2010年10月07日

聖書の教える教会 1−B




U.私たちがキリストを信じたとき



  私たちがキリストを信じたとき、実にさまざまなことがわ
たしたちの身に起こりました。わたしたちがキリストを信じた
という事実は、特に救済論、つまりわたしたちの救いとの関係
において、たくさんの深い意味をもっています。また、私たち
がキリストを信じたという事実は、教会とも非常に深く関わっ
ています。



キリストの体にバプタイズされた


  私たちがキリストを信じたとき、まずわたしたちは一人残
らず、キリストの体と呼ばれる教会にバプタイズされました。
その時教会はすでに存在していました。聖霊がお住まいになる
宮として、神殿として、すでに存在していたのです。私たちが
教会を作るのではありません。私たちが「バプタイズされた」
という表現がふさわしい意味で、教会に加えられたのです。
(Tコリント12:13)



  バプタイズという言葉、あるいはそこから派生した名詞の
バプテスマという言葉は、「洗礼」と翻訳されることが多いの
ですが、もともとは、染物をするとき布を染料の中にどっぷり
と浸す場合に使ったものです。染料に浸からないところがない
ように、全体をしっかりと沈めたのです。ですから、信じたす
べてのものは例外なく、あたかも布が染料に浸されるように、
キリストのみ体である教会にどっぷりと浸されたのです。加え
られたとか、入れられただとか、繋がれただとかいう表現では
言い表されないほど親密に、不可分に、教会の一部とされたの
です。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
  Tコリント12:13は、ほとんどの
日本語聖書では間違った翻訳がされていま
す。言葉そのものとして、あるいは文法的
に、全員が間違うことはあり得ませんから、
ここはバプテスマについての日本人の間違
った理解が、間違った翻訳をさせていると
考えられます。知る限りの日本語聖書はす
べて、「一つの体になるように一つの御霊
によってバプテスマ(洗礼)を受け」とな
っています。これでは、人は洗礼という儀
式を受けることによって、一つの体になる
と理解されます。それで、洗礼を受けるこ
とによって教会に連なるようになる。正式
に教会員となると続くわけです。

  ところがもともとのギリシヤ語では、
「一つの御霊によって一つの体にバプタイ
ズされ」となっているのです。知る限りの
英語の聖書はそのように翻訳されています。
意味がまったく違います。ここでは洗礼と
いう儀式のことが語られているのではなく、
キリストのみ体にどっぷりと浸けられたと
いう、霊的出来事、霊的事実が強調されて
いるのです。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 



聖霊を飲むものとされた


  しかもここではさらに、「聖霊を飲むものにされた」という
言葉が加えられ、キリストのみ体の一部になった事実と、不可
可のものとされたという事実が強調されています。



  教会には聖霊が内住してくださっています。すべてのもの
を満たしておられる方が、満ち満ちているのです。その聖霊が
満ち満ちている中に、わたしたちはどっぷりと浸けられたので
す。四方八方すべて聖霊に取り囲まれてしまいました。それだ
けでなく、わたしたちは聖霊を飲むものとされたのです。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

  この聖霊を飲むという絵画的描写をし
たパウロは、このとき、伝道旅行中に海難
事故にあって、一昼夜海上をさ迷っていた
ときのことを思い起こしていたのではない
でしょうか。 (Uコリント11:25)
海の中に落とされてぶくぶくと沈み、四方
八方水で覆われ、あわてて声を出そうと口
を開くとたちまち水を飲み込んでしまった。
そんな状況を、パウロは思い出しながらリ
アルに語っているのです。それで、聖霊に
四方八方を取り囲まれるだけではなく、聖
霊を飲むと描写したのでしょう。聖霊の中
に浸され、外側から浸透されるだけではな
く、内部にまで入り込んで、内側から浸し
ていくのです。それが、キリストのみ体で
ある教会と、その内に住んでおられる聖霊
とのわたしたちの関係です。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



