国家で発生し、その制定に極めて熱心だっ
た人々の精神を受け継いで、成長した教団に所属しています。
ですから、アルコール分を毛嫌いします。従って、ぶどう酒
は用いない伝統になっているのです。変わりに「ぶどうジュ
ース」を用います。ぶどうジュースと言うのはやっかいな代
物で、すぐ醗酵して酒になってしまうため、特別に処理をし
たものでなければなりません。フィリピンの私たちの教会が、
めったに、少なくても田舎の教会は、めったに聖餐式をしな
いのは、何とか手に入れることが出来るぶどう酒が禁じられ
ている上、ぶどうジュースは絶対と言えるほど、手に入らな
かったからではないかと考えたことがあります。信徒には飲
ませないで自分だけで杯を飲み干し、酔っ払ってしまってい
るカトリックの司祭を、不道徳とみなし、ぶどう酒はご法度
なのです。ですから私たちの教会では、「ぶどう酒ではなく
馬乳酒ではどうか」と言うモンゴルへ派遣された宣教師の問
いに、首を縦に振る人は非常に少ないことでしょう。たとえ
微量でもアルコールが含まれていることがまず問題で、ぶど
うから造られた物ではないことも指摘されるでしょう。



  一方、私たちの教会の多くは普通の食パンを購入して、
始めからサイコロのように切って配ります。あるいはカトリ
ック教会のように、小さなウエハースを購入して配っている
教会もあります。これで良いのでしょうか。これで、本当に
聖餐の意義が表現されるのでしょうか。自分のことを持ち出
して恐縮ですが、私の場合はいつも、家内が種を入れないま
ま煎餅のように焼くパンを用います。パン種の入ったものは、
やはり本来の姿ではないと思うからです。(参照・Iコリ6
:6、7)  聖餐式の時にそれを取り上げ、信徒の目の前で
裂いて分け、信徒がまたそれぞれ千切りとって食べるのです。
ひとつのパンから食べ同じキリストの体にあずかると言う、
聖書の教える意味を明らかにするためです。(Iコリ10:
17) 単純に、出来るだけ聖書の記述に近くしたいのです。

  

  私は、本格的な聖書の解釈などには縁遠い、開拓伝道者
に過ぎませんから、あまりたいした事は言えないのですが、
ただ、出来る限り単純に聖書の記述に近いやり方をしようと
考えています。ですから、ぶどうジュースも使わずに、ぶど
う酒を使います。禁酒の主張をここまで持ち込むのは、やり
過ぎであり聖書の軽視だと思うからです。イエス様は明らか
にぶどう酒を飲みましたし、ぶどう酒をお造りにもなりまし
た。使徒たちも間違いなくぶどう酒を飲んだことでしょう。
パウロはテモテに飲むことを勧めています。コリントの教会
の愛餐会には、酔っ払っている者さえいましたが、ぶどう酒
を飲むこと自体を禁じてはいません。



  私たちの母団体にあたる、アメリカのアッセンブリーズ
・オブ・ゴッド教団が中心になってまとめあげた、「New
Life Study Bible」という英語の聖書の説明には、イエス
様が飲み、また造ったぶどう酒は、アルコール分の無いぶど
う酒であったなどと言う、陳腐な説が数ページにも渡って書
かれていますが、自分たちの主義主張のために、事実を曲げ、
聖書の中に都合の良い読み込みを行ってしまうという、醜い
ことが行われたのは非常に嘆かわしいことです。聖書がぶど
う酒と言っているのですから、ぶどう酒で良いではないです
か。それが私たちの立場のはずです。だからと言って、ウエ
ハーでの聖餐式を無効だと言うのでも、食パンの聖餐式には
参加しないと言うのでもありません。ぶどうジュースの聖餐
にも喜んで参加いたします。



  一方、ぶどうと言うことに固執する人は、ぶどうが元々
小さな粒で成り立ち、それがつぶされてひとつの液体になり、
改めて分配されることに、ばらばらの人間が救われてひとつ
とされ、ひとつの命にあずかるという意義があると主張しま
すが、それもいささか「読み込み」過ぎていると言わねばな
りません。聖書はそのようなことに触れていませんし、それ
では蜜柑でも良い事になります。もしそれほどのことに意義
を見ようとするならば、ぶどう酒は、ひとつの杯から回し飲
みにしなければなりません。公衆衛生の観念が発達して、そ
れがなくなったなどと言うのは言い訳に過ぎなくなります。
神であられる主イエス様は、公衆衛生を知らなかったのでは
なく、無視しておられたのだからです。
 


  目に見えない霊的真理や事実を象徴する事物、すなわち
洗礼式や聖餐式、そしてそこで用いられる物や行為というも
のは、出来る限りその象徴する霊的真理や事実を彷彿とさせ
るものであるべきです。ぶどう酒には血の色を連想させる効
果があったのだと思います。ですから、白ぶどう酒ではなく、
赤ぶどう酒を用います。ひとつのものを分け合うという霊的
真実は、ひとつのパンを裂くという行為によって示されます。
しかし、ぶどう酒がぶどうジュースになったからと言って、
聖餐が無効になるのではありません。赤ぶどう酒が白ぶどう
酒になったからと言って、聖餐の力が無くなるのでもありま
せん。ですから、たとえばモンゴルのような砂漠の国の田舎
で、ぶどう酒はおろか、果物ジュースも手に入らないよう中
では、水でも良いのではないでしょうか。馬乳酒でも良いの
ではないでしょうか。勿論、私はモンゴルにおける水や馬乳
酒の、道徳的、宗教的イメージについては何も知りませんの
で、あくまでもたとえばの話です。もしも、かつて巡回した
フィリピンの山奥で、もう一度聖餐式をする機会が与えられ
るなら、彼らの主食であるサツマイモと水で行いたいと思い
ます。すると、遠くから里の人間がわざわざパンとぶどう酒
を持って行かなくても、彼らだけで、聖餐式が出来るからで
す。