  わたしたち一人ひとりのクリスチャンは、聖霊が内住して
おられる教会にバプタイズされることによって、聖霊の内住を
いただくのです。聖霊が満ち満ちておられる教会にバプタイズ
されることによって、聖霊に満たされるのです。その満ち満ち
ておられる聖霊に取り囲まれ、内にまで入られ、命となり力と
なっていただくのです。キリストの体にバプタイズされたもの
はみな、このようにしてキリストの命、聖霊の命によって新た
に生かされたものとなり、聖霊の支配を受けて新しい生活、神
の国に生きる生活を始めるのです。



  わたしたちクリスチャンは、キリストを信じたときキリス
トの霊、聖霊を内に宿す、神殿となりました。しかしそれは、
キリストの霊が満ち満ちている教会にバプタイズされることに
よって起こるものであって、一人ひとりがまずキリストの霊を
宿す神殿となって、その一人ひとりが集まってキリストの霊を
宿すものの共同体を作り上げるのではないのです。教会が聖霊
を宿すキリストの体として、2000年近く存在し続けている
のです。そのキリストの体に連なることによって、一人ひとり
のクリスチャンも聖霊の住まいとなるのです。



  旧約時代の神殿は神の家と呼ばれていましたが、実際に神
がお住まいになることはありませんでした。あくまでも神の臨
在の象徴に過ぎなかったのです。ところが、新約時代の神の家、
神殿、すなわち教会は(建物ではありません)、象徴としてでは
なく、事実として神に住んでいただき、神の命、神の力、神の
支配を受けるのです。旧約時代には神の臨在の象徴に過ぎない
神殿で、祭司たちは神の聖さに打たれる恐れを抱きながら礼拝
の勤めを果たしていました。ところが新約の時代には、恐れる
ことなく大胆に神に近づこうと勧められています。(ヘブル4:
16,10:19)そればかりか神を宿し、神に生かされ、神に生き
ていただくのです。パウロはキリストの霊が自分の内に生きて
おられることをリアルに感じて、もはや自分が生きているので
はなく、キリストが自分の内にあって生きておられるのである
と語っています。



  新約時代に生きるわたしたちにとって、このキリストの霊、
神の霊、聖霊が満ち満ちている中にバプタイズされ、聖霊を飲
むものとされているという事実を知ることは、非常に大切です。
聖霊の命とその力に生かされているという現実を、強烈に実感
して生きる、そしてその霊的事実を毎日の生活の中で、日常の
現実の中で反映し、現実化していくことこそクリスチャン生活
の基本です。パウロは、聖霊によって生きているなら、聖霊に
よって歩みなさいと教えています。(ガラテヤ5:16:26)
聖霊によって生かされているという霊的現実を、聖霊によって
歩むという日常の現実に表しなさいと言っているのです。清め
られたという霊的現実は、日常の聖い生活に現実化します。神
の子となったという霊的事実は、神の子にふさわしい生き方を
するという日常の現実に生かされます.



教会はこのように聖霊の満ち満ちておられるところであり、
教会にバプタイズされたものはすべて、この聖霊が自分の内に
みなぎることを体験し、また同じように教会にバプタイズされ
たすべてのものが、自分と同じように聖霊の命と力に与かって
いることを認め、命と力を共有する共同体、有機的共同体であ
ると知って、互いに愛し合い、互いに助け合いながら生きるの
です。



キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた


  ローマ書6:1−5においてパウロは、私たちはみな「キ
リスト・イエスにバプタイズされた」と語っています。(ここ
でも日本語聖書は、あえて間違った翻訳をしています)Tコリ
ント12:13では、「一つの体にバプタイズされたと」と教
えられていますが、ローマ書6章では、キリスト・イエスにと
なっています。Tコリント12:13の「一つの体」とはキリ
ストの体のことであり、教会を指すことは明らかです。ところ
がそのすぐ前の節で、パウロはこの教会を、大胆にも「キリス
ト」と呼んでいます。このように教会をキリストと呼ぶのはパ
ウロの教会論の特徴の一つですが、教会がキリストの霊の住ま
われるところであり、キリストが生きておられる共同体である
という強い意識がそのような言い方をさせたと考えられます。
(コロサイ1:24) パウロにとってキリストの霊が満ち満
ちている教会にバプタイズされることは、キリストにバプタイ
ズされることでした。そしてそれが、今、私たちが体験してい
るはずのリアリティ、現実なのです。