  私たちは、ここでもう一度、「伝統」から物事を論じる
悪癖から脱して、あくまでも聖書の教えから論じることを強
調しなければなりません。教会論をはじめすべての神学がそ
うですが、特に、礼典においてはそのことを強調し過ぎるこ
とはありません。私たちの多くが、聖書のみ言葉に考察の基
を置かないで、自分たちの教会の伝統を盾に、不毛の議論を
続けているからです。聖書が、伝統を守るための道具とされ
てしまっているのは、実に情けないことと言わねばなりませ
ん。



あとがき



  何年たっても遅々として成長しない、地方の開拓伝道に
身を置く一介の伝道者が、恐れ多くも、自分の不足や失敗か
ら学んだことを通して、同労者諸師のお役に立てればと願っ
て、やさしく具体的な教会論を書いてみようとしたのですが、
書き疲れて読み返してみると、やはり、自信をもってお勧め
出来るほどの内容には、ほど遠いと言わざるを得ないようで
す。まさに竜頭蛇尾の見本です。ここまでお読みくださった
方には、「お気の毒」とお詫びをしたい気持ちで一杯です。
とは言え、このようなものでも、必ず役に立つという気持ち
もなくなっていません。それは、まともな教会論が存在しな
い現状では、このようなエッセイの寄せ集めのような論でも、
無いよりはましだと思うからです。どうか、もっときちっと
した学びを積んだ方たちが、この論をきっかけとし、これを
切り刻み、批判し、反論し、さらにしっかりとした「論文」
を書き上げて下さるようにと願うものです。




  まったくの言い訳になりますが、仕事の合間合間に書き
続けていくと、どうしても論が不明瞭になったり、記述が反
復したりするところが出て来てしまいます。特に私のように、
全体の構成などを考えず、直ちにワープロに向かい思いつく
まま書き始める、「ものぐさ」の文章ではそれが多いようで
す。誤字脱字、日本語の間違いなどは笑ってお赦しください。
また、面倒でもそれらを指摘してくだされば、誠に幸いに存
じます。直ちに修正したいと思います。厳しく添削をしてく
ださる方や、きちっと校正してくださる方がいないままのひ
とり仕事ですので、大いに助かります。さらに、批判、改善、
訂正、反論、示唆、その他どのようなものでもお送りくださ
れば、大変うれしいことです。


お読みくださった方の上に、神様の豊かな祝福がありますよ
うに。












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2010年11月16日

教会について 2−38

p243〜248


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6.洗礼の時期



  バプテスト系以外の大多数の教会は、幼児洗礼を行って
います。それはどのように説明されても、カトリック教会の
残滓に過ぎないことは明らかです。彼らは、パウロのピリピ
での働きの例などを取り上げて、幼児洗礼を正当化しようと
します。つまり、パウロは看守の家族「全員」にバプテスマ
を授けたのであり、その中には当然子供も幼児も含まれてい
たはずだというのです。しかし、聖書が用いる「全員」とい
う言葉は、しばしば文字通りの「全員」、ひとりも残さずと
いう意味ではなく、「おしなべて」という意味であることを
知らなければなりません。私たちはむしろ、洗礼を受けた者
たちが必ず信仰告白をしているか、信仰告白をすることが出
来る人たちであったことに注意を向けるべきです。聖書は、
幼児が洗礼を受けた例をひとつも示していません。それをも
って、「なかった」と判断することはませんが、「あった」
と主張することはさらに無理なことです。



  ある人たちは、洗礼は新約聖書の割礼であると主張して、
(参照:コロ2:11) 割礼が幼児に対して行われていた事
実を挙げます。しかしパウロが洗礼を割礼と呼んだのは、ま
ったく別の意図、すなわち人の手によるかよらないかという
対比のためであり、文字通り、洗礼を新約時代の割礼である
と考えるのは正しくありません。ましてや、割礼は男子だけ
の儀式であり、洗礼は男女両方に対する儀式です。到底同じ
ものではあり得ないのです。




  聖書の例を見る限り、洗礼には明白な信仰告白が必要で
あるとは断言出来ないまでも、自主的な信仰を必要としてい
たことは明らかです。すなわち、信仰の表現が出来る年齢で
あるということが条件となります。ただし、聖書の例からは、
幼児だけではなく、子供が洗礼を受けたという事実を見出す
ことは出来ません。使徒の働きの記述では、多くの場合は成
人男子の数だけが数えられていますが、女性も洗礼を受けた
事実は明白です。(16:15) そうして見ると、子供が
受けた可能性は否定出来ません。またユダヤ人の習慣として、
子供たちが、早い時期から信仰告白を明確に行うことが推奨
されていたことから想像すると、子供たちの洗礼は大いにあ
りそうな事と言えます。



  現在、信仰告白を条件とする多くの教会では、また、幼
児洗礼を認めている多くの教会でも、大人になってから初め
て福音に接しキリストを信じると告白した人々に対しては、
洗礼を受けたいと願う人々をかなり長期間にわたって待たせ
るのが普通です。信仰告白をより確実なものとさせるため、
あるいは「悪い行い」を止めて、クリスチャンとしての証が
立つようにさせるため、そのような処置が取られているので
すが、



  このようなやり方も、聖書の中に例を見出すことが出来
ません。敢えて考えるならば、パウロが、コリントのクリス
チャンたちにはあまり洗礼を授けなかったという事実は、こ
れと関係があるのかも知れません。異教社会の中で育った者
が福音を信じるという場合、非常に長い期間が必要ですし、
聖霊がその人物の中に働いていることを証明する「クリスチ
ャンとしての成長」も、長時間の観察が必要です。道徳的廃
頽が凄まじかったコリントに滞在した数ヶ月の間に、パウロ
は、聖霊の内住を確信出来る信徒を、まだ群れの中に見出せ
なかったのかも知れません。



  しかし、現在多くの教会が、ある特定の道徳的標準を設
けて、洗礼を受けるための条件としたり、洗礼講座の学びを
して試験を行い、60点以上取らなければ洗礼を受けられな
いと決めてかかったりするのは、聖書の基本的教えに反する
ものです。自分たちの教会に、不道徳で証にならないクリス
チャンを作らない努力は認めますが、クリスチャンの信仰の
成長は、教会や地域社会が枠付けして期待するような形では、
起こらないことが多いのです。たとえば、「酒は絶対の不道
徳」と考える教会では、酒を飲んでいる人はたとえどのよう
に人生観が変わり、憎しみを取り去られ、愛に満たされるよ
うになり、偽りを言わなくなり、誠意をもって人と接するよ
うになったとしても、洗礼を受けることが出来ません。また、
クリスチャン信仰を聖書理解や神学の理解に強度に結びつけ
るのも、正しい信仰理解ではありません。個人的になります
が、私の次男は30歳になりますが、知能は5歳前後です。
聖書の教えも神学も、ほとんど理解は出来ません。しかし、
神様を崇め、イエス様を愛し、聖霊に信頼して、毎日祈りな
がら生きています。この次男が試験を受けても5点も取れな
いでしょう。カトリックのサクラメンタルな神学に反発した
プロテスタント教会の多くが、聖書主義を主張することによ
って主知主義神学に陥ってしまい、恵みを忘れてしまってい
るのです。



  聖書を見る限り、洗礼の時期がだらだらと遅らせられて
いる例はありません。明確な信仰が認められるならば、洗礼
が授けられていたと判断されます。しかし実際問題として、
目に見えない信仰が、目に見える日々の生活の中で表現され
なければ、教会としてその人物に洗礼を授けることは出来ま
せん。聖霊がその人物の中で働いておられること、その人物
が確かにキリストにバプタイズされ、キリストの命がその中
に漲っているという事実が、形をとって表現されてこなけれ
ば、教会は、洗礼を授けるべきではありません。しかし、も
しその人物の中に、明白な信仰告白があり、キリストにバプ
タイズされているという確実な証が見られるならば、その時
点で、出来るだけ早く、その教会や地域の倫理観とは関わり
なく、また、その人物の聖書理解や神学的知識に関わりなく、
洗礼を授けられるべきなのです。教会は、洗礼を授けること
によって、個人に起こった霊的出来事を公に確認するのです。



  正しいクリスチャン信仰の成長は、実質的にも象徴的に
も、霊的現実としてもこの世の組織の決め事の上でも、しっ
かりとキリストに繋がり、キリストのみ体である教会に繋が
っていてこそ、可能になるものです。霊的誕生をした者が、
正しい神の家族という環境に入れられなければ、本来望まれ
る成長を遂げることは不可能なのです。神の国に生まれた赤
子は、生まれた瞬間から、神の国の正しい養育を受けられな
ければならないのです。神の国の正しい養育は、教会という
共同体、神の家族以外に与えることが出来ないものです。で
すから、教会は人が救われたならば、その救いを神のなさっ
たこととして怖れと慄きを持って認め、また天において起こ
る大いなる喜びを自分たちのものとして、時間のずれが起き
ないように出来るだけ早い時期に洗礼を授け、正式に教会員
として迎え入れ、必要な養育を与え、健康な成長を促すべき
なのです。私たちは知らず知らずの内に、放蕩息子の兄のよ
うになってしまってはいないでしょうか。



7.洗礼の方法
 


  幼児洗礼を認めているほとんどの教会は、同時にいわゆ
る滴礼あるいは潅礼を認めています。それは、単純に、生ま
れたばかりの幼児を、水に沈めてしまうことが出来なかった
ためと考えられます。カトリックの一般的信仰の中では、洗
礼を受けるということが救いの必須条件だったために、どう
しても生まれたばかりの子供に洗礼を授ける必要が出て来ま
した。幼児死亡率が非常に高かった時代には、生まれたその
場で洗礼を授ける場合も少なくなかったのです。そのために、
出産の場にはしばしば神父が呼ばれていましたし、特例とし
て、助産婦が神父に代わって洗礼を授けることさえ認められ
ているのです。ですから、滴礼や灌礼が認められてきたのは
当然の帰結であったと言えます。



  もちろん、現在、滴礼や潅礼を認めている教会はそのよ
うな点を強調するはずもなく、それぞれ、滴礼や潅礼の正当
性を聖書から証明しようとしています。ところが聖書の中に
は、洗礼の方法が果たしてどのようなものであったかについ
て、述べているところはありません。洗礼と訳されているバ
プテスマという言葉の意味と、洗礼の実例の記述から推し測
る以外にはないのです。バプテスマという言葉が、染料の溶
かれた水の中に布を浸す時に用いられる言葉で、文字通り
「どっぷりと浸す」という意味であることは、バプテスト教
会を始め浸礼を主張する教会の強い拠り所となっています。
勿論これに反対する立場の人々の議論もありますが、原語の
意味からの議論では決定的に浸礼に有利です。また、そのよ
うな意味を込めて、パウロがこの言葉を用いて、信徒が教会
に、またキリストご自身に結び合わされる、神秘的有機的繋
がりのことを語っていることは明白です。バプテスマという
言葉が、単に潅ぐとか撒き散らすというような意味では、わ
ざわざ「ひとつの体にバプタイズされ」という言葉を選んだ、
パウロの教会論は成り立たないのです。