※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

  パウロが教会をキリストと呼ぶのは、パウロ
が始めたことではありません。じつは、キリスト
が始めたことです。まだサウロと呼ばれていたパ
ウロが、クリスチャンを迫害して殺害の息を弾ま
せ、ダマスコに向かう途中、突然,甦りのキリスト
が現れ「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害する
のか」とおっしゃいました。サウロはキリストを
迫害したことはありません。彼が迫害していたの
は生まれたばかりの教会でした。しかしキリスト
は、その教会を「わたし」とお呼びになったので
す。(使徒9:4−5)
         
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


   
  バプテスト教会系の神学を受け継いでいるわたしたちは、
洗礼とはキリストの死と甦えりにつながることを象徴するもの
であり、水に沈められることは葬りを意味し、水からあげられ
ることは甦りを意味するなどと教えられてきました。その根拠
となったのがローマ書6章のこの言及ですが、ここをどんなに
注意深く読んでも、そのような解釈は出てきません。「わたし
たちはキリスト・イエスにどっぷりと浸けられたのだから、キ
リストの死にもどっぷりと浸けられたのだ。それは当然キリス
トの甦りにもしっかりとつながれていることだ。だから、古い
生活を捨てて新しい生き方をしようではないか」というのが、
この部分の主旨です。ここで語られているのも、儀式としての
洗礼ではなく、キリストにどっぷりと浸される霊的現実であり、
それはキリストの体にどっぷりと浸されることと、同じ出来事、
同一の事実なのです。その霊的事実を日常の次元で表していこ
うというのが、パウロの教えです。


                                       つづく









                                
posted by MS at 00:00| Comment(0) | 聖書の学び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月06日

聖書が教える教会 1−A



キリストの証人の集団



  ところで、キリストの弟子の共同体が教会となったとき、す
なわち聖霊が内に住んでくださるようになったとき、他にも大き
な出来事が起こりました。それはキリストの弟子たちが、全世界
に対するキリストの証人となったことです。ペンテコステの日ま
での弟子たちは、確かに限られた意味ではすでにキリストの証人
ではありましたが、恐れ戦いて逃げ隠れする情けない証人でした。
ところがペンテコステの日に聖霊の降臨を体験した弟子たちは、
文字通り力を受けて、大胆極まりない、恐れを知らない、燃え上
がる火のような証人となったのです。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

  ペンテコステの日には、物音に驚い
て集まってきた大群衆を前に、ペテロと
11人の弟子たちが立ち上がって、恐れ知
らずの説教をはじめました。キリストの
甦りを宣言し、「キリストを十字架にか
けたのはお前たちだ」と、無謀なほど大
胆に語ったのです。現代人には良くわか
らないのですが、11人が共に立ち上がっ
たという記録には意味があります。ペテ
ロ1人が立ち上がって大声で説教をし、
その結果3000人もの回心者が起こったの
ではありません。どんなにペテロが大声
の持ち主だったとしても、それほど多く
の回心者が出るほどの数の人々に、屋外
で一度に語るのは不可能です。彼らはキ
リストと一緒にいたときいつも行ってい
た通りにやったのです。つまり、ペテロ
が話し、少し離れたところにヨハネが立
ち、ペテロの言葉を繰り返したのです。
そこから少し離れたところにヤコブが立
ち、さらに離れたところにアンデレが立
ちと、言葉のリレーをして何万人でも一
度に聞くことができるようにしたのです。
ペテロだけではなく、弟子たち全員が大
胆になって立ち上がったのです。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