  また、聖書に記述されている洗礼の具体的様子から見て
も、完全に水に浸す洗礼の方法が否定されるものはありませ
ん。滴礼や潅礼を主張する人たちは、たとえば、当時のエル
サレムで、成人男子だけで3千人もの人々が一度に洗礼を受
けることは、物理的に不可能であったと言います。(使徒2
:41) エルサレムとその近郊には、それほど大勢の人々
に一度に浸礼を施すことが出来るような、多量の水がある場
所はなかったからです。したがって彼らの受けた洗礼は滴礼
であったと、彼らは推測します。しかし、それは3千人以上
の人々が、1日のうちに洗礼を受けたと解釈するところから
生まれた推論に過ぎません。使徒の働きの記述から見ると、
3千人以上の人々がその日1日のうちに受洗したと考える必
要はありまあせん。また、浸礼を主張する人たちが論証に使
う、ヨハネ3:23の「水が多かった」という記述は、水の
量が多くて浸礼に適していたということではなく、水源がた
くさんあったという意味であると説明して、浸礼には適して
いなかったと言おうとしていますが、水源がたくさんあった
という理解は正しいとしても、それが浸礼の否定に繋がると
は思えません。



  もちろん洗礼は、それ自体に何かの力があるものではな
く、象徴として大切な役割を果たしていたと考えるならば、
たとえ滴礼であろうと潅礼であろうと、それで洗礼の意義が
完全に失われてしまうと、考えるべきではないと言えます。
浸礼にこだわる人々は、水に沈めることが葬りを意味し、水
から引き上げられることは甦りを意味すると考えるためにそ
うするのですが、どうやらこれは、パウロの言おうとしてい
たことではないことは、すでに説明した通りです。実際、あ
る特殊な場合には、滴礼や潅礼のような方法が採られていた
可能性を、否定する必要はありません。しかし、使徒時代の
すぐ後のクリスチャンたちが、岩を十字の形に深く切り掘っ
て、それを洗礼槽として使用していたという歴史的事実が、
残された多くの遺跡によって証明されていることから考えて
も、初代の教会においては、洗礼は浸礼によって行われてい
たと考えるのが無難です。またパウロが言う、キリストのみ
体へのバプテスマと言う概念、霊的事実を象徴する儀式とし
ても、どっぷりと水に浸すのがもっとも相応しいと考えられ
ます。

 

  もし今ここで述べたような洗礼の理解が、誤っていない
とするならば、キリストはその大宣教命令の時点から、教会
設立を前提としたご命令をお与えになっていたことが明白で
す。洗礼というものが、単に贖罪論的にまた救済論的に論じ
られるならば、それは個人の人間の救いの歴史に関わる重要
な事で終わってしまいますが、教会論的に論じられて、キリ
ストにバプタイズされたことを象徴し、キリストのみ体であ
る教会にバプタイズされたことを表明し、またその事実を教
会が認め、交わりの中に具体的に受け入れて行くことである
と理解すると、キリストは、パウロがやがて聖霊の啓示によ
ってそのような理解に到達するであろう事をご存知の上で、
「バプテスマを施し」とおっしゃったと考えられるからです。



B.聖餐式
  


  聖餐式についても、歴史的にいろいろな考え方が発展さ
せられて来たことは、周知の事実です。今ここでそれらの様
々な考え方に論及する必要はありません。ただ私たちは、カ
トリックの化体説を、聖書に立脚せず魔術的要素を混入させ
た考え方として拒絶し、ルターの立場を、カトリックの迷信
から脱出し切れていない、非聖書的見解として退け、カルビ
ンの主張も、まだしっかりと聖書に立つことが出来ないでい
る折衷的理解と判断し、聖職者的な聖書の読み方をしなかっ
たツイングリが主張した象徴説を、基本的に受け入れている
ものです。とは言え、聖餐にあずかるということは、単なる
象徴的儀式に加わるというだけで終わるのではなく、真実な
意味で裂かれた主のみ体と流された血潮を思い、感謝してそ
れを受けるならば、そこに特別な意味で主がご臨在を現して
くださることを信じるものであることを、加えておきたいと
思います。しかし、繰り返しになりますが、聖餐式はあくま
でも霊的真実を目に見える行為で表現する儀式であり、その
儀式が目に見えない霊的真実を作り上げるものではなく、そ
の儀式が霊的真実の強化に直結するものでもないことを、明
確にしなければなりません。



1. 過ぎ越しの祭りとの関係



  主が聖餐を制定してくださった時、それは、過ぎ越しの
食事の場のことでした。それは偶然そのようになったのでは
なく、キリストがその日が来ることを渇望してお定めになっ
たのです。(ルカ22:15) イスラエル人はすべて、昔、
主がイスラエル人をエジプトの奴隷状態から解放してくださ
った事実を忘れないために、特別に過ぎ越しのパンを作り、
それを食べました。それはまさに記念としての意味を持った
ものでした。



  イスラエルがエジプトでの奴隷の身分から解放されたと
いう事は、予表論(タイポロジー)などをあまり受け入れな
い神学的立場の人々によっても、キリストの贖罪の死とそれ
による罪人の救いの予表であると考えられています。過ぎ越
しの出来事全体が、キリストによる救い全体を予表するもの
なのです。屠れた小羊は勿論キリストを指し示すものであり、
鴨居に塗られた血はキリストの血潮を意味し、モーセの言葉
を信じてその血を鴨居に塗るという行為は、私たちがキリス
トを信じ、その流された血潮が私たちの救いのためであった
と信じる、信仰を現すと理解されています。



  イスラエル人たちは、自分たちが奴隷の身分から解放さ
れた者だと言う、歴史的事実をしっかりと記憶し続けるため
に、わざわざ種を入れないパンを作り、それを食べる祭りを
国民挙げて毎年繰り返したのです。主がこの過ぎ越しの食事
の場を選んで、聖餐の制定を行われた背後には、聖餐には過
ぎ越しと同じ意義があることをお伝えになったのだと考える
べきです。小羊の血がイスラエルを救ったように、神の小羊
イエスの血は、信じるすべての罪人を救うことになったので
す。また、種を入れないパンを食べるという行為が、過ぎ越
しの事実を思い出し感謝を捧げ続けるために、重大な意義と
機能を持っていたように、聖餐という行為は、小羊イエスの
血潮によって私たち罪人は救われたのだという、厳粛な事実
を常に思い起こさせ続ける機能を持つものです。そして新約
時代の記念である聖餐が、旧約時代の記念としての過ぎ越し
の祝いと決定的に異なっているのは、屠られたキリストの霊、
御霊がそこに臨在することによって、聖餐を単なる過去の事
実あるいは歴史的出来事の、記念以上のものにしてくださる
ことです。すなわち、過去の出来事が現在に継続して効力を
発揮しているという事実、キリストの贖いの力は過去のもの
となってしまったのではなく、現在もその同じ贖いを現実し
てくださる力であるという事実を表しているのです。



2.贖罪論的意味



  そう言うわけで、聖餐の最も重要な意義は、贖罪論的な
ものです。ぶどう酒は、キリストが罪人のためにお流しにな
った血潮を象徴し、パンは裂かれたキリストの肉体を意味す
るのです。これを飲み、食べるという行為は、キリストが流
してくださった血潮を自分の命として取り込み、キリストの
裂かれたみ体を、自分の癒しのためであったという事実を受
け入れることなのです。私たちはその打たれた傷によって癒
されたのです。



  聖餐における、「飲む」、「食べる」という行為は、信
仰の象徴であり、信じるという内面の動きを、外面的行為を
もって告白しているのです。キリストは、そのような言い方
をすると必ず誤解を生み、反対する者たちをますます勢い付
かせ、従う者たちを躓かせてしまうことを明らかにご存知の
上で、あえて、ご自分を信じるということを、ご自分の肉を
食べ血を飲むという表現で強調なさいました。信仰を持つと
いう内面的な心の行為を、外面的な「飲む」、「食べる」と
いう行為で表現したのです。(ヨハネ6:48−66)自分
を決定的に不利な状況に押しやってしまうことを、百も承知
の上で、キリストが敢えてそのような表現をなさったのは、
これが、やがて行われることになっていた聖餐式制定に繋が
る、重要な教えであったからに他なりません。聖餐は突然の
思い付きによる制定ではなく、始めから予定され、準備され
た上での重要な制定なのです。



  とは言え、キリストを信じない者が聖餐のパンを食べ、
ぶどう酒を飲んだところで、それが信仰の行為になるのでは
ありません。口で告白して救われるからと言って、ただ、オ
ウム返しのように告白をさせたところで、それが救いに至る
ものにはならないのと同じです。また逆に、信仰を持ってい
ない者が聖餐のパンを食べ、ぶどう酒を飲んだところで、そ
れが呪いになったり罰当たりになったりすることもありませ
ん。先に述べたように、そのような考え方は、聖餐を魔術的
にしてしまったところから来るものです。そう言うわけで、
聖餐を聖餐として成り立たせる、絶対になくてはならない要
素は、信仰です。厳かな祈りの雰囲気も、荘厳な音楽も、黙
想のひと時も大いに結構です。しかしそれらは無くてはなら
ないものではありません。牧師の祝福の祈りさえ絶対必要条
件ではありません。司祭の祝福によって、パンとぶどう酒が
キリストの体と血に変わるという、カトリックの教えを信じ
ているならば話は別ですが、聖書の教えからはそのような結
論は出て来ません。











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2010年11月15日

教会について 2−37

p236〜243

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3.キリストがお命じになった洗礼



  甦られたキリストは、弟子たちに洗礼を授けるようにお
命じになっただけで、その意味についてはお語りにならなか
ったようです。したがって弟子たちは、外形においてもキリ
スト在世当時と変わらない洗礼を授け、その意味においても、
罪の許しの象徴、あるいは新しい信仰と人生へのイニシエー
ションの印として、継続して行ったと思われます。それは、
ペンテコステの日のペテロの説教にも伺い知ることがますし、
(使2:38)エチオピアの宦官へのピリポの洗礼にも見て
取れます。ペテロをはじめとするキリストの弟子たちは、多
分、かなり長い間この洗礼の理解に留まっていたのではない
かと思われますが、その本当の意味を理解したのはパウロで
した。