  ペンテコステの日の聖霊の降臨は、聖霊の内住の始まりであ
ったと共に、聖霊のバプテスマでもありました。ペンテコステの
日に、聖霊が下り、弟子たちの一団の中に住み始めてくださり、
弟子たちの一団はこの日から教会となったのですが、このペンテ
コステの日に弟子たち一人ひとりが体験したのは、強烈な聖霊の
お取り扱いで、聖霊のバプテスマとも呼ばれるものでした。教会
の誕生に日、この二つのことが同時に起こったのです。



  聖霊のバプテスマは、キリストが与えてくださるとバプテス
マのヨハネによって預言され、(マタイ3:11、マルコ1:8、
ルカ3:16、ヨハネ1:33) キリストご自身によって積極
的に求めるように教えられていた体験です。 (ルカ11:5−
13) 一方、聖霊の内住はどこにも預言されておらず、求める
ように教えられてもいませんでした。聖霊の内住は、たぶん15年
以上も後になってから、教会という奥義(それまで明らかにされ
ていなかった教えという意味)を啓示によって教えられたパウロ
が、解き明かし、説明し始めたものです。予め預言されていたの
は聖霊のバプテスマでした。ですから弟子たちが、ペンテコステ
の日の体験を聖霊の内住であると理解したのは、パウロを通して
「奥義である教会」を理解するようになってからだと考えられま
す。




※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

聖霊の内住は求めて与えられるもの
ではなく、誰でも、イエス・キリストを信
じた瞬間に、自動的に体験するものです。
従って、キリストが求めなさいと勧めて
くださった聖霊は、聖霊の内住ではなく、
聖霊のバプテスマです。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

  聖霊のバプテスマを受けた人々はみな、異言で祈り始めまし
た。異言は神様に向かって語るものであり、基本的に祈りのこと
ばです。 (Tコリント14:1) ところが、人間が自分のこ
とばで祈ると、自分のことばの能力の限界、あるいは言葉自体の
限界のために、自分の気持ちを充分に表現することができません。
心を言い表すための道具がかえって妨げとなり、心を表現するこ
とができず、神の前に心を注ぎだすことができなくなってしまう
のです。そこで、神はことばの限界を超え、言語能力を飛び越え
る異言ということばを与えてくださいました。異言は自分の言語
能力、言語自体の能力を超えて心を注ぎだす、聖霊に与えられる
言葉です。このことばによって、わたしたちは自分たちのことば
で祈っているときには体験できない、神との深く高く広い交わり
を体験できるのです。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

  愛を告白したことのある人、ラブレタ
ーを書いたことのある人は思い出してみま
しょう。あのときのあなたの日本語はなん
と貧弱だったことか、いや日本語自体があ
まりにも不充分で用を成さないものであっ
たことか。心の思いのほんのわずかしか伝
えられず、地団太を踏んだときのことを思
い出してみてください。異言はそのような
言葉の力不足を飛び越えて、心を表現し、
神との交わりを可能にする神の助けです。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

  この異言による祈りを通して可能になった神との交わりを
体験した者は、一団と高い信仰の高嶺を体験させられます。神
の存在、神の臨在が非常にリアルなものとなり、感動、喜び、
充足感が心を満たし、力強いキリストの証人となるのです。恐
れ惑っていた弟子たちは、ペンテコステの日の体験の後には、
恐れ知らずのキリストの兵士となったのです。



預言者の集団



  ペンテコステの日に起こったもう一つのことは、聖霊の内
住を得た弟子の集団は、預言者の集団となったということです。
(使途2:16−18) 老若男女、身分、学歴、貧富などの一
切の差別を超えて、すべての弟子たちは預言者とされたのです。