4.パウロが理解した洗礼
 


  パウロは、キリストがお命じになった洗礼をアナニヤか
ら受けた時、当然、罪の許しと新しい信仰と生活への、イニ
シエーションとしての洗礼を受けたはずです。その時の彼の
理解は、他の弟子たちとあまり変わらず、むしろ初心者とし
て、不明確なものだったと考えられます。ところがパウロは
神の奥義、すなわち、それまではまだ誰にも与えられていな
かった、真理の啓示を受けました。  そしてその奥義の大部
分は、教会に関するものでした。パウロの受けた奥義の啓示
を、贖罪論的にまた救済論的に語るだけでは充分ではありま
せん。むしろ教会論的に語ってこそ、その真の姿が明白にな
ると信じるものですが、この洗礼に関わる彼の理解も、奥義
の啓示としての教会論の中で理解されるべきものです。



  パウロが本当に重要な事柄として語ったのは、個々人の
救いに関する事柄も然ることながら、むしろ、共同体として
の教会でした。彼の著作を素直に読む限り、パウロは、個々
人の救いの歴史の中における洗礼の大切さについて語ること
よりも、教会という共同体に加えられる「バプテスマ」につ
いて、より高い関心を払って語っているように思えるのです。
救いという、ひとりの人間にとってこの上ないほど大切な事
柄について、パウロが語っているという理解には異論があり
ません。しかし、パウロの「バプテスマ論」を読むと、視点
というか関心は、個人にではなく共同体にあるように読める
のです。



  さて、そのように考えると、「洗礼」という日本語が正
しい翻訳であるかどうかという問題が発生して来ます。洗礼
という訳は、罪を洗い流すという意味を強調し、また、それ
が儀式であるということを示しています。これに対してバプ
テスト教会は異議を唱え、罪を洗うというのは洗礼の主たる
意味ではなく、もっと大切なのは、バプテスマという原語が
持つ「浸す」という意味に関わる、死と甦りであるから、
「浸礼」と訳すべきであると主張して譲りませんでした。そ
の結果、日本語聖書の多くは両方の意見を尊重して、「バプ
テスマ」という原語をそのまま残すことにしたのです。しか
しいま本当に問題なのは、パウロが「バプテスマ」と言って
いる時、はたしてそれは、水の中に浸す葬りの儀式を意味し
ているのか、あるいは水を注ぎかける洗いの儀式のことを語
っているのかということではありません。



  Iコリ12:13を読むと、私たちは聖霊によってキリ
ストのみ体に「バプタイズ」されたのだと、パウロが語って
いるのに気付きます。日本語の翻訳では「ひとつの体になる
ようにバプテスマを受け」となっていて意味が曖昧ですが、
ギリシヤ語原典によると、「私たちはひとつの御霊によって、
ひとつの体の中にバプタイズされ」となっています。ここで
パウロが用いている「バプタイズされ」という言葉は、「洗
礼を授けられ」とも、「浸礼を施され」とも、訳すことがな
いものです。パウロが語っているのは水に関わることではな
く、また儀式に関わることでもなく、聖霊がひとりひとりの
信徒すべてを、例外なく、キリストのみ体である教会に、バ
プタイズしてくださったという霊的事実、霊的次元に起こっ
た現実についてなのです。



  同じように、ガラ3:27でパウロが語っているのも、
日本語では「バプテスマを受けてキリストにつく者とされた
あなたがたはみな」と訳されていて、あたかも「人の手によ
る儀式としての洗礼を受けて、キリストにつく者とされた」
と理解されがちですが、原語で見ると「キリストの中にバプ
タイズされたあなた方はみな」となっています。すると、
「聖霊による霊的事実として、キリストの中にバプタイズさ
れた者」と理解するのが正しいことが解ります。この、キリ
ストの中にバプタイズされるという考え方は、パウロが好ん
で用いた「キリストにあって」という表現に通じるものです。
ここでも日本語では「あって」という少々曖昧な表現になっ
てしまいますが、ギリシヤ語では「キリストの中で」という
はっきりした言い方になっていて、英語でも「in Christ」
と訳されています。パウロに取っては、キリストのみ体であ
る教会にバプタイズされることと、キリストご自身にバプタ
イズされることに大きな違いはなかったようです。実際パウ
ロは、Iコリ12:13の一節前において、教会をキリスト
と言い切って、教会とキリストを同一視し、キリストのみ体
にバプタイズされることは、キリストにバプタイズされるこ
とであるとさえ語っているのです。パウロに取って、キリス
トにバプタイズされていながら、キリストのみ体にバプタイ
ズされていないことなどあり得ず、キリストのみ体にバプタ
イズされていながら、キリストにバプタイズされていないな
どということも、あり得なかったのです。これらはふたつの
別個のことではなく、同一の事柄のふたつの面に過ぎないの
です。



  このことをしっかりと理解して、パウロの「バプテスマ」
に対する言及を見ると、今まで理解されて来たものとは異な
る理解が生まれてきます。たとえばローマ6:2−6に記さ
れているパウロの「バプテスマ論」は、もはや洗礼論でも浸
礼論でもなくなってしまいます。彼がここで語っている「キ
リストにつくバプテスマ」は、人間によって施される水に関
わる儀式ではなく、聖霊によってキリストにバプタイズされ、
同時に、キリストのみ体である教会にバプタイズされること
であると、理解されるからです。人の手による洗礼と言う儀
式によって、キリストの死にあずかるのでも、またその甦り
にあずかるのでもなく、聖霊が私たちをキリストにバプタイ
ズしてくださることによって、私たちはキリストの死にあず
かり、キリストの甦りにあずかる者となるのです。パウロが
語っていることは水の儀式ではなく、聖霊が霊的次元で成し
遂げてくださる神秘的な事実なのです。 



  これはまた、コロ2:11−12でパウロが語っている
こととも調和します。12節でパウロが語るバプテスマは、
水に関わるバプテスマではなく、聖霊が働いてくださるバプ
テスマのはずです。原語では11節と12節はひとつのセン
テンスですから、11節で言われている「人の手によらない、
・・・キリストの割礼」は12節のバプテスマのことです。
そしてこのバプテスマは人の手によらないバプテスマ、すな
わち、聖霊によるキリストへの、あるいはキリストのみ体へ
のバプテスマであり、「人の手によって」水を用いて行われ
る洗礼でも浸礼でもないということです。私たちは、元より、
洗礼という儀式によってキリストの死と甦りにあずかる者と
なるとは理解していませんでしたが、洗礼という儀式が、
「信仰によってキリストの死と甦りにあずかる者となったと
いう事実を象徴的に表現する」という言い方も、充分ではな
いということになります。むしろ私たちは、「聖霊によるキ
リストの中へのバプテスマ」によって、キリストと繋がり、
その死と甦りにあずかる者となるのであり、その事実を象徴
するのが、人の手による洗礼と言う儀式であるというべきな
のです。



  では、パウロに取って、水によるバプテスマはどのよう
な意味を持っていたのでしょう。パウロが水のバプテスマに
ついて明確に言及しているのは、Iコリ1:13−17、
10:21−4、そして15:29の3回だけです。これら
の言及の中からパウロの理解を探すと、まず、第一の言及で
は、パウロは水のバプテスマを福音宣教ほどには重要視して
いなかったことがわかります。それは、洗礼が救いのための
絶対必要条件ではないと考えていたことを教えてくれます。
洗礼が救いのための条件であったならば、パウロは決してこ
のような言い方をしなかったでしょう。第二の言及では、モ
ーセに付くバプテスマという表現で、雲と海という物質を水
のバプテスマになぞらえています。これによってパウロは物
質によるバプテスマが、真の霊的なバプテスマの象徴である
ことを示しています。第三の言及では、当時、水のバプテス
マが間違った理解で実践されていたという事実を示していま
す。



  さらにまた、ルカが記録したパウロの言行録によると、
パウロ自らが、信じた者たちに水のバプテスマを授けていた
ことがわかります。(使16:15、33、18:8、19
:5) 重要なのは、パウロがエペソの信徒たちと交わした
会話です。(19:1−7) ここにおいてパウロは、ヨハ
ネのバプテスマとイエスのみ名によるバプテスマが、まった
く異なったものであることを示し、クリスチャンにはイエス
のみ名によるバプテスマが必要であること、また、そのバプ
テスマを受けることは、さらに聖霊によるバプテスマを受け
ることへの、通常の段階であることを教えています。



  キリストへのバプテスマ、あるいはキリストのみ体への
バプテスマと、水のバプテスマの関係を、パウロがどのよう
に理解していたかは、彼の語った、モーセに付くバプテスマ
への言及の中に、少なくても基本的部分を伺い知ることが出
来ると考えます。それはすでに述べたように、雲と海という
物質によるバプテスマが、モーセに付くという霊的なバプテ
スマを象徴するということです。物質が霊的な事実を指し示
す象徴となっているのです。そしてパウロは、このモーセに
付くバプテスマを、キリストに付くバプテスマの予表と理解
していたことにも、注意をしなければなりません。水のバプ
テスマは、聖霊による、人の手によらない本当のバプテスマ、
キリストに付くバプテスマ、キリストのみ体に付くバプテス
マを象徴するものなのです。



  キリストは、単純に、それまで繰り返されていた水のバ
プテスマを、継続するようにお命じになりました。それは、
やがてパウロが啓示によってその意味を明らかにすることを
ご存知の上で、それを前提としてお命じになったはずです。
そのように考えると、キリストがヨハネのバプテスマをお受
けになったこともまた、将来のバプテスマの理解を前提とし
てのことだったのではないかと思わされます。キリストはバ
プテスマを受ける人々とご自分を同一視され、彼らの長子と
なり、また頭となってくださったのではないでしょうか。そ
のように考えると、パウロに取って教会論がいかに大切であ
ったかと言うことが明白になり、私たちもまた、教会論をも
っと大切にしなければならない、というより、教会をこれま
で以上に大切にしなければならないということがはっきりし
ます。ただし、パウロの洗礼観についてのこの議論は、私の
ような素人の聖書解釈では歯が立たないところがありますの
で、しっかりとした学者にその議論は譲りたいと思いますが、
単純な聖書の読み方から読み取ったことを表明して、専門家
の議論を待ちたいと思います。



5.洗礼の意味 
 


  すでに、パウロが理解した洗礼の項で幾分触れましたが、
改めて、洗礼の意味について考察してみましょう。



a.洗い



  洗礼と訳されているバプテスマは、確かに洗うという意
味を持っています。パウロも自分の洗礼を省みて、彼に洗礼
を授けたアナニヤの言葉を引用しています。 「そのみ名を
呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。」
初期の弟子たちの間では、洗礼の第一の意味は、やはり罪の
悔い改めの象徴であり、(使2:38) そこから、罪を洗
い流し清めるとい理解に繋がって行ったのは明らかです。水
が洗い清めるという宗教感覚と繋がっているのは、イスラエ
ルの歴史に見られる感覚というだけではなく、多くの民族の
中に共通に見られるもので、日本においても禊という言葉が
ある通り普通の感覚です。