  イスラエルの歴史を見ると、預言者と呼ばれる特別な人々
がいました。預言者とは、神の言葉を預かりそれを人々に語る
人という意味です。旧約の預言者は特別な訓練を受けたり、特
別な召しに与かったりしたわずかな数の人々でした。ところが
ペンテコステの日からは、すべての弟子が預言者とされたので
す。



  ではすべての信徒は、「主はこのように言われる」と語り
だす「預言」をしなければならないのでしょうか。使徒の働き
の記述や弟子たちの手紙を読むと、つまり、新約聖書全体を読
むと、すべての信徒たちがそのような意味での預言をしたとい
う形跡はありません。ではどういう意味で預言者になったので
しょう。



  旧約時代の預言者の多くも、いつでも「主がこのように言
われる」と言って預言していたのではありません。彼らの活動
の多くは、律法を読み、学び、瞑想し、祈り、社会の動きを良
く観察して、聖霊に感じて判断し、それを人々に語り、教えて
いたのです。むしろそのような活動こそ、預言者の日常の活動
だったのです。



  新約聖書の時代にも、直接の啓示を受けて預言した人々は
いました。使徒の働きに記されている通りです。それは聖書が
完結していなかった当時、とても大切な働きでした。また、新
約聖書の記者たちの多くは、神の啓示を受けて書いています。
特に、パウロとヨハネは良く知られています。しかし大多数の
弟子たちはそのような啓示を受けて語る預言者ではなく、神の
福音を委ねられたものとして、神の言葉を預かり、それを語っ
て行く預言者となったのです。そういう意味においては、すべ
ての信徒がまさに預言者となったということが、使徒の働きに
記されているのです。神の救いの言葉を預かった教会は、すべ
ての信徒が預言者としての働きを果たしていくのです。



  ですからこの預言者の働きは、現代で言うならば、説教者
の働きに近いものです。あるいは聖書を教える働きに近いもの
です。しかしそれは単なる聖書の講解説教や、聖書の学問的勉
強会で話すようなものではありません。神の聖霊の迫りを感じ、
情熱と感動をもって語るのです。聖書が語っていることをその
通りに理解し、それを説明するだけではなく、今の現実の生活
にそれをいかに適用していくべきか、鋭い感覚をもって語るの
です。そこに聖霊の働きがあるのです。それが教師と預言者の
違いです。現在説教や宣教の働きのほとんどが、牧師や伝道者
の専売特許になっているのは、新約聖書の原則に反するもので
す。すべての信徒が預言者とされているのです。












posted by MS at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 聖書の学び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月05日

聖書が教える教会  1−@

 わたしたちの教会


                                  
序・教会ってなに?



  わたしたちは教会に出席しています。教会員になっている人
も少なくありません。ところで、「教会ってなに?」と訊かれる
と、なんと答えたらよいでしょう。案外わかっていないかもしれ
ません。



  教会とは建物ではありません。それは教会堂です。教会は集
会ではありません。それは教会の活動です。教会は組織でもあり
ません。それは教会の骨組みです。


 
  教会とは人々です。ただの人々ではありません。キリストを自
分の救い主として信じている人です。でもそれはばらばらの人々で
はありません。一つにまとまった人々です。一つにまとめているの
は、趣味でも、人種でも、国籍でも文化でもなく、キリストに対す
る信仰でもありません。キリストの命、聖霊の存在です。聖霊がそ
の人々を一つにまとめているのです。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


  教会という言葉は、新約聖書が書か
れているギリシヤ語では、「エクレーシ
ア」と言われていたものの日本語訳です。
もともとは、「エク」=「〜から」とい
う言葉と「カレオー」=「呼ぶ、召す」
という言葉が一つとなってできたもので、
「〜から呼び出す」あるいは「〜から召
し出す」という意味です。「エクレーシ
ア」はたとえば、当時の市議会などを指
して用いられていましたが単なる群集に
も用いられることもあった、一般的な言
葉でした。でも、それが教会に用いられ
るようになったのには、教会が、この罪
の世界から、神の国に召しだされた人々
の集まりであるという理解が、「エクレ
ーシア」の言葉の意味にぴったりだった
からだと思われます。