  パウロはまた、エペソ5:26やテトス3:5において
も、洗礼が洗い清めることに関係しているような言い方をし
ていますが、これらの言及の厳密な解釈は困難です。たとえ
ば、Iコリ6:11においてパウロは、私たちを洗って下さ
るのは聖霊であるとも語っているのです。ともあれ、パウロ
は洗礼の水が実際に私たちの罪を洗い流したり、体を清めた
りすると主張しているのではなく、キリストの贖いによって
もたらされる、罪の清めを象徴していると語っているのでし
ょう。また、ヘブル人への手紙の著者は、「きよめの洗いに
ついての教え」という表現を用いていますが、(6:2)こ
れは洗礼に関する言及とも考えられ、その場合、洗礼が清め
に関わるものであることを示すものと考えられます。ただし、
洗礼以外の洗いの意味にも取れますので、確実ではありませ
ん。(参照:9:10) さらにヘブル人への手紙は、イスラ
エルの幕屋での祭儀を通して、クリスチャンの救いについて
教えていますが、その中で、「体を清い水で洗われた」と語
り、(10:22) クリスチャンの体が心と共に清められたこ
とを教えていますが、これは明らかに幕屋の中にある洗盤で
の儀式を想定して語り、実際上は洗礼のことを語っているの
かも知れません。ここでも、清い水が文字通り体を清めると
いうことを言っているのではなく、象徴として語っているの
だと理解されます。



b.信仰の告白 



  聖書には、キリストのみ名による洗礼を信仰告白と結び
つけて語っているところはありませんが、洗礼の実例の状況
は明らかに信仰告白の様相を帯びていました。それは自分自
身に対する確認としての、行為を通しての告白であり、さら
に、他の人々に対する明確な意思表示としての告白でした。
キリスト在世当時の弟子たちのバプテスマの場合も、さらに
キリストの昇天後のクリスチャンたちのバプテスマの場合も、
ヨハネのバプテスマの場合と同様に、罪の悔い改めの告白が
伴っていたと見るべきです。また新しい生活へのイニシエー
ションとしても、明白な告白をもって行われるものでした。



  一方ペテロは、ノアの洪水を洗礼の予表として示した上
で、あたかも、洗礼が救いをもたらすものであるかのような
表現を用いながら、実質的には、洗礼は体の清めさえも行な
うものではなく、むしろ、「正しい良心の神への誓い」とし
て行われるものであると語っています。(Iペテ3:21)ペ
テロも、洗礼が清めの意味を持っているものであることは認
めながら、実質的な清めは洗礼によって行なわれるのではな
いと伝え、洗礼はあくまでも象徴的なものであり、その象徴
的行為をする時の心の状態、神に対する態度の大切さを教え
ているのです。



  ではバプテスマが、単に罪の悔い改めと清めの象徴、あ
るいはキリストに従う人生のイニシエーションとして行われ
ていた初期の段階を過ぎ、パウロに与えられた啓示などを通
してより高い理解に至ったころ、人々はどのような意味でバ
プテスマを受けるようになったのでしょう。私たちは普通、
キリストが私たちの身代わりになって死んでくださったこと
と、私たちの初穂として甦ってくださったことを信じ、その
信仰を告白する儀式として洗礼を理解して来ました。そのよ
うな意味で、バプテスマによって、キリストの死と甦りが自
分の死と甦りであることを告白していたのです。しかしすで
に見たように、ここにはパウロの理解と少しばかりの隔たり
があるように思います。パウロの理解に従うならば、水のバ
プテスマは、私たちがすでにひとつの御霊によって、キリス
トに、また、キリストのみ体にバプタイズされているのだと
いう事実を、象徴し、その事実を告白する行為であるという
ことになります。そして、キリストにバプタイズされている
からこそ、キリストの死と命に連なるものとされているので
す。少なくても、パウロの教えの影響を強く受けていた教会
では、このようなパウロの理解が一般的になっていたのでは
ないでしょうか。それは、パウロの最も初期の書であるガラ
テヤ人への手紙にすでに記されており、 コリントの教会でも
知られていたと考えるべきであり、パウロがまだ訪ねたこと
がなかったローマの教会でさえも、すでにパウロの影響を受
けた人々によって伝えられ、受け入れられていたと考えるの
が妥当であると思われます。
   


c.教会の承認 



  キリストとキリストのみ体にバプタイズされたという霊
的事実は、霊の次元で起こったリアルな事ではありますが、
多くの場合、その霊的事が起こった「場」であるクリスチャ
ン本人でさえ、気付かずにいることが多いような、密かな事
でもあるのです。イエス様がおっしゃるように、「風はどこ
から来てどこへ行くのか」解らないのです。しかしながらそ
の事は、遅かれ早かれ、当人が気付き、周囲の者も気付くべ
きものです。なぜなら、キリストにバプタイズされた者は、
必ずキリストの命の漲りを感じるからです。聖霊に生かされ
ているという実感を持つようになるからです。事実、キリス
トの命のゆえに、新しい生き方を始めるようになるからです。
それは自動的ではありませんが、自覚を持って生きるならば
必然的なことなのです。



  そこで教会は、その人物の中に、キリストの命が漲って
いること、その人物の生活が新しくされたこと、あるいはそ
の人物の信仰告白が真実であることを認めたならば、その人
物がキリストのみ体である教会に、聖霊によってバプタイズ
された者であるということを、水のバプテスマによって公に
認め、その人物を正式に仲間として迎え入れるのです。こう
して水のバプテスマは、この時から正式に教会の交わりに入
るイニシエーションともなるのです。ですから、水のバプテ
スマは、神がなさったことを教会が確認する作業なのです。
神がなさることの先取りではありません。すなわち水のバプ
テスマが人に新たな命を与えるのでも、キリストの死と復活
に与らせるのでもありません。あくまでも神が行ってくださ
ったことを、確認する作業なのです。
 










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