  日本語の教会には、「教える」「会
合」の意味合いが強く、本来の意味と合
っていません。わたしたちのアッセンブ
リーズ・オブ・ゴッド教団は英語として
は、もともとの教会の意味に良く合って
います。(神の集会という意味) しば
らく前に、わたしたちの教団では「神召
教会」という名前がよく用いられました
が、これなどは良く教会の本来の意味を
残しています。中国語でアッセンブリー
ズ・オブ・ゴッド教団は「神召会」とな
っています。           

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



T.教会の誕生



  教会はペンテコステの日に誕生しました。ペンテコステの日
に、聖霊が弟子たちの集団に訪れ、その集団の中に住み始めてく
ださったからです。ペンテコステの日以前の弟子たちの集団は、
単なる弟子たちの集団であって、まだ教会とはなっていませんで
した。みな、キリストを救い主として信じ、同じ信念と目的を持
ち、神の国の実現という一つの望みを共有していたことはまちが
いありません。非常に親密な共同体を形成していたことも事実で
す。ところがそれはまだ教会ではなかったのです。なぜなら、ま
だ聖霊が彼らの中に、その共同体の中に住んでくださると表現さ
れるほど、親しい関係で留まってくだっていなかったからです。
(エペソ1:23) キリストの弟子たちの共同体が教会となる
ためには、聖霊の内住が必要でした。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

  神(聖霊もキリストも基本的に同じ)
が近くに来てくださる、一緒に住んでく
ださる、内に住んでくださるというよう
な表現はあくまでも、人間に理解しやす
いように「擬人化」された言い方です。
霊的な存在で肉体を持たず、全世界、全
宇宙に満ち溢れていてくださる無限の神
を、わたしたち人間が理解することはと
ても困難です。それで、あたかも神が人
間であるかのような表現をして、わかり
易くしているのです。たとえば、神の耳、
神の目、神の手、神の足、という表現、
神が歩かれた、神が来て下さった、とい
うのもあくまでも擬人化の表現です。従
って、聖霊が人々の内に住んでくださっ
たという表現も、聖霊がわたしたちとの
関係をとても親密にしてくださったとい
う意味の、擬人化された言い方です。
      
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
        

教会の誕生のための準備



  聖霊が人の内に住んでくださるためには、非常に困難な問題を
解決しなければなりませんでした。なぜなら、聖霊は文字通り聖い
霊で、神の絶対の聖さをはじめ、あらゆる神の性質をそのままお持
ちの方だからです。罪人が絶対に聖い神に近づくと、飛んで火にい
る夏の虫さながら、たちまち滅び失せてしまいます。絶対に聖い神
が人間に近づいてくださると、太陽に近づかれた地球のように、す
べてが焼き尽くされてしまいます。聖い神が罪ある人間を訪れその
うちに住んでくださることなど不可能です。ですから旧約聖書の時
代には、人々は、たとえ神を礼拝するためとはいえ、神に直接近
づくことはできませんでした。彼らが正式に神を礼拝できたのは、
全イスラエルで幕屋と呼ばれる神の臨在を象徴する一箇所だけで
した。(後には神殿) それも祭司と大祭司の仲介を通して、初め
て可能でした。しかも、動物の犠牲を捧げて血を流すことによって
だけそれが許されていました。そこにはたくさんの取り決めと制限
と儀式が定められ、罪人が直接聖い神に会うことがないようにされ
ていたのです。



  しかし、神は罪ある人間を愛し、もっと人間に近づいて下さ
ろうとしました。それが、神の姿を捨てて人となって、人々を訪
れてくださったキリストです。神は神のみ姿のままでは人間に近
づくことができなかったために、神の姿を横においてまで、人間
に近づいてくださいました。小さな人間の姿をとり、人間として
人間に近づいてくださったのです。しかし、人間の姿をとったキ
リストが達成してくださった人間との交わりは、決定的に不完全
でした。それは神との交わりでありながら、本質的に人間同士の
交わりと変わらないもの、神が望んでおられる交わりにはとても
届かない、浅いものだったのです。



  ところが、キリストが人の姿を取って人を訪れてくださった
のは、ただ、そのような限られた交わりを達成するためではなく、
さらに優れた交わり、高く深く広い交わりへ向けて道を整えるた
めだったのです。その道は、罪のないキリストが罪人の罪を背負
って、十字架で刑罰を受けることによって可能になりました。キ
リストが身代わりになって死んでくださったことにより、神は、
すべての罪人が自分の罪の刑罰を受けて死んだものであると認識
し、その罪を、キリストの血によって洗い清めてくださったので
す。それで、神は罪ある人間に近づく道を整えてくださったので
す。罪人と神を隔てていたものが取り除かれたのです。キリスト
が死んだときに、神殿の聖所と至聖所を分けていた幕が、人手に
よらないで上から下まで真っ二つに裂けた奇跡が起こりました。
この幕は聖い神と汚れた人間を隔離する象徴でした。キリストの
身代わりの死が、神と人間を隔てていたものを取り除いたために、
その幕を無用のものとしたのです。



  このように準備が整えられたので、聖霊が、つまり、神の姿
を横に置いて人の姿を取った神ではなく、神の姿のままの神が、
キリストを信じ、罪を洗い清められた人々を訪れ、その人々の集
団の中に住んでくださることができるようになったのです。この
ときから、弟子たちの集団はキリストの霊を内に宿す集団となり、
単なる人為的な共同体、たとえば生活協同組合のような共同体で
はなく、内に宿ってくださる聖霊によって生かされる共同体、キ
リストの体と呼ばれる有機体になったのです。



  有機体というのは人間の体のように同じ命を共有する生命体
です。体は血潮によって同じ命を共有し、神経によって結び合わ
され、痛みを共有しています。教会は、同じキリストの命によっ
て生かされている人々が、痛みと喜びを共有しながら生きる共同
体です。



  この有機的共同体の交わりの強さ、深さ、親密さは、単なる
共同体のそれとはまったく異なった次元のものなのです。わたし
たちはキリストの血による、血縁血族です。家族親族よりも親密
な関係に入っているのです。
 


  教会とは、この聖霊が住んでくださり、聖霊の命によってつ
なぎ合わされ、生かされ、成長させられている共同体です。生物
的な命を持った人間が集まって作るのが教会ではなく、人間的な
集まりに過ぎなかったものに、聖霊が宿り、聖霊の命に満たし、
聖霊の命によって生きるものにされたのが教会です。教会はすべ
てのものを満たす方が満ち満ちているところです。(エペソ1:
23) 信徒一人ひとりはこの教会に連なることによって、聖霊
の内住を受け、聖霊によって新たな命に生きていくのです。聖霊
の命があればこそ、わたしたちはたとえまだ罪の性質を内に持ち
続けていても、聖霊の命、聖霊の力によって、罪に打ち勝って生
きていくことができるのです。聖霊の内住に与かったものは、必
ず、その生き方に変化を体験するのです。簡単に言えば、罪を犯
し続けることができなくなるのです。(Tヨハネ3:5−6、ロ
ーマ6:1−5)



  そのような共同体の姿が見事に描かれているのが、使徒の働
きです。またそのような聖霊の内住を体験した信徒たちの行き方
が、記録されているのが使徒の働きです。



  絶対に罪ある人間に近づくことができないはずの聖い神が、
人間を滅ぼすことなく人間に近づき、人間と交わり、人間のうち
に住み、人間の新しい命となり力となってくださるように、すべ
てを整えてくださったのです。そして、神を礼拝したいという人
間の本能を満たし、交わりを求める神の願いを成就してくださっ
たのです


                         つづく







posted by MS at 00:00| Comment(0) | 聖書の学び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。